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2009年10月31日 (土)

指揮者マーラーの価値

グスタフ・マーラーはハンブルク市立歌劇場の指揮者を務めていた時代がある。1891年から1897年までだ。これに先立つ1886年ライプチヒ市立歌劇場時代にもハンブルク市立歌劇場と接触している。ハンブルクのオファーは年俸6000マルクだったが、合意には至らなかった。キッチリ10年遡る1876年ブラームスへのデュッセルドルフのオファーと同額だ。

さらに10月28日の記事「シューマンの収入」で紹介したデュッセルドルフ時代のシューマンの収入に届いていない可能性がある。シューマンの方の数値には年俸金額が、総額記載の別枠か内訳かについて留保があった。別枠だった場合に約8000マルクで、内訳なら5000マルクだ。合意に至らなかった理由の一つかもしれない。

さてその決裂から5年後、マーラーは正式にハンブルク市立歌劇場指揮者に就任するが、今度は倍増の年俸12000マルクだった。

不思議なのはその次だ。1897年4月マーラーはブラームスのアシストの甲斐もあってウィーン宮廷歌劇場指揮者に就任するが、この時の年俸が10000マルクだ。付帯条件もあるので断言は危険だが、ハンブルクより条件が悪く見える。

何度でも言う。1877年に出版されたブラームスの第1交響曲の原稿料は15000マルクだった。

2009年10月30日 (金)

デュッセルドルフのオファー

デュッセルドルフの指揮者の地位は、ロベルト・シューマンが病気によって退いた後、ユリウス・タウシュが就任していた。どうもあまり有能とは言えなかったらしく、1876年頃には水面下を含めて後任人事が取り沙汰されていた。

まっ先に挙がったのがマックス・ブルッフだ。「作曲ばかりしそう」という理由で撤回された後、ブラームスの名前が挙がった。1875年4月にウィーン楽友協会の芸術監督の地位を退いたブラームスは、その時点で定職に就いていなかった。提示された年俸は6000マルクだったという。ウィーン楽友協会芸術監督の年俸が6000マルクだったから、それを意識した提示である。

1853年つまりロベルト・シューマンの在任最終年の年俸が2250マルクであった。25年の年月を超えてなお破格ぶりがうかがえる。

ブラームスがこのオファーを受けるかどうか、ドイツの音楽界の一大関心事になったという。なんだかサッカーの移籍市場みたいな感じである。周囲は気を揉んだ。友人知人たちの意見も賛否分かれた。ロベルト・シューマン退任の折に悔しい思いをしたクララは反対の側だった。

シューマンゆかりのポストだけに、感慨深いものがあったに決まっているが、結果は、拒否であった。クララの反対も大きかったし、何よりもウィーンが気に入っていた。年俸6000マルクのオファーを蹴ったということだ。作曲で食って行く自信とはこういうことかもしれない。

2009年10月29日 (木)

為替レート

異なる通貨の換算比率とでもいうのだと思う。

私が物心ついたころ1USドルは360円だった。今は大体100円少々周辺をうろついているから、円も随分高くなった。

ブラームスの伝記を読んでいると通貨がたくさん出てくる。1871年ドイツ帝国成立と当時にマルクが採用されたから大抵はマルクで十分だが、ブラームスが若い頃はターラーだったりしている。他にグルデンという単位も使われていて、何かと判りにくい。

本日はブラームスの伝記に出現する通貨についてその換算比率を当時のマルク中心に考察する。あちこちの伝記をあたってのつぎはぎだから鵜呑み注意にて。ドイツとオーストリアでは微妙に違っていたりもするのであくまで目安だ。

  1. 1マルク≒500円 当時のお金マルクと現代の日本の金銭感覚の目安。
  2. 1マルク≒0.5グルデン(フロリン) 
  3. 1マルク≒33クロイツァー
  4. 1マルク=0.3333ターラー 1ターラー=3マルクと言いたいところだ。
  5. 1マルク≒0.3ドル 19世紀後半のUSドルとの比較だがもっと検証も必要。

最近マネー関連記事が多い。もちろん意図的な配置だ。換算表があると便利なので公開した次第である。

2009年10月28日 (水)

シューマンの収入

音楽之友社刊行の「作曲家◎人と作品」シリーズの「シューマン」の117ページから118ページにかけて、興味深い記述がある。ロベルト・シューマンの収入が細かく記載されている。惜しむらくは金額の単位が全てターラーになっている。マルクとの換算比率がわかりはせぬかと探していたら、マッコークルに載っていた。交響曲第1番に支払われた金額の15000マルクが5000ターラーに等しいとキッパリと書いてある。つまり「1ターラー=3マルク」である。

1850年デュッセルドルフ最初の年の収入が1584ターラーとある。4752マルクだ。1853年つまり最後の1年は1925ターラー=5775マルクに増えている。デュッセルドルフの音楽監督の年俸が750ターラーつまり2250マルクと記載があるが、これが内数か、別枠かはっきりしない。仮に別枠とすれば1853年の収入は8025マルクとなる。

ブラームスの第一交響曲と20年の隔たりがあることは常に念頭に置かねばならないが、目安には出来る。

2009年10月27日 (火)

芸術監督の収入

第一交響曲に支払われた原稿料15000マルク(750万円)の重みを調べたくて、いろいろ資料を当たっている。リプリオ出版から出ているジュニア向けの伝記「人はみな草のごとく」に興味深い記述があった。

149ページにウィーン楽友協会芸術監督就任が言及され、その年収が3000フロリンだと書いてある。フロリンはグルデンと同じでこれがおよそ6000マルクに相当する。破格の待遇であったことも同時に仄めかされている。1872年の秋から3シーズンを務めた訳だから、ブラームスはこの仕事で合計18000マルクを得たと思われる。

ということはつまり、ブラームスの交響曲1曲には、楽友協会芸術監督3年分の報酬に近い額が支払われたという計算になる。

2009年10月26日 (月)

生涯収入

10月20日の記事「作品の価格表」および22日の記事「報酬の相場」で、ブラームス作品に対して出版社から支払った原稿料をまとめた。それらを合計するとどうなるのかが、本日の話題だ。

ブラームス作品の価格相場が確立して以降、1897年に没するまで、ブラームスが作品の原稿料として受け取ったお金の合計を計算してみた。

マッコークルに記載の無い作品については、同等同規模の作品の金額を仮に充当して計算した。範囲は作品番号のある作品としたが、ハンガリア舞曲第3集と4集、および「49のドイツ民謡」を敢えて加えた。また第4交響曲とヴァイオリンとチェロのための協奏曲は不明だが、第3交響曲で他の出版社に危うく出し抜かれるというエピソードを考慮して、特別に上乗せがあったとして計算した。

