デュッセルドルフのオファー
デュッセルドルフの指揮者の地位は、ロベルト・シューマンが病気によって退いた後、ユリウス・タウシュが就任していた。どうもあまり有能とは言えなかったらしく、1876年頃には水面下を含めて後任人事が取り沙汰されていた。
まっ先に挙がったのがマックス・ブルッフだ。「作曲ばかりしそう」という理由で撤回された後、ブラームスの名前が挙がった。1875年4月にウィーン楽友協会の芸術監督の地位を退いたブラームスは、その時点で定職に就いていなかった。提示された年俸は6000マルクだったという。ウィーン楽友協会芸術監督の年俸が6000マルクだったから、それを意識した提示である。
1853年つまりロベルト・シューマンの在任最終年の年俸が2250マルクであった。25年の年月を超えてなお破格ぶりがうかがえる。
ブラームスがこのオファーを受けるかどうか、ドイツの音楽界の一大関心事になったという。なんだかサッカーの移籍市場みたいな感じである。周囲は気を揉んだ。友人知人たちの意見も賛否分かれた。ロベルト・シューマン退任の折に悔しい思いをしたクララは反対の側だった。
シューマンゆかりのポストだけに、感慨深いものがあったに決まっているが、結果は、拒否であった。クララの反対も大きかったし、何よりもウィーンが気に入っていた。年俸6000マルクのオファーを蹴ったということだ。作曲で食って行く自信とはこういうことかもしれない。
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