人の声の位置づけ
4月20日の記事「歌曲コンプレックス」で、「ブラームスの辞書」の記述が器楽に手厚いと述べた。それがコンプレックスの元にもなっているが、実は少々の言い訳もある。
それは声のパートに対して付与された音楽用語が元々薄いということだ。だから「ブラームスの辞書」も、それをパラレルに反映したために、結果として器楽側に手厚くなっていることもまた事実である。ブラームスは人が歌うためのパートに対して音楽用語を置いていない。器楽に比べて有意に少ないと感じる。「ブラームスの辞書」は楽譜に書かれている用語が対象だから、書かれていないとお手上げだ。書いていないということは、ブラームスがその必要性を感じていないということだ。
その理由をお叱り覚悟で類推する。
人が歌う以上、テキストがある。当たり前だ。テキストである以上何らかの意図を持った言葉の羅列である。このことが大きなヒントだろうと考えている。
つまりテキストが持つ意味とフレージングさえ理解できていれば、音楽用語による指図は不要と考えていたと思う。伴奏のパートに付与された音楽用語の理解と合わせれば、自ずと明らかというのがブラームスの考えだと思う。「テキストの意味とフレージング、そして伴奏パートへの指示を頼りに歌手自ら考えよ」ということだ。
歌うことは人の声だけに許された特権だ。音楽用語を見る限りブラームスは、人の声以外、つまり器楽が歌うことを諦めている。「cantabile」や「cantando」がほとんど現れないのはきっとそのせいだ。逆に人の声は、音楽用語の助けなしにいつでも歌えるということだ。
「歌うことについて器楽に対する声楽側の優越」が用語使用面に影を落としていると思う。おそらく憧れに近いのだろう。
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