ブラームス神社

  • 道中安全祈願

おみくじ

  • テンプレート改訂しました

独逸日記

  • ドイツ鉄道博物館のおみやげ
    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

ビアライゼ

  • Schlenkerla
    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

カテゴリー

« 不惑考 | トップページ | 作品の整理 »

2009年4月22日 (水)

人の声の位置づけ

4月20日の記事「歌曲コンプレックス」で、「ブラームスの辞書」の記述が器楽に手厚いと述べた。それがコンプレックスの元にもなっているが、実は少々の言い訳もある。

それは声のパートに対して付与された音楽用語が元々薄いということだ。だから「ブラームスの辞書」も、それをパラレルに反映したために、結果として器楽側に手厚くなっていることもまた事実である。ブラームスは人が歌うためのパートに対して音楽用語を置いていない。器楽に比べて有意に少ないと感じる。「ブラームスの辞書」は楽譜に書かれている用語が対象だから、書かれていないとお手上げだ。書いていないということは、ブラームスがその必要性を感じていないということだ。

その理由をお叱り覚悟で類推する。

人が歌う以上、テキストがある。当たり前だ。テキストである以上何らかの意図を持った言葉の羅列である。このことが大きなヒントだろうと考えている。

つまりテキストが持つ意味とフレージングさえ理解できていれば、音楽用語による指図は不要と考えていたと思う。伴奏のパートに付与された音楽用語の理解と合わせれば、自ずと明らかというのがブラームスの考えだと思う。「テキストの意味とフレージング、そして伴奏パートへの指示を頼りに歌手自ら考えよ」ということだ。

歌うことは人の声だけに許された特権だ。音楽用語を見る限りブラームスは、人の声以外、つまり器楽が歌うことを諦めている。「cantabile」や「cantando」がほとんど現れないのはきっとそのせいだ。逆に人の声は、音楽用語の助けなしにいつでも歌えるということだ。

「歌うことについて器楽に対する声楽側の優越」が用語使用面に影を落としていると思う。おそらく憧れに近いのだろう。

« 不惑考 | トップページ | 作品の整理 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 人の声の位置づけ:

« 不惑考 | トップページ | 作品の整理 »

フォト

ブラームスの辞書写真集

  • Img_0012
    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
2025年3月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