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2009年4月30日 (木)

個人授業

4月16日の記事「比較地域圏研究」で高3長男が系列大学の講義を先行して履修していると書いた。その後ときどき様子を尋ねていた。学校のことはほぼ口にしない長男だが、この件については私の求めに応じてボソボソと話してくれる。ずっと羨ましく思っていたが、この度凄いことがわかった。

週に2つ大学の授業を受けているが、そのうちの一つ「比較地域圏研究-ドイツ」という講義は、受講する学生がたった一人だというのだ。つまり長男だけだ。最初の見学の時はもう少しいたが、2回目は一人だったという。それで面白いのか?と訊くと「まあ」という返事だ。これからも必ず出席すると言っている。

私の質問に答えて、講義の様子をたびたび話してくれていたが、それら全てがドイツ人講師とのマンツーマンで起きていたことだったのだ。おまけにこの先生は女性、その上ハンブルクのご出身だと言うではないか。「聞いてないよ」と言うと「言わなかったっけかぁ」などと間延びしたリアクションだ。出欠の点呼をしないと言っていたが、当たり前だ。評価基準が書かれた英語のプリントを持っていた。どういう意味か教えてやった。

  • 出席 20%
  • 態度 20%
  • 宿題 20%
  • 試験 40%

「ラッキー」と言っていた。「だって試験0点でも60点もらえるンだろ」と豪語している。出席と態度と宿題には自信があるようだ。

毎週1回90分ハンブルク出身の女性ドイツ人講師との個人授業をこの先半年約束されたようなものだ。鼻血の海で卒倒しそうである。

私も受けたい。親子で何とか受講できないものだろうか。その先生とお友達になりたい。訊きたいことが山ほどあるのだ。今日ばかりはブラームスネタではないが、それがどうしたというのだ。

2009年4月29日 (水)

セレクトという芸術

作品の数の上の話ならば、ブラームス作品はテキストを伴う作品が大半を占める。テキストを伴わない器楽曲に有名な作品が多いことは事実だが、数の上では少数派だ。

もちろんブラームスは作曲家である。詩人ではないから作詞はしていない。詩を世に問うことをしていないという意味だ。けれども先に述べた通り、膨大な数のテキストを自作のために選んだことは紛れもない事実である。

世の中に存在する膨大な量の詩の中から、曲を付与したいという欲求を惹き起こす詩を慎重に選んだのだ。先にテキストがあり、あとから曲を付けるという順序だったことは明白だ。浮かんだ曲に合わせて詩を探したことはほとんど無いと思われる。そしてテキストの選択にあたっては、ブラームスだけに判るある種の基準が存在したこともまた確実である。

恐らく詩人の知名度は重要なファクターではなかった。有節歌曲として処理出来るかどうかを瞬時に見抜く目も持っていた。複数の節からなるテキストの一部を省略することで、曲としての収まりを格段に向上させたこともしばしばだ。オリジナルには無いリフレインを効果的に使うセンスも持ち合わせいた。

欧州での地位を不動のものにした出世作ドイツレクイエムのテキストは、聖書の中の語句からブラームス自身が抜粋することで成立している。作品で訴えたい理念に合わせてテキストを選んだことは明白だ。その取捨が適切だったことは歴史が証明している。ドイツレクイエムは初演後、瞬く間にドイツ中で演奏された。聴き手は信仰の厚いドイツの人々だ。ドイツレクイエムは、日ごろから聖書に習慣として親しんでいる人々を唸らせたのだ。音楽はもちろんテキストの選び方が素晴らしいからこそ、聴衆を虜にすることが出来たと断言してもブログ炎上にはなるまい。

自らの音楽に付与すべきテキストの選択を誤らなかった。そうして出来上がった曲をさらにフィルターにかけた。二重のセレクトの結果、ブラームスは驚嘆に値する高打率を残しているというべきだ。

2009年4月28日 (火)

結婚のお祝い

ドイツレクイエムの初演が4月10日だったことも、そこに華麗なメンバーが集まったことも既に言及した。初演に立ち会った華麗なメンバーの中にアガーテはいなかったのだろうか。いろいろ書物をあたったがその痕跡は発見できなかった。ブラームスとの破局の後、アガーテは1863年に外国に渡ったらしいから無理もない。

さてレクイエム初演のための準備を任されたのはラインターラーという人だ。ブレーメンの大聖堂のオルガニストだ。だから当然敬虔な信仰の持ち主だ。ドイツレクイエム初演の準備段階で、意見を述べている。

それによれば、ドイツレクイエムは死によって残された人々への慰めに軸足があって、死の恐怖や最後の審判への怖れが十分に盛り込まれていないという。加えて神の慈悲のありがたさの描写も不十分だと指摘している。ブラームスはこの指摘にも全くひるまない。この交渉は難儀だったらしく、両者の間で妥協が成立した。

第3楽章の後にヘンデルの「メサイア」からのアリア「我知る、我あがなう者はなく」を挿入するという妥協案だ。自作の間に他の作曲家の作品を挿入して演奏することをブラームスが承伏したのは、初演が水の泡になっては元も子もないという計算も働いていたことだろう。初演当日ヨアヒム夫人によるこのアリアはうまくいった。少なくともドイツレクイエムの足手まといにはならなかった。つまりブラームス自身の指揮による初演は成功したのだ。

だから同じブレーメンで4月28日にラインターラーの指揮で再演の運びとなる。この時、第3曲の後に挿入された作品を見てぎょっとした。ヘンデル「メサイア」からのアリアに代わってそこに置かれたのはウェーバーの歌劇「魔弾の射手」から第2幕第3場ソプラノのアリア「祈りの歌」だったのだ。宗教的な不足を補う妥協として入れられたのが「メサイア」なら判る気もするが、「魔弾の射手」で用が足りるのか心配になる向きも多いと思う。一応このアリアはプロテスタントの賛美歌にもなっているくらいだから、ひとまず合格なのだろう。しかしドイツレクイエムに挿入された時は賛美歌の歌詞だったかどうかは不明である。オリジナルなら主人公マックスの恋人アガーテが純白の花嫁衣装に身を包み、祭壇の前で歌うアリア、恋人と結ばれることを切実に祈るアリアだ。一部ではこのアリアは「アガーテの祈り」とも呼ばれている。

