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2010年5月31日 (月)

室内楽メーカー

音楽之友社刊行の作曲家別名曲解説ライブラリーの中の「ドヴォルザーク」を読む。室内楽のページだ。そこではドヴォルザークを19世紀後半における室内楽の巨匠と位置づけている。

このシリーズ、作曲家毎に作品の全貌が手際よくとりまとめられていて重宝だ。当たり前のことだが、執筆陣は作曲家研究の専門家たちである。当該作曲家のことに詳しいばかりではなく、好きな人たちであると考えられる。執筆者という中立的な立場から逸脱した表現がところどころ現れるのも楽しみの一つになっている。

ドヴォルザークの室内楽概論の執筆者は、深く室内楽を愛しているのだと思う。「19世紀後半における室内楽の巨匠」と位置づけるにとどまらず、ドヴォルザークが手がけた全ジャンルから一つだけを選ぶとしたら、それは室内楽だと断言するのだ。「他を全部捨ててでも室内楽を残す」とまで言い切っている。

さらにそのとばっちりが、ブラームスにまで飛び火している。「他を全部捨ててでも室内楽を残すべき」という形容の前に「ブラームスがそうであるように」とわざわざ言及しているのだ。

もちろんこのあたり一帯の表現に悪意は感じられない。むしろ深い深い愛情の反映であると判るが、これほどの人気シリーズであるから読者層も多岐にわたる。思い切った愛情の表現ではあるが、誤解を招くリスクも覚悟せねばなるまい。

ブラームスに関して言えば私はそうは思わない。「全部捨ててでも室内楽」とまでは思い詰めない。愛情が足りていないのだろうか。

2010年5月30日 (日)

ブログ開設5周年

ブログ「ブラームスの辞書」は本日開設5周年を迎えた。その間1日も記事の更新が途絶えたことが無い。だからこそまた今年もこれを記事に出来る。システムメンテナンス以外の理由で更新が一日でも途絶えたら、「ブログ開設○周年」のネタは使いにくい。

それにしても何かとあわただしい。記念すべき5周年がドヴォルザークネタの奔流に呑み込まれんばかりの勢いだ。本来なら記念企画の一つも打ち出さねばならないところだが、その余裕はない。会期内に用意したドヴォルザークネタを全て公開出来ないかもしれないからだ。予想以上にドヴォルザークネタが膨らんだ嬉しい悲鳴である。

明日からドヴォルザーク特集のサブテーマとして「室内楽」を取り上げる。約1ヶ月半「ドヴォルザークの室内楽」を中心に話を展開する。

2010年5月29日 (土)

神業

ちょっとあり得ないテクニックのことか。もちろん誉め言葉だ。

ブラームスの多楽章器楽曲は一部の例外を除いて緩徐楽章が置かれている。本日は試しにこれらを列挙してみる。

<Adagio系>

  1. ピアノ三重奏曲第1番ロ長調op8初版 Adagio
  2. ピアノ三重奏曲第1番ロ長調op8改訂版 Adagio
  3. 管弦楽のためのセレナーデ第1番ニ長調op11 Adagio
  4. ピアノ協奏曲第1番ニ短調op15 Adagio
  5. 弦楽六重奏曲第2番ト長調op36 Adagio
  6. ヴァイオリン協奏曲ニ長調op77 Adagio
  7. ヴァイオリンソナタ第1番ト長調op78 Adagio
  8. ヴァイオリンソナタ第3番ニ短調op108 Adagio
  9. 弦楽五重奏曲第2番ト長調op111 Adagio
  10. クラリネット三重奏曲イ短調op114 Adagio
  11. クラリネット五重奏曲ロ短調op115 Adagio
  12. チェロソナタ第2番ヘ長調op99 Adagio Affettuoso
  13. ホルン三重奏曲変ホ長調op40 Adagio mesto
  14. 管弦楽のためのセレナーデ第2番イ長調op16 Adagio non troppo
  15. 交響曲第2番ニ長調op73 Adagio non troppo 
  16. ピアノ五重奏曲ヘ短調op34 Andante un poco adagio
  17. クラリネットソナタ第1番へ短調op120-1 Andante un poco adagio 
  18. ピアノ四重奏曲第2番イ長調op26 Poco adagio
  19. 弦楽四重奏曲第1番ハ短調op51-1 Poco adagio 

