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2009年8月31日 (月)

補助線

数学、図形の証明問題において、出題時には明示されなかった線を、回答者が引く場合がある。これを補助線という。舐めたモンではない。効果的な補助線一本で景色がガラリと変わる場合がある。補助線を思いつくかどうかで明暗が分かれる場合も少なくない。補助線の存在を、いかに悟らせないかが出題者側の肝だったりもする。

ブラームスの創作を概観する立場から見れば「オペラ」はまさに補助線だ。

ブラームスはオペラを遺していない。だから作品一覧をいくら眺めてもオペラは出てこない。ブラームスについて論述した書物やサイトにもオペラは現れにくい。しからばブラームスがオペラを知らなかったかとなると、これがとんでもない話だ。少々詳しい伝記を読めば、大変な関心を持っていたことが判明する。大いに関心を持っていたどころか、オペラを書きたいと心から欲していたことさえ明らかになる。心から欲していながら書けなかったのだ。それを称してブラームスは「オペラの創作」を結婚になぞらえているほどだ。

それでいてなお、結果としてオペラが書かれなかったことが重要なのだ。オペラは書かれなかったことに意味がある。ブラームス作品に影響を及ぼしたというならシューマン夫妻やバッハがその筆頭格だ。けれども彼らは補助線とは言えない。作品の上に直接間接に痕跡が残り過ぎているからだ。

仮にワーグナー関連記事に的を絞ったブログがあったとしよう。そこの管理人氏は、カテゴリー「交響曲」を設置しようと試みるだろうか。あるいはワーグナー作品を概観する立場から「交響曲」が補助線と言えるだろうか。結論から申せばそれらは「No」だ。

ブラームスに限らず作品論は遺された作品を整理概観することで成り立つ。これはお約束だ。同時にここが盲点にもなる。現に謝恩クイズはこの盲点をついたものだ。関心の高さにもかかわらず作品が遺されていない裏には、作曲家ブラームスの葛藤が隠れているに違いない。

オペラはまさに補助線だ。作曲家ブラームスへの理解が一段と深まる。          

2009年8月30日 (日)

ブラームス神社創建1周年

ブラームス神社の創建から1年過ぎた。

昨日まで1年間の参拝者は、延べ4416人。

その間の賽銭総額 10億4547万4184円。

カテゴリー「99 ブラームス神社」に属する記事は本日のこの記事を入れて14本。

「内容が面白ければ賽銭投入、つまらなければ賽銭泥棒」というコンセプトを想定しているが、参拝者独自の基準もあろう。あくまでもおもちゃだ。

日ごろの訪問参拝に感謝したい。

2009年8月29日 (土)

関が原の戦い

戦国時代末期、日本の戦国大名たちが東西に分かれて戦った。勝者たる東軍徳川家の250年に及ぶ覇権を決定付けた戦いとして名高い。

明治になって、陸軍近代化のために政府から招かれたドイツ人メッケル(Klemens Wilhelm Jacob Meckel 1842~1906)はこの関が原の戦いの布陣図を見て即座に西軍勝利を断言したという。明治政府の関係者から東軍の勝利という史実を聴かされたメッケルは「諜報活動」の大切さを再認識したといわれている。日露戦争に勝利した当時、日本軍の高官にはメッケルの教え子がかなりの数を占めていたらしい。

この文脈で、メッケルがブラームスの親戚だったら「ブラームスの辞書」的には完璧であるがなかなかそうも行かない。ブラームスとの共通点は64歳で没したことと生涯独身、それからワイン好きくらいだ。

今日の主眼はそこにはない。

関が原の戦いは慶長5年だ。西暦に直すと1600年ということになる。本日のこの記事がブログ開設から1600本目の記事だから何となく取り上げた話である。

2009年8月28日 (金)

竹取物語

平安時代に成立した日本最古の説話とされている。かぐや姫のお話だ。

カテゴリー「28オペラ」を立ち上げてから1ヶ月経った。それを記念してオペラの題材をずっと探していたブラームスに、ブログ「ブラームスの辞書」から「竹取物語」を提案したい。日本人としては日本の題材をお示しするのがいいだろう。

オペラ「かぐや姫」登場人物は以下の通りの感じ。ソプラノが登場しないというところがブラームスらしい。

  • かぐや姫Prinzess KAGUYA メゾソプラノ
  • おじいさんDer Alte ROBERT バス
  • おばあさんDie Alte Frau CLARA アルト
  • 帝 Kayser  テノール
  • 石作皇子 Stein テノール
  • 車持皇子  Rad メゾソプラノ
  • 右大臣 Johannes バリトン
  • 大納言  Joachim テノール
  • 中納言  Richard バス

<第1幕>はかぐや姫の生誕から、美しく成長するまでくらい。光る竹を発見して喜ぶROBERTじいさんのアリアに続いて、帰宅してCLARAばあさんに報告して始まるロベルトとクララの二重唱。あっという間に成長したKAGUYAのアリア。

<第2幕>5人の公達の言い寄る様。原作では無理難題を吹っかけることで切り抜けるのだが、ここは5人の歌合戦にしたいところだ。公達5人とかぐや姫の六重唱で始まるが、一人二人と脱落して、結局はかぐや姫のソロ。話をシンプルにするために3人に絞ってもいいかもしれない。

<第3幕>には帝とのロマンスが描かれる。公達5人のエピソードは思い切ってカットして帝とのロマンスに的を絞るという手もある。

<第4幕>はもちろんかぐや姫の昇天だ。最後は帝の軍勢の男声合唱の中をソプラノのソロで締めくくりたい。

1884年から1888年までドイツに滞在していた森鴎外先生が、独訳して提案してくれていれば話が早かったのだが。

2009年8月27日 (木)

ツルゲーネフ

1818年生まれのロシアの文豪。代表作「初恋」は1833年夏のモスクワが舞台である。

彼は欧州とロシアを頻繁に行き来した。1864年夏、セレブの集まる避暑地バーデンバーデンで過ごした。ここで彼はブラームスと面識を持った。

何とツルゲーネフはブラームスにオペラの素材を提供しようとしたらしい。ブラームスはこの申し出に心を動かされたが最終的には、やはりオペラ化を断念した。

ブラームスがオペラの台本を熱心に探しているという話は、親しい知人の間では、有名だったようだ。だから腕に覚えのある文筆家は、我こそはと素材を提供したということらしい。