恋人と結ばれることを切実に祈るアガーテ。

私のようなブラームス愛好家にとってこれは切なすぎるモチーフだ。弦楽六重奏曲第2番第1楽章小結尾主題にその名を残すアガーテ・フォン・ジーボルトは、何せ元婚約者だ。ブラームスの伝記上おそらくクララに次いで重要な女性だ。「アガーテぇ~」ってなモンである。この選曲誰の指図だろう。再演の指揮者ラインターラーか。

4月10日の初演には、ブラームスの新旧の知人オンパレードだったが、さすがにアガーテはいなかったのだろう。一方4月28日の再演には初演に比べれば身内は少なかったに違いない。アガーテがこっそり遠路聴きに来るにはかえって好都合だろう。

この選曲は、ブラームスの密かないたずら。もしかするとアガーテの来場を察知したブラームスのひそかなメッセージではないかと疑っている。来場とまで行かなくても、この演奏会の様子が新聞にでも載れば、アガーテ本人がそれを読む可能性は低くない。この選曲それ自体がブラームスの隠されたメッセージだということはあるまいか。何しろアガーテはヨアヒムも絶賛したソプラノの歌い手でもある。誰の選曲かわからぬ以上推測だが、ブラームスの関与はあると思う。

さらにだ。ブラームス愛好家にはドイツレクイエム初演の年として記憶される1868年だが、実はこの年アガーテが衛生顧問官シュッテと結婚した年でもあるのだ。この時の選曲がブラームスからアガーテへのメッセージ、つまり結婚祝いである可能性を心に留めておきたい。

第3曲の後にこのアリアを入れ、第5曲をカットしたバージョンをiPodで無理やり作って聴いてみた。クラリネットに導かれる冒頭こそ敬虔な感じだが、そこはさすがにアリアで、歌手のテクニックの披露に十分過ぎる配慮がされている。レクイエムに挿入されるには少々あられもない感じがする。

しかし、この際アリアがレクイエムの曲調になじむかどうかは、さしたる問題ではあるまい。「アガーテの祈り」というモチーフこそが大切だったと思われる。

お叱り覚悟だ。この出来過ぎを偶然であると放置するにはこらえ性が足りていない。

2009年4月27日 (月)

アマティ

イタリアはクレモナのヴァイオリン制作者一族の名前だ。あるいは彼等が制作した楽器を指す場合もある。もっとも有名なのはニコロ・アマティだと思われる。アントニオ・ストラディバリウスの師匠にも当たる方である。

アマティ一族のヴァイオリンの一部は今も現役だ。ストラディバリやガルネリと並ぶ位置づけである。私のような素人には解りかねるが、制作者により特徴が違う上に、同一の制作者の楽器でも1挺1挺に個性が宿るという。一連の謎めいたエピソードを語るだけで一冊の本が書ける。つまり名器なのだ。

ブラームスの在世当時からこれらのイタリア製のヴァイオリンについての評価は高かったと見える。

ブラームスの伝記にあって、おそらくクララ・シューマンに次ぐ位置づけの女性に、アガーテ・フォン・ジーボルトがいる。大抵はト長調の弦楽六重奏とともに語られるが、ブラームスとは結ばれずに終わった。ゲッティンゲンの大学教授の娘であり、素人離れしたソプラノの歌い手だ。ブラームスの歌曲のうち作品番号14や19に霊感を与えたことが確実視されている。

ブラームスの親友にして当代きっての大ヴァイオリニスト・ヨアヒムは、彼女アガーテの美声を賞賛して、「アマティのE線」に喩えた。自らはストラディバリを所有しているのに、喩えにアマティを持ち出すとは意外だ。それでも単に「アマティのような」ではなく「アマティのE線」のようなというあたりが、一流のヴァイオリニストらしい。

超一流のコントラルトの歌手を嫁にもらったヨアヒムが絶賛するということは、つまりアガーテのソプラノの実力が、並大抵ではないということなのだ。

2009年4月26日 (日)

少年の魔法の角笛

マーラーの歌曲集のタイトルだ。アルニムとブレンターノによるドイツ民謡詩集にテキストを求めた管弦楽伴奏の歌曲集である。1892年から1898年にかけて徐々に作曲され、全曲の完成を待たずにその都度初演されていった。

このうち最初の2曲、1番「歩哨の夜の歌」2番「むだな骨折り」の初演者を見て驚いた。

1892年12月12日にベルリン・フィルをバックに歌ったのは、他でもないアマーリエ・ヨアヒムだった。つまりブラームスの友人にして当代最高のヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムの夫人だ。若きブラームスを魅了したコントラルトはこのときもまだ健在だったのだ。

ヨアヒム夫人は只者ではないのだ。

2009年4月25日 (土)

マーラーの眼鏡

私は眼鏡をかけている。中学3年の時からだ。今の眼鏡にしたのはおよそ3年前だ。

長女が不意に「パパの眼鏡、マーラーに似てる」と言い出した。高校入学からかれこれ2週間になる。たしかにその通りな小振りの丸眼鏡だが、3年前から愛用しているのに何で今頃と思った。「何で?」と水を向けると、音楽の教科書にマーラーの肖像が載っているらしい。中学の教科書には無かったと言っている。そういえば世の中に流布するマーラーの肖像は眼鏡がある。むしろ眼鏡無しのマーラーなんぞ見たことがないくらいだ。

さてさてブラームスは近眼、それもかなりの度数だったことは、よく知られている。状況に応じて眼鏡をかけていたと、複数の証言がある。けれども眼鏡をかけたブラームスの絵や写真は伝わっていないように感じる。もし伝わっていたら、きっと似た形の眼鏡を買い求めるに決まっている。残念だ。

仕方なくマーラーの眼鏡で我慢だ。我が家の長女の名前はそのグスタフ・マーラーの妻に因んだものだ。

今までは自分の名前について、何やかやと文句を言ってきたが、最近風向きが変わった。高校入学直後ということもあって自己紹介の機会が多い中、一度で覚えてもらえると言っている。クールな言葉遣いだが、顔は満更でもなさそうだった。名前を付けた私まで嬉しくなる。

そして何はともあれ長女が高校の芸術科目の選択にあたり書道、美術を押しのけて音楽を選んだことを喜びたい。

2009年4月24日 (金)

歌姫

歌の上手い女性という程のぬるい定義でお茶を濁す。

優れた演奏家が作曲家の創作意欲を刺激してきたことは、音楽史をひもとけばただちに見当がつく。ブラームスも例外ではない。器楽の分野ではピアノのクララ・シューマン、ヴァイオリンのヨアヒム、クラリネットのミュールフェルトなどがその代表だ。

