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2009年12月31日 (木)

竣工式

工事の完成を祝う儀式。神事にのっとり執り行われることが多い。祝うというよりも神様への感謝が前面に押し出される。

ブログ「ブラームスの辞書」が11月から実施していた第2次カテゴリー改訂工事が終わった。期間中はカテゴリーの表示に一部不備も生じ、関係者の皆様にはご不便ご迷惑をおかけしたが、このほどめでたく竣工とあいなった。

今回の改訂のポイントは11月1日の記事「第2次カテゴリー改訂」で述べたとおりだ。本日はそれを捕捉する。

  1. 旧体系で飽和気味だったカテゴリーを、より細かく分類した。「11 人物」「12 逸話」「18 作曲家」「43 ブログマネージャー」が整理の対象になった。
  2. 旧体系「30 ピアノ」には、ピアノ曲の話と、楽器としてのピアノの話が混在していたが、これを「ピアノ」と「ピアノ曲」に分けた。
  3. 旧体系「56 思い」と「59 こだわり」の区別が曖昧だったが、前者を「私の思い」後者を「ブラームスのこだわり」とすることで明確に区別した。
  4. これはと思う切り口を加え新たなカテゴリーとした。
  5. 一つの記事に付与されるカテゴリー上限を撤廃した。

本年も、お叱りお小言をのらりくらりとかわしながら、毎日欠かさずに記事を積み重ねてきた。竣工式のついでに一年の無事をブラームス神社に感謝したい。

これから、新年の準備に忙しいブラームス神社より、無理矢理神主様をお迎えして、竣工式を挙行する。

2009年12月30日 (水)

ドヴォルザークのピアノ曲

詩的な音画」「フモレスケ」「ワルツ」という具合にドヴォルザークのピアノ独奏曲にはまっている。それらが「平均律ドボヴィーア曲集」に結実した。

新世界交響曲やアメリカ四重奏曲、弦楽セレナーデあるいはチェロ協奏曲が獲得している名声に比べ、ドヴォルザークのピアノ独奏曲は、地味だ。

バッハからモーツアルト、ベートーヴェンを経てショパン、リスト果てはドビュッシーに至るピアノ音楽の保守本流に比べて、ブラームスは演奏会やCDの扱いが薄いなどとブーイングをタレている場合ではなかった。ブラームスは愛好家の数は多いし、楽譜やCDもそれなりに手に入る。

ドヴォルザークはピアノ連弾用でこそ「スラブ舞曲」がそこそこの地位を確立しているが、ピアノ独奏曲ともなると途端に寂しい状況だ。楽譜もCDも手に入れにくい。さらにピアノリサイタルでドヴォルザークがプログラムに取り上げられる頻度は、パーセンテージではなくてppmのオーダーかもしれぬ。加えてドヴォルザークの作品を解説した書物においても、ピアノ独奏曲の位置づけは低い。下手をすると名高いユーモレスクが言及されているだけというケースさえある。

聴かず嫌いはよくないと心から思う。

2009年12月29日 (火)

祝備蓄1095本

一昨日、記事の備蓄が1095本に達した。つまりこれは丸3年分の備蓄に相当する。何か私の身に抜き差しならない事態が発生して、パソコンに向かえないことになっても、その状態が3年以内に解消されれば、記事の毎日更新が維持されるということだ。来年、再来年はもちろん2012年分もほぼ確保出来た。

10月16日に記事の備蓄が千本に達してから、年内に3年分を蓄えてしまうことをひそかに目標にしていた。ギリギリの達成になった。年内に懸案が1つ解決出来てさっぱりした。

暮れのけじめ。

2009年12月28日 (月)

quasi stringendo

ドヴォルザークが1880年に作曲したピアノ小品集op52の中、第2番にインテルメッツォがある。破棄や散逸の憂き目に遭わずに、現代に伝えられたドヴォルザーク作品の中で、「インテルメッツォ」とタイトリングされているのは、唯一これだけだ。

ゆったりと突き詰めないテンポ、頻繁に小節線をまたぐスラーなど、私のようなブラームス大好き人間から見ると興味津々だ。ブラームス中期のop76よりは少々遅いが、晩年の小品群よりも10年以上遡る時期の作品だ。

その中に「quasi stringendo」という指定が現れる。「stringendo」を修飾する「quasi」は、ブラームスには例がない。ここだけの話ドヴォルザークの「quasi」の用法については、ブラームスより多彩だ。

「ほとんどストリンジェンドで」という解釈では、疑問が残る。ドヴォルザークの遺したインテルメッツォがこの曲だけというのも厄介だ。他のインテルメッツォでの用例と比較することも出来ない。

根拠の無い直感で恐縮だが、ブラームスの至宝インテルメッツォイ長調op118-2の38小節目と106小節目に出現する「crescendo poco animato」に近いニュアンスだと思う。

2009年12月27日 (日)

完璧なクリプレ

「完璧なクリスマスプレゼント」の略。昨日次女に渡したプレゼントだ。毎年クリスマスプレゼントを何にするかはちょっとした悩みだ。次女に限って申せば今年はパーフェクトだった。

ブラームスのホルン三重奏曲変ホ長調op40を元に、ホルンパートをトロンボーンで吹いたCDを発見した。ブラームス大好きの父親からブラバンでトロンボーンに取り組む娘への贈り物として、これ以上ないフィット感がある。

昨日一緒に聴いた。いやはや大したはまり振りだ。違和感が無い。ほとんどホルンの音域そのままで吹いていると思われる。テナートロンボーンとしてはきっと高い音なのだと思うが軽々と吹いているから、無理矢理感が無い。ホルンの代わりにチェロやヴィオラを入れるよりは数段フィットする。

「第一楽章ならがんばれば吹けるかも」というのが娘の第一声。音の高さが半端ではないそうだ。「だけども問題は音の高さよりも音色だよね」とも言っている。

いやはや最近ちょっと無い衝撃だ。

2009年12月26日 (土)

サンタの独り言

昨日の記事「平均律ドボヴィーア曲集」の裏側だ。「ドヴォヴィーア曲集」では、何となく収まりが悪いので「ドヴィーア曲集」にした。11月23日の記事「平均律ブラヴィーア曲集」は、せっかくのバッハの日がドヴォルザークネタの奔流の呑み込まれないための措置だった。まさにその通りなのだが、実は本日の記事の伏線にもなっているという錯綜振りがブラームスっぽいと思う。

先に公開した「平均律ブラヴィーア曲集」と同じコンセプトで作った。このところすっかりドヴォルザークにはまっているから、とても楽しい作業だった。もちろんそのままiPodのプレイリストにして楽しんでいる。

