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2010年3月31日 (水)

所有か賃貸か

昨日の記事「別荘を持つ」では、ドヴォルザークが43歳の時、ヴィソカーに別荘を購入したと書いた。それ以降、夏には必ずヴィソカーで過ごすようになった。音楽家としての社会的な地位は上昇の一途をたどったが、米国スピルヴィルに滞在した1893年夏以外は全てヴィソカーに滞在したのだ。

ブラームスは気分で避暑地を変えるために、別荘の購入を控えたとも思えてくる。大枚はたいて買ってしまったら、毎年そこに行かざるを得なくなる。ドヴォルザーク以上の原稿料を稼ぐ上に、扶養家族もいないブラームスの懐は、ドヴォルザークよりずっと暖かかったに決まっているが、ブラームスは不動産の所有に踏み切っていない。

クララの夏の予定に合わせて、居場所を決めているうちに、時期を失したというのが真相かもしれない。

2010年3月30日 (火)

別荘を持つ

1884年夏、プラハの南西約60kmにあるヴィソカーの地に別荘を購入した。ドヴォルザークの伝記では、大抵言及される出来事だ。「念願が叶って」と言い回されていることが多い。

妻の姉ヨゼファが嫁いだ貴族から領地の一部を購入したのだ。第8交響曲を初めとする名作群を生み出した。傑作を生み出したという意味では米国アイオワ州のスピルヴィルと双璧をなす。

ピアノ連弾曲「シュマヴァの森」と劇的序曲「フス教徒」の原稿料3500マルクが購入費用の一部に当てられたとされている。音楽之友社刊行の「作曲家◎人と作品シリーズ」のドヴォルジャークの100ページに詳しい経緯が載っている。その3500マルクに初めての訪英の収益をつぎ込んで、ヴィソカーの別荘を購入したという。土地を購入し、羊飼いの小屋を改装して簡単な別荘を建てたとある。庭を造成したとも書かれている。

このうちの訪英の収益がいくらだかわからないのが残念だ。「3500マルクに訪英で得た収入を合算して」という言い回しから、3500マルクと同等な額、少なくとも4桁のマルクだと仮定すると、平屋の庭付き別荘が5000マルクから10000マルクの間と推定できる。250万円から500万円の間だ。下級労働者の年収の5倍~10倍ということになる。

このときドヴォルザーク43歳。貧乏から立ち上がったドヴォルザークにとって、生涯最大の買い物だった可能性が高い。

その一方で、ジムロックがブラームスの交響曲1曲に支払った15000マルクの重さを味わいたい。

2010年3月29日 (月)

スケルツォマーカー

カバー率4割少々ながら、仮設ドボダスが一応の完成を見た。これよりドヴォルザークの発想用語について若干の考察を試みる。

まずは「Molto vivace」だ。この語句は「ブラームスの辞書」には載っていない。つまりブラームスは使っていないということだ。先頃完成した4割ドボダスで抽出するとドヴォルザークは「Molto vivace」を9回も使っている。ブラームスの使用ゼロに対してカバー率4割の段階で9回の使用が確認出来るということは、ドヴォルザークの特質である可能性が高い。

  1. スラブ舞曲第9番ロ長調B147-1
  2. ピアノ五重奏曲イ長調B155第3楽章
  3. 交響曲第9番ホ長調「新世界より」B178第3楽章
  4. 弦楽四重奏曲第12番ヘ長調「アメリカ」B179第3楽章
  5. ヴァイオリンとピアノのためのソナティーナB183第3楽章
  6. 組曲イ長調B184第2曲中間部
  7. 弦楽四重奏曲第13番ト長調B192第3楽章
  8. 弦楽四重奏曲第14番変イ長調B193第2楽章
  9. 交響詩「野鳩」B198第3部

上記の通りだ。この分布は興味深い。

  • 創作史的に申せば1886年以降に集中する。後期ソナタの有名どころ全てに顔を出す。
  • 高速3拍子に集中する。2拍子は上記1番だけだ。
  • 多楽章作品に現れる時は全て舞曲楽章だ。交響詩「野鳩」の第3部も実質スケルツォである。

「Molto vivace」と言えばショパン愛好家なら「子犬のワルツ」を思い浮かべる方も多いと思うが、私は独自にドヴォルザークのスケルツォマーカーと認定したい。本腰を入れて突き詰めようと思うと最早「ブラームスの辞書」ではなくなってしまう。

2010年3月28日 (日)

室内楽の舞曲楽章

3月25日の記事「舞曲楽章の掟」でブラームスが交響曲における舞曲楽章に、主調を採用していないと書いた。多楽章ソナタで舞曲楽章が主調つまり第1楽章と同じ調(同主調含む)になるのは、古典派以来の伝統だ。交響曲においてブラームスがこの決まりをちっとも守っていない一方で、ドヴォルザークは律儀に守っていると指摘した。