声楽の分野にもいた。とりわけ優れた女性歌手がプロ、アマを問わず入れ替わり立ち替わりブラームスの周辺に現れた。そして時々それは恋の予感とセットだった。

  1. アガーテ・フォン・ジーボルト ご存知、元婚約者だ。初期のいくつかの歌曲に彼女が霊感を運んできたことが確実視されている。ヨアヒムも絶賛の実力者。
  2. ベルタ・ポルプスキー ハンブルク女声合唱団の有力なメンバーの一人。彼女の出産祝いに贈られたのが「ブラームスの子守歌」だ。
  3. ルイーゼ・ドゥストマン ウィーン宮廷歌劇場の歌手。熱心にウィーン進出を勧めた。
  4. アマーリエ・ヴァイス 優れた歌手。後のヨアヒム夫人だ。ブラームス好みのコントラルトで、いくつかの作品にインスピレーションを与えたようだ。
  5. オティーリエ・ハウアー 誰かがクリスマスに彼女をさらって行かなかったら自分がバカなことをしていたかもしれないと回想する魅惑の人。結婚の可能性で申せばかなりのレベルだったと思われる。
  6. ヘルミーネ・シュピース 50代のブラームスと結婚の噂まであったソプラノ歌手。op105あたりに霊感を与えたらしい。
  7. マリア・フェリンガー ジーメンス社ハプスブルク支社長夫人。アマチュアだが、相当な実力の歌手。夫の伴奏でブラームス作品を歌いまくったという。
  8. アリーチェ・バルビ 結婚の噂にこそならなかったがメロメロのブラームスだ。彼女と過ごすために夏のイシュル行きを延期するなど、朝飯前だ。結婚を機に引退する彼女の告別演奏会で、突発的に伴奏を引き受けサプライズを自演するほどの入れ込みだ。

2009年4月23日 (木)

作品の整理

1891年弦楽五重奏曲第2番の完成後、ブラームスは創作力の衰えを感じて、作曲から手を引くという決心をしたことは、大抵の解説書に書いてある。作曲はせずに過去の作品の整理に徹するという決意だった。クラリネットの大家リヒャルト・ミュールフェルトに出会って、その決意を撤回したこともまた有名である。

「作品の整理」とは何ぞや。

  1. 過去の作品の改訂
  2. 未出版作品の内、出版の価値のある作品の再発掘
  3. 価値の無い草稿の廃棄

1891年に改訂されたピアノ三重奏曲第1番ロ長調は、上記1に当たるという可能性を考えている。上記2が、「6つの四重唱曲」op112と「女声合唱のための13のカノン」op113として結実した。そしておそらく「49のドイツ民謡集」WoO33も該当するかもしれない。上記3は確認しようがない。

このことは示唆に富んでいる。

  • 創作力、つまり新たに作品を生み出す能力の涸渇を自覚しても、作品の整理は出来るとブラームスが考えていた証拠だ。残された草稿から価値のある作品を見つける能力、出版にあたり細部を校訂する能力は、創作力の涸渇にも関わらず保存されるということに他ならない。
  • 1891年の段階で、未出版の作品が相当量備蓄されていた証拠でもある。

実は私がせっせとブログの記事を備蓄する理由は、この2点で言い尽くされている。ブラームスの創作力には及ぶべくも無いが、今はブログの記事が頭の中で湧いて出る。けれども年齢を重ねれば、やがて衰えることは自明である。それでも備蓄した記事の価値や意味を認識し、それらを推敲する能力は保存されるということだ。記事公開の適切なタイミングを判断する能力も同様と思われる。

記事を思うように生み出せなくなった時、十分な備蓄があればブログは続く。やがてミュールフェルトのような芸術的刺激に出会えば、創作力が復活することもあり得る。

2009年4月22日 (水)

人の声の位置づけ

4月20日の記事「歌曲コンプレックス」で、「ブラームスの辞書」の記述が器楽に手厚いと述べた。それがコンプレックスの元にもなっているが、実は少々の言い訳もある。

それは声のパートに対して付与された音楽用語が元々薄いということだ。だから「ブラームスの辞書」も、それをパラレルに反映したために、結果として器楽側に手厚くなっていることもまた事実である。ブラームスは人が歌うためのパートに対して音楽用語を置いていない。器楽に比べて有意に少ないと感じる。「ブラームスの辞書」は楽譜に書かれている用語が対象だから、書かれていないとお手上げだ。書いていないということは、ブラームスがその必要性を感じていないということだ。

その理由をお叱り覚悟で類推する。

人が歌う以上、テキストがある。当たり前だ。テキストである以上何らかの意図を持った言葉の羅列である。このことが大きなヒントだろうと考えている。

つまりテキストが持つ意味とフレージングさえ理解できていれば、音楽用語による指図は不要と考えていたと思う。伴奏のパートに付与された音楽用語の理解と合わせれば、自ずと明らかというのがブラームスの考えだと思う。「テキストの意味とフレージング、そして伴奏パートへの指示を頼りに歌手自ら考えよ」ということだ。

歌うことは人の声だけに許された特権だ。音楽用語を見る限りブラームスは、人の声以外、つまり器楽が歌うことを諦めている。「cantabile」や「cantando」がほとんど現れないのはきっとそのせいだ。逆に人の声は、音楽用語の助けなしにいつでも歌えるということだ。

「歌うことについて器楽に対する声楽側の優越」が用語使用面に影を落としていると思う。おそらく憧れに近いのだろう。

2009年4月21日 (火)

不惑考

不惑とは40歳の異名だ。出典は論語だから元々は孔子の発言である。

2008年1月24日の記事「四十歳にて」の中で、40歳で人生の坂を登り切り、あとは静かに死を待つだけという、テキストを話題にした。40歳でその心境とは、不惑と言って元気一杯な紀元前の中国人と比べて枯れ過ぎていやしないかと書いた。

ところが、ドイツの老齢年金の資料を調べていて興味深い記事を見つけた。当時の老齢年金の支給開始年齢が非難されている。70歳を支給開始とするのは現実的でないという内容だ。その根拠として1911年当時のドイツ人男性の平均寿命が書かれている。何と44.8歳だという。70歳の支給開始が非難されて当然である。ロベルト・シューマンの享年46は、数値だけを見れば極端な早死にとは言えないのだ。