計算の結果は1億3392万5千円となった。

作曲の報酬でこの金額とはさすがだ。22年間ということを考えると1年平均6百万円強だ。これに作品番号の無い作品が少々加わったとして1億5千万円が視界に入る。相場確立以前の作品群を加えても、この年間平均値が大きく変わるとは思えない。つまり下級労働者の年収の約12倍だ。

ピアノでも作曲でも弟子は多くないけれど、指揮やピアノの演奏に対するギャラはあったに決まっているし、他の作曲家の作品の校訂からも収入があっただろう。いくつかの名誉職に就いていたからそれにまつわる収入も別途見込める。

楽譜の刊行にからんで印税収入が発生していたのか気になる。

2009年10月25日 (日)

カレンダリング

完全に私の造語。ブログ運営上避けて通れない考え方のことだ。

ネタを思いついてやることが、大きく分けて3つある。

  1. 内容を考える。資料上の裏付けに配慮しつつ起承転結に注意して文章を組み立てること。
  2. タイトリング。記事のタイトルを考えること。
  3. カレンダリング。記事の公開のタイミングを設定することだ。記事の内容と公開日に、何らかの関連を持たせること。必然性を持たせられれば、なおいい。

現在展開中の「ドヴォルザーク特集」は、ブログ「ブラームスの辞書」始まって以来の年間企画だから、カレンダリングがとりわけ重みを増す。ドヴォルザークの関連情報のうち、具体的な日付が明らかになっている事項を、カレンダー上にプロットしてみる。誕生日、命日、結婚記念日、主要作品の初演日などなど多岐にわたる。このうちブラームスと関係浅からぬ事項があれば、記事の公開日はただちにその日に決まる。これがカレンダリングの第1歩だ。

  • 年間各月の記事の配置数を見て極端な濃淡が出ないよう公開日のバランスを取る。
  • 記事内容に照らして、公開の前後関係に不備が起きないように配慮する。
  • ドヴォルザークネタ自体を内容に応じて分類し、近い内容の記事を出来るだけまとめて公開する。

昨年9月立ち上げるのを思いとどまって、1年間カレンダリングを磨き上げていたと申しても過言ではない。

たとえば記事「チェロ協奏曲」は、そうした配慮から断固として10月19日に置かれた記事である。

2009年10月24日 (土)

ジムロックという男

10月20日の記事「作品の価格表」を今一度ご覧いただきたい。そこにはブラームス作品が出版社にいくらで買われたかが書いてある。ついでにどの出版社に買われたのかも添えておいた。ジムロック社が圧倒的に多い。つまりブラームス作品の買い取り相場を形成したのはジムロックだということだ。その間、ジムロック以外の出版社から楽譜が刊行されることもあったが、買い取り価格は、相場に従っているのが面白い。

フリッツ・ジムロックはブラームスの友人にして楽譜出版社を経営するビジネスマン。もちろん深い音楽の素養もあった。財産管理を任されるほどブラームスの信頼は厚い。さてジムロックが形成したブラームス作品の買い取り相場を今一度書く。

  • 交響曲  1曲750万円    (15000マルク)
  • 協奏曲  1曲450万円    (9000マルク)
  • 管弦楽  1曲225万円    (4500マルク)
  • 室内楽  1曲150万円    (3000マルク)
  • ピアノ曲  1曲 40万円    (800マルク)
  • 歌曲    1曲 22.5万円   (450マルク)
  • ハンガリア舞曲 第2集11曲で150万円(3000マルク)1曲約14万円
  • 49のドイツ民謡 全49曲で750万円(15000マルク)1曲約15万円

もしオペラでも書いていたらいくらになったのか興味深い。それにしてもこの相場の一貫性、整合性は気持ちが良い。ブラームス本人に提示していたかどうかはともかく、ジムロック側にはこうした買い取り価格表があったに違いない。

さてジムロックはブラームスから紹介されたドヴォルザークとはしばしば折り合いが悪かった。若きドヴォルザークを紹介されたジムロックは、生涯ドヴォルザーク作品の優先出版権を得るが、その関係は蜜月ばかりではなかった。ドヴォルザークの伝記においては「仇敵」「けちん坊」と表現されることもある。ドヴォルザークの伝記に現れる作品の買い取り価格を以下に列挙する。この比較をするために延々と記事を連ねてきた。

  • 1874年 交響曲第4番 300万円 (6000マルク)
  • 1878年 スラブ舞曲集第1集全8曲 15万円(300マルク)
  • 1879年  ヴァイオリン協奏曲 50万円(1000マルク)
  • 1884年 劇音楽「フス教徒」とピアノ連弾曲「シュマヴァの森より」を合わせて175万円(3500マルク)
  • 1885年 交響曲第7番 300万円(6000マルク)但し、ジムロックの当初提示額はこの半額だった。ドヴォルザークは他の出版社から6000マルクのオファーがあることを手紙で仄めかした結果ジムロックが譲歩した。
  • 1886年 スラブ舞曲集第2集全8曲 150万円(3000マルク) 第1集の価格の10倍になっている。1曲18万7500円だ。楽譜が売れるということはこういうことなのだろう。しかしこれをただちにブラームスのハンガリア舞曲以上の評価だと断定するわけにはいかない。何故ならスラブ舞曲の側は管弦楽編曲版込みの値段という可能性が高い。
  • 1887年 交響曲第5番、交響的変奏曲、ト長調弦楽五重奏曲、ピアノ五重奏曲イ長調、「詩編149」5曲合わせて300万円(6000マルク)。音楽之友社刊行の人と芸術◎ドヴォルザークでは、この商談を「ドヴォルザークがジムロックに売りつける」と表現しているがやや違和感がある。ブラームスの交響曲1曲の半額以下だ。ジムロックから見れば買い叩きつまり安い買い物だろう。
  • 1889年 ピアノ独奏曲「詩的な音画」120万円(2400マルク)ドヴォルザークは3000マルクつまりスラブ舞曲第2集(8曲)並を希望したらしいがジムロックが値切った。こちらが5曲も多いのにドヴォルザークの要求は弱気だ。
  • 1889年 交響曲第8番 ジムロックの買い取り額の提示は50万円(1000マルク)だ。ヘソを曲げたのかドヴォルザークは英国ノヴェロ社に刊行を依頼した。「詩的な音画」との評価の差はいったい何なのだろう。ドヴォルザークがヘソを曲げるのも無理はないと感じる。
  • 1893年 交響曲第9番、弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」、変ホ長調弦楽五重奏曲、「自然の中で」「謝肉祭」「オセロ」という3つの管弦楽用序曲、他少々の小品を全部あわせて375万円(7500マルク)
  • 1894年 8つのフモレスカ 200万円(4000マルク) この中の7番変ト長調が「ユーモレスク」として世界中で親しまれている。
  • 1897年 「水の精」「真昼の魔女」「金の紡ぎ車」 600万円(12000マルク) 世界的な名声の高まりにより、この3曲の交響詩に1曲あたり4000マルクを付けざるを得なかったジムロックだが、それでもブラームスの序曲の単価4500マルクを上回ることはなかった。 