しからばブラームスの交響曲以外の多楽章ソナタはどうなっているのかというのが本日の話題だ。つまりそれはほぼ室内楽だ。作品番号順に列挙する。

  1. ピアノソナタ第1番ハ長調→第3楽章ホ短調
  2. ピアノソナタ第2番嬰ヘ短調→第3楽章ロ短調
  3. ピアノソナタ第3番ヘ短調→第3楽章ヘ短調
  4. ピアノ三重奏曲第1番ロ長調→第2楽章ロ短調
  5. 管弦楽のためのセレナーデ第1番ニ長調→第2楽章ニ短調→第4楽章ト長調
  6. 管弦楽のためのセレナーデ第2番イ長調→第2楽章ハ長調→第4楽章ニ長調
  7. 弦楽六重奏曲第1番変ロ長調→第3楽章ヘ長調
  8. ピアノ四重奏曲第1番ト短調→第2楽章ハ短調
  9. ピアノ四重奏曲第2番イ長調→第3楽章イ長調
  10. ピアノ五重奏曲ヘ短調→第3楽章ハ短調
  11. 弦楽六重奏曲第2番ト長調→第2楽章ト短調
  12. チェロソナタ第1番ホ短調→第2楽章イ短調
  13. ホルン三重奏曲変ホ長調→第2楽章変ホ長調
  14. 弦楽四重奏曲第1番ハ短調→第3楽章ヘ短調
  15. 弦楽四重奏曲第2番イ短調→第3楽章イ短調
  16. ピアノ四重奏曲第3番ハ短調→第2楽章ハ短調
  17. 弦楽四重奏曲第3番変ロ長調→第3楽章ニ短調
  18. 【交響曲第1番ハ短調→第3楽章変イ長調】
  19. 【交響曲第2番ニ長調→第3楽章ト長調】
  20. ヴァイオリンソナタ第1番ト長調 舞曲楽章なし
  21. ピアノ協奏曲第2番変ロ長調→第2楽章ニ短調
  22. ピアノ三重奏曲第2番ハ長調→第3楽章ハ短調
  23. 【交響曲第3番ヘ長調→第3楽章ハ短調】
  24. 【交響曲第4番ホ短調→第3楽章ハ長調】
  25. 弦楽五重奏曲第1番ヘ長調 舞曲楽章なし
  26. チェロソナタ第2番へ長調→第3楽章ヘ短調
  27. ヴァイオリンソナタ第2番イ長調 舞曲楽章なし
  28. ピアノ三重奏曲第3番ハ短調→第2楽章ハ短調
  29. ヴァイオリンソナタ第3番ニ短調→第3楽章嬰ヘ短調
  30. クラリネット三重奏曲イ短調 舞曲楽章なし
  31. クラリネット五重奏曲ロ短調→第3楽章ニ長調
  32. クラリネットソナタ第1番ヘ短調→第3楽章変イ長調
  33. クラリネットソナタ第2番変ホ長調→第2楽章変ホ短調

見ての通り興味深い。舞曲楽章の調が第1楽章の調に一致するもの、つまり「掟通り」を赤文字にした。青文字は同主調だ。赤文字プラス青文字は12曲に過ぎない。全体の約3分の1だ。しきたり通りが約36%にとどまるということだ。特に弦楽四重奏曲第3番以降赤文字はほぼ現れない。

交響曲だけが例外だったわけではなくて、全体の傾向を反映していると解したい。すごくブラームスっぽいと感じる。

006

鎌倉、長谷にて。5%咲きの消費税桜。

2010年3月27日 (土)

聖書の歌

作品番号99を背負ったドヴォルザーク最後の歌曲集。聖書のチェコ語訳に題材を求めた10曲が収められている。ドヴォルザークが残した約100曲の独唱歌曲のフィナーレだ。

最後の歌曲が、聖書に題材を求めたテキストになっていると聞けば、大抵のブラームス好きの脳味噌にはアドレナリンが走る。「4つの厳粛な歌」op121を思い出さぬ者はおるまい。みな同じと見えてCDでもしばしばカップリングされる。ドイツの大歌手、ディートリッヒ・フィッシャーディースカウによる独訳版も名高い。というより私はそれしか持っていない。チェコ語では何やら響いてこない感じだ。

ドヴォルザークの心境を思い遣る。完成の前年以降チャイコフスキー、グノー、ハンス・フォン・ビューローが相次いでこの世を去った。ドヴォルザーク自身の父親の体調がすぐれぬ中で、構想を練った。もともと敬虔な信仰の持ち主であったドヴォルザークの気持ちが聖書に向いてゆくのは自然なことだと感じる。

ブラームスの「4つの厳粛な歌」程は、「死」が前面に打ち出されてはいない。ピアノ伴奏が一段とシンプルだ。とりわけのお気に入りは、ホ長調の4曲目「主は私の牧者」と6曲目「神よ私の叫びを聞いてください」ト長調、それから7曲目「バビロンの川のほとりで」ホ短調だ。ホ短調とホ長調の対比が、地味に雄弁だ。ブラームスの「4つの厳粛な歌」の3曲目「おお死よ、何と辛いことか」を思い出さずにはいられないが、肝に銘じておかねばならないことが一つある。「聖書の歌」の完成は1894年3月27日だ。驚いてはならない。ブラームスの「4つの厳粛な歌」より完成が早い。真似したとすればブラームスなのだ。

2010年3月26日 (金)

偵察

事前に敵情を探ること。人工衛星の発達により居ながらにしてということも多くなって来ている。戦う前に敵を知ることは勝利の第一歩である。

来月には次女が中学3年になる。進路の決定を迫られるということだ。夏には高校見学にも行くようだ。本日は第一志望と目される高校オケの演奏会に出かけた。昨年5月に聴いたオケとは別の高校だ。会場は私の大学オケがいつも使用していたホールだ。

<第一部>

  1. ジョン・ウイリアムス メドレー
  2. モーツアルト フルートとハープのための協奏曲より第2楽章 
  3. マーラー 交響曲第1番より第4楽章

<第二部>

ミュージックパフェ 踊るオーケストラ

<第三部>

  1. バーンズ 交響曲第3番より第3楽章、第4楽章 OBOGの演奏。
  2. チャイコフスキー 交響曲第5番より 第4楽章 OBOGの演奏。
  3. ラヴェル ボレロ

全てにおいて想像の斜め上を行く演奏会だった。開演前や休憩時間にはサロンでコンサートがあるし、濃密な2時間半だった。特に第二部はミュージカルを観るかのよう。ステージどころか客席狭しと走り回るマーチングオーケストラである。コーラス、独唱、ダンスまで含めて全てオケのメンバーによるものだ。高校生たちのエネルギーと真摯な姿勢に触れた極上の時間。

次女が「ここに決めた」とつぶやいていた。一昨年夏の学校見学で学校が気に入ったことが長女の受験を支えるモチベーションになったが、今日の経験は次女にとってそれにも劣らない衝撃だったことは間違いない。あのエネルギーの渦の中に娘を送り込みたい。

偵察の甲斐があった。

2010年3月25日 (木)