作成の過程で感じたことをいくつか。

  1. ブラームスは、ソナタの楽章や変奏曲の単一変奏まで持ち出して全24の調性を完全に網羅できたが、ドヴォルザークはヘ短調が空白になった。ヘ短調は連弾曲や変奏曲の中にも存在しない。ピアノソナタが無いからこちらもあてにならない。ピアノ三重奏曲に美しいヘ短調があるが、ピアノ独奏曲ではお手上げだ。
  2. もう一つブラームスとの比較。ブラームスの場合、我が家所有のCDで全24曲の1曲1曲を別々のピアニストで取り上げるというパズルを楽しむことが出来たが、ドヴォルザークのピアノ曲は録音しているピアニストが少なくて、どうにもならなかった。何のかんの言いながらブラームスのピアノ曲は人気があるのだ。
  3. 小品得意のドヴォルザークにはピッタリの企画だ。シューマンやショパンで誰か作ってはくれまいか。シューマンやショパンでやらずにドヴォルザークでやるところが、天邪鬼な私らしい。
  4. ドヴォルザーク最高のピアノ曲集「詩的音画」全13曲から8曲を採用した。一連の作業を通じて、この曲集が何故ドヴォルザークピアノ曲中最高の評価なのか解った。
  5. 嬰ヘ長調あるいは変ト長調は、ブラームスの場合ピンチで、シューマンの主題による変奏曲から単一変奏を持ち出してごまかした。一方ドヴォルザークは「ユーモレスク」として名高い変ト長調があった。ほぼこれに決まりと思っていたら、没後に出版されたフモレスケに嬰ヘ長調があった。迷いに迷ったがこちらを採用した。あまりに可憐だ。
  6. 同様にブラームスでも品薄だった嬰ト短調が、たった1曲しかなかった。あまり好きな曲ではなく、困ったていたら、変イ短調にお気に入りがあって事なきを得た。フラット7個の短調なんぞなかなかお目にかかれる物ではあるまい。
  7. ホ長調には牧歌op56-4を選んだが、実はポルカop3も相当カッコいい。ニューイヤーコンサートで演奏されたらすんなり入ってきかねない。
  8. 選考が紛糾したのはト短調だ。即興曲op52-1と、エクローグop52-4に加えてカプリチオB188-2も加わった三つ巴の混戦だった。最終的にエクローグを残したが断腸の選択だった。こういう気持ちを味わえること自体がドヴォルザークを気に入った証拠だと思う。
  9. シャープやフラットてんこ盛りの調が意外と候補曲が多いのに対し、ニ長調やハ長調が品薄で面食らった。
  10. 現実にこのままのプログラムでリサイタルをしたら面白いと思う。

2009年12月25日 (金)

平均律ドボヴィーア曲集

長短24全ての調でブラームスのピアノ曲集を作る企画「平均律ブラヴィーア曲集」を公開したばかりだ。現在ドヴォルザーク特集の真っ只中であるから、当然ドヴォルザークのピアノ曲で同じ事がしたくなった。ブログ「ブラームスの辞書」からドヴォルザークへのクリスマスプレゼントだ。

  1. ハ長調 詩的音画より「セレナーデ」op85-9 ほんわりとどこまでも良心的で暖かい佳曲。本曲集の幕開けにふさわしい。4分の4拍子で始まった音楽が、どこまでもさりげなく8分の6拍子に転換する。注意して聴いていないと気付かぬくらい自然だ。
  2. ハ短調 詩的音画より「バッカナール」op85-10 ドヴォルザーク最高のスケルツォ。主題再帰のさせかたが半端ねぇ感じ。
  3. 変ニ長調 詩的音画より「スヴァターホラ」op85-13 詩的音画のフィナーレを飾る絶唱。27小節目からのピアニシモAs音の連打が心に沁みる。
  4. 嬰ハ短調 組曲イ長調より第2曲op98-2 組曲イ長調の2曲目「Molt Allegro」だ。
  5. ニ長調 牧歌 2番op56-2 意外とニ長調は層が薄い。シンコペーションを前面に押し出しながらも優雅さを忘れないのはバッハのホ長調インヴェンションを思い出す。
  6. ニ短調 スコットランド舞曲 op41 キビッキビの4分の2拍子。 
  7. 変ホ長調 ワルツ op54-8 ドヴォルザークワルツの最高峰。快速痛快に吹き抜ける一陣の風。
  8. 変ホ短調 詩的音画より「古い城にて」op85-3 詩的音画全13曲から何か1曲と言われれば、迷った挙句にこれを採るだろう。ひんやりとした空気の描写は秀逸。調号はフラット3個。  
  9. ホ長調 牧歌 4番op56-4 中間部の左手に「アメリカ四重奏曲」第1楽章冒頭の旋律が短調で出現する宝物。
  10. ホ短調  影絵より 10番 op8-10 長調と短調の中間をさまようかんじだ。ややブラームスっぽい。インテルメッツォop119-2に近い感じ。
  11. ヘ長調 牧歌 1番op56-1 挨拶をかかさぬ律儀なドヴォルザークそのままという印象。
  12. ヘ短調 なし ピアノ連弾にも存在しない完全な空白。全24曲のキッカリどまん中が空白なのは、ハーフタイムのようで気が利いている。
  13. 嬰ヘ長調 フモレスケ B-138 クライスラーのヴァイオリン編曲で名高い変ト長調のフモレスケを僅差で抑えての採用。全24曲の後半立ち上げの作品としてまさにうってつけの可憐さ。思いついたモン勝ちの旋律。
  14. 嬰へ短調  影絵より4番 op8-4 粗野で骨太。繊細なブラームスの嬰ヘ短調とは異質だ。  
  15. ト長調 子守唄 B188-1 子守唄というタイトルだがピアノ独奏曲だ。素朴にして優雅な子守唄。中間部の盛り上がりは子守唄としては異例だがそれもご愛嬌。知名度低くていい私だけの子守唄。
  16. ト短調 エクローグ op52-4 ドヴォルザークの残した最高のエクローグだ。即興曲op52-1やカプリチオB188-2を僅差で抑えての採用。
  17. 変イ長調 詩的音画より「妖精の踊り」op85-8 高音を意図的に用いた効果が圧倒的だ。ブラームスのop76-2を彷彿とさせる。キリリと軽やかな一陣の風。
  18. 変イ短調 詩的音画より「フリアント」op85-7 オタクな調性、シャープな半音進行、キレキレのリズム。
  19. イ長調 詩的音画より「春の歌」op85-4 喜びの表現としてハ長調のセレナーデと双璧をなす。絶えず流れ続ける風としての32分音符が洒脱。涙目で微笑む感じ。
  20. イ短調 ワルツop54-2 ドヴォルザーク版「ドナウ川のさざなみ」。トリオは3拍子1小節を8つに割る快感だ。
  21. 変ロ長調 マズルカ op56-3 長調で立ち上がるには立ち上がるが、それも申し訳程度で、すぐに中島みゆき顔負けの短調に移行する。 
  22. 変ロ短調 フモレスケ op101-8 超名高い7番変ト長調の影に隠れた佳品。
  23. ロ長調 詩的音画より「夜の道」op85-1 記譜上の調号はシャープ2個のロ短調だが、実際にはロ長調が鳴る。
  24. ロ短調 影絵より7番 op8-8 「影絵」の中では一番特徴的。ブラームスのop76-2と精神的につながっている気がする。調と作曲年が一致する他、冒頭の発想記号も近似する。とは言えさらに18年は遡るドヴォルザーク初の交響曲「ズロニツェの鐘」の第3楽章の冒頭主題にも似ている。

2009年12月24日 (木)

オルガニスト

オルガン奏者のことだ。ブラームスは、創作人生の初期と末期に素晴らしいオルガン作品を遺した。作品番号の最大値122を背負った「オルガンのための11のコラール前奏曲」は1902年4月24日に初演された。作品番号付きの作品が、ブラームスの生前に初演されなかったのは、日時が判明している作品では、おそらくこれだけだ。

著名な作曲家が、オルガニストでもあったというケースは珍しくない。ブラームスが敬愛してやまないバッハは、生前はオルガン奏者としての名声が勝っていたという。レーガー、ブルックナーも忘れてはならない。フランスにもいる。メシアン、フランク、サンサーンスという面々だ。

