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2009年8月18日 (火)

フリードリヒ・ヴィーク

1785年の今日生まれたという。何よりもクララ・シューマンの父だ。19世紀ドイツ屈指のピアノ教師だ。最高の弟子はと申せば、実は娘のクララだったりする。ロベルト・シューマンも2年程師事したことがある。もちろんクララはその間に見染められたという寸法だ。

ロベルトとクララの結婚に断固反対した父でもある。ロベルトやクララの日記あるいはそれらを下敷きにした伝記の中では、2人の愛の成就に立ちはだかった障害という位置づけを与えられている事が多い。ロベルトもクララも結婚したい側だから、この2人の日記だけを情報ソースにしていると理解が片手落ちになる可能性がある。ロベルトとクララのなりゆきをラブストーリーと捉える立場なら致し方なかろうが、フリードリヒ・ヴィークの言い分も聞かねば公平とは言えまい。

何しろ裁判沙汰になったのだ。シューマンが訴訟に持ち込んだ結果、結婚が認められるという壮絶な展開となった。娘を持つ父親なんて弱いものだ。反対は時に常軌を逸していたとも伝えられるが結局フリードリヒ・ヴィークが折れる。だからクララはロベルト亡き後、父に頼ることが出来ぬと覚悟していたと思う。演奏家としての大車輪の活躍はちょうどその裏側に違いない。

父ヴィークの強硬な反対にはそれなりの理由があると思う。ロベルトやクララの伝記の中ではけして詳しく語られることは無いが、それ相応の理由があると感じる。そこそこの地位も分別もある男が、単に娘かわいいだけで裁判沙汰は考えにくい。

ロベルトはクララの父に2年間師事したと書いた。その間に名教師だったクララの父はロベルトのキャラを正確に見抜いたに違いない。弟子のキャラをキチンと見抜いた上で指導することは名教師としては当たり前だ。そこいらが並の教師との分かれ目でさえあるだろう。これが強硬な反対の本当の原因ではないかとさえ思える。クララやロベルトの伝記にはけして書かれるハズのない理由だ。

歴史に「たられば」は禁物だが、もしフリードリヒ・ヴィークの前に現れたのが若きブラームスだったら、彼はどう反応したのだろうか。ブラームスは1853年の秋、自作の出版の打ち合わせにと訪れたライプチヒでフリードリヒ・ヴィークと会っている。このときのヴィークの日記でもあれば是非見てみたい。

我が家も2人の娘たちが年頃にさしかかってきた。クララがロベルトと交際を始めたのはおそらく14歳の頃だ。我が家の娘は次女でさえまもなくその14歳になる。音楽的な才能は2人合わせたところで、クララには遠く及ばないが、気苦労の予感だけは2人分つまりフリードリヒ・ヴィークの2倍である。

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コメント

<narkejp様

トラックバックありがとうございます。

それを言っちゃあおしまいということで、ぐっと呑み込んだのですが、やっぱり、ご存知ですよね。

当方の娘も、一人はすでにお嫁に行き、もう一人は就職して都会の生活を楽しんでいる模様です。お年頃の娘さん、心配も楽しみも、ともにありますね。ヴィーク(父)の反対も、たしかに根拠があったのだろうと思います。単なる頑迷ではなさそうですね。娘を持つ父親の見方ですが。ブラームス・ネタではありませんが、古い記事をトラックバックいたします。

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