<Andante系>

  1. ピアノソナタ第1番ハ長調op1 Andante
  2. ピアノソナタ第3番へ短調op5 Andante 
  3. ピアノ四重奏曲第3番ハ短調op60 Andante
  4. 弦楽四重奏曲第3番変ロ長調op67 Andante
  5. ピアノ協奏曲第2番変ロ長調op83 Andante
  6. 交響曲第3番ヘ長調op90 Andante
  7. ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調op102 Andante
  8. ピアノソナタ第2番嬰へ短調op2 Andante con espressione
  9. ピアノ四重奏曲第1番ト短調op25 Andante con moto
  10. ピアノ三重奏曲第2番ハ長調op87 Andante con moto
  11. ピアノ三重奏曲第3番ハ短調op101 Andante grazioso
  12. 弦楽六重奏曲第1番変ロ長調op18 Andante ma moderato
  13. 弦楽四重奏曲第2番イ短調op51-2 Andante moderato
  14. 交響曲第4番ホ短調op98 Andante moderato
  15. ピアノソナタ第3番ヘ短調op5 Andante molto
  16. 交響曲第1番ハ短調op68  Andante sostenuto
  17. ヴァイオリンソナタ第2番イ長調op100 Andante tranquillo
  18. ピアノ五重奏曲ヘ短調op34 Andante un poco adagio
  19. クラリネットソナタ第1番へ短調op120-1 Andante un poco adagio 

上記に出現しない3曲をお判りいただけているだろうか。緩徐楽章が無いのがチェロソナタ第1番とクラリネットソナタ第2番だ。緩徐楽章が「Andante」でも「Adagio」でもないのは唯一、弦楽五重奏曲第1番ヘ長調で、これだけは「Grave ed appassionato」になっている。

さて私が神業と感じる理由を述べる。ブラームス多楽章器楽曲に出現する緩徐楽章では、「Andante」と「Adagio」の数がどちらもピッタリ19作品になる。「Adagio」側にはピアノ三重奏曲第1番が初版と改訂版を別にカウントしているが、一方で「Andante」側では、ピアノソナタ第3番において緩徐楽章が第2楽章「Andante」第4楽章「Andante molto」という具合に2度出現していることで相殺されている。

最後のソナタはop120を背負う2つのクラリネットソナタだ。そのうちの1番へ短調の第2楽章で、「Andante un poco adagio」が登場し19対19になる。最後のソナタ2番変イ長調に緩徐楽章が無いことで、タイスコアのままタイムアップになった。

2010年5月28日 (金)

喫煙具

ブラームスの生きた時代まで遡らなくても、タバコはステイタスだった。とりわけ男性にとってタバコを取り巻くファッションはこだわりの対象だった。

私の父もそうだった。上等のライターをもらえば嬉しそうだった。家の中ではタバコ関連の小道具を収納できる手提げ金庫大の灰皿付きの小箱をいつも持ち歩いていた。

1887年ウィーンを訪れたドヴォルザークに、ブラームスは上等の喫煙具をプレゼントした。それまでの会見から、ドヴォルザークがタバコを吸うことをブラームスが意識していたことは間違いない。タバコ自体に加えてタバコ周辺の小物は、男性への贈り物としてはきわめて一般的だったと思われる。そうドヴォルザークは、ブラームスの前でうまそうにタバコを吸ったのだ。

ブラームスから喫煙具をもらうとは、さぞや嬉しかったと思うが、実は事はそれほど単純ではなかったらしい。ドヴォルザークの妻アンナは、タバコ嫌いだったという。愛妻家のドヴォルザークは自宅で思うように喫煙出来なかったのだ。だから外出先でのタバコが楽しみだった。ブラームスの前でうまそうに吸ったのは、きっとその反動だ。

比較伝記学」シリーズが昨日終わってひとまず一服。

2010年5月27日 (木)

ホノルカ

クルト・ホノルカ(1913-1987)というチェコの音楽学者。ドヴォルザーク関連情報を調べるとよく出くわす名前だ。彼の書いたドヴォルザークの伝記は和訳されて音楽之友社が1994年に刊行している。通常の書店で見かけることは少なくなったが、古書店や図書館にはキッチリ置かれている。

この伝記を読むと暖かな気持ちになれる。ホノルカのドヴォルザークラブが充満しているのだが、それが過剰になるまいと自律している姿勢も同等かそれ以上に透けて見える。そりゃあ長い人生だから、対立もあれば論争もあるだろう。主人公ドヴォルザークと友好関係になかった人物を全くけなしていない。その代表がジムロックだ。ドヴォルザークの友人の一人と位置づけてはばかることがない。出版に際しての揉め事ばかりが強調される情報も少なくない中、一際目立つ。

ジムロックへの視線が暖かいことと逆に、ドヴォルザークにオペラのリブレットを供給した脚本家たちへの言葉は手厳しい。唯一こき下ろしている印象だ。

そして実は何より嬉しいのは生涯編全174ページの中、「ブラームスとの出会い」と銘打たれた1章をブラームスのために割いている。それは28ページにも及ぶ。そのボリュームもさることながら、ドヴォルザーク愛好家にとってもブラームス愛好家にとっても嬉しくなるようなトーンが横溢している。