一方、ブラームスの歌曲「四十歳にて」で垣間見ることが出来る「枯れた40歳」のイメージは、現実的だということが判る。何だか納得出来る。

こうなると今度は孔子の元気過ぎが気にかかる。20世紀初頭のドイツ人男性の平均寿命が40代半ばでは、紀元前の孔子が発する40歳不惑のイメージとは落差がありすぎる。

その孔子の享年は70歳を超えている。その孔子が、15歳の時はこうだった。30ではかくかくで、40ではしかじかだったというのが、出典の趣旨だ。だから当時の人々の平均年齢ではなく、自分がこうだと言っているだけだと無理矢理納得することにしたが、不可解だ。出典の「論語」は孔子が書いたものではなく、弟子たちが後年に編集したものだから、思わぬサプライズがあっても不思議はない。

さては「一年二倍暦」かなどと勘ぐってみたくなる。

2009年4月20日 (月)

歌曲コンプレックス

4月17日の記事「平均律歌曲集」をもって歌曲特集の後半戦がスタートした。本日はどさくさに紛れて大切な告白をする。

「ブラームスの辞書」の執筆を決意したとき、心にひっかかっていたことがある。「ブラームスの辞書」などという大それたタイトルを掲げる以上、記述が管弦楽や室内楽に偏ってしまうのは恥ずかしいと考えていた。ところが実際に私のブラームス体験は圧倒的に器楽に偏っていた。特に歌曲や重唱曲の空白は目を覆うばかりだった。

それに対する引け目が、私を全作品のチェックに駆り立てたと申し上げていい。大管弦楽に存在する「ff」も、歌曲にひっそりと存在する「pp」も同等の扱いにした。大管弦楽全てのパートに「ff」があっても、同時である限りあくまでも「1」とカウントしたのもそのためだ。参加するパートが多い作品の重みが実態以上に反映してしまうからだ。

それでもやはり、「ブラームスの辞書」の記述は器楽に厚くなってしまった。

ブログ「ブラームスの辞書」では、その埋め合わせをしようと心に誓ってきた。カテゴリー「31歌曲」にはそうした決意が色濃く反映することとなった。

1月5日の記事「狼煙」で宣言した通り、今年に入ってから歌曲に関わる記事を意図的に多く発信してきた。昨年後半の地名探検に次ぐ隠しテーマだった。本日のこの記事でカテゴリー「31 歌曲」の記事が100本に達した。「33 室内楽」「34 交響曲」「35 協奏曲」より先に100本に到達するのは感慨深いものがある。むしろ今回の歌曲特集自体が器楽系のカテゴリーより歌曲のカテゴリーを先に100本にたどり着かせるための工作だったことを、この際告白せねばならない。

コンプレックスの裏返しである。

2009年4月19日 (日)

賽銭5億円

一昨日ブラームス神社創建以来の賽銭が5億円に達した。

3億円の到達がつい最近3月27日だった。あっという間に2億円たまった。4億円の時は記事にするまいと決めていたが、こんなに早く5億円に達するとは思わなかった。

例年3月末から4月一杯は、アクセスが枯渇気味になる。だからお賽銭の集まりもそれなりに推移すると考えていたが、予想外の集まり方だった。アクセスは例年通り低迷したが、賽銭の金額だけは1千万円超えの豪快な実績が続いた。原因は不明だ。

この不況下に3億だ5億だと話だけは景気が良い。

2009年4月18日 (土)

老齢年金

労働の第一線を退いた人々に支給される年金くらいのイメージ。ドイツでは1884年に制度が導入されたという。始めたのはビスマルクだ。鉄血宰相のイメージが強烈で、軍事外交の達人という印象だが、実はこの手の内政にも長けていた。欧州列強に先駆けての導入だったらしい。

4月15日の記事「労働者の年収」の中で、1887年のライプチヒの下級労働者・家族5人の年収を1000マルクと推定した。この裏付けを取るために調べていて、老齢年金の記述を発見した。

支給額がお話にならなかったらしい。1911年の段階で一人年間166マルクだという。これが実際に年間の生活費の3分の1程度だったと書かれている。つまり一人500マルクが年間必要経費だと導き出せる。記事「労働者の年収」では、子供3人を含む家族5人の年収が1000マルクだった。子供3人込みとはいえ一人年間200マルクだ。そこから24年後に一人500マルクというのは、理不尽だとは思うが、辻褄は合っている。

やはりブラームス在世当時の下級労働者の年収は1000マルクと考えて良さそうだ。そして彼の交響曲1曲はその15倍だ。

2009年4月17日 (金)

平均律歌曲集

10日間に及んだ歌曲特集の休憩が、昨日終わった。休憩明けにふさわしいおバカ記事を公開する。

バッハの平均律クラヴィーア曲集を真似して、長短24の調全てについて歌曲でまかなうというイベントだ。我が家にCDがある女性歌手に一人1曲ずつ歌ってもらうというおまけつきだ。

一つの調に複数の作品がある場合は、私の好みによってチョイスした。嬰ハ長調(変ニ長調)と嬰ト短調(変イ短調)の作品は存在しないので全22曲の歌曲集になった。

  • ハ長調 夢に遊ぶ人 op86-3 アン・カトリン・ナイドゥ
  • ハ短調 墓地に op105-4 アイネス・モラレダ
  • 嬰ハ長調 無し
  • 嬰ハ短調 まどろみはいよいよ浅く op105-2 リーザ・デラ・カーサ
  • ニ長調 サッフォーの頌歌 op94-4 コルネリア・カリッシュ
  • ニ短調 人間の成り行きは op121-1 マリー・ニコル・ルミュー
  • 変ホ長調 五月の夜 op43-2 アンネ・ゾフィー・フォン・オッター
  • 変ホ短調 愛の誠 op3-1 ドリス・ゾーフェル
  • ホ長調 風もそよがね和やかな大地 op57-8 エリー・アメリング
  • ホ短調 あの娘の許へ op48-1 ナタリー・シュトゥッツマン
  • ヘ長調 野のさびしさ op86-2 白井光子
  • ヘ短調 ナイチンゲール op97-1 ジャネット・ベイカー
  • 嬰ヘ長調 我が恋はみどり op63-5 カリタ・マッティラ
  • 嬰ヘ短調 我が歌 op106-5 ブリギッテ・ファスベンダー
  • ト長調 セレナーデ op106-1 クリスタ・ルートヴィッヒ
  • ト短調 野を渡って op86-4 フランソワ・ポレ
  • 変イ長調 エーオルスのハープに寄せて op19-5 ラオ・ラン
  • 嬰ト短調 無し
  • イ長調 調べのように op105-1 鮫島有美子
  • イ短調 夕立 op70-1 デボラ・ポラスキー
  • 変ロ長調 夏の宵 op85-1 マーガレット・プライス
  • 変ロ短調 ことづて op47-7 ジェシー・ノーマン
  • ロ長調 森のしずけさ op85-5 エディタ・グルベローヴァ
  • ロ短調 永遠の愛 op43-1 ベッセリーナ・カサローヴァ