そりゃあブラームスにオペラを書かせることが出来たら、芸術史上の偉業に違いない。

2009年8月26日 (水)

ヘンゼルとグレーテル

1893年に初演されたフンパーディンクのオペラだ。

初演以降評判になったと見えて、ブラームスと友人のホイベルガーの会話にもしばしば現われる。「垢抜けている」とも評価するが「洗練のされ過ぎ」とも言っている。作曲者フンパーディンクを「物静かで控え目で、技術的にも堅実」としならも、本作以上の成功は望めまいと断じている。オペラの題材に童話を使ったアイデアの勝利と見ていたようだ。

このオペラの登場人物の中に「眠りの精」がいる。ソプラノで歌われる役だ。第2幕ヘンゼルとグレーテルの兄妹が道に迷ってしまった森の中。あたりが暗くなっておびえているところで森の奥から現われるのが眠りの精だ。袋から砂を出して二人に振りかける。兄妹は急にまぶたが重くなって眠りに落ちる。これで第2幕が終わる。

さてフンパーディンクは、第3幕の冒頭を朝の情景で始める。露の精が現われて、眠っている兄妹に露を振りかけで目覚めさせるのだ。

  • 眠りの精 夜子供を眠らせる。道具:砂
  • 露の精  朝子供を起こす。道具:露 子供たちの目に残った砂を洗い流すに決まっている。

眠りの精と露の精は上記のように業務分担をしているらしい。

このうちの一人眠りの精のこうした役回りは、ブラームスにもある。「子供のための14のドイツ民謡」の4番だ。「Sandmannchen」である。直訳すると砂男でソプラノでは無理があるが、子供たちの目に砂を撒いて行くというキャラは眠りの精そのものである。

 

2009年8月25日 (火)

ゲノフェーファ

ロベルト・シューマン唯一のオペラ。タイトルは主人公である伯爵夫人の名前だ。テキストはヘッベルを元にシューマンが手をいれたもの。舞台は8世紀のスペインだ。

あらすじだけを読めばオペラにありがちな三角関係に、悪魔が絡んでややこしくしている感じ。ヒロインの貞淑ぶりを際だたせる筋立てだ。このヒロインをシューマン自身の妻クララにだぶらせるという指摘が後を絶たないという。

1848年には完成していたとされる。ピアノ編曲をクララが担当したようだ。紆余曲折あって1850年6月ライプチヒで初演。ドイツ国内で、その後30年間に17回上演されたという。オペラの上演は大がかりなイベントだから回数を正確に数えることが出来るのだろう。ピアノソナタや歌曲ではこうは行くまい。「30年で17回」という回数は、オペラの受けとしてはどうなのだろう。

ビゼーの最高傑作カルメンは、今でこそ大人気だが初演の評判は芳しくなかった。がっかりしたビゼーがその3ヶ月後に死去したと指摘されていることもある。ところが、その3ヶ月間のカルメンの上演回数を調べて驚いた。初演は「素材がスキャンダラス」という理由でマスコミに叩かれ、それがかえって人々の興味を掘り起こして客足が増えた。ビゼー死去までの3ヶ月で33回上演されたらしい。貞淑な妻の物語よりもスキャンダルな話の方が客を呼べるのだろう。

ブラームスの出世作「ドイツレクイエム」は1868年4月10日の初演から、1年間にドイツ国内で20回上演されたという。どんな解説書にも初演は好評で、その後瞬く間にドイツ中に広まったとされているから、「1年で20回」というのは余程のことなのだ。ゲノフェーファの約2年に1回というペースのほぼ40倍のペースだ。この扱いは結局現代の演奏頻度やCDの発売本数、あるいは愛好家の話題に上る頻度にそのまま受け継がれていると思われる。

さてそのブラームスの伝記にも「ゲノフェーファ」が引用されることが希にある。1850年3月にシューマン夫妻は演奏のためにハンブルクを訪れた。おそらく演奏を聴いたであろうブラームスは、思い切って作品を送って批評を乞うが、シューマンは封を開けずに送り返す。このときの対応の理由をオペラ「ゲノフェーファ」の初演前の紆余曲折のため、作品を見ている時間が取れなかったと位置づけてられている場合がある。

おかげで今日この記事を書くことが出来たというわけだ。

2009年8月24日 (月)

イタリアオペラ

いろいろ調べたがどうも定義が怪しい。

  1. テキストがイタリア語
  2. 作曲者がイタリア人

このどちらかだと思う。長らく「オペラと言えばイタリア語」だった。イタリア人以外の作曲家も自国語そっちのけでイタリア語のオペラを書いた。オペラの世界で名を残そうと思えば、やっぱりイタリア語という状態が続いた。世の中のオペラが全てイタリア語で書かれていたとしたら「イタリアオペラ」という言い回しは不要だ。つまりイタリア語以外のオペラが台頭したことの裏返しだ。

おそらくその筆頭はドイツ語だ。モーツアルト「後宮よりの逃走」あたりから風向きが変わり、「魔笛」によって決定的になる。いわゆる「ドイツオペラ」だ。フランスにはフランスオペラがあり、スメタナやドヴォルザークはチェコ語のオペラを指向した。こうなってはじめて「イタリアオペラ」という言い回しに意味が出てくる。

ブラームスのイタリア好きは有名だ。しかしこれは「イタリア旅行好き」と言い換えねばならない。8回に及んだイタリア旅行でブラームスが本場のイタリアオペラを楽しんだ形跡がない。8回のうち3回ブラームスと同行したヴィトマンは「ブラームスはイタリアオペラが好きではなかった」「ヴェルディは評価していたが、わざわざ鑑賞することはなかった」と証言する。同時に名うての「劇場通い」だとも証言しているから、ブラームスはもっぱらドイツオペラを楽しんだと解するのが自然だ。