舞曲楽章の掟

昨日の記事「舞曲メーカー」でドヴォルザークの交響曲の第3楽章だけを抜き出してiPodで聴いていると書いた。程なく気付くのだが、ドヴォルザークの交響曲の第3楽章は、みな先頭楽章と同じ調になっている。例外は6番と8番で、どちらも第1楽章の同主短調になっている。どうやらこれは、古典派にあってのお約束らしい。ベートーヴェンだって7番を除いて皆、これを守っている。

ところが、ロマン派になるとこれを守らぬ輩が増殖する。シューマンは2番と4番だけ守っている。ブラームスはと見ると、意外と大胆で4曲全部守れていない。

  • 1番ハ短調→変イ長調
  • 2番ニ長調→ト長調
  • 3番ヘ長調→ハ短調
  • 4番ホ短調→ハ長調

そもそも楽曲の形式を見れば、舞曲楽章と呼ぶのさえはばかられる。実質的に「管弦楽のためのインテルメッツォ」に等しい位置付けた。ブラームスは表向きカッチリとソナタ形式にとどまりながら、内側から解体している感じがする。

交響曲に関して申せば、ドヴォルザークは意外と律儀である。

2010年3月24日 (水)

舞曲メーカー

ドヴォルザークはスラブ舞曲第1集が事実上の楽壇デビュー作となった。ピアノ連弾版と管弦楽版ともに売れに売れたという。作曲者本人が全部を管弦楽版にしていないハンガリア舞曲よりもサービス精神が旺盛だ。第1集8曲に次いで第2集8曲もベストセラーになった。

ドイツ・オーストリア系の作品に慣れた耳には新鮮な舞曲の集合だ。バッハの組曲を形成する古典舞曲とも違う民衆に密着したキビキビとした舞曲はドヴォルザークの魅力の一つだ。

ipodでいたずらをしている。交響曲の第3楽章に位置する舞曲だけを集めて聴いている。交響曲第3番だけが舞曲楽章を欠く3楽章制になっているから、全部で8曲の舞曲集になる。全ての舞曲が交響曲の第3楽章になっていて緩徐楽章との位置の交代は起きていない。1番から通して聴くと気持ちが良い。いわば「スラブ舞曲第3集」だ。

ベートーヴェンでも第9交響曲で第2楽章になっているのを我慢すればスケルツォ集になる。ところがブラームスでこれをやっても舞曲集にはならない。第4番だけが何とかスケルツォ風になっているだけだ。むしろ「管弦楽のためのインテルメッツォ」に近いニュアンスだ。

ブラームスの路線こそが大きな例外なのだと思う。

2010年3月23日 (火)

怪我の功名

良くないことが、偶然好結果につながること。

長男が中学高校6年間の最後の1年が無念の皆勤賞だったことは既に述べた。明日で娘たち2人も3学期を終える。どうやら長女次女とも皆勤賞の用件は満たせそうだ。長女は6年連続で次女は3年連続の皆勤賞だ。しかしインフルエンザによる出席停止があったからいつものような「完全皆勤」ではなかった。

とりわけ長女は、昨年12月1日に体育の時間に右足を捻挫した。全治3週間だが、当初は足を床につけないほどの痛みがあり松葉杖を使った。もちろん初めての経験だから、大騒ぎになった。家族や先生そしてクラスメートの助けを借りて、一日の遅刻も欠席も早退も無く乗り切った。怪我をした体育の時間が6時間目というのが絶妙だ。午前中の授業だったら早退していたに決まっている。

それはクラスメートたちの暖かさに触れる3週間だったらしい。普段から親しくしている友人は元より、日常口も聞いたことのないような男の子たちが、恐縮するくらい親切だったと言っている。

人の心の優しさに触れたことこそ特筆すべきである。文字通り「怪我の功名」だ。

2010年3月22日 (月)

2回目の定演

ちょうど1年前の記事「定演デビュウ」で次女のブラバンの定期演奏会のことを書いた。昨日2度目の定期演奏会があった。2年生として迎える定期演奏会だ。次女の1年間の取り組みを確認する大切な日。

もちろん今年も、ブラームスは演奏されなかった。ドヴォルザークも無い。けれどもこれに触れない訳には行かない。昨年よりは10倍安心して見ていられた。全12曲もりだくさんの2時間。同世代の仲間とのアンサンブルは本当に貴重だ。4歳から始めたヴァイオリンでも、定期的に発表会に出演してきたが、いつも先生とのアンサンブルだ。対等な関係ではない。一方中学入学と同時に始めたブラスバンドでは、トロンボーン初心者からのスタートだったが、練習量だけは半端でない。加えて同世代の仲間との濃密なやりとりは、ヴァイオリンの演奏面にさえ大きな影響を与えてきている。

定期演奏会といいながら、実は巣立って行く3年生を送る会という性格を帯びていたのは昨年と同じだった。これは毎度感動的。全12曲のうち4曲は1,2年生だけの演奏だった。演奏会が終わる頃には最上級生の顔付きになっていた。

来年の定期演奏会は大変なことになる。

2010年3月21日 (日)

バッハとドヴォルザーク

このところドヴォルザーク関連の書物を読んでいて「おや」っと思ったのは、バッハへの言及がほとんど無いことだ。ドヴォルザークが若い頃オルガンを習っていた記事の中と、チェコ音楽の歴史を概観する記事の中に細々と現れるばかりだ。わずか8歳年長のブラームスの伝記には、おびただしい数のバッハへの言及が見られる。ドイツ生まれのプロテスタントのブラームスと、プラハ郊外に生まれたカトリックのドヴォルザークとではバッハへの距離が違うと言えばそれまでだが、それでもこの違いは極端だと感じる。その代わりワーグナーへの言及はブラームスよりずっと多い。