歌曲特集の後半戦も気を抜かずにがんばりたい。

2009年4月16日 (木)

比較地域圏研究

長男の通う高校は、3年生になると系列大学の講義を履修出来る制度がある。長男はこの制度を利用し週に2つ大学の講義を聴講することになった。自分で申告したという。昨日私が帰宅するなり話しかけてきた。高校生が受講可能な講義が全部で20程度用意されていて、そこから2つ選ぶことが出来る。れっきとした大学の授業で、大学生に囲まれての講義だそうだ。

長男のチョイスを聞いて驚いた。一つが「比較文化論」で、もう一つが「比較地域圏研究-ドイツ」だ。この講義、ドイツの地理歴史文化にドイツ語をブレンドしたような内容だという。地理大好きで、この分野にだけは異常な記憶力を示す彼らしい。講師はドイツ人で、ドイツ地理の授業をドイツ語と英語と日本語で受けた感じと言っている。ドイツサッカー・ブンデスリーガのファンでもある長男は、知っている都市の話がたくさん出たと満足気だ。最初は簡単なドイツ語の発音のプリントが配られ、ドイツの地図を原語で読んでみましょうという仕掛けのようだ。ブラームスラブが昂じてドイツ史をかじりはじめたお父さんにとっても垂涎の内容だ。前期の展開から目がはなせない。

バッハの生地アイゼナハ、ベートーヴェンの生地ボン、ブラームスの生地ハンブルクを結ぶと巨大な直角三角形が出来るなどと、私好みの鋭いことを言っている。

なかなか筋がよい。

2009年4月15日 (水)

労働者の年収

ドイツ史の入門書をボチボチと読んでいる。

面白い記事を見かけた。1887年のライプチヒにおける下級労働者の年収データだ。これによると夫婦と11歳を筆頭とした3人の子供という5人家族で年収が1000マルクとされている。食糧への支出は何と60%強だ。つまりエンゲル係数が60%を超えるということだ。

2007年11月6日の記事「作曲の報酬」で当時の通貨マルクを現在の日本円に換算する基準を探し出した。1000マルク=50万円だ。

先のデータは正確にいうと「家計」とされているだけで一日なのか、月なのか年なのかは書いていない。けれどもこのデータは労働者の貧困を物語る記事の中で引用され、やがてそれが労働運動に繋がって行くという筋立ての中の一節だ。1日50万円なら結構な身分だし、月収50万円でも苦しいとまでは言えまい。これが苦しさのアピールなら年収に決まっている。家族5人で年間50万では、どうにもなるまい。一人でも苦しい。「1000マルク=50万」という換算基準を疑いたくなるほどだ。

一方先の記事「作曲の報酬」ではブラームスの交響曲には原稿料として15000マルクが支払われたと述べた。つまりそれは下級労働者の年収の15倍の金額に相当することになる。こちらは換算式を用いない当時のマルク同士の比較だからより信頼性が高い。交響曲1曲750万円といわれれば高いような安いような感じだが、下級労働者の年収の15倍と言われると凄いなと思う。ブラームスの交響曲の素晴らしさを思うとき妙に納得させられる数字である。

2009年4月14日 (火)

ヴァルトシュタイン

ベートーヴェンのピアノソナタ第21番ハ長調op53の通称として名高い。

ボンにて若きベートーヴェンと知り合ったウィーン出身のヴァルトシュタイン伯爵(Ferdinand von Waldstein 1762-1823)に献呈されていることがその由来だ。いわゆる傑作の森の入り口に位置している。

1849年4月14日だからちょうど160年前の今日、16歳目前のブラームスはハンブルクでコンサートを行った。このときのメインとなった作品がまさに今日のお題「ヴァルトシュタイン」だ。新聞には、「既にブラームスが古典を確実に学んでいる」という趣旨の好意的な記事が掲載されたという。

このときに一緒に演奏した「お気に入りのワルツによる幻想曲」は、ブラームスの作曲によるものだが、現存していない。

15歳のブラームスによるヴァルトシュタイン。

聴きたい。

2009年4月13日 (月)

大学祝典序曲吹奏楽版

CDショップを訪れた際の徘徊場所がこのところ増えた。トロンボーンや吹奏楽の売り場に立ち寄ることが多い。

怖い物見たさ半分である。ハンガリア舞曲程度なら慣れても来たが、大学祝典序曲の吹奏楽版を発見して、即買いした。オケの有名曲の吹奏楽版がかれこれ10曲以上入って1200円とはお得である。

CDのラベルには吹奏楽版とあったが、実質金管楽器と打楽器だった。

次女は、オリジナルの大学祝典序曲を知らない。それでも楽しいと言っている。オケ版では全く感じないスリルが感じられる。ブラバンの超絶技巧を堪能できるのだ。トランペットの音色のコントロールが自在で、クラリネットやオーボエがいるかのよう。それから恐るべきはユーフォニウムだ。色艶が半端ではない。そして次女ならではの着眼「なんだかチューバがよく聞こえる」とポツリ。

鋭い。オリジナルの大学祝典序曲はブラームスで数少ないチューバ入り作品である。

何よりの収穫は、これ1曲で次女と会話が弾むことだ。

2009年4月12日 (日)

カンタータの備蓄

バッハの残した教会カンタータの数のお話だ。約200が現存するが、300はあったはずだとされ100が散逸したというのが定説である。その300の根拠が本日の話題である。

バッハが勤め上げた教会のカントルの仕事は、教会の祝日にカンタータを提供することが含まれる。教会の祝日は教会暦で細かく定められており、その日ごとの意味がある。ミサではその祝日にふさわしいカンタータが演奏された。たいていは年間59日だ。年59種のカンタータに自作を供給するのが責務だ。バッハの死後作成された故人の業績を記した書物には、バッハは5年分のカンタータを書いたとされている。年59作が5年分で約300という計算だ。ライプチヒ時代のカンタータはこの教会暦に忠実に作られ、最初の2年はほぼ完璧らしい。職務とはいえ凄いペースだし、それでいてあの多彩さには驚くばかりだ。3年目以降ペースが落ちる。旧作の改訂でつなぐことも多くなる。