彼らに共通なのは、オルガンのための作品を書き残しているということだ。素晴らしい作品を書いたブラームスは、ライプチヒのトマス教会がカントルへの就任を打診したくらいだからオルガン演奏も達者だったと思われる。

ここにささやかな謎がある。ドヴォルザークだ。

18歳からプラハオルガン学校に学んだドヴォルザークは12人中2番目の成績で卒業する。オルガン、ヴァイオリン、ヴィオラの演奏は一定の評価をされたが、作曲は芳しくなかった。その能力を生かすべくオルガニストになった時期がある。1874年から1877年までの3年間だ。聖アダルペルト教会のオルガニストに就任したのだ。この時期はオーストリア国家奨学金に応募していた時期に重なる。半ば賞金を目当てに毎年せっせと作曲していたのだ。名だたる作曲家兼オルガニストの諸先輩はオルガン作品も遺しているのだが、ドヴォルザークの作品一覧にはオルガン作品は合唱曲の伴奏に用いているケースを加えてもホンの数例である。ましてやCDにはさっぱりお目にかかれない。

オーストリア国家奨学金の応募規定にオルガン作品が入っていなかったのだろうか。オルガン曲は書いても売れないという現実的な落としどころが見えている。

もっと素朴な疑問は、聖アダルペルト教会のオルガニストとしてどんな作品を弾いていたのだろう。敬虔なカトリックだったドヴォルザークの就職先がプロテスタント教会であるハズがない。だからバッハ作品は演奏していないと推定したら行き過ぎだろうか。

けれどもクリスマスのミサでオルガンを弾いたことだけは確実と思われる。

2009年12月23日 (水)

拍子という切り口

ブラームスの出世作「ハンガリア舞曲」は全4集からなるピアノ連弾作品集だ。あわせて21曲だが、その拍子は全て4分の2拍子になっている。ハンガリーに起源を持つ雑多な舞曲の集まりのハズだが、結果として4分の2拍子の集合体になっている。

レイトスターターのドヴォルザークは「ハンガリア舞曲」を手本にしたが、拍子という点ではもっと多彩だ。素材をハンガリー以外の東欧に求めながらも拍子だけは4分の2にこだわらなかった。

いわゆるクラシック音楽には舞曲を起源に持つジャンルは多い。分類をする場合、拍子が有力なツールになる。ワルツやマズルカは4分の3拍子になることが多い。全16曲からなるスラブ舞曲に採用された舞曲は以下の通りだ。

  1. フリアント ボヘミア。2分の2と4分の3が交互に現われる。
  2. ドゥムカ 4分の2拍子 ウクライナ
  3. ポルカ 4分の2拍子
  4. ヴォフチャーツカー 4分の2拍子 ブルノ
  5. マテニーク 4分の2拍子 南あるいは東ボヘミア
  6. スコチナー 4分の2拍子 
  7. ソウセツカー 4分の3拍子 
  8. ヴルターク 4分の2拍子 
  9. テトカ 4分の2拍子 モラヴィア
  10. クヴァピーク 4分の2拍子 チェコ
  11. オドゼメック 4分の2拍子 スロヴァキア
  12. シュパツィールカ 8分の4拍子 チェコ
  13. スタロダーヴィニ 4分の3拍子 ポーランド?
  14. コロ 4分の2拍子 ユーゴ
  15. マズルカ 4分の3拍子 ポーランド

ご覧の通りの多彩さだ。

さてさて12月17日の記事で、「フモレスケ」を「突き詰めない性格のメロディアスな小品」と位置付けたが、拍子を切り口に見てみると興味深いことが判る。「8つのフモレスケ」op101は、すべて4分の2拍子で出来ている。また没後に刊行されたフモレスケ嬰へ長調も4分の2拍子だ。偶然とみなすのはフェアでない。特定の拍子への集中を見るとフモレスケの根底には舞曲集のノリが感じられる。

2009年12月22日 (火)

長女の命名

子供の名前には親の思いが込められているものだ。ドヴォルザークもきっとそうだ。夫妻にとっての最初の子供は女の子だった。彼らはその子にヨゼファと名付けた。

チェコ語は格によって固有名詞の語尾が変化するらしい。となるとお叱り覚悟の例の癖が頭をもたげる。長女の命名は、ドヴォルザークの初恋の人ヨゼフィーナと関係があるのではなかろうか。ヨゼファとヨゼフィーナだ。妻のアンナからすれば姉の名前ということになる。シューマンの3女ユーリエの長男が怪しいという仮説は既に提示しておいた。自分の最初の娘の名前に初恋の人の名前を採用するという発想がドヴォルザークにあったのではあるまいか。

欧州の名付け事情に明るくないから、推測の域を出ない。

今日が誕生日の我が家の長女の名前は、幸い私の初恋とは関係が無い。

2009年12月21日 (月)

ワルツ

元は生粋の舞曲。農民の間で踊られていたものが、市民層の台頭により都市でももてはやされるようになった。ウィーン会議を皮肉った言葉「会議は踊る」で世界的に有名になるのがウインナワルツだ。ロマン派以降の作曲家は、多楽章作品の一部にワルツを取り入れる。ベルリオーズやチャイコフスキーが有名だ。ショパンやブラームスによって単独のピアノ作品にも取り入れられる。

ブラームスの「16のワルツ」op39が、シューベルトのレントラー研究の成果であることは有名だ。このうち大半はゆったりとしたレントラーに近い。急速なテンポを持つのは11番と14番くらいだ。

ショパンやブラームスに比べて知名度は今ひとつだが、ドヴォルザークにもワルツがある。「8つのワルツ」op54だ。これがまた素晴らしい。ブラームスとの違いだけで申せば、何よりもまずテンポだ。1番が「Moderato」なのを除けば、他は軒並み「Allegro」を切らない。レントラー色が際だつブラームスとは対照的だ。1879年の作品だからブラームスの「16のワルツ」op39よりは10年以上遅い。

作品を聴いたジムロックは、「スラブワルツ」か「チェコワルツ」というタイトルを提案した。つまり、生粋のワルツとは趣が違うと見抜いていたのだ。ワルツを象徴する「ブン・チャッチャ」の出現は限定的だ。最終的に「ワルツ」がタイトルとなったが、こうすることで受け手に生じる「ワルツ」のイメージの裏をかくのがドヴォルザークの狙いだとも感じる。ブラームスが示した「ワルツ」と「レントラー」のせめぎ合いよりも数段強烈な効果を持っている。