むしろブラームスこそが例外なのかもしれない。それが作曲家の個性なのだと思う。

バッハが書き残した組曲やパルティータが古典舞曲の集合体だということはよく知られている。ドヴォルザークはその手の古典舞曲こそ残していないが、フリアントやドゥムカなどチェコを含む東欧の舞曲を数多く残した。出世作スラブ舞曲の他チェコ組曲が名高い。交響曲や室内楽の中間楽章にこれらを手際よく取り入れている。バッハとは別系統ながら、屈指の舞曲書きだったと感じる。

そしてもう一つブラームスとの比較の中から浮かび上がる2人の共通点がある。生涯独身だったブラームスに対し、バッハもドヴォルザークも結婚した。バッハの2人目の妻はアンナ・マグダレーナだ。ドヴォルザークの場合、妻がアンナで1881年10月17日生まれの5人目の女の子の名前がマグダレーナだ。単なる偶然だろうとは思うが気になる。バッハもドヴォルザークも一流の作曲家である一方、家庭にあっては良き夫、良き父だった。

2010年3月20日 (土)

出版のわきまえ

ブラームスの伝記を読んでいると随所に楽譜を出版した話が出てくる。それに関連したブラームスの意見も目にすることがある。

曰く「出しゃあいいってもんじゃない」である。

一の子分オイゼビウス・マンディチェフスキーが編集主幹となったシューベルト全集については、若書きまでが律儀に印刷されていることを嘆いている。シューベルトだって若い頃は変な作品を書いている。ベートーヴェンだって同じだという。ブラームスのこうした言葉には説得力がある。自らの作品への厳しい判断基準を我々は知っているからだ。世の中に楽譜出版が生業として認知されて行くと、出版されなければ書かなかったも同然なのだ。だから出版するしないにあたっては万全の判断をした。出版にあたらずと判断した作品の楽譜廃棄にも気を配った。

クララは夫ロベルトの若書きの出版に慎重だった。ブラームスは「あの人(クララ)はシューマンの若い頃の作品の楽譜を燃やしたンだと。立派な見識だ。なかなか出来ることではない」と述べている。

自らが世に送り出してその才能を賛美していたドヴォルザークに対しても「出せばいいとうものではない」という作品もあった。ドヴォルザークはプラハのオルガン学校を卒業してから作品が世に出るまで12年の歳月を要した。もちろんその間にも作曲は続けていた。スラブ舞曲でブレークした後、新作の注文が殺到したばかりか、初期の未出版作品にも白羽の矢が立った。ドヴォルザークには少々気の毒だが、「出しゃあいい」というノリがきっと出版社側に存在した。もしかするとジムロックの都合である。

2010年3月19日 (金)

プログラムノート

演奏曲目の解説をした小冊子がある。無料の場合と有料の場合とあるようだ。その記述おいて演奏者の紹介とともにメインに据えられるのが演奏曲目の解説だ。この解説文のことを「プログラムノート」と呼んでいる。

アマチュアの演奏会の場合、メンバーが手分けして担当するのが普通だ。私も大学の頃いくつか書いたことがある。文字数を指定されるほか特段の制約はない。

しかしこれがなかなか難しい。どういう層が聴きに来るのかも断定しにくいし、演奏される曲や作曲家の知名度によっても要求される内容が変わる。

ちょうど昨年の今頃私は、さる筋からプログラムノートの執筆を頼まれた。曲はドヴォルザークの弦楽セレナーデだ。大好きな曲だからお引き受けした。舞曲メーカー丸出しの第2楽章のワルツがお気に入りだ。

与えられた時間は1週間。一番大変だったのは、文字数。「400字以内」という制約は本当に難しかった。書きたいことの量に比して400文字はあまりに少ない。表現の贅肉のそぎ落としに終始した。この経験はブログ記事執筆の肥やしになったと思う。ブログ記事には文字数の制限が無いのをいいことに、表現の無駄に鈍感になっていた。

そして一番の収穫は、これをキッカケにドヴォルザークへの興味が急速に高まったことだ。

2010年3月18日 (木)

ビューローの呼びかけ

ビューローとはハンス・フォン・ビューローのことだ。クララ・シューマンの父フリードリヒ・ヴィークに師事したピアニストでもあり、近代指揮法確立の立役者でもある。当初熱心なワーグナー支持者だったが、後にブラームスの支持者となる。ブラームスの第一交響曲を「第10交響曲」と呼ぶなど後世に残る言葉をいくつか吐いている。

1875年だから、既にリストの娘コジマとは別れた後だ。ブラームス支持へ乗り換えた頃と思っていい。ビューローはドヴォルザークから交響曲第5番ヘ長調の献呈を受けた。オーストリア国家奨学金への初めての応募の翌年だ。

おそらくビューローはドヴォルザークへのブラームスの惚れ込みを知っていたのだと思う。この献呈に対する返信が残されている。

「もっとも尊敬する巨匠殿」と書き出される丁寧な書状だ。ところがこの後ビューローは、ドヴォルザークを指し示して「ブラームスに次いで、今日もっとも天性に恵まれた作曲家であるあなた様」と言っている。この言い回しがドヴォルザークの逆鱗に触れたとは思えないが、余計なお世話な気がする。単に「今日もっとも天性に恵まれたあなた様」で良いではないか。「ブラームスに次いで」は余計だ。

考えてもみてほしい。この時ブラームスの第1交響曲はまだ完成していない。交響曲を受け取っておいて、まだ1曲も交響曲を書いていない「ブラームスに次いで」とはご無体な表現だ。きっとこれはむしろビューロー側の都合だ。「ブラームスに次いで」という言い方でドヴォルザークが「ワーグナー派」ではなく「ブラームス派」だということを暗に指し示しているのだと思う。ビューロー自身がつい先ほど鞍替えしたばかりのブラームス派に、頼もしい同士が現れたという無意識下の思いが反映したと感じる。

この約1年後に陽の目を見たブラームスの第1交響曲が、周知の通りの力作だったのは幸いだ。これが万が一駄作だったらドボルザークも浮かばれない。

2010年3月17日 (水)