ジムロックの強硬姿勢にため息が出る。あるいはブラームス作品の買い取りにお金がかかってドヴォルザークに回せなかったのかもしれない。しかしスラブ舞曲第2集への大盤振る舞いを見ると単なるケチとは思えない。

ブラームスの対応の違いと言えば金額自体もさることながら、ブラームスにおいては曲種ごとにキッチリとした決まり事が透けて見えるのに対しドヴォルザーク作品については同一曲種でもバラツキが見られることだ。加えて抱き合わせでの買い取りも多いから曲の単価が突き止めにくくなっている。スラブ舞曲第2集と最晩年の交響詩3部作が価格面でのピークと思われるが、ブラームスの同一曲種の金額を上回ることがないような配慮も感じる。

事情はいろいろあろうが事実は残酷である。出版社にとっては楽譜の売れ行きこそが最大の関心事項だろうから、これらの強硬姿勢が現実の楽譜の売れ行きをパラレルに反映していた可能性は高い。あるいは単にドヴォルザークが舐められていただけということもあり得る。もう1人2人別の作曲家の相場を知りたいところだ。

ブラームスに紹介されたという恩義など忘れて英国のノヴェロ社あたりにさっさと乗り換えていたらドヴォルザークの生涯収入はもう少し増えていたと思う。一方で当時のクラシック音楽業界において、ドイツの有名出版社から作品が出版されるということの価値は、金額換算不可能と見ることも出来よう。

この記事、序盤のヤマ場。

2009年10月23日 (金)

入札競争

昨日の記事「報酬の相場」でブラームス作品の原稿買い取り価格について、曲種ごとに基準があると書いた。ブラームス本人とジムロックの蜜月関係を背景に、ブラームス作品の出版を事実上ジムロックが独占する中から成立したものであると推定する。

一方ドイツ楽壇の重鎮ブラームスの作品を是が非でも自社で刊行したいと考える競合他社がいても不思議ではない。交響曲第3番の原稿買い取りに20000マルク(1000万円)を提示する出版社が現れたのだ。先の買い取り基準で申せば交響曲は15000マルク(750万円)だから、ざっと相場の3割増しの提示である。

ブラームスも心が動いたとされている。

この時。原稿買い取り額の提示で5000マルク出し抜かれたジムロックは、ブラームスに弁明の手紙を書き送る。ブラームス作品をトラブル無く出版し続けてきた実績を淡々と訴え、今後もその姿勢を継続する決意を述べている。今回思い切った提示に踏み切った競合他社は単にカタログを飾りたいだけで、他の作曲家の売れない作品との抱き合わせを目論んでいるのではないかと警告を発した。凄いと思うのは、ブラームスの交響曲1曲に支払える原稿料は15000マルクが限界だと告白している。その理由として「それ以上の支払いは経営に影響する」と言っている。

これに対するブラームスの書簡を確認出来ていないが、結果は事実が雄弁に物語っている。ブラームスは第3交響曲の出版を従来通りジムロックに委ねている。5000マルク(250万円)も低い提示にもかかわらずジムロックを選択したことになる。

ジムロックの感謝の言葉は残っていない。しかしマッコークルには、思わぬ痕跡が残る。あれほど詳細で事細かに作品買い取り価格を明示しているマッコークルが、交響曲第4番とヴァイオリンとチェロのための協奏曲について不明となっている。さらにクラリネット五重奏曲と三重奏曲も一括して出版しながら、その買い取り価格は不明である。

これら4曲についてジムロックとブラームスの間に、買い取り価格の密約が存在した可能性を考えている。特に交響曲第4番の買い取り価格は20000マルクではなかったかと思っている。

何のかんので蜜月な二人である。

2009年10月22日 (木)

報酬の相場

このタイトルで「ゴルゴ13」を思い浮かべた人はコミックの読み過ぎである。10月20日の記事「作品の価格表」の続編とお考えいただいていい。ブラームスの諸作品に対して支払われた報酬を、マッコークルを頼りに一覧表にしたものだった。

単に作曲年代順に並べておくだけでは能が無い。そこから浮かび上がる傾向を整理する。

  1. 交響曲=750万円、協奏曲=450万円、管弦楽曲=225万円、室内楽=150万円、ピアノ小品=40万円前後、歌曲=22万5千円という相場がおそらく1875年以降形成されていたと考えられる。
  2. この時期以前の曲は、値上がりの途上にある。ブラームスの出世作であり規模の面でも最大の作品であるドイツレクイエムの値段864,000円がそのことを雄弁に物語る。交響曲の約8分の1だ。
  3. 弦楽四重奏曲1番と2番、あるいはハイドンの主題による変奏曲もまだ相場確立前の価格である。
  4. 相場確立の年と目されるのが1875年というのが面白い。この年にブラームスはウィーン楽友協会の芸術監督を辞している。これ以降終生定職に就くことは無かった。つまりここから作曲だけで飯を食ったのだ。この決意と作品相場の確立が同時というのは何やら意味ありげだ。
  5. ハンガリア舞曲は音楽的な価値とは別に、売り上げ獲得という面で出版社にとっては特別の意味があったと思う。相場確立後の第2集で1曲約30万円が払われている。1894年の「49のドイツ民謡集」も同等の位置づけだ。49曲の集合体とはいえ、あろうことか750万円が払われている。交響曲1曲と同等の評価だ。それでも1曲約15万円で歌曲よりは安い。
  6. 1890年のピアノ三重奏曲第1番の改訂にあたり支払われたのは75万円だ。通常の室内楽相場の半額である。新作でない点が考慮されたと思われる。

相場が確立したのは1875年つまりブラームス42歳だから、この後22年間終生この相場が維持された。22年値上げをしなくてもブラームスが納得するような破格値だったと考えたい。この相場は単に巨匠ブラームスのご機嫌取りである訳もない。出版社にとってはコストだから、売り上げにより回収不可能な金額が設定されるハズがないのだ。ブラームス作品の市場での吸収力を見据えたロジカルな公式によって整然とはじき出された金額だと思われる。

2009年10月21日 (水)