  • 1番 イ長調 曲集全8曲の序奏という位置づけか。主部はむしろサラバンド風だ。「ブンチャッチャ」が一瞬出現する中間部は、悩ましくも美しい。ブラームスの名高い15番への敬意かもしれない。ドヴォルザーク本人の手で弦楽四重奏に編曲されているのもチャーミングだ。
  • 2番 イ短調 4分の3拍子の1小節を8つに割る右手、つまり8連符と実直に4分音符3個を詰め込む左手のせめぎ合う序奏だ。一旦このせめぎ合いが姿を消す主部は、装飾音が華麗な「ドナウ川のさざなみ風」だ。中間部でまた8連符登場。明確な「ブン・チャッチャ」は現れずじまいだ。
  • 3番 ホ長調 アウフタクトの3拍目が強調されることで「4拍+2拍」のフレージングになっている。ブラームス風なリズムの錯綜が、心地よい。
  • 4番 変ニ短調 華麗な序奏に続いて、やっとワルツ本来の「ブンチャッチャ」が現れる。嬰ハ短調にしない異名同音のひねりが効いている。これにも本人編曲の弦楽四重奏版がある。
  • 5番 ト短調とは言うものの、いきなり変ロ長調から変ホ長調への連鎖で始まる。「ブンチャッチャ」は聞こえるが調が不安定。中間部に入ってト短調が安定するのと入れ替わりにリズムの仕掛けが顔を出す。頑固に4分の3拍子を貫く左手に対して、右手は8分の6拍子に変わる。
  • 6番 ヘ長調 テンポが少し手加減されたことでレントラー風の味わいになる。
  • 7番 ニ短調
  • 8番 変ホ長調 自転車にくくりつけて走る風車のよう。実質「2分の3拍子」と「4分の3拍子」の急速な交代だ。主旋律がすぐにロ長調で確保されるのも斬新だ。華麗なコーダは、曲集のフィナーレにふさわしい。

有名にならなくていい私の宝物。ブログでこうして言及してもCDや楽譜が見つけにくいから、ブレークはしないだろうと読んでいる。

2009年12月20日 (日)

やっぱり買っちまった

2009年10月12日にドヴォルザークの独奏ピアノ曲集を衝動買いしたと書いた。懸念された通り「詩的音画」op85が被るのも顧みずやっぱり第2巻を買ってしまった。5000円少々の出費だ。譜例付きの目次が重宝だ。

元々より深く作品に親しむには楽譜を参照したい方だ。もちろん私はピアノが弾けないが、単に曲を聴いているだけより数段面白い。いわゆる楽譜の景色を楽しむのだ。

  1. 用語の分布
  2. アーティキュレーション付与の癖
  3. ダイナミクスの分布
  4. 調号と実際に鳴る調の不整合
  5. 転調の詳細
  6. 隠された音形
  7. 思いも寄らぬヘミオラ

聴くのと見るのとでは大違いというのはブラームスではお約束だから、ドヴォルザークも怖い物見たさが頭をもたげる。これでまた当分退屈しない。

2ヶ月以上迷っていたから、衝動買いとは言えまい。

2009年12月19日 (土)

詩的な音画

ドヴォルザークの作品解説の中で、ブラームスとの関係が取り沙汰されている作品を選んで聴いている。そうした作品がドヴォルザークの作品群にあっては、あまりメジャーではないとも述べた。

その中でお宝を発見した。

ピアノ独奏曲「詩的な音画」B161である。13の標題付き小品で構成される。このうちの1番「夜の道」について「ブラームスの影響は必至」という解説があったのでどれどれと聴いてみた。確かに後期小品の中のインテルメッツォに通ずる雰囲気を感じた。

しかし、感じたといっても「そういわれて見れば」の域を出ない。この曲集は既知の大家の作風に似ている云々と説明されるよりは、ドヴォルザークの個性が溢れているという観点から掘り下げて然るべきと感じる。

その他の12の作品も皆個性的で楽しめるなどと思いながら、作曲年を見てぎょっとした。1889年だ。「うそ」ってなもんだ。ブラームスの後期のピアノ小品は1892年以降の作曲だから、ドヴォルザークの「詩的な音画」の方が早いのだ。私が勝手に後期のインテルメッツォの雰囲気を感じたが、「伝播の向き」はむしろ逆だ。

大作曲家間の影響ネタは愛好家にとっては楽しい話題だが、気をつけねばばらない。解説書にはしきりに取り上げられるネタだが、鵜呑みは味わいを損なう原因にもなり得る。既存の音楽家の影響を指摘して、論評の文字数を稼ぐ効果もあろうが、本作に限っては大きなお世話だ。

ブラームスがいなかったらきっと一生聴くこともなかったお宝である。

2009年12月18日 (金)

ドヴォルザークの工夫

ドヴォルザークを世に出したヒット作「スラブ舞曲」が出版社ジムロックの勧めであったことは有名だ。ブラームスのハンガリア舞曲ヒットの再現を狙ったものだ。

ハンガリア舞曲の管弦楽編曲において、作曲者本人の手になるものは1番3番10番しか存在しないのに対し、スラブ舞曲には全16曲が本人編曲で揃っている。さらにハンガリア舞曲自体がブラームスの編曲であるのに対して、スラブ舞曲はドヴォルザークの創作だ。既存の旋律の借用ではないから、著作権侵害といって訴えられる心配もない。ハンガリア舞曲の経験をジムロックが入れ知恵した可能性さえ想像してしまう。

スラブ舞曲はそのモデルになった舞曲を広く東欧に求めている。フリアント、ソウセツカー、スコチナー、ドゥムカなどなどだ。これがワルツやスケルツォに慣れ親しんだ人々には新鮮に映ったことだろう。ところがところが、この選択には工夫があると感じる。ハンガリーの舞曲が全く採用されていないのだ。

全21曲が判で押したように4分の2拍子になっているハンガリア舞曲に対して、スラブ舞曲はもっと多彩だ。4分の3拍子、4分の2拍子、8分の3拍子、8分の4拍子などが混在する。

「ハンガリア舞曲」に次ぐ2匹目のドジョウを狙うということは、ヒット作「ハンガリア舞曲」の楽譜を既に所有している人に買ってもらうことに他ならない。つまり「スラブ舞曲」を買った人に「なんだハンガリア舞曲と同じじゃねーか」と思わせないことを意識したと感じる。

おそらくジムロックのマーケティングの賜だろうが、それにキッチリと答えきってしまうドヴォルザークも大したものだ。

2009年12月17日 (木)

フモレスケ

「Humoresky」と綴られるチェコ語だ。ドヴォルザークの作品としては「8つのフモレスケ」op108が名高い。1894年に出版されたピアノ小品集だ。どうもジムロック社は、「ドヴォルザークと言えば小品」という刷り込みがあったらしく、小品の作曲ばかりをしきりに催促した。辟易しながらも、定期的にその要求に応えていたというのもドヴォルザークらしい。米国生活を中断して1894年の夏を過ごしたヴィソカーで作曲された。ドヴォルザーク生前に出版された中では最後のピアノ独奏曲だ。

1894年と言えばブラームスの晩年のピアノ小品は既に世に出ていた。当時のブラームスを象徴するのが「インテルメッツォ」だとすれば、この「フモレスケ」はドヴォルザークを象徴しているとも言える。突き詰めない性格の、メロディアスな小品。5音音階、特徴あるシンコペーションなどブラームスとは地味に一線を画す。

「8つのフモレスケ」のCDを入手した。このうちの7番変ト長調こそが、かの名高い「ユーモレスク」そのものである。クライスラーの編曲を始め、さまざまな編成で耳にすることは多いし、ト長調あたりに移調されていることも珍しくない。娘のレッスンでも取り組んだことがある。

原曲を改まってしみじみと聴いたことが無かった。

有名過ぎる7番以外の7曲も、とても素晴らしい。4番ヘ長調は、ほんのりジャズのテイストで物憂い午後の感じがする。5番イ短調は、深刻気味に始まるが10小節目から長調へとそれて行く。そのそれ方がつくづく可憐。これに8番を加えた3曲が特に気に入った。名高い7番と遜色がない。初めて聴くのに、どこかで聴いたような感じがする。思いついたモン勝ちの旋律が、出し惜しみされることなく披露される。「遠き山に陽は落ちて」や「アメリカ四重奏」が偶然の産物ではないことが解る。

