パート譜作り
ワーグナーと親交の深かったタウジヒというピアニストがいる。19世紀音楽界を2分した論争を物ともせず、ブラームスとも仲が良かった。ピアニストとしても相当の名手でブラームス最高難曲との噂もある「パガニーニの主題による変奏曲」は、タウジヒ用だという。
ブラームスはウィーン進出間もない1863年、そのタウジヒから相談を持ちかけられた。マイスタージンガーのウィーン公演に際してのパート譜作りへの協力を要請されたのだ。ブラームスはこれを受けている。新ドイツ楽派に対する宣言文の後だから、そんな要請をする方も度胸がある。つまりタウジヒとはそういうお友達なのだ。
パート譜は大抵、総譜(スコア)から作られると思う。いきなりパート譜を書き上げてしまう作曲家はいないと思う。作曲はスコアの形で完成するのだ。だからパート譜の作成はスコア完成の後だ。バッハはライプチヒ・トマスカントル時代、毎週カンタータの新作を供給演奏していたという。彼のことだから作曲だけなら軽々だったに違いない。パート譜は手分けしていたのだ。トマス学校の生徒の中から優秀な者がこれに従事したという。パート譜にはスコアには無い情報も書かれたのだと思う。実演に即して必要な情報はスコアに書かれずにパート譜だけに書かれたこともあろう。優秀な生徒が1部パート譜を完成させ、バッハがこれをチェックする。OKが出ればあとはそれを必要部数筆写するのだ。この先は単純作業だから優秀な生徒でなくてもよかったらしい。
マイスタージンガーのパート譜作りとは、自筆スコアからパート譜を起こす作業だったと解したい。それは相当な突貫作業だ。「ブラームスの手も借りたい程」だったに違いない。
ウィーン進出間もないブラームスは定職についていなかった。シューベルトの写譜の傍らワーグナーのパート譜作成も手伝ったと解したいが、ささやかな疑問もある。楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の初演は1868年だ。これはその5年前だから辻褄が合わない。部分公演なのだろうか。
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