不惑考
不惑とは40歳の異名だ。出典は論語だから元々は孔子の発言である。
2008年1月24日の記事「四十歳にて」の中で、40歳で人生の坂を登り切り、あとは静かに死を待つだけという、テキストを話題にした。40歳でその心境とは、不惑と言って元気一杯な紀元前の中国人と比べて枯れ過ぎていやしないかと書いた。
ところが、ドイツの老齢年金の資料を調べていて興味深い記事を見つけた。当時の老齢年金の支給開始年齢が非難されている。70歳を支給開始とするのは現実的でないという内容だ。その根拠として1911年当時のドイツ人男性の平均寿命が書かれている。何と44.8歳だという。70歳の支給開始が非難されて当然である。ロベルト・シューマンの享年46は、数値だけを見れば極端な早死にとは言えないのだ。
一方、ブラームスの歌曲「四十歳にて」で垣間見ることが出来る「枯れた40歳」のイメージは、現実的だということが判る。何だか納得出来る。
こうなると今度は孔子の元気過ぎが気にかかる。20世紀初頭のドイツ人男性の平均寿命が40代半ばでは、紀元前の孔子が発する40歳不惑のイメージとは落差がありすぎる。
その孔子の享年は70歳を超えている。その孔子が、15歳の時はこうだった。30ではかくかくで、40ではしかじかだったというのが、出典の趣旨だ。だから当時の人々の平均年齢ではなく、自分がこうだと言っているだけだと無理矢理納得することにしたが、不可解だ。出典の「論語」は孔子が書いたものではなく、弟子たちが後年に編集したものだから、思わぬサプライズがあっても不思議はない。
さては「一年二倍暦」かなどと勘ぐってみたくなる。
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