1000マルク
シューベルト全集が1885年に完成を見た。ブラームスが深く校訂に携わっていたことは事実だが、責任者ではなかった。このとき編集主幹を務めていたのは、ブラームス一の子分というべきオイゼビウス・マンディチェフスキーだった。楽友協会の司書を務める切れ者だ。
ブラームスはシューベルトの若書きまでもが律儀に印刷されていると苦言も呈するが、若い子分のこの業績をねぎらった。何せシューベルト全集の編集主幹だ。よくやったとばかりに暖かなメッセージを添えて1000マルクをマンディチェフスキーに贈ったのだ。ポケットマネーをポンと50万円出したというわけだ。
ドヴォルザークの第8交響曲の原稿買取にジムロックが提示したのが1000マルクだった。これがブラームス第一交響曲の15分の1の金額に過ぎず、ドヴォルザークの逆鱗に触れ、交渉が決裂したことは一昨日取り上げたばかりだ。
ところが同じ1000マルクをブラームスは、子分の偉大な業績にご祝儀として自腹を切る。使いどころを心得たと言うか、生きたお金と言うか絶妙な金銭感覚だとうならざるを得ない。ジムロックとしては商売に徹しただけで、事情も考えもあったに違いないが、結果としてブラームスの太っ腹振りを印象付けるエピソードだ。これが当時のドイツの下級労働者の1年分の生活費に相当する大金だということも肝に銘じておきたい。
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