先に公開した「ブラームス回想録集」に出現するオペラのリストを見るとそれが裏付けられる。イタリアオペラは主役とは言い難い。

2009年8月23日 (日)

タンホイザーの自筆スコア

タンホイザーとは言わずと知れたワーグナーの楽劇だ。

自他共に認められた楽譜コレクターのブラームスは、何と「タンホイザー」改訂版2幕の自筆スコアを所有していた。正確には預かりっ放しにしていたというニュアンスかもしれない。

ブラームスの手許にあったこの自筆譜は、ひょんなところで活躍する。友人ホイベルガーの作品を論評する中で、楽譜はキチンと見易く書けという話になったときだ。作曲以前の話として1小節に4分音符4つなら、キチンと等間隔に書けとか、シャープやフラットの位置を正確に書けとかだ。そこでブラームスが取り出したのがタンホイザーの自筆譜だ。ロ長調つまりシャープ5個が調号として書かれた部分を指さして、シャープ5個が正確な位置に律儀に置かれていると指摘した。

何を読んでいるんだかと言ってはなるまい。相当細かく読み込んでいる証拠と思う。

1875年6月、ワーグナー本人から返却を求められた。さんざんしぶった挙げ句にこれを返却するとワーグナー本人から丁寧な礼状とともに「ラインの黄金」の初版本がメッセージ入りで贈られてきた。

「ラインの黄金」

いわゆる指環4部作の先頭を飾る作品だが、ブラームスの評価では4作中最低だ。ブラームスはすぐに礼状を書いたのだが、内心相当がっかりしたのだと思う。

2009年8月22日 (土)

指環4部作の序列

7月29日の記事「オペラの話題」で掲載したリストを見て欲しい。音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」全3巻に登場するオペラの題名と作者のリストだ。リヒャルト・ワーグナーの作品への言及が多いことがすぐに判る。

「ニーベルングの指環」4部作は特に手厚く言及されている。

  • 「ラインの黄金」
  • 「ワルキューレ」
  • 「ジークフリート」
  • 「神々の黄昏」

4部それぞれが3時間かそれ以上かかる大作で、4夜かかるということだ。何だかスターウォーズみたいである。最初の2つは1869年に先行初演され、1870年7月のミュンヘン公演にブラームスも駆けつけている。全4作の初演は第一交響曲初演の年1876年だ。この8月にバイロイトで初演されるが、7月のヘンシェルとの会話に開幕公演の話が出る。この時ブラームスは「ジークフリート」と「神々の黄昏」には参ったとも言っている。つまり初演前に楽譜を見ていたと推定出来る。

何よりブラームスはこの4作を序列化している。

  1. 神々の黄昏
  2. ワルキューレ
  3. ジークフリート
  4. ラインの黄金

この順だ。私には詳しいことは全く判らない。少なくともこういう判断が出来るほど曲を知っているということだ。

ブラームス派とワーグナー派の論争は19世紀のドイツ音楽界にあってははずせぬ出来事だが、片方の当事者であるブラームスは、ワーグナー陣営の手の内を冷静に観察していたと感じる。

2009年8月21日 (金)

耳寄りな論文

興味深い論文を発見した。タイトルは以下の通りだ。

「楽語から見たブラームスの音楽」-ピアノ作品におけるAndanteの用法-

ブログ「ブラームスの辞書」としてはストライクゾーンのそのまた中央という感じだ。こういうことを考える人がいると思うと、まだまだ世の中捨てたモンではない。一人じゃないって実感できるという感覚だ。実際にピアノ演奏のプロフェショナルが、書き上げたものだけに説得力もひとしおだ。

お書きになった先生から了解をいただいたので、興味のある方はこちらからどうぞ。

オペラ月間に割って入るだけのことがある嬉しさだ。

2009年8月20日 (木)

聖金曜日

キリストの受難と死を記念する日。復活祭前の金曜日のことだ。キリスト教にとっては宗派を問わず重要な日である。バッハのマタイ受難曲がしばしば演奏される。

1868年4月10日はブレーメンにおけるドイツレクイエム初演の日として記憶されるが、この日は聖金曜日だという。

さて聖金曜日と言えば、ワーグナーにもある。最後のオペラ「パルジファル」だ。舞台神聖祝典劇と位置付けられるこの作品は「聖金曜日の奇跡」がある意味で主役になっている。

ブラームスは「パルジファル」を聖金曜日以外に上演すべきではないと主張していた。音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻53ページにホイベルガーが証言している。「ワーグナーがそれ用に設定している」というのが根拠だ。特別の日に上演してこそ意味があると考えていたようだ。

しかし、肝心な「パルジファル」の初演は1882年7月26日だから、聖金曜日に固執していた訳でも無さそうだ。

2009年8月19日 (水)

ロルツィング

グスタフ・アルベルト・ロルツィング(1801-1851)はドイツのオペラ作曲家だ。もちろん有能な指揮者でもあったらしい。

1857年クララの推薦もあってブラームスが初めて就職したのがデトモルトの宮廷だった。小さな宮廷だがちゃんと宮廷劇場を持っていた。1820年代には本日の主役ロルツィングが音楽監督を務めていたこともある。

ブラームスと友人ホイベルガーの会話にロルツィングが現れる。ブラームスがワーグナーの革新性を称える流れの中「もしワーグナーが1歩踏み出してなかったら、我々はロルツィングみたいなオペラばかりを聴かねばならなかった」としている。

つまりワーグナーを持ち上げるためのツールになっている。

彼の代表作「ロシア皇帝と船大工」は、面白い筋立てだ。皇帝が身分を隠して諸国を漫遊するのだ。日本でもこの手の貴人漫遊譚は歓迎されることが多い。ロルツィングの名誉のために申せばこの作品は、ドイツコミックオペラの傑作とされている。

2009年8月18日 (火)

フリードリヒ・ヴィーク

1785年の今日生まれたという。何よりもクララ・シューマンの父だ。19世紀ドイツ屈指のピアノ教師だ。最高の弟子はと申せば、実は娘のクララだったりする。ロベルト・シューマンも2年程師事したことがある。もちろんクララはその間に見染められたという寸法だ。