ブログ「ブラームスの辞書」の記事の備蓄はようやくその2年分に達した。あれだけのカンタータを毎週生み出し続けたバッハには及ぶべくもないが、記事の備蓄なりの苦労もある。カンタータの備蓄と違って毎日1本減ってしまうから、数値を維持するには一日1本の記事を思いつかねばならない。ブログを始めて4年の間に、6年分の記事が書けたことになる。このペースが維持できれば、2025年には2035年までの記事が書ける計算だ。目標の2033年5月7日までの記事なら、達成はもう少し早まるハズだ。

今はやれそうな気がしている。

2009年4月11日 (土)

エルベの東

ブラームスの故郷ハンブルクは、エルベ川に面している。チェコに発して北海に注ぐこの大河は、ドイツの歴史地理上重要な意味を持っている。ドイツの北東部を南東から北西に貫流するエルベ川を境に民族のキャラが変わっているらしい。本来の根源的な意味でのドイツは、この南西側を指していたという。

はるか昔11世紀。欧州史のエポック十字軍が始まった。エルサレム奪還という旗印のもと大遠征が企てられた。しかしドイツの諸侯たちのノリは今いちだった。理由は簡単であまりうまみが無かったのだ。エルサレムを奪還したところで所領が増える訳ではないからだ。

教皇は、その空気を読んだ。キリスト教勢力の拡大を前提にエルベ川南西の諸侯による東方への勢力拡大にお墨付きを与えた。こうなると現金なもので、ドイツの諸侯はエルベ川を越えて勢力の拡大を図った。こうして新たに加わった所領を「エルベの東」(オストエルベ)と言った。

東征の先端は、エルベ川どころか、現在のドイツ-ポーランド国境を形成するオーデル川も超えて、現ロシア領のカリーニングラードに及んだ。

1770年普仏戦争に勝利しドイツ帝国成立の立役者となったプロイセンの故地は、このカリーニングラードである。ブラームスは当時ケーニヒスベルクと呼ばれていたこの街を、演奏旅行で訪れている。当時の感覚からすれば外国ではなく、プロイセンの国内という認識だったと思われる。

2009年4月10日 (金)

備蓄730本

どうやら記事の備蓄が730本に達した。つまり2年分だ。はじめて730本に達してから2週間、一度も730本の大台を切ることがなかった。記事備蓄が2年を超えたと断言しても良さそうだ。

備蓄が1年分に達したのが2007年7月だったからこの1年分を貯めるのに2年かかっていないということだ。この時に2009年5月30日のブログ「ブラームスの辞書」創立4周年までに2年分の備蓄が出来ればと思ったが、これを達成することが出来た。

「創立4年で2年分の備蓄」ということは、4年間で6年分の記事を思いついたことに他ならない。このペースが維持できれば私が65歳になる2025年には10年分備蓄が出来ることになる。つまり2035年だからブラームス生誕200年までの記事が十分確保出来る。「このペース」が体感出来たことは意義深い。2日に3本というシンプルなペースだ。

ペース自体は十分現実的だが、備蓄した記事の管理に骨が折れそうな気がする。

2009年4月 9日 (木)

シュピッタへの引導

シュピッタは19世紀最大のバッハ研究家だ。同時にブラームスの友人でもある。2人の出会いはゲッティンゲンだ。ブラームスやヨアヒムと友好を深め、ともに当地の大学の講義を聴講した。

若い頃作曲を志したシュピッタだが、ゲッティンゲンで同席したブラームスの才能に接して方向転換したとされている。あるいはヨアヒムともこのとき知り合ったに違いない。音楽を志す者としてこの2人から得た衝撃は大変なものだっただろう。ヨアヒムを見て演奏面の限界を悟らされた上、ブラームスに至っては作曲と演奏の両方が既に彼岸の領域にある。シュピッタに対するブラームスの言葉が記録されている。

「いいですか作曲なんぞ私でも出来る」

この言い回しを皮肉と取るか、最高級の励ましと取るか難しいところだ。会話がかわされた2人の信頼関係に左右されよう。シュピッタの作曲の腕前と、音楽知識全般を知り尽くした言葉なのだろう。シュピッタは皮肉と取らなかった。作曲でも演奏でもない新たな境地を切り開いて行くこととなった。

その後シュピッタは現在に至るまで色あせることのない大著「バッハ伝」を著すことで面目を保ち、ブラームスから絶賛されるに至る。

もし私が続くとしたらシュピッタの後だ。

2009年4月 8日 (水)

無伴奏ごっこ

伝ブラームス作「トランペットまたはホルンのための12のエチュード」をヴァイオリンで弾いて楽しんでいることは3月9日の記事「悪知恵」で述べた。

あれからかれこれ1ヶ月。根拠レスな直感で申し訳ないが、すっかりブラームスの真作のような気がしてきた。「弾いてて飽きない」が唯一の根拠だ。ずっと弾いていてデジャブに見舞われた。どこかで経験した感覚なのだ。

今日、それが何だか判った。判ってみるとこれが何ともお叱り覚悟な妄想だ。

バッハの無伴奏チェロ組曲をヴィオラで弾いて遊んでいた時の感覚に似ているのだ。もちろん一番の要因は無伴奏だ。バッハの域に及ばないが、12のエチュードがどうも舞曲の集合に見えて仕方がない。プレリュードあり、アルマンドあり、メヌエットあり、ジークあり、ブーレありだ。

後年名高いシャコンヌをピアノ左手用に編曲するくらいだから、バッハ一連の無伴奏作品をよく知っていた。問題は17歳というこの時期に既に知っていたかだ。

もしかしてバッハの無伴奏作品が念頭にあったのではないか。無伴奏楽器による古典舞曲の集合体の体裁を採用したエチュードは、とりわけ無伴奏チェロ組曲と同じベクトルを感じる。まさかとは思うが一応言っておく。

ホルンやトランペットのためのエチュードをヴァイオリンで弾いて、こんなに面白いというのは、何とも罰当たりな話である。これを使って練習してホルンやトランペットが上手くなるのか疑問である。

2009年4月 7日 (火)

Gaudeamus

「だから愉快にやろうじゃないか」とタイトリングされる学生歌。13世紀ボローニャでの成立らしい。

私の高校1年か2年の頃の話をする。

音楽の時間に、先生が手刷りの楽譜を配って歌を教えてくれた。タイトルは「学生歌」だった。「ドイツ民謡」とされていた。歌詞は「我が行く道は遙けき彼方」とはじまっていたと思う。