スケルツォのエンディング

新世界交響曲の第3楽章スケルツォの話だ。快速なテンポの4分の3拍子が、エンディングに向けて制動を効かせる場面でそれは起きる。299小節目から我らがヴィオラは、C線の第1ポジションで「E音」と「G音」を刻む。4分の3拍子の1小節目を6つに割る。何のことは無い8分音符の連続だ。他のパートは主題の断片を代わる代わる差し挟むが、ヴィオラだけは断固刻みながら音量を常に落とし続ける。

やがてダイナミクスが「ppp」に届く294小節目から、地味に厄介な難所がある。テンポを維持したまま、刻みの数を減じてゆくのだ。1小節の長さを変えないで、刻む数だけを「5」「4」「3」と減らして行かねばならない。いわゆる「オートマチックリタルダンド」である。インテンポで弾けば自動的にブレーキがかかったように聞こえる仕掛けだ。

ヴィオラのトップだった私は、この手が苦手だった。行け行けドンドンならOKだが、繊細なリズム感覚という奴が備わっていない。パート練習で弾けても全体になるとなんだかはまらないという状態だ。レコードを聴いても、もそもそしていてよく聞こえない。ちなみに先般話題にしたピアノ連弾版だとクッキリと聞こえて懐かしかった。

苦肉の策が考案された。小節の頭にメトロノームを入れる。それに合わせて「新検見川」「本八幡」「幕張」「稲毛」と言いながら刻む。「しんけみがわ」「もとやわた」「まくはり」「いなげ」だ。これらは大学があった鉄道沿線の駅の名前である。1小節に一駅を入れると、平仮名にして「6文字」「5文字」「4文字」「3文字」になっているから問題の部分の練習になる。実際の駅はこの順番ではないから、あくまでも練習のための方便だ。

実際の駅の順番でこの練習をするには、連続する4つの駅の平仮名が「6文字」「5文字」「4文字」「3文字」になるような区間を見つける必要がある。これが意外と難易度が高くて見つからない。

演奏会後かなりたって叔父の家を思い出した。新京成電鉄という私鉄に乗る。叔父の家は「元山」という駅で下車する。1つ手前は「くぬぎ山」で2つ手前が「北初富」だ。もしやと思って、元山駅の1つ先の駅を調べてみた。「五香」だった。これで「ごこう」と読む。

  1. きたはつとみ
  2. くぬぎやま
  3. もとやま
  4. ごこう

おお。しかも一番先頭の北初富駅の一つ手前が「新鎌ヶ谷」(しんかまがや)で6文字だから、いっそう楽譜にはまり込む。これで新世界交響曲のスケルッツォをエンディングに導く制動が練習出来ると思ったが後の祭りだった。

後半開始早々ドヴォルザークが泣いて喜ぶおバカな鉄道ネタ。

2010年3月16日 (火)

田舎のカントル

バッハの伝記や「のだめ」を読む限り、「カントル」と言えばなんだか神聖不可侵なイメージがある。ライプチヒ・トマス教会のカントルともなれば、王侯貴族と同等かそれ以上の有り難みなのだと思う。

ところがドヴォルザークの伝記を読んでいると、これまたそこいら中にカントルが出て来る。言葉は悪いが二束三文な感じである。トマスカントルとのイメージの落差が激し過ぎる。

それもそのはずだ。ドイツ、オーストリアやチェコの田舎では、村の教会のオルガニストが初等学校の校長先生を兼務というパターンが多く、そういう人々もまたカントルと呼ばれていたのだ。むしろそれこそが「カントル」本来の意義かとも思う。そういえばバッハだって教会附属学校の教育責任者だった。もちろんバッハほどではないが、そこそこの音楽家が子供たちの音楽の手ほどきをしていたと考えて良い。だからチェコでは首都のプラハ以外からも優秀な音楽家を多数輩出したと関連づけられている程だ。ドヴォルザークもそうした土壌の中から台頭したということだ。

思い当たる節がある。「対位法のよい教師はいないか」と尋ねられたブラームスは、「どこか田舎のオルガン弾きが良い教師になる」と答えている。妙に辻褄が合う。

2010年3月15日 (月)

直線上のプラハ

現在のチェコ共和国の首都だ。東西冷戦の時代にはチェコスロヴァキア共和国の首都だった。チェコスロヴァキアはいわゆる東側陣営だったから、その首都プラハには東というイメージがつきまとう。ところが、実際は私のイメージよりは相当西に位置する。経度で申せばウィーンよりも西なのだ。

最近のめりこんでいるドヴォルザークの故郷ネラホセヴェスはプラハに近い。立身出世を遂げて以降、ドヴォルザークの本拠地はプラハだったと考えていい。1879年秋ブラームスはヨアヒムと連れだってプラハを訪れる。演奏旅行だ。このときのブラームスには演奏の他にドヴォルザークとの対面という目的があった。もちろん対面は実現した。一部の伝記ではブラームスがジトナー通りのドヴォルザーク家を訪れたと書かれている。

最近ドヴォルザークラブを隠そうともしないブログ「ブラームスの辞書」の管理人が驚喜するような偶然に巡り会った。長男と地図を見ていて偶然発見した。長男はドイツ3大Bの故郷、アイゼナハ、ボン、ハンブルクを直線で結ぶと、アイゼナハを頂点とする直角三角形になると気付いたキレ者だ。その同じノリが今回も実を結んだ。

欧州の地図を広げて欲しい。ブラームスの故郷ハンブルクから、最期の地ウィーンに向けて直線を引く。すると驚いたことにドヴォルザークゆかりのプラハが、その直線上に乗って来るのだ。

いかにも私好みの偶然だ。長男よでかした。今日は、18歳の誕生日だ。

2010年3月14日 (日)

周辺の探索

どうもドヴォルザークは作品の受け入れられ方が極端だ。ピアノ独奏曲の「ユーモレスク」変ト長調を見るがいい。「8つのフモレスケ」の7番でありながら、周囲のフモレスケのみならず、ピアノ独奏曲その他全てを覆い隠してしまっている。これ1曲が極端に有名で、他の曲が顧みられていない。まるで太陽のあまりの眩しさに、近くの星が見えないかのようだ。同じことは歌曲「我が母の教え給いし歌」の周辺でも観察される。