ロベルトとクララの結婚に断固反対した父でもある。ロベルトやクララの日記あるいはそれらを下敷きにした伝記の中では、2人の愛の成就に立ちはだかった障害という位置づけを与えられている事が多い。ロベルトもクララも結婚したい側だから、この2人の日記だけを情報ソースにしていると理解が片手落ちになる可能性がある。ロベルトとクララのなりゆきをラブストーリーと捉える立場なら致し方なかろうが、フリードリヒ・ヴィークの言い分も聞かねば公平とは言えまい。

何しろ裁判沙汰になったのだ。シューマンが訴訟に持ち込んだ結果、結婚が認められるという壮絶な展開となった。娘を持つ父親なんて弱いものだ。反対は時に常軌を逸していたとも伝えられるが結局フリードリヒ・ヴィークが折れる。だからクララはロベルト亡き後、父に頼ることが出来ぬと覚悟していたと思う。演奏家としての大車輪の活躍はちょうどその裏側に違いない。

父ヴィークの強硬な反対にはそれなりの理由があると思う。ロベルトやクララの伝記の中ではけして詳しく語られることは無いが、それ相応の理由があると感じる。そこそこの地位も分別もある男が、単に娘かわいいだけで裁判沙汰は考えにくい。

ロベルトはクララの父に2年間師事したと書いた。その間に名教師だったクララの父はロベルトのキャラを正確に見抜いたに違いない。弟子のキャラをキチンと見抜いた上で指導することは名教師としては当たり前だ。そこいらが並の教師との分かれ目でさえあるだろう。これが強硬な反対の本当の原因ではないかとさえ思える。クララやロベルトの伝記にはけして書かれるハズのない理由だ。

歴史に「たられば」は禁物だが、もしフリードリヒ・ヴィークの前に現れたのが若きブラームスだったら、彼はどう反応したのだろうか。ブラームスは1853年の秋、自作の出版の打ち合わせにと訪れたライプチヒでフリードリヒ・ヴィークと会っている。このときのヴィークの日記でもあれば是非見てみたい。

我が家も2人の娘たちが年頃にさしかかってきた。クララがロベルトと交際を始めたのはおそらく14歳の頃だ。我が家の娘は次女でさえまもなくその14歳になる。音楽的な才能は2人合わせたところで、クララには遠く及ばないが、気苦労の予感だけは2人分つまりフリードリヒ・ヴィークの2倍である。

2009年8月17日 (月)

偶然が2つ

リヒャルト・ワーグナーのオペラ「ニュルンベルクのマイスタージンガー」がミュンヘンで初演されたのは1868年6月21日だった。ブラームスの「ドイツレクイエム」は、2ヶ月と11日前の4月10日にブレーメンで初演されたばかりだった。既にそれ以前に「さまよえるオランダ人」「ローエングリン」「タンホイザー」「トリスタンとイゾルデ」を発表していたワーグナーは、マイスタージンガーによりさらにその位置付けを磐石にした。一方のブラームスはこれが、出世作だった。

そのワーグナー楽劇の集大成「ニーベルングの指環」は1876年8月13日14日および16日17日にバイロイトで全曲初演にこぎつけた。ここから2ヶ月と17日後の11月4日、今度はブラームスの第1交響曲がカールスルーエで初演される。

両者を代表する大作が、時を経ぬタイミングで初演されている。

こうした偶然が、大いに論争を盛り上げたのだと思う。

2009年8月16日 (日)

狂言回し

歌舞伎の用語だろうと思う。観客に筋の流れを理解してもらうために必要な役柄とでも申し上げておく。転じて「物事を表立たずに仕切っている人物」という意味が派生している。「黒幕」よりは陰湿な感じがしない。

歌舞伎に存在するくらいだからオペラにもと考えるのが人情だ。

ワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」におけるベックメッサーについてブラームスが感想を述べている。例によって音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻61ページ。お相手はホイベルガーだ。

ブラームスはマイスタージンガーにおけるベックメッサーの役回りを高く評価している。一方ベックメッサーにはモデルが居ると古来指摘されてきた。「ブラームス擁護反ワーグナー」の論陣を張るハンスリックだ。劇中では皆から嘲笑されるという「いじられキャラ」で、「あら探し屋」の意味もあるというから痛烈だ。ブラームスはこの役回りこそがストーリーの進行に重要な役目を果たしていると考えているようだ。もしかすると「狂言回し」かもしれない。

ハンスリックがモデルであることに気付いていたのだろうか。

2009年8月15日 (土)

パート譜作り

ワーグナーと親交の深かったタウジヒというピアニストがいる。19世紀音楽界を2分した論争を物ともせず、ブラームスとも仲が良かった。ピアニストとしても相当の名手でブラームス最高難曲との噂もある「パガニーニの主題による変奏曲」は、タウジヒ用だという。

ブラームスはウィーン進出間もない1863年、そのタウジヒから相談を持ちかけられた。マイスタージンガーのウィーン公演に際してのパート譜作りへの協力を要請されたのだ。ブラームスはこれを受けている。新ドイツ楽派に対する宣言文の後だから、そんな要請をする方も度胸がある。つまりタウジヒとはそういうお友達なのだ。

パート譜は大抵、総譜(スコア)から作られると思う。いきなりパート譜を書き上げてしまう作曲家はいないと思う。作曲はスコアの形で完成するのだ。だからパート譜の作成はスコア完成の後だ。バッハはライプチヒ・トマスカントル時代、毎週カンタータの新作を供給演奏していたという。彼のことだから作曲だけなら軽々だったに違いない。パート譜は手分けしていたのだ。トマス学校の生徒の中から優秀な者がこれに従事したという。パート譜にはスコアには無い情報も書かれたのだと思う。実演に即して必要な情報はスコアに書かれずにパート譜だけに書かれたこともあろう。優秀な生徒が1部パート譜を完成させ、バッハがこれをチェックする。OKが出ればあとはそれを必要部数筆写するのだ。この先は単純作業だから優秀な生徒でなくてもよかったらしい。

マイスタージンガーのパート譜作りとは、自筆スコアからパート譜を起こす作業だったと解したい。それは相当な突貫作業だ。「ブラームスの手も借りたい程」だったに違いない。