2009年12月16日 (水)

新世界交響曲初演

本日の記事は1年続くドヴォルザーク特集のエポックの一つになる。

1893年12月16日、今から116年前の今日、ニューヨーク・カーネギーホールで、ドヴォルザークの交響曲第9番ホ短調「新世界より」が初演された。アントン・ザイドル指揮ニューヨークフィルハーモニックによる演奏が、カーネギーホール始まって以来の熱狂を巻き起こしたことは、ほとんどの伝記に書いてある。

大抵の記述は初演の成功にのみ熱狂的に言及するだけだが、演奏会である以上サブプログラムがあった。

  1. メンデルスゾーン 「真夏の夜の夢」序曲
  2. ブラームス ヴァイオリン協奏曲 独奏Vn:アンリ・マルトー
  3. ドヴォルザーク 交響曲第9番ホ短調「新世界より」

新世界交響曲の世界初演に先立って演奏されたのは、ブラームスのヴァイオリン協奏曲だったのだ。独奏者マルトー(1874-1934)のことは2006年6月23日の記事「カデンツァ・コレクション」でも言及した。つまりこの人ブラームスのヴァイオリン協奏曲用にカデンツァを作曲しているのだ。新世界交響曲初演の当日に演奏されたブラームスのヴァイオリン協奏曲で自作カデンツァを弾いていた可能性があるということだ。1907年に没したヨアヒムの後任としてベルリン高等音楽院でヴァイオリンを教えたらしい。

単に新世界交響曲初演の話だけなら私がドヴォルザーク特集のエポックとまで思い詰めることは無い。

2009年12月15日 (火)

初演争い

1877年12月15日ニューヨークでブラームスの交響曲第1番の米国初演があった。

指揮者はレオポルド・ダムロッシュという人物。もともとはワイマール宮廷オーケストラのヴァイオリン奏者だったらしい。ニューヨーク交響楽協会の設立者だ。設立以降ニューヨークフィルハーモニー協会と拮抗する勢力となる。ブラームスの交響曲第1番の初演は恰好の材料だったが、このときはダムロッシュがまんまと出し抜いた。

一杯喰わされた側、ニューヨークフィルの指揮者はセオドア・トーマスという人だ。ブラームスのピアノ三重奏曲第1番の初演で、ヴァイオリンを担当した人だ。このとき煮え湯を飲まされたニューヨークフィルは、ドヴォルザークの交響曲第9番の初演で溜飲を下げる。

1893年12月16日大センセーションを巻き起こした新世界交響曲初演はニューヨークフィルの手によって実現した。聴く側に回ったダムロッシュではあったが、作品を称賛するコメントを発している。

翌1894年ニューヨークフィルはドヴォルザークを名誉会員に推挙した。

この両者今では合併してしまったらしい。

2009年12月14日 (月)

しみじみ驚く

11月19日の記事「ブリリアントなCD」で話題にしたCDの話。

12月12日の記事「作曲の場所」で、ドヴォルザークがウィーンにブラームスを訪ねる道中の列車の中で「男声合唱のための5つのパートソング」op27を作曲したと書いた。その5つの合唱曲が、先のCDセットに収録されていた。別に列車の音が描写されているわけではないが、実際に聴けるのはありがたいなどと言っている場合ではなかった。

リトアニア民謡に題材をとったこの曲集の5番目に鉄道っぽい描写を発見した。Dam dali dam daliという歌詞がバスのパートで延々と繰り返される。「雀のパーティ」というタイトルだから、もちろん鉄道とは無関係とは思うが、低いパートで執拗に繰り返される「Dam dali dam dali」が、規則的な車輪の音に聞こえる。

その他の4曲もシンプルにして芳醇。只者ではない。

新世界交響曲の第2楽章ラルゴの合唱編曲がおまけに入っていたと思ったら今度は、この発見だ。どんだけ驚かせば気が済むのだろう。

2009年12月13日 (日)

顔が広い

いたる所に頼めば動いてくれる知り合いがいること。「いたる所」とは、単純に地理的な意味に加えて「様々な業界に」というニュアンスも含んでいる。

12月10日の記事「ブラームスのジムロック評」の中で、ジムロックの長所として「顔の広さ」を挙げた。それを伺わせる情報が思わぬところに見つかった。

交響曲第1番の初版の表紙だ。作品のタイトルと作曲者が書かれているのは当然だ。さらに出版社・ジムロックの名前が、本拠地ベルリンとともに大書されている。

その下にやや小さい文字でロンドン、ニューヨーク、ザンクトペテルブルクに所在する会社名が記されている。商売敵の名前を書くはずが無い。ジムロック社製品としての楽譜をそれら諸都市で扱う代理店名が記されていると解したい。このうちニューヨークの企業は「G.Schirmer」と記されている。音楽之友社刊行・日本ブラームス協会編「ブラームスの実像」の31ページに出てくる。第1交響曲のアメリカ初演を巡るニューヨークフィルとニューヨーク交響楽協会のせめぎあいのエピソードだ。レオポルド・ダムロッシュが第1交響曲の総譜を求めてニューヨークのグスタフ・シャーマーを訪ねたと書かれている。まさにジムロックの代理店という機能だ。その他の都市も同様だと解さざるを得ない。

さらにその下、バーゼル、チューリヒ、ルツェルン、ザンクトガレン、ストラスブルクの都市名が表示され、その地に関係会社の存在を伺わせる。

最下段にはさらに一段と小さな文字で、ライプチヒの会社の名前が記されている。これは販売関係の企業ではなく、石版印刷を引き受けた会社の名前だ。印刷の業務委託先、つまり下請けだ。

こうした販売網と下請けの存在を評して「顔が広い」と表現したと解される。

楽譜の表紙に「顔の広さ」をさり気なくかつ明確に表示するのは有効な手段だと思うが、不思議なこともある。ジムロック刊行の楽譜で、表紙にこの手の「販売網の誇示」が印刷されるのは、交響曲第1番から「バラードとロマンス」までだ。作品番号で言うとop68からop75までの狭い範囲に限られる。

何故販売網の誇示をやめたのだろう。自前の販売網が出来上がったから、代理店が不要になったか、あるいは、そんなことをしなくても販売網が知れ渡ったからかもしれない。

2009年12月12日 (土)

作曲の場所

12月5日の記事「いけにえ」でドヴォルザークの鉄道好きについて書いた。本日もまた鉄道ネタだ。

ドヴォルザークの作品番号27を背負った「無伴奏男声合唱のための5つのパートソング」がある。この作品の作曲場所は列車の中だというのだ。手稿譜への本人の書き込みによりそれと判るらしい。日付は1878年12月12日だ。プラハからウィーンに向かう列車の中で作曲したと考えられている。

現在では特急列車で4時間半の所要時間だ。当時はもっと時間がかかったと思われる。作曲といっても既に頭の中に出来上がっていて、楽譜に書き取ったのが列車の中ということもあり得る。列車の中だからピアノはもちろん無い。音もするだろうし振動もあるだろう。鉄道好きのドヴォルザークにとってそれらは、ちっとも作曲の妨げにはなっていないと推測できる。

そしてさらに素晴らしいのは、プラハからウィーンに向かうその旅の目的だ。

ドヴォルザークが初めてウィーンにブラームスを訪ねる旅だったのだ。ブラームスとの対面を控え心躍らせて書いたに違いない。ウィーンからの帰路ではないことが重要だ。もしかするとブラームスに見せたかもしれないからだ。

