オーストリア国家奨学金
1863年、オーストリアハンガリー二重帝国内の若い芸術家の発掘支援を目的に発足した制度。美術彫刻音楽の諸分野が対象になった。ここでいうオーストリアは現在のオーストリアの概念とは一致しない。ハプスブルク帝国の政治的影響下にある領域が対象になる。現在チェコに属するボヘミアも対象地域に含まれていた。このことがドヴォルザークに千載一遇のチャンスをもたらした。
1874年ドヴォルザークは変ホ長調交響曲とニ短調交響曲つまり3番目と4番目の交響曲その他をもってこれに初めて応募した。ハンスリックやブラームスも関与した審査の結果、400グルテンの賞金が授与される。約800マルクということになる。
受賞はオーストリア・ハンガリー帝国文化芸術大臣の名で1875年1月8日付け省令をもって告知された。ドヴォルザーク本人への通知はさらに遅れたようだ。
この額はドヴォルザークの当時の年収の3倍近い大金だ。後年、交響曲第8番の買取に1000マルクが提示されて激怒したドヴォルザークだが、このときの800マルクの有り難味は格別だったと思われる。ドヴォルザークはこのあと数年間、下記のように応募し入賞の常連となる。
- 1874年 400グルデン 800マルク
- 1875年 400グルデン 800マルク
- 1876年 500グルデン 1000マルク
- 1877年 600グルデン 1200マルク
- 1878年 400グルデン 800マルク
1878年になってブラームスは出版社ジムロックにモラヴィア二重唱の出版を勧める。音楽界の大御所のブラームスがこの惚れ込みようだ。毎年の入賞もうなずける。
さて時は流れて1897年7月、この年の4月に没したブラームスと入れ替わる形でドヴォルザークはオーストリア国家委員会のメンバーに選ばれる。つまりこれは自らを世に出した奨学金制度の審査委員になることを意味した。
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