ドヴォルザークに限らず、特定の作曲家について見聞を深めようとするとき、有名作品と同一ジャンルの作品をとりあえず聴いてみるという行動に出ることがある。「我が母の教え給いし歌」でもやってみた。

「我が母の教え給いし歌」は「ジプシーの歌」op55全7曲の中の4曲目だ。実はこの直前の3曲目に、お宝が眠っていた。「森は静かに」という曲だ。驚いたことにブラームスの影響が指摘されている。一般向けの解説書で「ブラームスの影響云々」と書かれているときは、詳しい根拠が省略されていることが多くて苦慮しているが、ここもまた根拠レスな断言になっている。

曲の冒頭は「静かな夜に(In stiller Nacht)」WoO33-42に通じる静謐さが際立っている。聴いた瞬間の直感としては「夏の宵」op85-1だ。ブラームスは「D→B→F」と立ち上げるのに対して、ドヴォルザークは「D→B→Ges」と始まる。最後のGesの色艶が半端ではない。おそらくピアノ協奏曲第2番第3楽章6小節目の最後の音、独奏チェロが放つGesと同質だろう。身をよじるようなGesだ。

忘れてはいけない。ドヴォルザークの「ジプシーの歌」は1880年の刊行だ。ブラームスのop85より2年も早い。もちろん「静かな夜に」にも先行する。影響を受けたとすればブラームスの側だ。

この手の影響ごっこは得てして鑑賞の邪魔である。

2010年3月13日 (土)

ジプシーの歌

ブラームスにもドヴォルザークにも「ジプシーの歌」がある。

ブラームスのものは「Zigeunerlieder」と綴られ、ソプラノ、アルト、テノール、バスによる四重唱で、全11曲からなる。作品番号103で1888年の作品だ。

ドヴォルザークのものは「Zigeunermelodien」と綴られるから「歌」というより「旋律」だ。こちらは独唱用で全7曲だ。ヘイドゥークというチェコの詩人によるテキストだが、作者本人によるドイツ語訳に曲がつけられた。ジムロックからのドイツ語の歌曲集の注文に答えたものだという。この内の4番が特に名高い。一般に「我が母の教えたまひし歌」という邦題で親しまれ、ドヴォルザークの歌曲最高傑作の座に君臨中である。また冒頭の1番「我が歌ひびけ」は、歌い出しがアウフタクトになっていて「ジプシーの歌」をアウフタクトで始めなかったブラームスと一線を画す。

1880年の作品だからブラームスより古い。何かというとブラームスからの影響ばかりが指摘されるドヴォルザークだが、この曲ばかりはブラームスに影響を与えた可能性がある。

2つの「ジプシーの歌」を繋ぐキーワードがもう一つある。ウィーンの宮廷歌手グスタフ・ワルターの存在だ。ドヴォルザークの「ジプシーの歌」は彼に捧げられている。ドヴォルザーク同様にボヘミア出身だ。

ブラームスの「ジプシーの歌」は四重唱ではあるが、テノールに充分な光が当てられていている。「恋唄」op71-5同様グスタフ・ワルターを意識した作品だ。

2010年3月12日 (金)

アウフタクト

強拍の準備としての弱拍のこと。あるいはそのような始まり方をするフレーズをも指すのだろうか。奥が深そうで深い入りは気が引ける。冠詞や前置詞にアクセントが来ないドイツ語の拍節によくなじむと、しばしば指摘されている。

ブラームスの愛したドイツ民謡には、アウフタクトで曲を立ち上げるケースが意味ありげに集中することは2006年5月19日の記事「民謡風」で述べた。深々としたアウフタクトで曲を開始するのはブラームスの常套手段だ。

以前から疑問に思っていることがある。

「ジプシーの歌」op103には、11曲が収められている。これが全て4分の2拍子になっているのだが、不思議なことにアウフタクトを持つ曲が1曲も無い。5番にのみピアノ伴奏にアウフタクトを持つが、歌いだしは全て小節の頭からだ。ハンガリア舞曲21曲は、全て4分の2拍子になっている点共通するのだが、こちらにはアウフタクト有りの曲が5曲存在する。

作品112の後ろ4曲も「ジプシーの歌」とタイトリングされるので、調べてみたらこれまた4曲全てにアウフタクトが無い。

何故「ジプシーの歌」にはアウフタクトが無いのだろう。用いられる言語の拍節構造に起因するのだろうか。その言語をただちにハンガリー語と決め付ける訳にも行くまいが、気になる。

ドヴォルザークにも「ジプシーの歌」がある。全7曲が作品55にまとめられている。こちらはブラームスより自由だ。拍子も4分の2にとどまっていない。何より1番の歌い出しがアウフタクトになっている。

ブラームスの特別扱いが興味深い。

2010年3月11日 (木)

ハンガリア舞曲の編曲

「ハンガリア舞曲」全21曲は楽譜の売り上げという切り口で見た場合のブラームスの出世作だ。元々ピアノ連弾用だ。オーケストラの演奏会のアンコールとして演奏されることも多いのだが、全てをブラームス自身が管弦楽に編曲している訳ではない。ブラームス自身による編曲は1番3番10番の3曲にとどまる。残る18曲は別人の手によって管弦楽に編曲されている。

最後の5曲つまり、第4集を編曲したのはドヴォルザークだ。

ドヴォルザークは、ハンガリア舞曲のヒットで味をしめた出版社ジムロックの勧めで「スラブ舞曲」を書いた。思惑通り空前の当たりとなってドヴォルザークの名は欧州中にとどろいた。ハンガリア舞曲同様ピアノ連弾用だったが、全曲本人の手によって管弦楽版に編曲されている。つまりピアノ連弾舞曲の管弦楽化はお手の物なのだ。