2009年12月11日 (金)

スラブ舞曲の利幅

カレル・V・ブリアン著、関根日出男訳「ドヴォルジャークの生涯」という本に、1878年12月ウィーンでのドヴォルザークとブラームスの会話が詳しく書かれている。この本1983年に刊行された伝記だが、書いてあることが全て事実かどうか怪しく感じられるエピソードが混じっている。登場人物がいきいきと描写されていて読んでいる分には、大変面白いけれど、事実かどうかについては、いつも身構えていなければいけない書物だ。

三国志演義は、史実ではないけれども面白いということで読み継がれてきた。面白ければよいというノリも嫌いではないが、ブログへの取り上げには慎重を期したい。

ブラームスとドヴォルザークは、スラブ舞曲のブレークの話をしていて、話題がジムロックに及んだ。昨日の話の続きである。ブラームスはジムロックの商才を称賛するニュアンスで、「スラブ舞曲では1万も儲けたのに、アンタ(ドヴォルザークのこと)には300だ」と言っている。

この設定には唸らされた。どこまでが創作だろう。ジムロックからドヴォルザークに支払われた原稿料の金額をブラームスが知っているという設定が大胆だ。何しろ原稿料の300という数字がピッタリだ。単位はマルクである。この金額がピッタリであることで、話全体に信憑性が宿ってしまっている。となると儲けとして挙げられた1万という金額も単位はマルクで、しかも数値はリアルという推定をしたくなる。この筆者は、原稿料300マルクで儲けが1万マルクという利益構造を脅威と捉えてこの文章を書いていることは確実だ。ジムロックの狡猾さ老獪さを伝える意図と見て誤ることはあるまい。

筆者の構想にあやうく説得されそうになる。

ところがこの会見の時期を思い出そう。1878年だ。ということは1877年のブラームスの第一交響曲出版よりあとだ。つまりブラームスが第一交響曲の原稿料としてジムロックから15000マルクを受け取った後と考えてよい。自らが交響曲1曲で15000マルクを受け取っておきながら、ジムロックがスラブ舞曲で1万マルクを儲けたとして、「だから奴は狡猾だ」というのは、あまりに白々しい。筆者ブリアン先生は、ブラームスに支払われた第一交響曲の原稿料の金額を知らなかった可能性もある。

万が一スラブ舞曲がジムロックにもたらした利幅1万マルクが事実なら、ブラ1への原稿料15000マルクはつくづく巨大である。ドヴォルザークからせっせと吸い上げてブラームスに貢いでいたように感じてしまう。ジムロックの利幅1万が、一桁多い10万くらいだと、もっとリアルだったような気がする。

2009年12月10日 (木)

ブラームスのジムロック評

ブラームスとジムロックとの蜜月関係を裏付ける資料には事欠かない中、ブラームスがジムロックをどう評価していたのかを直接指し示す記述は少ない。ブラームス関係の伝記を捜しても見当たらないのが現状だ。

ところが、ドヴォルザークの伝記の中にそれがあった。1983年に出版されたカレル・V・フリアン著、関根日出男訳「ドヴォルザークの生涯」という本だ。あまりに興味深いので190ページの問題の部分をそのまま引用する。

ジムロックの名前が上がると、ブラームスは愉快そうにニヤリとした。

「ジムロックか」そう言って、青い天井に向けて吹いた。「あいつは老獪な奴だ、ずる賢さを画に描いたようだ!賭けてもいいが、あんたの作品の礼に余分な金は一文も出さんよ!いやいや何もおっしゃるな、あいつと取引を始めたと時、わたし自身が思い知らされたことだから。」

「何か出そうと思い立ったら、1ヶ月以内にやる。他の出版社じゃあ、1年かそれ以上もかかるんだ。それに顔が広い、世界中にコネを持っている。これはわたしらにとっての最大の利点だ、、ジムロックは名前が売れており、商売のコツを心得とる」

これは、1879年12月のブラームスとドヴォルザークのウィーンにおける会見の場面だ。つまりブラームスがドヴォルザークに向かって「ジムロックの人物評」を披露しているということになる。著者フリアン先生の創作がどの程度混じっているのか、十分な注意が必要だが、提示されたジムロック像には、違和感がない。機を見て敏なビジネスマンという側面を余すところ無く伝えている。上記前段ではドヴォルザークに注意を促し、後段ではジムロックの長所や取引上のメリットを伝えていると思う。創作であるにしてもよく考えられていると思う。

交響曲1曲に15000マルクを受け取っているブラームスの発言としては、やや疑問もあるが、ドヴォルザークに対する警告の意図が強調されているとすれば、許容範囲である。

2009年12月 9日 (水)

タイムラグ

時間差のことだ。本日問題にしたいのは作品の完成と初演の間に横たわる時間差だ。

バッハはその後半生をトマスカントルとして過ごした。教会暦上の祝日のミサのためにカンタータを供給することが職務だった。これを全部新作でまかなおうと思うと週に1曲のカンタータの作曲が必要になる。インクの乾く間もなく演奏に回されるのだ。大変といえば大変だが、作曲家は作品が演奏されて何ぼである。

最近ドヴォルザークの作品を調べていて、この作品の完成と初演のタイムラグが大きいことに気付いた。たとえば交響曲は以下の通りだ。

  • 1番 完成1865年03月24日 初演1936年10月04日 
  • 2番 完成1865年10月09日 初演1888年03月11日
  • 3番 完成1873年07月04日 初演1874年03月29日
  • 4番 完成1865年03月26日 初演1892年04月06日
  • 5番 完成1875年07月23日 初演1879年03月25日
  • 6番 完成1880年10月15日 初演1881年03月25日
  • 7番 完成1885年03月17日 初演1885年04月22日
  • 8番 完成1889年11月08日 初演1890年02月02日
  • 9番 完成1893年05月24日 初演1893年12月16日

5番以前は初演までに時間がかかっている。他のジャンルに目を向けても同じだ。ところが同じ事をブラームスで調べると状況の違いに気付く。ブラームスの作曲は夏に進められる。曲の完成も夏が多い。そしてその秋から始まるシーズンには初演が実現していることがほとんどだ。管弦楽、室内楽においてはマストである。ドヴォルザークの作品がブラームス並のタイミングで初演されるようになるのは、1878年以降だ。

1878年。

この年に何があったのか。それはスラブ舞曲の出版だ。ジムロックの巧妙なマーケティングの賜物でもある。スラブ舞曲の大成功により売れっ子の仲間入りを果たす。作品が出来るそばから初演されるようになった他、過去の未出版の作品が出版され、未演奏の作品が次々と演奏会で取り上げられるようになる。このあたりの転換は鮮やかである。

最後の交響詩「英雄の歌」は1898年10月25日に完成して、その年の12月4日に初演されている。

シューマンのセンセーショナルな紹介により、創作人生の初期からこのタイムラグが小さかったブラームスは、実力に加えて運も身に付いていたのだ。ドヴォルザークの下積み時代を知るにつけそう感じる。

2009年12月 8日 (火)