Gdur症候群

ドヴォルザークが遺した協奏曲を完成順に列挙してみる。

  1. ピアノ協奏曲ト短調 1876年
  2. ヴァイオリン協奏曲イ短調 18979年
  3. チェロ協奏曲ロ短調 1895年

お気づきの方も多かろう。3つの協奏曲全てが短調だ。シューマンも3つ全て短調だが、ブラームスは4曲がなかよく長短2曲になっている。

さらに採用された調を見るとト短調、イ短調、ロ短調だ。つまりソラシである。これをもって私が名付けたのがト長調症候群だ。「G-A-H」という並びがト長調を連想させるからだ。

ドヴォルザークにはもう一つ持病がある。「Bdur症候群」だ。最初の4つの交響曲の調性を「B」「C」「D」「Es」の中から漏れなく1つずつ採用する症状だ。ドヴォルザークの他、ベートーヴェン、シューマンが陽性だ。ブルックナーとプロコフィエフは擬陽性である。ブラームスはハ短調の1番と、ニ長調の2番を続けて生み出した時、感染が疑われたが、3番でヘ長調のワクチンを投与されて感染を免れ、さらに4番でホ短調を採用することにより、ジュピター音階を完成させるというウィットを見せてくれた。

2009年10月20日 (火)

作品の価格表

ドヴォルザークとジムロックの確執を調べているうちにブラームス作品に対して出版社から支払われた報酬額を整理しておきたくなった。マッコークルの作品目録他で調べた。現在のお金に換算可能な単位が用いられていないケースは省略してある。つまり1871年以降は、統一ドイツの成立により登場したマルクで報酬額が記録されるようになる。それ以前は金貨だったりして換算が難しい。以下出版年の古い順に列挙する。

<1860年代>

  • ドイツレクイエム 1868年 リーター・ビーダーマン社 864,000円
  • カンタータ「リナルド」 1868年 ジムロック社 750,000円

<1870年代>

  • 弦楽四重奏曲第1番と2番 1873年 ジムロック社 約2,000,000円
  • 「ハイドンの主題による変奏曲」op56ab 1873年 ジムロック社 1,500,000円
  • ピアノ四重奏曲第3番 1875年 ジムロック社 1,500,000円
  • 「4つの二重唱op61」「7つの歌op62」にハンガリア舞曲の管弦楽版3曲合計 1874年 ジムロック社 3,000,000円
  • 「9つの歌曲op63」と「3つの四重唱op64」をあわせて 1874年 ペータース社 2,250,000円
  • 「新・愛の歌」 1875年 ジムロック社 1,500,000円
  • 「5つの二重唱op66」 1875年 ジムロック社 750,000円
  • 弦楽四重奏曲第3番 1876年 ジムロック社 1,500,000円
  • 交響曲第1番 1876年  ジムロック社 7,500,000円
  • 作品69から72までの歌曲 1877年 ジムロック社 225,000円(1曲あたり)
  • 交響曲第2番 1878年  ジムロック社 7,500,000円
  • 2つのモテットop74 1878年 ジムロック社 750,000円
  • バラードとロマンスop75 1878年 ジムロック社 900,000円
  • 8つのピアノ小品op76 1878年 ジムロック社 3,750,000円
  • ヴァイオリン協奏曲op77 1878年 ジムロック社 4,500,000円
  • ヴァイオリンソナタ第1番 1879年 ジムロック社 1,500,000円
  • 2つのラプソディop79 1879年 ジムロック社 750,000円

<1880年代>

  • 大学祝典序曲 1880年 ジムロック社 2,250,000円
  • 悲劇的序曲 1880年 ジムロック社 2,250,000円
  • ハンガリア舞曲第11番~21番(3巻と4巻) 1880年 ジムロック社 3,000,000円
  • ネーニエ 1881年 ジムロック社 1,500,000円
  • ピアノ協奏曲第2番 1881年 ペータース社 4,500,000円
  • op84から86の歌曲 1882年 ジムロック社 225,000円(1曲あたり)
  • ピアノ三重奏曲第2番 1882年 ジムロック社 1,500,000円
  • 弦楽五重奏曲第1番 1882年 ジムロック社 1,500,000円
  • 運命の女神の歌 1882年 ズーリック社 1,500,000円
  • 交響曲第3番 1878年  ジムロック社 7,500,000円 
  • op91から95までの歌曲 1884年 ジムロック社 225,000円(1曲あたり)
  • チェロソナタ第2番 1886年 ジムロック社 1,500,000円
  • ヴァイオリンソナタ第2番 1886年 ジムロック社 1,500,000円
  • ジプシーの歌op103 1888年 ジムロック社 1,500,000円
  • ヴァイオリンソナタ第3番 1889年 ジムロック社 1,500,000円
  • 3つのモテットop110 1889年 ジムロック社 1,125,000円
  • ピアノ三重奏曲第1番改訂版 1890年 ジムロック社 750,000円

<1890年代>

  • 弦楽五重奏曲第2番 1890年 ジムロック社 1,500,000円
  • 「6つの四重唱op112」と「13のカノンop113」 1895年 ペータース社 3,000,000円
  • 7つのピアノ小品op116 1892年 ジムロック社 3,000,000円
  • 3つのインテルメッツォ op117 1892年 ジムロック社 1,500,000円
  • 「6つのピアノ小品op118」と「4つのピアノ小品op119」 1893年 ジムロック社 4,000,000円
  • クラリネットソナタ第1番と2番 1894年 1892年 ジムロック社 3,000,000円
  • 49のドイツ民謡集 1894年 ジムロック社 7,500,000円

第4交響曲およびヴァイオリンとチェロのための協奏曲は不明とされているから一覧には現れない。クラリネット五重奏と三重奏も不明だ。

2009年10月19日 (月)

チェロ協奏曲

チェロを独奏楽器とする協奏曲。古来名曲を生んできたとは言え、数の上ではピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲には及ばない。

ブラームスを世に出したのはロベルト・シューマン。そしてそのブラームスによって世に出されたのがアントニン・ドヴォルザークだ。不思議なことにブラームスと関係浅からぬこの2人は後世に残るチェロ協奏曲を書いた。

ドヴォルザークはアメリカ滞在中にチェロ協奏曲ロ短調の作曲に着手し、帰国後1895年にこれを完成する。ドヴォルザークは完成間もないチェロ協奏曲を携えて体調がすぐれぬブラームスをウィーンに見舞う。ブラームス感嘆して曰く「こんな協奏曲がかけるなんて!」「わかっていたら真っ先に自分が書いていただろうに」つまり絶賛である。以来ドヴォルザークのこの協奏曲は、現代に至るもチェロ協奏曲の代名詞として君臨している。

素朴な疑問がある。ブラームスは恩師シューマンのチェロ協奏曲を知っていたのだろうか。

シューマンのチェロ協奏曲イ短調は1850年の作品だ。出版は1854年だから、ちょうどブラームスがシューマン邸を訪れた頃である。尊敬するシューマンの作品には隅から隅まで目を通していたはずだから、この協奏曲も知っていたと考えるのが自然だ。