ウィーン進出間もないブラームスは定職についていなかった。シューベルトの写譜の傍らワーグナーのパート譜作成も手伝ったと解したいが、ささやかな疑問もある。楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の初演は1868年だ。これはその5年前だから辻褄が合わない。部分公演なのだろうか。

2009年8月14日 (金)

マイスタージンガー

ブラームスは身の回りの文学作品について、その出来映えとオペラへの順応度は必ずしもパラレルな関係にはないと考えていたようだ。オペラ化するには向き不向きがあるという信念を持っていたようだ。関連書物では断片的に言及されるばかりで、その信念の全貌を俯瞰出来ないのは残念だ。

オペラの脚本としての向き不向きはしばしば「強い」「弱い」と言い回されている。脚本が「弱い」のを作曲家の腕が救っているという感想を時々漏らしている。

ブラームスの基準に従えば「マイスタージンガー」の脚本は不向きの側だ。それも相当なレベルだ。「ぞっとするような脚本」と称している。あの脚本を手にして作曲に着手する前に「これはいける」と思うところが普通ではないと評している。それこそがワーグナーの凄いところだと逆説的に持ち上げている。

ワーグナー作品全般に同様の細かな分析をしている。アンチ・ワーグナー派の首領の座にふんぞり返っていた訳ではないのだ。敵陣の分析も怠らずといった感じである。とうとうオペラを書かなかったのはそうした状況分析の結果だと思う。

2009年8月13日 (木)

妙な辻褄

8月8日の記事「完璧なドンジョヴァンニ」で、ブラームスがマーラー指揮のドンジョヴァンニを絶賛したことを書いた。「完璧なドンジョヴンニを聴きたければハンガリーの首都へ行け」とは、大した惚れ込みようだ。これが1890年のことだ。

そのつもりで8月11日の記事「ヤーン」を眺める。そこにはウィーン宮廷歌劇場の「ドンジョヴァンニ」がひどい出来だったと嘆くブラームスがいる。これは1887年である。宮廷歌劇場指揮者、ヴィルヘルム・ヤーンの任期末をおそった停滞の話の裏付けと位置づけた。

先のマーラー指揮のドンジョヴァンニへの絶賛は、3年前に聴かされたウィーン宮廷歌劇場のひどい演奏を踏まえていたと解したい。

イシュルにブラームスを訪ねたマーラーは、ウィーン宮廷歌劇場指揮者就任への協力を要請し、ブラームスは協力を約束する。マーラーは1897年4月宮廷歌劇場指揮者に就任する。そのときのマーラーの前任者が1887年にブラームスを嘆かせたヤーンである。

ブダペストのマーラー絶賛は、地元ウィーンへの叱咤だった可能性がある。

妙に辻褄があっている。

2009年8月12日 (水)

さくら

日本の春の風物詩のことではない。コンサートホールや劇場で、故意な拍手喝采を司る出演者または主催者の身内。身内ではなく単なる雇用関係の場合もあったらしい。

1897年4月ブラームスのアシストもあってウィーン宮廷歌劇場指揮者に就任したグスタフ・マーラーは、当時歌劇場に存在した「さくら」を根絶したという。19世紀の欧州各地の主要な劇場では、よく組織された「さくら」が大きな影響力を持っていた。純粋な作品の出来や、演奏の良し悪しに関係の無い拍手喝采が起きた。一般の観客や、事情を知らないマスコミが不正にデザインされた喝采に踊らされるという弊害が生じた。さらに深刻なのは、音楽の流れに全く関係の無い喝采やブーイングが演奏の中断を引き起こすこともあったという。ブラームス派とワーグナー派の論争に言及した文章に、相手陣営の演奏会を妨害することもあったとされているのは、この手のさくらの暗躍を疑わせるものがある。

マーラーは、就任後、半ば伝統とも化していた慣行に敢然とメスを入れたのだ。この手の断固たる措置をとれるリーダーシップは、ブラームスを喜ばせたはずだが、残念なことにブラームスは既にこの世にいなかった。

2009年8月11日 (火)

ヤーン

ヴィルヘルム・ヤーン(1834-1900)オーストリアの指揮者。1881年から1897年までの永きにわたり、ウィーン宮廷歌劇場の音楽監督を務めた大物だ。いろいろ紆余曲折はあったらしいがグスタフ・マーラーの前任者だ。マーラーの伝記だけを読んでいると、あまり有能には書かれていない。たしかに晩年は体調不良で歌劇場の運営が思うに任せなかったというが、無能だったら16年も音楽監督の地位にとどまれないと思う。

名うての劇場通いだったブラームスは、こうしたウィーン宮廷歌劇場の停滞に気付いていた形跡がある。

音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻54ページ。1887年の記事。宮廷オペラ座100周年記念の前日に上演された「ドンジョヴァンニ」について、「舞台の工夫もいつもと違っていた」と評価するが、歌手がどうにもならんと嘆く。

101ページ。ホイベルガーとの会話の中に「もうオペラ座には行かない。最近はひどいオペラばかり聴かされているからな」と言っている。1893年の11月だ。

さらに132ページ。同じくホイベルガーとの会話だ。1895年3月22日ブラームスが宮廷歌劇場で上演されたスメタナの歌劇「秘密」について見解を述べている。辛口のコメントに続けて「ウィーンのような大劇場向きではなくて、ボヘミアあたりの小さな劇場向きだ」と述べる。このあと本日話題のヤーンを名指しして「何故、小さな農民劇ばかりをやるのか。宮廷歌劇場では大作を演ずるべき」と疑問を提示した後、大作を歌える演奏者がいないとバッサリである。

この辺りの見解は、ヤーン体制末期の歌劇場の停滞の話と一致する。

辻褄が合うことも素晴らしいが、ブラームスのオペラに対する深い見識も見え隠れする。

2009年8月10日 (月)