堰き止めの効果

ドヴォルザークイヤーもちょうど3ヶ月を経過した。第1クォーターが終わった感じである。あと9ヶ月続く大型企画だ。記事を貯め始めたのは2008年初頭からだ。2008年7月には大型企画を実施しようと決めた。お誕生日の9月8日が一つのキッカケになると考えたが、2008年9月からの立ち上げは諦めた。ネタの掘り下げが満足出来る水準に達しなかったからだ。潔く延期して急遽「地名辞書」「地名探検」を展開した。

大型企画の実施を決定して以降、ドヴォルザークに関連する記事の公開を凍結した。これが「堰き止め」だ。ドヴォルザーク系記事をイベント開催期間中に集中するためだ。イベントの構想がまとまると一番最初にすることがある。過去に公開済みの記事の中に、イベント関連の記事があるかどうかのチェックだ。この時点で過去の記事に無視し得ぬ量のドヴォルザークネタが見つかってしまうとイベントの集中力が落ちてしまう。幸いドヴォルザークは、優秀だった。過去にほとんど語られていない。

オペラもほぼ同時期に思いついたが、たった一つ2006年4月13日の記事「オペラを書かぬわけ」が該当した。あの当時はカテゴリー「オペラ」の開設なんぞ夢にも思っていなかった。堰き止め中は気持ちが研ぎ澄まされる。アンテナが高まってそれ系統のネタへの感度が高まるのだ。だからドヴォルザークもオペラも、大カテゴリーになって、イベントの主役を張ることが出来た。

今堰き止め中のネタが7つある。どれも最低2ヶ月程度のイベントにはなると思われる。来年秋にドヴォルザークが一段落した後のための種まきだ。

2009年12月 7日 (月)

優先出版権

モラヴィア二重唱曲やスラブ舞曲第1集が、ジムロック社にもたらした利益は莫大なものであった。調子に乗ったジムロックは巧妙なことに優先出版権をドヴォルザークに認めさせてしまった。つまりスラブ舞曲op46以降の作品について、他社に対して優越する地位を得たことになる。つまり事実上ブラームスとドヴォルザークの作品について、優先出版権を持っていたことに他ならない。

つくづく商売上手だと思う。

スラブ舞曲の大ヒットをキッカケに、ドヴォルザークの名声は欧州中に轟き渡ったから、他の出版社からも作曲依頼が殺到した。けれども書き上げた作品は、ジムロックが出版を拒否しない限り他社が刊行出来ないということだ。

それでは他社は泣き寝入りしたかと申せば、そうでもない。新作にop46より低い数字の作品番号をつけて平然と出版する猛者が少なくなかった。ブラームスの場合と違ってジムロックとドヴォルザークは蜜月ではなかったから、抜け道はいくらもあったのだ。

2009年12月 6日 (日)

のだめの中のブラームス【31】

「コンポーザー・オブ・ザ・ブック」と題してコミック「のだめカンタービレ」全23巻を対象に、各巻の中で最も活躍した作曲家を選定する。選考基準は下記の通りだ。

  1. 「ノダダス」集計に基づき言及される回数の多さ。「ノダダス」は2006年12月23日の記事「のだめの中のブラームス【22】」を参照。こちら
  2. ストーリーメイク上の重要性。
  3. 独断。

<第1巻>ベートーヴェン ノダダススコア14点で文句無しの選定。のだめ千秋の出会いを彩る悲愴ソナタ、ハリセンとの関係が決壊したのもベートーヴェンの演奏中だった。そしてのだめと峰のスプリングソナタなど見せ場には事欠かない。2位モーツアルトは4票だが、のだめと千秋の2台のピアノのためのソナタで食い下がるも手数で圧倒される。

<第2巻>ベートーヴェン ノダダススコア7点。Sオケの演奏するのが第7交響曲ということもあって余裕の選定。真澄クンの挫折を乗せた第九交響曲も貢献している。

<第3巻>ベートーヴェン ノダダススコア21点の圧勝。Sオケ公演のエロイカと峰とのだめに施した音楽史の講義が物をいった。ベートーヴェンの三連覇である。

<第4巻>ドヴォルザーク ノダダススコア7点。2位のラフマニノフは6点だからその差はわずかだ。第4巻の象徴するニナルッツ音楽祭でのオケの課題曲だ。一方のラフマニノフは千秋真一に与えられた新たなピアノの課題曲だ。のちにシュトレーゼマンとの共演に結びつくがここでの扱いは大きくない。

<第5巻>ラフマニノフ ノダダススコア13点。千秋とシュトレーゼマンの共演する協奏曲が第5巻の主役であることから見て選定は妥当だ。

<第6巻>エルガー ノダダススコア8点。のだめと千秋のアンサンブルによるヴァイオリンソナタが貢献しての受賞。印象度から言っても妥当だ。

<第7巻>ブラームス ノダダススコア14点。R☆Sオケ初公演に向けた取り組みが語られる。各々が背負う葛藤とリベンジを描いて余すところが無い第1交響曲だ。

<第8巻>ブラームス ノダダススコア7点。14点のシューベルトに続く2位だが、第8巻はR☆Sオケの初公演が主役だ。途中ブラームス第1交響曲が延々と描写される。その間単語としてのブラームスが頻発するわけではないが、描写の厚みから言ってブラームスを選定する。

<第9巻>ストラヴィンスキー ノダダススコア4点。第9巻は混戦だ。ショパン、ベートーヴェンが5点。4点にもストラヴィンスキーのほかにシューベルト、シューマン、モーツアルトがいる。9巻はマラドーナ国際ピアノコンクール決勝、R☆Sオケ第3回公演、のだめ実家の豪華3本立てだから、票が割れるのはいたしかたない。型破りのペトルーシュカが決め手でストラヴィンスキーに決定だ。

<第10巻>ハイドン ノダダススコア10点。パリ編最初の見せ場、プラティニ国際指揮者コンクールでの課題曲だ。「ハイドンで試されるなんて光栄だ」の一言が決め手となった。

<第11巻>バルトーク ノダダススコア5点。プラティニ国際指揮者コンクール土壇場、最後に千秋がジャン・ドナデュウを振り切った「舞踏組曲」が決定打となった。

<第12巻>バッハ ノダダススコア22点。突然対位法に目覚めたのだめの描写中に頻発する。リュカくんの祖父とのやりとりが面白い。

<第13巻>バッハ ノダダススコア7点。13巻はつなぎのエピソードが多い。千秋はマルレオケ初公演に向け準備中。のだめはバッハを課題に出されて苦戦中だ。

<第14巻>ラベル ノダダススコア5点。マルレオケ初の演奏会が決壊した。それを象徴するのがボレロだ。6点のモーツアルトを押えての受賞だ。

<第15巻>モーツアルト ノダダススコア42点。記憶に新しいのだめ初リサイタル。モーツアルト好きのブノワ氏の影響で最多得点記録を更新だ。議論の余地の無い圧勝である。

<第16巻>ロッシーニ ノダダススコア2点。マルレオケ公式デビュに向けた準備の様子が延々と描写される。大半はウイアリアムテル序曲のリハーサルなので、点数は低いが妥当である。

<第17巻>バッハ ノダダススコア11点。ベートーヴェンを僅差で抑えての受賞だ。父の姿を見てパニックに陥った千秋をトマシモン率いるマルレオケが救う第4交響曲も無視出来ないが、千秋の弾き振りのインパクトには及ぶまい。

<第18巻>メンデルスゾーン のだめのリサイタル前半のヤマ場。得点的にはどの作曲家も抜け出せずにいるので、単純に印象だけで選定。

<第19巻>ベートーヴェン 清良を含めた若人たちのウィーンの休日。音楽的なヤマというよりウィーンの名所めぐりでの出現がポイントだ。ノダダスポイント9点でベートーヴェンに決着。