ドヴォルザークのチェロ協奏曲の出来映えに興奮して思わず口をついて飛び出した言葉だろうと思うが、クララがいたらヘソを曲げていたかもしれない。

ドヴォルザークはブラームスの口から発せられたこのような評価を心に留めていた。いや、心に留めていたどころではない。肝に銘じていたと申すべきだ。1897年10月19日ブラームスの追悼演奏会がライプチヒで開かれた。ドヴォルザーク自身の指揮で取り上げられたのが、他でもないこのチェロ協奏曲だった。

2009年10月18日 (日)

ト短調ピアノ協奏曲

作品番号33を背負うドヴォルザークが遺した唯一のピアノ協奏曲だ。完成は1876年だが、初演は1883年を待たねばならず、その間にブラームスの2番に先を越された。

あるピアニストが「ピアノが目立ちにくい」という感想を漏らした。

これに対するドヴォルザークのコメントが残っている。

「私はピアノが管弦楽に埋没する協奏曲を書いた」「みんなでピアノを伴奏という仕組みにはなっていない」

私のようなブラームス好きには嬉しいコメントだ。一部から「管弦楽に対抗する協奏曲」と言われてる1番、交響曲の輪郭をトレースする2番を持ち出すまでもない。これらのコメントがドヴォルザークのコンチェルト観の投影だとするならブラームスが協奏曲に求めたものと一致していると感じる。大事なことはドヴォルザークのト短調ピアノ協奏曲の完成時、ブラームスの4つの協奏曲のうちニ短調ピアノ協奏曲、つまり1番だけしか世に出ていなかったという事実だ。ヴァイオリン協奏曲さえ出現前だ。

チェロ協奏曲が、こうした価値観から育まれたとするなら、ブラームスの絶賛もむべなるかなである。

2009年10月17日 (土)

第3交響曲私演

1883年10月ドヴォルザークがウィーンにブラームスを訪ねた。ドヴォルザークはジムロックに宛てた手紙の中でこの対面について言及している。

ドヴォルザークの証言によればこれほど陽気なブラームスは初めてだといい、相当に話が弾んだというニュアンスだ。

12月2日に迫った第3交響曲の初演も話題になったに違いない。ブラームスはドヴォルザークの求めに応じて第1楽章と第4楽章をピアノで弾いて聞かせたという。ドヴォルザークは「前の2つの交響曲を凌ぐ」という感想を漏らす。ということはつまり前の2つの交響曲もよく知っていたということに他ならない。

このシーンを想像するだけでワクワクする。他にどんな話をしたのだろう。

12月2日の第3交響曲初演には、ドヴォルザークも姿を見せた。彼の第7交響曲の解説には、しばしばブラームスの第3交響曲の影響が指摘されてている。

2009年10月16日 (金)

備蓄千本

昨夜遅く記事の備蓄が1000本に達した。昨年2009年4月10日の記事「備蓄730本」で記事の備蓄が3月30日に2年分に届いたことに言及した。実はその日から昨日でちょうど200日だ。

記事の備蓄本数は以下の公式で定義される。

備蓄記事本数=下書き済み記事本数-公開済み記事本数

本日この記事公開後の状況を上記の式に代入する。

1007=2655-1048

何もしないと毎日1つずつ減るということだ。1日1本の記事を思いついて下書きしただけでは現状維持がやっとということになる。備蓄1007本ということは、1週間記事を思いつかなくても1000本を割らないということだ。ようやくこれで「1000本の備蓄」と言い切れる。

3月30日から本日まで200日で、備蓄が270本増えたということは、一日平均2.35本思いついたということだ。この先10年を、このペースで過ごせば60歳定年退職までにあと10年分増加し、今ある1000本と合わせてほぼ13年分つまり73歳までの記事が備蓄出来る。元気なうちに2033年のブラームス生誕200年までに必要な記事を確保してしまいたい。余力をドヴォルザークに捧げられるようなら大成功だ。

そのペースを実感出来たことは一つの収穫だが、かなりのハイペースだということもまた身にしみた。

2008年1月7日の記事「記事千本」では、公開した記事が1000に達したことを、無邪気に喜んだ。今日は、未公開の備蓄記事がその1000本に達した。明日の記事を1000本の備蓄から選べるということだ。あるいは、その中から選ばずに、どうしてもという記事を当日に書き下ろすかどちらかになる。

次の目標は備蓄丸3年分となる1095本だ。

2009年10月15日 (木)

ついった

「Twitter」と綴る。つぶやきを気軽に発信出来るネット上のサービス。ここ1年で急速に広まった感じがしている。ブログのサイドバナーなんかに貼り付けられているのをよく見る。ブログよりさらに気軽に「今何してる」「何考えてる」を発信出来るというのが売りである。個人のプライヴェートな今を切り取って公開するツールだ。

トレンドキラーの典型である私なんぞが、ブログで記事にする時点で、とっくに流行は下火という見方もある。今のところブログ「ブラームスの辞書」では設置を見送っている。既にブログ自体が独断発言の塊だから、これ以上気軽になったら偉いことになる。

もっと深刻な不都合は、「今を気軽に切り取る」という点にある。今考えていることが今日の記事にならないのがブログ「ブラームスの辞書」のお約束だからだ。今考えていることが記事になるのは2年先ということもある。結果として公開される記事の羅列ぶりこそが楽しみだから、今何考えているかが判らぬ方が、趣が深い。ペラペラと調子に乗って、将来の記事のネタバレが心配でもある。

事情を深く知らない者が見た場合、その流れは2ch以上にカオスだ。仲間にしか通じにくいということが連帯感の醸成に一役買っているものと思われる。

とはいえ気にはなっている。

本日のこの記事がアップ出来たことにより、2005年5月30日のブログ開設から1600日連続の記事更新となった。本当はついったを始めて、ブログ本体がおろそかになるのが怖いだけということは何卒内密に。

2009年10月14日 (水)

レッスン10周年

1999年10月14日娘たちが初めてヴァイオリンのレッスンに行った日だ。あれから10年が過ぎた。長女は昨年5月にレッスンをやめたが、次女が続けてくれているおかげで今日の日を迎えることが出来た。娘たち2人を巻き込んだ私の道楽である。

情操教育とは対極にある。完全に私の趣味で押し付けたのに、次女はよくがんばっている。このところ個人練習への取り組みが、板についてきた。練習に意図がある感じだ。音にコシが出てきた。チューニングの音も以前とは違う。

隣で練習を聴いているだけでも楽しい。

一方、ブラスバンドも順調だ。アンサンブルコンテストに向けての取り組みが忙しい。一昨日アンサンブルコンテストに参加するグループを決める校内予選があった。同学年の仲間3人とトロンボーン四重奏で参加した。ギリギリのところで滑り込んだらしい。