  • スラブ舞曲第1集1878年出版
  • ハンガリア舞曲第4集ピアノ連弾版1880年出版
  • ハンガリア舞曲第4集管弦楽版1881年出版(ドヴォルザーク編曲B602)
  • スラブ舞曲第2集1886年出版

大ブレークした「スラブ舞曲」の作曲者が、これまたブラームスの表看板「ハンガリア舞曲」の最終巻を管弦楽に編曲したのだから、当時の楽壇へのインパクトは小さいハズがない。話題作りにも特別な才能を示すジムロックだ。

ドヴォルザークのこの編曲はブルクハウザー先生の「ドヴォルザーク作品目録」にも収載され、B602という番号が与えられている。

2010年3月10日 (水)

番地違い

音楽之友社刊行の「作曲家◎人と作品シリーズ」のドヴォルザークの68ページだ。ブラームスがジムロックに対してドヴォルザークを紹介する手紙を書いたとされている。このときブラームスはドヴォルザークの住所を「プラハ・ジトナー通り10番地」としている。厳密に申せば「十-ii番地」と書いてある。漢数字の「十」にハイフンが続き小文字の「i」が2つだ。

ところが、一部のドヴォルザーク関連本の中には、この住所を「ジトナー通り14番地」としている。どちらが本当だろう。数の上ではジトナー通り10番地としている記述が多い。

ドヴォルザークの関連書物どうしで、ドヴォルザークの住所が食い違っているのは気持ちが悪い。郵便物は「プラハ・ドヴォルザーク」で届きそうな気もするが気になる。

2010年3月 9日 (火)

ジトナー通り10番地

1877年秋、ドヴォルザーク夫妻は新婚時代から住んだナ・リプニーチク街のアパートから引越しした。幼くして亡くなった3人の子供の想い出が残る家を離れ心機一転の気持ちもあったに違いない。

転居先の住所が本日のお題「ジトナー通り10番地」だ。

その後ドヴォルザークは没するまでプラハにおける本拠地をこの地に定めた。ブラームスがジムロックに宛てて、ドヴォルザークを紹介する手紙を書いた時に記されていたのがこの住所である。

チャイコフスキーやグリーク、ヤナーチェクといった面々がこのアパートにドヴォルザークを訪ねている他、おそらくブラームスも1880年に足を運んでいる。

2010年3月 8日 (月)

ハーフタイム

ドヴォルザークイヤーを立ち上げてから昨日で6ヶ月経過した。1年物の企画だから日数的にはちょうど中間ということになる。サッカーでは前半45分が終わった時点でハーフタイムとなる。選手は後半に向けてしばしの休憩を取るし、サポーターは飲み物や弁当を買いに走ったりと忙しい。監督ならば前半の課題修正に心を砕くものだ。

ドヴォルザーク特集は昨日までに117本の記事が堆積した。2009年前半6ヶ月間を会期とした「歌曲特集」で80本の記事を積み上げた実績からして驚くには当たらない。けれども油断は禁物である。前半を2-0で折り返した試合が、必ず4-0で終われるとは限らない。歌曲特集は前半に記事の公開ペースが緩く、後半に詰め込み過ぎた反省があるから、今回のドヴォルザーク特集では前半傾斜を心がけた。

リードした試合をキッチリと勝ちきることが意外と難しいことは周知の通りである。

2010年3月 7日 (日)

カップリング

1896年3月7日ウィーンフィルの演奏会にブラームスが姿を現した。感動的な第4交響曲の演奏は語り草である。おそらくブラームスが生前に聴いた最後の自作だ。

この演奏会のことを調べるために「王たちの民主主義-ウィーンフィル150年史」という書物を読んでいてお宝情報を発見した。

ブラームス最後となったこの3月7日の演奏会で、ブラームスの第4交響曲とともにドヴォルザークのチェロ協奏曲が演奏されたと明記されている。体調が悪化の一途だったブラームスが、交響曲のほかに協奏曲を聴き通すことができたかどうかは不明だ。さらに1882年12月2日、同じくウィーンフィルによる第3交響曲初演の際、これまたドヴォルザークのイ短調ヴァイオリン協奏曲が演奏されたとも書いてある。指揮はどちらもカール・リヒターだ。

書物の趣旨からしてデタラメとも思えない。ブラームス-ドヴォルザークという黄金のカップリングが聴衆に受け入れられていたものと思う。

そういえばニューヨークでの新世界交響曲初演の時、ブラームスのヴァイオリン協奏曲も演奏されていた。

2010年3月 6日 (土)

アンリ・マルトー

フランス生まれのヴァイオリニスト。ドヴォルザークの新世界交響曲が初演されたその演奏会でブラームスのヴァイオリン協奏曲が演奏された際、独奏ヴァイオリンを受け持った。

最近彼の評伝が刊行された。有名作曲家との交流のエピソードがてんこ盛りになっている。ブラームスがその演奏を称賛した話や、米国でのブラームス普及に功績があった話など非常に興味深い。ブラームスのヴァイオリン協奏曲のカデンツァが1905年に作られたと明記されていた。新世界交響曲の初演には間に合っていなかった。

さらにブラームスについて言及した章の次にドヴォルザークとの交流も描かれる。ドヴォルザークの協奏曲を一緒に演奏した話に加え、ドヴォルザークがブラームスへの感謝の気持ちを打ち明けている描写がある。いやはや今まさに特集中のブログ「ブラームスの辞書」にとってストライクゾーンの中央である。

2010年3月 5日 (金)

17の春

本日長男が高校を卒業した。

最後の1年は無念の皆勤賞になった。妹たちがインフルエンザにかかったために、本人の罹患にかかわらず強制的に出席停止になってしまうのだ。皆勤賞の資格を失うことはないが「無遅刻、無欠席、無早退、無忌引き、無出席停止」のいわゆる「完全皆勤」にはならなかった。本人はとうとうインフルエンザにならなかったから無念だ。とはいえ中学の3年間を加えて6年連続の皆勤を達成した。本人は「バカは風邪をひかないから」といってカラカラと笑い飛ばしている。