<第20巻>ショパン ターニャ、清良、ユンロンがそれぞれに打ち込んだカントナ国際コンクールの模様が中心だが、千秋に付き添われてオクレール先生の課題に挑むのだめのエネルギーにはかなうまい。ショパンがベートーヴェンを1ポイント差で交わす14点で受賞。

<第21巻>ラヴェル 文句なしの受賞。ノダダスポイント11点。孫Ruiちゃんと千秋の共演ト長調協奏曲の威力だ。

<第22巻>ショパン シュトレーゼマンとのだめの共演により他を圧しての優勝。のだだすポイント11点だ。

<第23巻>モーツアルト 文句なし。ソナタ31番で千秋の涙腺を決壊させたベートーヴェンは惜しくも次点。2人の気持ちを再確認させた「2つのピアノのためのソナタ」が決め手となって第15巻以来のモーツアルトに決定。

「のだめカンタービレ」完結の余韻さめやらぬ中、鹿島アントラーズのJリーグ三連覇を祝うガチンコネタだ。のだめの完結が11月27日と知った時から、三連覇成就のあかつきには、この記事と決めていた。

2009年12月 5日 (土)

いけにえ

大切なことを実現するために差し出される物のこと。いわば願をかける神に捧げる担保だ。昔は生き物の命を捧げていたのだ。

ブラームスがモーツアルトのアンダンテを聴いていたときのエピソードだ。曲名は不明ながらアンダンテということは確からしい。隣で聴いていたリーズルことエリザベート・フォン・ヘルツォーゲンベルクに耳打ちした。

「こんなアンダンテが書けるなら僕のガラクタ全部やっちゃうよ」

ブラームスのモーツアルトへの敬愛ぶりが伺える話だ。自作全部と交換に応じてもいいという意味だ。一途で健気なブラームスである。

ドヴォルザークにも似たような話が伝わっている。自作全部をいけにえとして引き換えという意味では先のブラームスと同じだが、ドヴォルザークの方が数段大胆だ。「もし本物の機関車が手に入るなら、自作全部と引き換えでも構わない」とつぶやいたという。ドヴォルザークは相当な鉄道マニアだったのだ。プラハからドレスデンに向かう鉄道が故郷のネラホセヴェスを通っている。プラハ・ジトナー通りの自宅はフランツ・ヨーゼフ駅の至近だ。列車の走行音の異常に気付いて、車掌に知らせて事故を未然に防いだ話もある。アメリカ行きを承諾したのは大陸横断鉄道を見たいからという説もあるくらいだ。

2009年12月 4日 (金)

英雄の歌

ドヴォルザーク最後の交響詩だ。1897年秋に完成した。ショウレクらドヴォルザークの高名な研究者たちは、「英雄の歌」の主人公をドヴォルザーク本人と解している。自伝的性格の交響詩だという訳だ。

他方、この作品の英雄はブラームスを指すという説も根強くささやかれている。ブラームス没後間もない1897年8月4日から同年10月25日にかけて作曲されている上に、作曲真っ只中の10月19日には、ライプチヒでブラームス追悼演奏会があり、ドヴォルザーク自らタクトを取ってチェロ協奏曲を演奏している。ドヴォルザークの脳裏をブラームスがよぎっていても不思議ではない。

もう一つ象徴的なことがある。

初演だ。「英雄の歌」初演は1898年12月4日、つまり116年前の今日である。この日ウィーンでの初演を指揮したのはグスタフ・マーラーだった。当日の演目を調べていて驚いた。メンデルスゾーン「真夏の夜の夢」序曲とブラームスの第2交響曲だ。「英雄の歌」がブラームス讃歌だった可能性は低くないと思う。それを察知したマーラーの粋なプログラミングだったと考えたい。

素朴で控えめ、偉くなってもけしていばらなかったドヴォルザークが、自らを英雄になぞらえた作品を書くだろうか。

2009年12月 3日 (木)

スラブ舞曲

ブラームスのハンガリア舞曲のヒットに味をしめたジムロックが、2匹目のドジョウを狙ってドヴォルザークに依頼した作品。ピアノ連弾版に加え管弦楽版も合わせて予想を超えた空前のヒットとなり、2匹目はウナギくらいになったと思われる。

ドヴォルザークをそそのかして書かせたジムロックの読みの確かさは大したものだ。つまりは「商い上手」なのだと思う。長年の経験がそうさせているのだ。

スラブ舞曲の第1集は1878年の刊行だ。ドヴォルザークは尊敬するブラームスのハンガリア舞曲にあやかった作品を書くよう勧められて悪い気はしなかったのだと思う。元々この手の民謡や舞曲が好きだったドヴォルザークだから、勢いが付いたら早い。1878年の3月18日に書き始めて、何と5月7日に完成したと記録されている。極端に長くない8曲だから仮に管弦楽版だったとしても2ヶ月弱というのは驚くには当たらない。

驚くべきは5月7日というその完成の日付だ。

この記述はCDの楽曲説明に載っていたものだが、誰がどう伝えた記録なのか気になる。完成日はともかく着手日が記録に残るというのも珍しい。

まさかとは思うが、ブラームスの誕生日に完成を間に合わせたなどということはあるまいな。

2009年12月 2日 (水)

第3交響曲初演

1883年12月2日、ウィーンでブラームスの交響曲第3番が初演された。ハンス・リヒター指揮のウィーンフィルだ。いろいろあったがひとまず大成功という評価である。

この演奏会にドヴォルザークが立ち会っていた。尊敬するブラームスの3つめの交響曲初演に立ち会ったのだ。既にブラームス本人からピアノで聴かされていたが、実演を聴いていたく感動したと伝えられている。多くの学者が、このことがドヴォルザークの第7交響曲にインスピレーションを与えたと指摘している。

そういう理由を推定せずとも、ドヴォルザークが立ち会うには十分な理由があった。この同じ演奏会で、ドヴォルザーク自身のヴァイオリン協奏曲イ短調が演奏されていたのだ。プラハでこの年の10月14日に初演されたばかりの新作で、もちろんこれはウィーン初演である。

2人はきっと貴賓席で並んで聴いたに違いない。

2009年12月 1日 (火)

世界初録音

難解だ。先般からしきりに話題にしているブリリアントのドヴォルザーク重唱合唱曲全集には、「Premiere recording」の文字が以下の通りいたるところに躍っている。ほぼ「世界初録音」と見て良かろう。

  1. 子供の歌 作品番号もブルクハウザー番号もついていない
  2. ロシアの歌 全15曲 B603
  3. モラヴィア二重唱女声合唱版全5曲 B107
  4. 新世界交響曲第2楽章 アカペラ合唱版

世界初と断言する以上、相当な自信があるのだと思う。CD記載の録音データによれば2005年12月現在、世界中で一度も録音されたことが無いという意味だと解するのが自然だ。

このCDの場合、ネット上や店頭で情報収集した限りでは、相当なレアな内容だと判るから「世界初」という称号にも説得力がある。

どうやって調べたのだろう。「当社で調べた限りではまだどこも録音していないと思われます」程度では、世界初録音と断言するのは危険だと思う。その場合はカッコ書きで「当社調べ」とでも添えておいてもらえるとチャーミングだ。世界初録音を集中管理している国際機関でもあるといいのだが。

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