芸術の秋、二足のわらじ。

昨夜8時頃、誰かが「222222番」のキリ番を踏んだ。

2009年10月13日 (火)

出版社との折り合い

音楽史を見渡すと、偉大な作曲家がきら星のごとく並んでいる。彼等の功績はまことに大きいのだが、作品の普及という意味では楽譜の存在が無視できない。ほとんどが手書きの筆写譜で伝えられるバッハの時代でさえ印刷譜は存在した。

やがて楽譜の印刷を専門にする出版社も現れる。作曲家の伝記にもしばしば具体的な出版社の名前が登場するようになる。作曲家と出版社の関係は持ちつ持たれつなのだとは思うが、どうも折り合いがよろしくない。作曲家は出版社の金の支払いが遅いと憤るか、安いと嘆くかだ。あるいは誤植が多過ぎると愚痴をこぼす。誤植どころか勝手に音符に手を入れる強者もいたらしい。一方の出版社の側では、作曲家が締め切りを守らぬと嘆き、書き方の乱暴さを問題にするだろう。作曲家の自信ほどは楽譜が売れないというケースも多々あったようだ。

芸術面では天才の名を欲しいままにする作曲家が交渉事の達人である保証はない。いやむしろその面では不器用であることが普通だ。

ブラームスとて自らは作曲に専念して、作品の出版交渉は誰かに任せた訳ではない。マネージャーがいた訳ではなくそのあたりの出版社との交渉も自分でこなしたのだ。けれどもブラームスは意外とその点でもソツがなかったという。複数の出版社を秤にかけておいしい選択をしていた。漏れ聞くところによればブラームスはほぼ作曲だけで飯が食えて、生前に全作品が出版された最初のケースだという。おまけにバカにならない額の遺産を遺した。つまり出版社から見ても商売になる素材だったということだ。自作に対する自信と世間の評価つまり楽譜の売れ行きにギャップが無かったということだろう。

ドイツ有数の出版社・ジムロック社のフリッツ・ジムロックとの交流は特に名高い。ブラームスのジムロックへの信頼は厚く、財産管理を委任していた。商売上の小さな行き違いはあったと思うが、肝心なところの折り合いはついていた。出版社との折り合いが良かったというのは正確ではあるまい。ジムロックという友人がたまたま出版社を経営していたと解する方が判り易いと感じる。

そうドヴォルザークの交響曲第8番の原稿料に1000マルクを提示した、あのジムロックである。

2009年10月12日 (月)

衝動買い

事前の計画無く物を買ってしまうこと。極端に小額な出費の場合には、あまり使われないと思われる。

ドヴォルザークの独奏ピアノ曲集第1巻を思わず衝動買いしてしまった。もちろん楽譜の話。いやはや世の中変わった。ドヴォルザークのピアノ曲の楽譜を買うなんて。「詩的音画」は国内の出版社から出ているのを持っていたが、とうとう全集にまで手を出してしまった。ドヴォルザーク特集のせいで脳味噌が練れて来ている感じだ。

スプラフォンから刊行されているが、製本もしっかりしていて好感が持てる。6615円の出費だ。楽譜見ながら聞くと味わいが深まる。ワルツの再現部に「Quasi Tempo I」などという、ぶっ飛びの指定を発見して、元が取れた気分になっている。

この調子だと、「詩的音画」がかぶるのを承知で第2巻を買っちまいそうだ。今からこうして悩んでいるということは、少なくとも衝動買いではないということだ。

2009年10月11日 (日)

新世界交響曲のお値段

ドヴォルザークの第8交響曲にジムロックが提示した金額がブラームスの第1交響曲の15分の1だったことは、9月22日の記事「15分の1」で述べた。交渉決裂の原因の一つかもしれない。続く第9番「新世界交響曲」は何故かまたジムロックに任されたことも既に述べた。

「15分の1」は少しやりすぎと思ったのかジムロックは新世界交響曲には7500マルクを提示している。今のお金に換算して375万円だ。8番に比べれば大幅増だが、それでもまだブラ1の半値だ。

ところがところが、この7500マルクは、弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」と変ホ長調の弦楽五重奏曲、さらには「自然の中で」「謝肉祭」「オセロ」という3つの管弦楽用序曲、他少々の小品を全部あわせての提示額だったのだ。だから8番に提示された1000マルクと実質は大きく変わらないとも受け取れる。大量買付けで安く仕入れるようなものだ。

ドヴォルザークとブラームス以外のもう1人か2人の作曲家のデータがあればもっと明らかになるのだと思うが、これはジムロックのドヴォルザークへの見方の反映だと受け止めざるを得ない。

あるいは当時のブラームスの存在がそれほど抜きん出ていた証拠である可能性もある。

2009年10月10日 (土)

ビゼーのオペラ

ブラームスとカルメンの関係を調べていて気になる情報に出会った。

ブラームスの遺産目録の中に、「ビゼーのオペラ全作の楽譜8巻」がある。

wikipediaで調べるとビゼーの代表作としての「オペラ」の項目には12個の作品名が記されている。私が知っているのは最初の3つ「カルメン」「真珠取り」「美しきパースの娘」だけだ。

ブラームスの遺産目録の「全作の楽譜」という表現は未完を除く作品だと考えるのが自然だ。wikiの12作には未完のものが3作とピアノスコアだけのものが1作ある。だから完全なものは8作だ。ブラームスの遺産目録の中の「ビゼーのオペラ全作8巻」の「8巻」がこの8作と一致しているのが嬉しい。

どうやらブラームスのビゼー好きは本物のようだ。いっそカテゴリーが立ち上げられる程ネタがあればいいのだが。

2009年10月 9日 (金)

ドヴォルザークのお手並み

もう一度2008年6月3日の記事「狩りの獲物たち」をご覧頂きたい。そこには和声上の禁則違反を犯した作曲家をブラームスがリストアップしたと書いた。つい先ごろ10月7日の記事「カルメン」で、その表は1892年までコツコツと作られていたという仮説を提示した。

一方そのリストに登場した作曲家で最も年下なのは1838年生まれのビゼーだとも書いた。ということはつまり1841年生まれのドヴォルザークはリストアップされていないのだ。

ブラームス側の伝記はともかく、ドヴォルザーク側の伝記では、ブラームスはドヴォルザークを世に出した恩人と位置付けられている。そのキッカケはオーストリア国家奨学金への応募だ。そこの審査委員だったブラームスは、1874年から79年まで毎年応募してきたドヴォルザークの作品を仔細に検討したに決まっているのだ。それでも禁則違反のリストに名を連ねていないということだ。