 配られた楽譜はとっくの昔に紛失しているが、歌詞はよく覚えている。ガチガチのベートーヴェン少年だったから、ドイツ民謡というだけでワクワクして曲が気に入ったのだと思う。ずっと口ずさんでいた記憶がある。

時が流れ大学2年の春になった。大学に入って始めたヴィオラも2年目にさしかかり2度目の演奏会の準備が始まった。ベートーヴェンの英雄交響曲をメインに据えた演奏会のオープニングがブラームス大学祝典序曲になった。当時まだベートーヴェン大好きでブラームスへの極端な傾斜も見られなかった私は、英雄交響曲の個人練習に夢中で、明らかにブラームスは準備不足だった。ロクにレコードも聴かないまま臨んだ初めての全体練習が、大学祝典序曲のラスト「マエストーソ」にさしかかって驚いた。

高校時代に歌った学生歌の旋律そのままだった。実は大学祝典序曲の最後を飾るこの旋律こそが、本日のお題「Gaudeamus」である。「ドイツの学生歌」として日本に入ってきたのだが、最古の大学都市ボローニャに由来する歌だったのだ。

本日、長女念願の高校入学。だから愉快にやろうじゃないか。

2009年4月 6日 (月)

46の和音3連発

「霊感の涸渇をごまかすために46の和音を用いてはならない」

ブラームスはこう言って弟子のグスタフ・イエンナーを戒めた。46の和音とは和音の第二展開形のニックネームだ。

作品が出来上がったら46の和音の場所を全部抜き出して必然性が伴っているかチェックせよと言うのだ。イエンナーは後年この方法が非常に有効だったと回想している。

「まどろみはいよいよ浅く」という歌曲がある。作品番号105-2を背負う。全長53小節の小品ながらブラームス後期歌曲の代表作という位置付けにある。

その43小節目にGdurの46の和音がある。音名にして低い方から「DGH」だ。この和音の骨格は2小節続き、45小節目ではBdurの46の和音になる。音名にして「FBD」だ。2連続の46の和音だが、驚いてはいけない。さらに2小節後の47小節目には「AsDesF」つまり変ニ長調の46の和音が現われる。つまり「DGH」→「FBD」→「AsDesF」という具合に46の和音が3回連続で出現しているというわけだ。

作品の草稿を送られたリーズルことエリザベート・フォン・ヘルツォーゲンベルクは、この46の和音の連続に「掟違反だ」と噛み付いた。ブラームスもそれを認めているが、結局これを最終稿とした。

つまり必然性が説明出来るということだ。むしろこの進行こそが「まどろみはいよいよ浅く」を結末に導く重要な手順になっていると感じる。

でもって今日は4月6日である。

明日から歌曲特集は10日間の休憩に入る。記事の更新は続くがカテゴリー「31 歌曲」に属する記事を公開しない。

2009年4月 5日 (日)

大学都市

ブラームスに哲学の学位授与を申し出て、大学祝典序曲のキッカケを与えたのはブレスラウ大学だ。オフィシャルな創立は1811年だが、その前身はさらに100年は遡るという。

欧州における大学の起源を調べているとパリにたどり着く。12世紀の昔、パリに神学を教える者が多く現われた。いわば私塾だ。その私塾がギルドのように横の連帯をとった。この連帯のことをラテン語で「ウニウェルシタス」と呼んだらしい。英語で大学つまり「University」の語源である。同じ頃イタリア・ボローニャには法学を得意とするウニウェルシタスがあった。

ドイツ語圏となると大学の創立は約200年遅れる。1348年神聖ローマ皇帝カール4世、チェコ風にいうカレル4世によって立てられたプラハ大学がその嚆矢となった。1367年創立のウィーン大学と1386年のハイデルベルク大学がこれに続く。ちなみにここはロベルト・シューマンが在籍したことで知られている。それやこれやで宗教改革までに約20弱が創立されたという。18世紀にはドイツ・オーストリアで40を数え、フランス、イギリス、イタリアを大きく引き離す数となった。しかし、このことはドイツの文化的優越を示すものではない。

宗教改革以降、30年戦争を経て確立した小国の集まりという歴史的な経緯が物を言った。現在の州とほぼ同等の領邦が、それぞれ独自に大学を持ったのだ。いわば1国1大学状態だ。ドイツでは中小の都市にも立派な大学があるというのはこのためだ。

1730年代創立のゲッティンゲン大学は名門の誉れが高い。まるでポケットから葉巻でも取り出すように、次々とノーベル賞受賞者を輩出した。

1853年、レーメニーと決別したブラームスはゲッティンゲンに夏の休暇を過ごすヨアヒムを訪ねる。ゲッティンゲン大学の創設者はハノーファー侯だから、ハノーファーのコンサートマスターだったヨアヒムにはうってつけだ。ブラームスは大学の授業をともに聴講して友情を深めた。のちにバッハ伝を著わすシュピッタと知り合ったのもここゲッティンゲンだ。そして婚約までかわしたアガーテの父親は、ゲッティンゲン大学の教授だ。

2009年4月 4日 (土)

儀礼違反

1870年普仏戦争の勝利によりプロイセン国王ウイルヘルム1世は、ドイツ皇帝に即位する。

音楽之友社刊行の作曲家◎人と作品シリーズ「ブラームス」に興味深い記事がある。110ページだ。

ブラームスはこの勝利を喜び、「勝利の歌」op55を作曲し、新皇帝ウイルヘルム1世と宰相ビルマルクに献呈しようと考えた。これが実は儀礼違反であるために、諦めて新皇帝ウイルヘルム1世への献呈としたとある。

普仏戦争の勝利を祝う作品を皇帝と宰相に献呈しようとしたがこれが儀礼違反だったという文面である。この企ての何が儀礼違反なのだろう。本文には儀礼違反とのみ記されていて何が儀礼違反か書いていないのだ。以下に私の仮説を掲げる。

  1. 一介の作曲家の分際で、皇帝や宰相に献呈すること自体が儀礼違反。
  2. 皇帝とその臣下の宰相に同じ作品を献呈することが儀礼違反。
  3. 2人の身分に関係なく2人に同じ作品を献呈することがそもそも儀礼違反。

儀礼違反に配慮した結果、最終的に新皇帝ウイルヘルム1世に献呈されているのだから、上記1は考えにくい。

4月2日の記事「ダブルブッキング」では、クララがロマンスイ短調をロベルト・シューマンとブラームスに献呈したことが特段の批判を受けていないことからも上記3は、儀礼違反とは言えまい。しかし、この献呈が元々ロ短調ロマンスの間違いだとしたら断言は出来ない。