長男の通う高校には、精勤賞の表彰は無い。3年皆勤のみが表彰の対象だ。それでも卒業生が500人もいるから、皆勤賞の受賞者は80人ほどになる。式典では皆勤賞を含む表彰の対象者が別席に座ることになる。我が家にとって何よりの勲章だ。

毎度のことながら、まだ18歳にならないうちの卒業である。

2010年3月 4日 (木)

独仏の優越

仮設とはいえドボダスの輪郭がほぼ整ってきた。我が家にある楽譜、CD,解説書を読みあさり、出来る限りの音楽用語をエクセルにとりこむ試みだ。

断言は危険だが、おぼろげに浮かんだ傾向がある。ドヴォルザークは、発想用語を選ぶ際、その候補をイタリア語に限定していたと思われる。ドイツ語は現れない。そして母国語のチェコ語も現れない。今後ドボダスの整備が進んで、本日の予想が覆えされた時には、喜んでお詫びするが、今日のところは断言する。

いわゆるクラシック音楽における発想用語はイタリア語が主流だ。ベートーヴェンを境に母国語を用いる作曲家がボチボチ現れ始める。ところが、それには他にも重要な側面があると感じる。そこで用いられる言語はドイツ語かフランス語に限るということだ。

ドヴォルザークは、チェコ語を使おうとしない。スメタナ、ショパン、チャイコフキー、グリーク、シベリウス、バルトーク、ヤナーチェクといった面々が、母国語使用に走ったか別途確認も必要だが、どうも望み薄だと感じる。

イタリア語を別格とすればドイツ語とフランス語の使い手だけが、発想用語に母国語を用いたと思っている。

怪しいのは英語だ。ヘンデルは無理でもブリテン、エルガーあたりの楽譜には英語表記がありはしないか興味がある。

2010年3月 3日 (水)

テリンカ

3月1日の記事「浮いた噂」でドヴォルザークの伝記には、お相手の女性がなかなか現れないと書いた。妻アンナとその姉ヨゼファくらいだと申し上げたが、本日はその例外である。

1853年故郷ネラホセヴェスを離れてズロニツェへ進出し、当地の学校に通う。そこで音楽とドイツ語を指導したのが、アントニーン・リーマンという教師であった。楽器ならなんでもOKという芸風で、ドヴォルザークの才能をいち早く見抜いた。ここでの経験がドヴォルザークにとって得難いものだったことは、第1交響曲が「ズロニツェの鐘」と命名されたことからも伺える。

リーマン先生にはドヴォルザークと同い年の娘がいた。彼女の名前がテリンカである。

1888年に完成したオペラ「ジャコバン党員」の主人公ベンダは、リーマン先生だという指摘がある。ベンダの学校長兼音楽家と設定はまさにうってつけだ。劇中にはベンダの娘も現われる。その娘の名前は、テリンカになっているのだ。先生の娘を実名で登場させているということだ。

ドヴォルザークのいくつかの伝記を読んでもテリンカとのやりとりを初恋とまでは位置付けていない。けれども楽しい思い出であったことは確実だ。恩師への感謝はその娘の思い出とともに不滅になっているのだ。

「雛人形をさっさと片づけないと」云々の言い伝えがある。片づけが遅いのと面倒臭がって初めから飾らないのとどちらが効果的なのだろうと考えるいけない父親だ。

2010年3月 2日 (火)

ゴールドメダリスト

カナダ・ヴァンクーヴァーで開催されていた第21回冬季オリンピックが閉幕した。何とかこれをドヴォルザークにこじつけようと試みたが、不調に終わった。フィギュアスケートのBGMに誰かがドヴォルザークを採用するなどということがありはせぬかと思ったが聴き逃がした。

本日はいささか無理目ながらその穴埋めをする。種目にもよるが1948年までオリンピックには芸術競技があった。「音楽全般」という競技の優勝者を調べていて唖然とした。1932年ロサンゼルス大会のゴールドメダリストはヨゼフ・スークだったのだ。国籍はチェコスロヴァキアとなっている。さらに驚いたことに、この大会での同国の金メダルは1個だけだ。スークは母国に唯一の金メダルをもたらしたということに他ならない。彼はドヴォルザークの娘婿である。

金メダル1個の有り難みについて、説明が要るとは思えない。ましてや銀メダルと銅メダルは該当者無しだから、スークはコンクールだったら圧勝なのだと思う。それにしても「音楽全般」とはいったい何をするのだろう。「演奏」ではなかったのだろうか。「作曲」という種目は別に存在するから、謎は深まるばかりである。

そのうちオリンピックに復活して「蘊蓄」が種目として採用にでもなれば、いつ声がかかってもいいように鍛錬を欠いてはなるまい。

2010年3月 1日 (月)

浮いた噂

大抵は色恋関連の噂のことだ。男性であれば「女の噂」である。

ブログ上でブラームスに試みたことを、ドヴォルザークでも試してみるという切り口でネタを探しているから、3月3日には「ドヴォルザーク雛」でもと思ったが、これがなかなか難しい。

何故かというとドヴォルザーク夫妻をお内裏様とおひな様にして金屏風の前に座らせるのは良しとして、三人官女が決まらないのだ。ブラームス雛はシューマン夫妻を金屏風の前に座らせるという奇策に打って出てブラームス本人を右大臣に据えるというアイデアで十分様になった。三人官女はブラームスの伝記に出現する重要な女性で固めた。リーズル、ユーリエ、アガーテですんなり決まった。他にも候補者がかなりいて三人官女が4、5組作れる程だ。

ところがドヴォルザークは、アンナ夫人の実姉ヨゼファくらいしか見当たらないのだ。伝記を読んでも女性の名前が出てこない。アメリカに招いてくれたサーバー夫人は出資者であるが、ロマンスの対象ではない。結婚して子供が生まれてしまうと、浮いた噂なんぞ本人が流さない限りそうそう流布するものではないと見た。加えてドヴォルザークの場合は結婚前の若い頃の記述にもロマンスらしきものが見当たらないのだ。

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