のだめの中のブラームス【29】

本日はコミック「のだめカンタービレ」単行本最新巻、第22巻の発売日だ。表紙はシンバルだった。

まさに瞬間芸だ。全188ページの中でたった一箇所ブラームスが現れる。119ページに「ブラームス交響曲第4番」と書かれている。オープニングプログラムの「歌劇ドンジョヴァンニ序曲」でさえその描写には3ページが割かれているのに、「ブラ4」は1ページ、コマ数にして3コマでしかない。描かれているのがブラ4のどこの場面であるかの類推さえ許さない程、徹底的に個性が抜き取られている。

作劇上の配慮により、つまり著者の特権により本巻に限ってブラームスは刺身のツマだ。第22巻冒頭から、のだめが出演する演奏会のことは話題にされていながら、メインプログラムが「ブラームスの交響曲第4番」であることは、119ページに至るまで徹底的に隠されている。のだめこと野田恵のシュトレーゼマンとの共演が、第22巻を貫くテーマになっているから、まさにその演奏会のメインプログラムであろうと、のだめが弾いたコンチェルトにはかなわないということだ。

そのことをもってのだめの弾くショパンのコンチェルトの出来映えが素晴らしかったことの、間接的な描写になっていると見たい。

2009年8月 9日 (日)

リブレット

イタリア語らしい。オペラやオペレッタの台本のことだ。オラトリオやカンタータ、ミュージカルも対象になるという。独唱歌曲のテキストはリブレットとは言わない。

どれほど評価の高い文学作品があっても、それが優れたオペラになるとは限らない。仮に優れた作曲家がそこに同居してもダメなものはダメだ。オペラにするには台本が必要だ。モーツアルトの歌劇「フィガロの結婚」は、ボーマルシェの原作が素晴らしかったことに加え、ロレンツォ・ダ・ポンテのリブレットがあったからこそ不滅の地位に上り詰めた。モーツアルト、ボーマルシェ、ダ・ポンテの功績は同等だ。おそらく誰が欠けてもダメだった。

ブラームスがついぞオペラ作曲に踏み切らなかった理由の一つが気に入ったリブレットが無かったことだ。オペラについての考えが時代の流れにマッチしていないこともあるが、問題はリブレットだ。

過去の文学作品に対する造詣に加え、同世代の文筆家とも交流があったブラームスだから、原作やリブレットを探す伝手には事欠かなかったと思われるが、ついに見つからなかった。

気に入ったリブレットが無いのなら作ってしまえというふうには考えなかった。リヒャルト・ワーグナーとは才能の向きが違うのだ。

2009年8月 8日 (土)

完璧なドンジョヴァンニ

1890年12月、ハンガリーはブダペストの王立歌劇場でモーツアルトの歌劇「ドンジョヴァンニ」を聴いたブラームスは、その出来映えを絶賛する。モーツアルトの3大オペラの一つだから、このときまでに何度も聴いたことがあるはずのブラームスが手放しで称賛した。

「完璧なドンジョヴァンニを聴きたければハンガリーの首都へ行け」と周囲に漏らしたという。「オレも何度か聴いたが今までのは完璧じゃなかった」ということだ。

このとき指揮をしていたのがグスタフ・マーラーその人だった。ブダペスト王立歌劇場の正指揮者として3度目のシーズンを迎えたところ。就任以降演奏の水準を引き上げたばかりか、歌劇場の経営改善にも貢献したという。ブラームスが指揮者マーラーに抱いた好印象は後にウィーン国立歌劇場指揮者就任の伏線になる。

2009年8月 7日 (金)

理性の女神

「Die Göttin der Vernunft」というヨハン・シュトラウスⅡ世のオペレッタ。1897年3月13日ウィーンにて初演。

ブラームスが没する3週間前に初演されたことになる。ブラームスはこの初演に駆けつけたが、終演まで体力が続かなかった。この状態を鑑賞と申していいのか疑問だが、一応これがブラームス生前最後の観劇だ。

8月3日の記事「フィガロの結婚」では、ブラームスの生涯初のオペラ鑑賞に言及したから、本日は生涯最後の観劇を取り上げた。その間ちょうど50年。自らはついぞオペラを仕上げることが無かったが、オペラを巡る時代の趨勢だけはいつも見つめていた。

2009年8月 6日 (木)

ナンバーオペラ

ロマン派以前のオペラの主流だ。当時のオペラは言ってみれば下記のような小声楽曲の集合体だ。

  • ソロ 独唱 このうち一部をアリア(詠唱)ともいう。
  • アンサンブル 重唱
  • コーラス 合唱

劇中で、これら楽曲が披露される順番に番号が付与されている。だから「ナンバーオペラ」と呼ばれているのだ。1曲ごとの始まりと終わりが明確で、その間をレチタティーボ(朗唱)が繋いでいる。筋立てはこのレチタティーボによって補完説明される。1幕は複数の楽曲の集合体ということになる。

ワーグナーは、これら小楽曲の切れ目を取り払い、筋立ての説明を含めた全てのシーンに音楽を付与した。1幕を区切れなく演奏するというスタイルを確立したのだ。

さてさてブラームスは、結局オペラに手を染めることはなかったが、コネを総動員して脚本を物色していたことも割と知られている。このときブラームスは自分がオペラを書くとしたらこの「ナンバーオペラ」だと考えていた。ワーグナー風の切れ目なしオペラにする気はなかったのだ。

そもそも「全ての瞬間に音楽を付与するなんぞ、音楽への過剰な要求だ」と考えていた。ストーリーが明快かつ自然で、気の利いたコンパクトな脚本に、歯切れよく音楽を挟んだ、軽目のナンバーオペラが彼の理想だったと思われる。

2009年8月 5日 (水)

結婚の効果

8月1日の記事「オペラと結婚」でブラームスがオペラと結婚を同等と考えていたと述べた。

オペラの作曲と結婚が同等とは、さすがにブラームスだ。私は結婚はしたが、オペラの作曲なんぞ到底無理だ。羨ましい。ところが羨ましがってばかりもいられない。7月30日の記事「名作オペラ」を思い出して欲しい。収載作品数ベスト10を一覧にした。この人たちはいわば、オペラ作曲の名人だ。ついでに奥様の名前をリストアップした。30歳そこそこで没したベルリーニだけ結婚の事実を確認出来ていない。おどろいたことに他は皆妻帯者である。

