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2010年1月28日 (木)

プラハ音楽院

1891年1月1日、ドヴォルザークは前年の拒否から一転してプラハ音楽院の教授に就任した。作曲、管弦楽、形式の教授だ。この時点では満を持した就任だったが、1892年の9月には、ニューヨークに赴任する。ナシオナル音楽院の校長になるためだ。プラハ音楽院は休職扱いとしてドヴォルザークをアシストしたという。

チェコ大好きのドヴォルザークが渡米を決心した理由の一つが経済的なメリットだったという。

プラハ音楽院の教授職の年俸は1200グルデンだ。マルクに換算して2000マルク少々である。ニューヨークのジャネット・サーバー夫人が提示したのはこの25倍つまり約50000マルクだったらしい。ブラームスの交響曲1曲が15000マルクだということを考えると、心が動くのも無理は無い。

結局渡米を決意したのだがニューヨーク勤務は3年にとどまった。1895年秋にはプラハ音楽院に復帰した。これにはドヴォルザーク自身のホームシックに加えて微妙な伏線がある。1895年春にオーストリア教育省はプラハ音楽院への補助金の増額を決定していた。この決定にはドヴォルザークの年俸の増額が含まれていたという。帰国後のドヴォルザークはますますプラハに執着するようになった。その証拠に1896年にはブラームスがウィーン音楽院への招聘に動いているが、固辞している。

1901年7月、間もなく60歳のドヴォルザークはとうとうプラハ音楽院の院長に就任した。このとき既にオーストリア貴族院名誉議員であり、オーストリア国家奨学金の審査員にもなっていた。

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