さらにビゼー「カルメン」の禁則違反を発見した59歳のブラームスは、その翌年に新世界交響曲の出版を助けるために校訂を引き受けている。1896年にはブラームスが新世界交響曲を暗譜していたという証言があるから、相当熟読したことは確かである。それでも禁則違反リストに新世界交響曲は現われない。

ブラームスの見落としは考えにくい。ドヴォルザークは新世界交響曲において禁則違反を犯していないという推定が自然だ。

2009年10月 8日 (木)

ハバネラ

中米キューバに起源を持つ舞曲で「Habanera」と綴られる。そういえばキューバの首都はハバナだった。やがて船乗りの手によりスペインに伝えられ、そこを起点にブレークする。その独特なリズムが欧州を席捲しスペイン以外の地域では、スペインの舞曲であるという勘違いまで起きた。

申すまでも無く名高いのはビゼーの歌劇「カルメン」に登場するハバネラだ。人呼んで「恋は野の鳥」である。奔放なヒロインのキャラを一瞬で説明する圧倒的な説得力が売り物だ。パリ市民がスペイン情緒を楽しむための小道具でもある。

ここで終わってしまうと「どこがブラームスと関係があるのか」という疑問が生じてしまう。

カルメンの楽譜「ハバネラ」のページ冒頭には「Allegretto quasi Andantino」と書かれている。音楽用語の大御所「Allegro」や「Andante」が、縮小語尾によってモデファイされている上に、解釈が難儀な「quasi」に橋渡しされている。曖昧でつかみ所のない用語キャラがそのまま、どこか移り気なカルメンというキャラにかぶって見える。

「Allegrretto」と「Andantino」の拮抗は、ハバネラだけにとどまらずカルメン全体に露見している。ハイライトに取り上げられるような有名な歌には「Allegretto」や「Andantino」が多い。さらに「アルルの女」第2組曲の中、フルートのソロで名高い「メヌエット」は「Andantino quasi allegretto」だ。どうやらビゼーはこのあたりの微妙な出し入れが好きと見たが、もっと詳しく楽譜を当たらないと断言は出来ない。「ビゼーの辞書」でも書かねばいけない。

私が「ビゼーの辞書」とまで思い詰めるには、訳がある。「Allegretto」と「Andantino」の拮抗ならブラームスにもある。

交響曲第2番の第3楽章冒頭だ。「Allegretto grazioso quasi andantino」と書かれている。「アレグレット・グラツィオーソ」がほとんど「アンダンティーノ」だとおっしゃっている。ブラームス交響曲の第3楽章に特有の曖昧指定だ。

どちらも「Allegretto」と「Andantino」の拮抗を味わう音楽だとひとまず解しておく。

いつにも増して強引。

2009年10月 7日 (水)

カルメン

2008年6月3日の記事「狩の獲物たち」の中で、ブラームス作「禁則違反のリスト」に登場する作曲家を列挙した。この表は、はたしていつまで作り続けられていたのかというのが本日の話題である。

それを探る手掛かりが本日のお題「カルメン」だ。そのリストに現われた作曲家の中で最年少であり唯一ブラームスより年下なのがジョルジョ・ビゼーその人だ。問題の禁則違反はビゼーの代表作「カルメン」の第2幕12曲に現われるらしい。ということはつまりこの表は「カルメン」の初演1875年以降にも作られたことになる。もっというなら1875年10月23日の「カルメン」のウィーン初演以降だという可能性は低くない。

さらにこのほど思わぬところに手掛かりを発見した。例によって音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻87ページだ。何と1892年10月25日の記事として、その年の夏にブラームスがイシュルで、ビゼーの作品全集のスコアをむさぼり読んでいたと証言されている。ブラームスが「カルメン」で到達したビゼーの巧みさを称賛したと書いてある。もしかすると「カルメン」の禁則違反の発見はこのときではないだろうか。むさぼり読んでいたのはスコアを見るのがこのとき初めてだったからだと解したい。

「カルメン」はタイトルロールがメゾソプラノになっているという点で異色だ。メゾソプラノラブのブラームスが熱狂するのもむべなるかなである。1892年ブラームス59歳だ。いくつになっても探究心旺盛である。

実はドヴォルザークも、不道徳な内容に顔をしかめながらもカルメンの音楽を高く評価していた。

2009年10月 6日 (火)

新世界交響曲

ドヴォルザークのホ短調交響曲の通称だ。ベートーヴェンの第5番、シューベルトの第8番と並んで3大交響曲と呼ぶ人もいる。

大学4年団長になって初めて臨んだ定期演奏会のメインプログラムだった。

ドヴォルザークの伝記である限り1892年に渡米したことに触れずにすませることは出来ない。「新世界」とは新大陸つまりアメリカのことだ。弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」と同じくアメリカ滞在中の作品である。

ドヴォルザークはト長調交響曲の出版に際して出版社ジムロックと不和に陥った。だからこれが英国の出版社から刊行され一部で「イギリス」と呼ばれているのだが、この新世界交響曲の出版は、何故かそのジムロックに委ねられた。そしてジムロックは出版に際しての校訂をブラームスに依頼した。1893年ブラームス60歳である。ブラームスの楽譜校訂の腕前は折り紙付きだ。ましてやこのころ既にブラームスは楽壇の大物だ。ブラームスから作品の感想を送られたドヴォルザークはいたく感激したそうだ。

ドヴォルザークへの入れ込みぶりは並ではないということだ。

音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻153ページ。1896年2月16日のホイベルガーの証言はこれを裏付ける。ブラームスは新世界交響曲を暗譜していたことが明らかになる。心をこめて校訂しているうちに暗譜してしまったのだと思う。暗譜するほどの気合いだ。

ブラームスは新世界交響曲の行く末を案ずるハンスリックに対して穏やかに反論する。「必ず共感する友を得られる健全な曲」と評している。

2009年10月 5日 (月)

サーバー夫人のリスト

ジャネット・サーバー夫人はドヴォルザークの伝記で、言及されぬことのない人物。ニューヨーク・ナショナル音楽院の経営者だ。

19世紀末。アメリカはクラシック音楽の市場としても目覚ましい発展をしていたが、それらを支えたのは欧州から招かれた音楽家だった。欧州から作曲の大家を呼んでも、故国の語法を教授するだけで、アメリカ国民楽派の設立には繋がらないという問題意識を持っていた。

サーバー夫人はアメリカ自前の音楽家の養成を意図した。作曲面においてゆくゆくは「アメリカ国民楽派」の興隆を夢見ていたとは古来指摘されている通りである。サーバー夫人はそのためには、この趣旨にピッタリの作曲家を招くことが必要と考えた。1890年頃である。彼女がリストアップ可能な招聘候補者はおおよそ以下の通りと思われる。