  1. ヴェルディ 17曲 マルガリータ
  2. モーツアルト 11曲 コンスタンツェ
  3. プッチーニ 10曲 エルヴィラ
  4. ドニゼッティ 7曲 ヴィルジニア
  5. ワーグナー 7曲 ミンナ、コジマ
  6. Rシュトラウス 6曲 パウリーネ
  7. ロッシーニ 4曲 イザベラ
  8. ベルリーニ 4曲 未確認 
  9. JシュトラウスⅡ世 3曲 イエッティ、アンジェリカ、アデーレ
  10. ヤナーチェク 3曲 ズデンカ

そういえばドヴォルザークもビゼーも結婚している。ベートーヴェンは独身なのにがんばったと誉めてあげたい。

これを見るとブラームスがついぞオペラを書くことが無かったのは結婚しなかったせいかもと勘繰りたくなる。クララは無理でも、アガーテあたりと結婚していたら、名作オペラがすんなり書けていたかもしれない。

2009年8月 4日 (火)

カマーチョの結婚

1826年メンデルスゾーン16歳の秋に完成したオペラだ。テキストは「ドンキホーテ」の独訳である。翌年ベルリン歌劇場で初演されるが、ブレークとまでは行かなかったようだ。しかし16歳でオペラを書き、それが翌年にさっそくベルリンで初演されるとは大したものだ。

1821年6月同じベルリン歌劇場でウェーバーの「魔弾の射手」が空前の大当たりとなり、ドイツオペラ興隆の道筋を開いたとはいえ、まだまだドイツ語圏でもイタリアオペラの勢いは残っていた。その証拠にベルリン歌劇場の総監督はイタリア人スポンティーニだったのだ。ドイツオペラの興隆を歓迎しない人々が相当数いたらしく、ブレークしないのも無理からぬ話である。

時は下って1875年1月10日のウィーン。当時楽友協会の芸術監督として最後のシーズンを過ごしていたブラームスは、メンデルスゾーンの歌劇「カマーチョの結婚」から序曲を取り上げてコンサートのプログラムに載せた。

2009年8月 3日 (月)

フィガロの結婚

申すまでも無くモーツアルトの3大オペラの一つ。私はどれか1つと言われれば、迷いに迷ってフィガロを選ぶ。

オペラ月間中には、本日のようにオペラのタイトルをそのまま記事のタイトルに据えるケースが多く現れる。けれども作品解説やCD推薦という保守本流の内容ではない。あくまでもブラームスに粘着した内容に終始する予定だ。「ブラームスブログ」なのにオペラ記事が連発するという違和感を楽しむ狙いだから、ブラームスに関係なく漫然とオペラネタをタレ流す訳には行かない。

ブラームスが家計を助けるためにハンブルクの街で夜間のアルバイトをしていたことは有名だ。10代半ばの男の子には教育と健康の両面で不都合も生じよう。父ヤーコプの友人で製紙工場を営んでいたアドルフ・ギーゼマンは、それを見かねてブラームスを自宅のあるヴィンゼンに招待した。

アドルフの娘リースヒェンと仲よくなったり、男声合唱を指揮したりという微笑ましいエピソードのほかに、大きなポイントがある。

ハンブルク歌劇場で上演されていた歌劇「フィガロの結婚」の鑑賞が、ギーゼマンの計らいで実現したのだ。1847年の秋か1848年の春だろう。ブラームス14歳の頃だ。これがおそらくブラームスのオペラ初鑑賞だと思われる。

このギーゼマンという人物、音楽をブラームスに直接教えることこそしていないが、若きブラームスの環境を変えたという意味では、下手な教師顔負けの存在だ。

ブラームスはフィガロの恩を忘れなかった。後にデニングホフ夫人となったリースヒェンは、娘アグネスがベルリン高等音楽院在学中に、夫と死別する。窮状を聞いたブラームスは、同音楽院の校長ヨーゼフ・ヨアヒムに奨学金の支給を掛け合って、これに成功する。万が一だめなら、自分がこっそり学費を負担するつもりだったらしい。

2009年8月 2日 (日)

タイトルロール

オペラの題名に一致する役のことだ。ほぼ主役と思っていい。歌手にとってタイトルロールを歌うということは、主役を張るということで、名誉なことと受け止められている。

こういう言葉が出来ること自体が、ある事実を仄めかしている。オペラのタイトルは、通称まで含めれば人名が多いのだ。先頃言及した「オペラ名作127」のうちタイトルが人名で、作中に同名の役が存在する作品を拾ってみた。「フィガロの結婚」や「ポッペアの戴冠」など人名含みのタイトルも対象にした他、「トリスタンとイゾルデ」等人名2つを含むタイトルも2名それぞれをカウントした。初演の年代順に列挙し、タイトル、作曲者、主役の声種を添える。