残るは上記2だ。本当だろうか。自信が持てない。

本当は2人に1つの作品を献呈することが儀礼違反で、クララが起こしたダブルブッキングも本来批判の対象だが、プライヴェートなやりとりだから黙認されているという可能性もあると思う。2人に同時に同じ曲を献呈するならまだしも。すでに献呈済みの作品を、別人に献呈する方が、よっぽど失礼だと感じる。

2009年4月 3日 (金)

辞世

死に臨んで詠む詩歌。最後の作品であるだけでは、役不足だ。作者本人が自らの死を意識していることが譲れぬ要件だ。突然の交通事故で世を去った詩人の最後の作品は、必ずしも辞世とは呼べない。

古来名歌が多い。

楚の項羽が追い詰められて詠んだとされる抜山蓋世の歌は明らかに条件を満たしている。日本にも万葉の昔から人気のある歌が目白押しだ。大津皇子、有間皇子、人麻呂などだ。以来忠臣蔵、三島由紀夫に至るまで日本人好みの悲劇性に判官贔屓がブレンドされて広く長く記憶されることが多い。

音楽作品に辞世と呼べるものはあるのかが本日のお題だ。

いわゆる「モツレク」がすぐに思い浮かぶ。問題はモーツアルトが本当に自らの死を予感していたかという点だ。後世の脚色は棚上げにせねばならない。あるいはバッハのフーガの技法はどうだろう。バッハは自らの死と向き合っていたのだろうか。最近の研究の成果によればむしろ「ロ短調ミサ」がそれに近いかもしれないという。いかにもそれらしいシューベルトの「白鳥の歌」は残念ながら失格だ。ベートーヴェンのピアノソナタや弦楽四重奏曲の中には、見当たらない。場違いなテンションを感じることがあるが、直ちに辞世とはうなずき難い。強いてあげればイ短調弦楽四重奏曲の第3楽章くらいだ。

ブラームスには有力な候補がある。言わずと知れた「四つの厳粛な歌」作品121だ。1896年5月7日、結果としてこの世で迎える最後の誕生日になってしまうこの日に、自分自身に贈ったと親しい友人に語っている。最近のブラームス研究によれば、この作品をクララやブラームスの死に無闇に結びつけることを戒めるような複数の証言があるという。

そうは申しても、この内容でこのタイミング、平安な楽想に支配されていながら、聴く人の心を強く揺さぶることは間違いない。

2009年4月 2日 (木)

ダブルブッキング

「二重予約」と解される。たとえば列車の座席やホテルの客室の予約業務の現場で発生することがある。もちろん顧客からの信用に関わる。稼動率を上げるため一定数のキャンセルを見込んで多目の予約を受けてしまうオーバーブッキングと表裏一体の関係にあるとも言われている。

ロベルト・シューマンの妻クララは作曲家でもあった。作品番号のついた作品が22ある。このうち作品番号21を背負っているのは「3つのロマンス」というピアノ独奏曲である。作曲日とともに列記する。

  • 1番イ短調 Andante 1853.6.8
  • 2番ヘ長調 Allegretto 1853.6.25
  • 3番ト短調 Agitato 1853.6.27

これら「3つのロマンス」全体としてはブラームスに献呈されている。ところが全体がブラームスに献呈される以前にイ短調の第1番が単独で夫のロベルトに献呈されているのだ。つまり全体はブラームスに、部分的にはシューマンに献呈されていることになる。「献呈のダブルブッキング」だ。恐らくブラームスの蔵書だったウイーン楽友協会所蔵の1番の楽譜には1855年4月2日と書かれている。この日付のズレがそもそも不可解だ。

なんだかおかしい。音楽作品の献呈という行為に一定の基準があったという話は聞かないが、ダブルブッキングはいかにも座りが悪い。

これよりブログ「ブラームスの辞書」名物、「お叱り覚悟の暴走」に入る。

クララ・シューマン最後の作品とされているロ短調のロマンスがある。作品番号は付与されていない。この作品はブラームスのピアノソナタ第3番の第4楽章「Andante molto」と同じ主題を持っている。クララ自身の日記によれば1855年4月2日の作曲だ。

作品21の「3つのロマンス」の第1番はこのロ短調が来るはずだったのではあるまいか?出版社かクララのどちらかまたは双方に勘違いが発生した結果、第1番がロベルトに献呈済みのイ短調にすり替わった可能性を考えたい。ブラームスへの献呈なら第3ソナタからの主題の引用があるロ短調の方が相応しいと感じる。

そうとでも考えねばこのダブルブッキングは切な過ぎる。

2009年4月 1日 (水)

弾ける後輩

私は大学入学と同時にオーケストラに入団してヴィオラをゼロから習い始めた。無我夢中で練習して翌年1月にはブラームスの第2交響曲で演奏会に出た。それこそ学業を犠牲にヴィオラを練習してきたとはいえ、腕前はタカがしれている。

嬉しいオーケストラデビュウの3ヶ月後にはすぐ後輩たちが入団してきた。

幼少の頃から楽器を習っていたとまでは行かなくても、中学から習っていた奴と比べても違いは明らかだった。結果が冷酷に現れる体育会系のサークルではないのが救いだが、それでも内心穏やかではない。趣味のサークルとはいえ弾けるに越したことは無いのだ。団内での役割期待は年功序列的に膨らんで行くが、楽器の腕前はなかなかそうも行かない。幼少のころから楽器を習っていた奴に負けるのならともかく、初心者で始めた奴に抜かれるのは精神的に堪える。娘たちにはそういう目に遭って欲しくないから早いうちにヴァイオリンを始めさせたようなものだ。

ところが、中学に入って始めた次女のトロンボーン歴はまだ1年だ。つまりすぐ後ろに吹ける後輩が入って来る可能性は低くない。

私の場合は案の定「弾ける後輩」が大挙して入ってきた。それに加えて初心者で入団しながらあっという間に上達する奴も多かった。私の後ろの学年はそういう集団だった。彼らはやがて第50回定期演奏会の屋台骨を支えることになる。彼らの本質は楽器のテクだけではなく、その人間性だということに気付いたとき焦りはいつの間にか消えていた。私が4年になった頃だ。私はと申せばテクよりも仕切り癖で乗り切っていた。

学生のオケが個性をぶつけあう一瞬のキラメキだといういことが今になって身にしみている。

後輩たちを迎える次女のトロンボーンにブラームスのご加護を。

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