辞世
死に臨んで詠む詩歌。最後の作品であるだけでは、役不足だ。作者本人が自らの死を意識していることが譲れぬ要件だ。突然の交通事故で世を去った詩人の最後の作品は、必ずしも辞世とは呼べない。
古来名歌が多い。
楚の項羽が追い詰められて詠んだとされる抜山蓋世の歌は明らかに条件を満たしている。日本にも万葉の昔から人気のある歌が目白押しだ。大津皇子、有間皇子、人麻呂などだ。以来忠臣蔵、三島由紀夫に至るまで日本人好みの悲劇性に判官贔屓がブレンドされて広く長く記憶されることが多い。
音楽作品に辞世と呼べるものはあるのかが本日のお題だ。
いわゆる「モツレク」がすぐに思い浮かぶ。問題はモーツアルトが本当に自らの死を予感していたかという点だ。後世の脚色は棚上げにせねばならない。あるいはバッハのフーガの技法はどうだろう。バッハは自らの死と向き合っていたのだろうか。最近の研究の成果によればむしろ「ロ短調ミサ」がそれに近いかもしれないという。いかにもそれらしいシューベルトの「白鳥の歌」は残念ながら失格だ。ベートーヴェンのピアノソナタや弦楽四重奏曲の中には、見当たらない。場違いなテンションを感じることがあるが、直ちに辞世とはうなずき難い。強いてあげればイ短調弦楽四重奏曲の第3楽章くらいだ。
ブラームスには有力な候補がある。言わずと知れた「四つの厳粛な歌」作品121だ。1896年5月7日、結果としてこの世で迎える最後の誕生日になってしまうこの日に、自分自身に贈ったと親しい友人に語っている。最近のブラームス研究によれば、この作品をクララやブラームスの死に無闇に結びつけることを戒めるような複数の証言があるという。
そうは申しても、この内容でこのタイミング、平安な楽想に支配されていながら、聴く人の心を強く揺さぶることは間違いない。
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