  1. 1607年 オルフェオ(モンテヴェルディ)Br
  2. 1642年 ポッペアの戴冠(モンテヴェルディ)Sp
  3. 1689年 ディドとエネアス(パーセル)SpBr
  4. 1762年 オルフェオとエウリディーチェ(グルック)MsSp
  5. 1768年 バスティアンとバスティエンヌ(モーツアルト)TnSp
  6. 1781年 イドメネオ(モーツアルト)Tn
  7. 1786年 フィガロの結婚(モーツアルト)B
  8. 1787年 ドン・ジョヴァンニ(モーツアルト)Br
  9. 1797年 メデア(ケルビーニ)Sp
  10. 1817年 チェネレントラ(ロッシーニ)Ms
  11. 1829年 ウィリアム・テル(ロッシーニ)Br
  12. 1831年 ノルマ(ベルリーニ)Sp
  13. 1835年 ランメンモールのルチア(ドニゼッティ)Sp
  14. 1835年 マリア・ストゥアルダ(ドニゼッティ)Sp
  15. 1839年 アンナ・ボレーナ(ロッシーニ)Sp
  16. 1842年 ナブッコ(ヴェルディ)Br
  17. 1843年 ドン・パスクァーレ(ドニゼッティ)B
  18. 1844年 エルナーニ(ヴェルディ)Tn
  19. 1845年 タンホイザー(ワーグナー)Tn
  20. 1846年 アッティラ(ヴェルディ)B
  21. 1847年 マクベス(ヴェルディ)Br
  22. 1849年 ルイザ・ミラー(ヴェルディ)Br
  23. 1850年 ローエングリン(ワーグナー)Tn
  24. 1851年 リゴレット(ヴェルディ)Br
  25. 1857年 シモン・ボッカネグラ(ヴェルディ)Br
  26. 1859年 ファウスト(グノー)Tn
  27. 1865年 トリスタンとイゾルデ(ワーグナー)TnSp
  28. 1866年 ミニヨン(トマ)Ms
  29. 1868年 メフィストーフェレ(ボーイト)Sp
  30. 1871年 アイーダ(ヴェルディ)Sp
  31. 1871年 ジークフリート(ワーグナー)Tn
  32. 1874年 ボリス・ゴドゥノフ(ムソルグスキー)B
  33. 1875年 カルメン(ビゼー)Ms
  34. 1876年 ドン・カルロ(ヴェルディ)Tn
  35. 1876年 ジョコンダ(ポンキエルリ)Sp
  36. 1877年 サムソンとデリラ(サンサーンス)TnMs
  37. 1879年 エフゲニー・オネーギン(チャイコフスキー)Br
  38. 1881年 ホフマン物語(オッフェンバック)Tn
  39. 1882年 パルジファル(ワーグナー)Tn
  40. 1883年 ラクメ(ドリープ)Sp
  41. 1884年 マノン(マスネー)Sp
  42. 1887年 オテロ(ヴェルディ)Tn
  43. 1890年 イーゴリ公(ボロディン)Br
  44. 1892年 ウエルテル(マスネ)Tn
  45. 1893年 ファルスタッフ(ヴェルディ)Br
  46. 1893年 マノン・レスコー(プッチーニ)Sp
  47. 1893年 ヘンゼルとグレーテル(フンパーディンク)MsSp
  48. 1896年 アンドレア・シェニエ(ジョルダーノ)Tn
  49. 1898年 イリス(マスカーニ)Sp
  50. 1900年 トスカ(プッチーニ)Sp
  51. 1900年 ルイーズ(シャルパンティエ)Sp
  52. 1901年 ルサルカ(ドヴォルザーク)Sp
  53. 1902年 アドリアーナ・ルクブルール(チレア)Sp
  54. 1902年 ペレアスとメリザンド(ドビュッシー)Tn、Sp
  55. 1904年 蝶々夫人(プッチーニ)Sp
  56. 1904年 イヌーファ(ヤナーチェク)Sp
  57. 1905年 サロメ(R・シュトラウス)Sp
  58. 1909年 エレクトラ(Rシュトラウス)Sp
  59. 1912年 ナクソス島のアリアドネ(Rシュトラウス)Sp
  60. 1918年 修道女アンジェリカ(プッチーニ)Sp
  61. 1918年 ジャンニ・スキッキ(プッチーニ)Sp
  62. 1925年 ヴォツェック(ベルク)Br
  63. 1926年 トゥーランドット(プッチーニ)Sp
  64. 1932年 アラベラ(Rシュトラウス)Sp
  65. 1935年 ボギーとベス(ガーシュイン)BrSp
  66. 1937年 ルル(ベルク)Sp
  67. 1945年 ピーター・グライムズ(ブリテン)Tn

ご覧の通り127作品のうち67の作品がタイトルに人名を含む。何と50%を超えている。

上記をさらに声種別にカウントすると以下の通りになる。

  • ソプラノ 34
  • テノール 16
  • バリトン 15
  • メゾソプラノ 6
  • バス     4

ソプラノ、テノール、バリトンの順だ。つまりこれらの声種がオペラで主役を張りやすいのだ。これをブラームスの歌曲をCDで歌ってくれている人のデータと比較すると興味深い。

ソプラノの優位は共通するのだが、メゾソプラノの位置づけは対照的だ。オペラでメゾソプラノが主役を張ることは希だが、ブラームス歌曲における位置づけは最重要と申して良い。次いでテノール。オペラでは男声最強の扱いだが、ブラームスの歌曲ではほぼ全滅だ。そしてアルトに至っては名作オペラのタイトルロールになっていない一方で、ブラームスがアルトに特別な位置づけを与えていたことは良く知られているところだ。

歌曲における「メゾソプラノやアルトの優越」と「テノールの冷遇」がブラームスの音楽性に起因するものだとすれば、ブラームスがオペラを書かなかった有力な説明根拠になると感じる。無論、ブラームスは自作の歌曲について「テノールが歌ってはいけない」とは言っていないが、結果としてブラームスの歌曲を録音するテノールは少ないのだ。

2009年8月 1日 (土)

オペラと結婚

1888年1月7日のことだからブラームス54歳だ。友人ヴィトマンに宛てた手紙の中で、「私はオペラも結婚も諦めた」とある。オペラというのは「オペラの作曲」のことだ。このときまでにブラームスはヴィトマンとしばしばオペラの脚本について情報交換を重ねていたのだ。

結論は事実が雄弁に物語っている通り、計画の放棄である。

気に入った脚本さえ見つかればブラームスはオペラを書く気になっていたとヴィトマンは断言する。話の流れの中のここという急所に音楽をつければいいと考えていたらしい。ストーリーの全編の曲をつけるなど音楽への過剰な期待だというのがブラームスの見解だという。そうした考えに沿った脚本がとうとう見つからなかったのだ。

ブラームスの文学作品に対する洞察力には、プロの文筆家であるヴィトマンが舌を巻いている。ブラームスは自作に課した厳しいハードルをオペラの脚本にも求めていたのだ。ついにそれがブラームスをオペラの作曲から遠ざけたということだ。交響曲や室内楽、歌曲や合唱曲で獲得しているのと同等の評価を、オペラの分野で勝ち得ることが出来たかどうかは、永遠の謎になった。

オペラの作曲と結婚が同等とは、さすがにブラームスだ。世の中、結婚はしたがオペラの作曲なんぞ出来ませんという人は少なくない。

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