  1. ブラームス 1833年生 57才
  2. サンサーンス 1835年生 55才
  3. ドヴォルザーク 1840年生 50才
  4. チャイコフスキー 1841年生 49才
  5. グリーク 1843年生 47才
  6. マーラー 1860年生 30才
  7. Rシュトラウス 1864年生 26才
  8. シベリウス 1865年生 25才

欧州でそこそこの実績と名声があるというのが譲れぬ条件だとすれば、マーラー、Rシュトラウス、シベリウスは脱落かもしれない。サーバー夫人は「ドヴォルザークがダメならシベリウス」と考えていたとする説があるが、年齢的に難しそうだ。

おそらく当時欧州最高の作曲家ブラームスを担ぎ出せれば大殊勲だ。しかし、ドーヴァー海峡を渡るのに難色を示した男に大西洋を横断させるのは相当難しいと思われる。そして何よりもブラームスは金に困ってはいない。「カネなんぞなんぼ積まれても」状態だ。

グリークやチャイコフスキー、サンサーンスは話のもって行き方次第だったかもしれない。

それでもドヴォルザークが釣れれば御の字だろう。以下その根拠。

  • チェコ国民楽派の重鎮だ。アメリカ国民楽派の創設にはうってつけと思われる。
  • 見方にもよるが当時欧州では、作曲家としてブラームスに次ぐ存在。
  • プラハ音楽院での指導経験がある。
  • 温厚な性格。
  • アメリカの旧宗主国・英国での名声が高い。
  • 英語が話せる。
  • 6人の子供を養っているからお金は邪魔にならない。

2009年10月 4日 (日)

痛し痒し

良いことと悪いことが同時並行して発生している状態なのだと思う。苦笑いを伴うことも多いと感じる。

ドヴォルザーク特集を始めて間もなく1ヶ月になる。グーグルで「ドヴォルザーク」をキーワードにして検索した。昨日、一昨日には、何と「ブラームスの辞書」が10位以内に表示された。今朝は15位だった。9月8日の特集立ち上げから25日、記事にして14本に過ぎないというのに、この表示順位には驚かされる。

一方、同じグーグルで「ブラームス」をキーに検索する。今朝の表示順位は驚いたことに15位だ。「ドヴォルザーク」をキーにした場合と一致している。既に昨日までに1587本の記事を堆積させたというのに、表示の一桁順位はなかなか実現しない。

いったいどうしたことだ。

2009年10月 3日 (土)

婿殿の証言

ヨゼフ・スークはプラハ音楽院における作曲の弟子だ。ドヴォルザークの娘オティーリエと結婚したから、娘婿でもある。ヴァイオリニスト、ヨゼフ・スークの祖父にあたる。

彼は、岳父でもある師匠ドヴォルザークの知識を証言している。以下の通りだ。

  1. バッハ、ヘンデル、グルック、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、ベルリオーズ、ヴァーグナー、リストといった巨匠の作品を全て知り尽くしていた。
  2. ブルックナーとリヒャルト・シュトラウスにも興味を持った。
  3. イタリア音楽を軽視していない。

思うに上記1は先輩作曲家だ。そして上記2は同時代の作曲家であるように見える。

上記3で「イタリア音楽を軽視していない」と証言しているのは興味深い。当時、彼の周囲にそういう風潮があったことを前提に「ドヴォルザークはそうではなかった」という意図を感じるからだ。

さてさて、最大の疑問は既にお察しいただいていると思う。とりあえず昨日の話と辻褄だけは妙にあっている。何故ブラームスが出てこないのだろう。関係が濃すぎてこのレベルではないからだと一応善意に解釈をしておくが、落ち着かない。同時代を生きた2人だから上記1には入らぬと思う。上記2には戦慄を覚える。ブルックナーやリヒャルト・シュトラウスに興味があって、ブラームスを無視ということは、ふつーあり得ぬ。

何故だろう。ドヴォルザークの修行時代、ブラームスが教材に選ばれていないことは、昨日推定した。だから上記1にブラームスが入らぬことは無理からぬ話としても、上記2に出現する2人は、ブラームスと同世代以降だ。ドヴォルザークがブラームスと十分な親交を結んだ後の話だ。

2009年10月 2日 (金)

教材

ドヴォルザークの伝記を読んでいて素朴な疑問が湧いた。

プラハオルガン学校などで音楽を習った訳だが、そこで教材にされた作曲家が列挙されている。ベートーヴェン、モーツアルト、シューベルト、バッハ、ヘンデルが言及されている。あるいはアプトという指導者の下でワーグナーやシューマンを吸収したとされている。

ブラームスの名前が無いのだ。

ドヴォルザークがプラハオルガン学校に入学したのは1858年だ。シューマンの没年前後5年にわたって横たわるブラームス初期の寡作期だ。ブラームスが教材になるはずもない。2年後のオルガン学校卒業からオーストリア国家奨学金応募までの14年間は、ブラームスの勃興期に相当する。ハンガリア舞曲も出たし、ドイツレクイエムも出た。ところが手許の評伝には書かれていない。

もっと詳しい伝記を探さねばならないが、徒労に終わる気がする。この時期ワーグナーに夢中だったというオチが十分あり得る。

レッスンの教材選択は、師匠の権利だ。ドヴォルザークが修行の過程でブラームスに注意を払っていなかったとしても仕方がない。同時代を生きたとはそういうことだ。レッスンの教材に同時代の作品を取り上げるというのは、作品の評価が未確定のことも多かろう。教師にとっては危ない選択なのだ。

オーストリア国家奨学金に応募するまで、ドヴォルザークはブラームスを知らなかったということもあると思っている。

2009年10月 1日 (木)

ながら族

2つ以上のことを同時にする行う人々のこと。気のせいかもしれないがあまりポジティブな意味では用いられない気がする。かといって決定的に不都合かいうとそういうニュアンスでもない。「困ったものだ」くらいな緩い反省をも含む。聖徳太子はこれに含めないのが普通だ。

お菓子食べながらテレビ見る。ゲームしながら本を読む。音楽聴きながら勉強する。などなどいくらでも思いつく。

ブラームスの伝記には少年時代に家計を助けるために酒場でピアノ弾きのアルバイトをしていたことが、大抵書かれている。まれにピアノを弾きながら読書をしていたエピソードが披露されていることがある。

指は鍵盤の上を機械的に動きながら、目は譜面台の上に置かれた本を読んでいる状態だそうだ。本当に出来るのだろうか。

真偽は定かではない。ブラームスの読書好きの性格と、少年時代の苦労振りを強調する創作という可能性も否定しきれない。

もし事実ならピアノ演奏しながら読書する「ながら族」だ。

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ブラームスの辞書写真集

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    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
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