やはり伝記は出来るだけ複数系統を平行して読むに限る。

2010年5月26日 (水)

公平であること

ブラームスの伝記観を端的に示した言葉「公平であることは大切だが、冷淡であってはならない」は、思うだに含蓄がある。執筆者心得として金言だと思う。同時に難しいとも感じる。

伝記の執筆依頼が来るという時点で既にその作曲家研究の第一人者という位置付けで、一目置かれていることは間違いない。学問的な泰斗であることはもちろんだが、その作曲家を好きである可能性がきわめて高いと思われる。「好きであること」は基本的には良いことだが、「公平であること」とのバランスが難しいと感じる。

音楽之友社刊行の「大作曲家◎人と作品ドヴォルザーク」はドヴォルザーク没後100年の節目に刊行された好著だ。お手頃な価格の中にデータ満載で重宝する。筆者様のドヴォルザークラブが、けして大げさになることなく伝わって来る。

一方でドヴォルザークラブが高じてジムロックの描写がきついとも感じる。全体には穏和で控えめな記述なのだが、どうもジムロックに対する記述は手厳しい。

  • 交響曲第5番とその他をジムロックに売りつけた。
  • 8つのユーモレクで4000マルクをジムロックから搾り取った。

元々作品の出版にあたってジムロックとさんざん揉めた話が、あちこちで仄めかされているが、上記は極めつけだ。淡々とした事実の記述というニュアンスを超えている。ドヴォルザークラブだけはひしひしと伝わるが、筆者様はジムロックがブラームス作品に支払った金額を知っていたのか大変興味深い。

2010年5月25日 (火)

貿易収支

一国の輸出金額から輸入金額を差し引いた数値か。これがプラスの場合「貿易黒字」といい、マイナスの場合「貿易赤字」という。

先般から取り上げている比較伝記学の話題だ。

音楽之友社刊行の「作曲家◎人と作品」シリーズは、いわゆる大作曲家についてのコンパクトな伝記群を形成している。同じ判型、同等のページ数、共通の編集方針に貫かれた伝記たちだ。このシリーズのこうした性格は「比較伝記学」の対象にピッタリである。

そこで同シリーズで扱われた作曲家について、本文の中でのブラームスへの言及をカウントした。同時に同シリーズの「ブラームス」の中でそれらの作曲家への言及回数を併記する。

言及した回数を赤文字で示し言及された回数を青文字で示した。たとえばドヴォルザークは「5-33」だ。ブラームスの伝記でドヴォルザークに5回言及している一方、ドヴォルザークの伝記でブラームスが33回言及されていることを示している。この状態を仮に「貿易収支は黒字である」と定義した。

  1. ヘンデル 8-0
  2. バッハ 25-*
  3. ハイドン 5-*
  4. モーツアルト 7-0
  5. ベートーヴェン 46-*
  6. シューベルト 17-0
  7. メンデルスゾーン 14-*
  8. ショパン 4-0
  9. シューマン 62-21
  10. リスト 14-9
  11. ヴェルディ 1-0
  12. ワーグナー 30-6
  13. ブルックナー 2-16
  14. チャイコフスキー 4-13
  15. ドヴォルザーク 5-33
  16. プッチーニ 0-0
  17. マーラー 2-12
  18. ドビュッシー 0-0
  19. ラヴェル 0-*
  20. ストラヴィンスキー 0-*
  21. ショスタコービッチ 0-0

バッハ、ハイドン、メンデルスゾーン、ベートーヴェン、ラヴェル、ストラヴィンスキーはまだ刊行されていない。うすうす予想は出来ていたが、貿易黒字はドヴォルザーク、マーラー、チャイコフスキー、ブルックナーの4名だけだ。このうち年上はブルックナーだけである。

おバカが止まらない。

2010年5月24日 (月)

2人を映す鏡

お気づきの方も多いと思う。昨年9月8日に立ち上げたドヴォルザーク特集は、9月22日の記事「15分の1」をキッカケに、ジムロックに関連する記事を意図的に連ねた。同時に、音楽家の伝記ではあまり大書されることの少ない「お金」にまつわるネタも平行して配置した。

ジムロックがドヴォルザークの伝記における言及回数上位を占めることは昨日の記事「登場人物」で申し上げたばかりだ。昨年10月15日の記事「出版社との折り合い」でジムロックとブラームスの蜜月関係に言及した。

つまりジムロックは、私が現在追い求めているブラームスとドヴォルザーク双方に浅からぬ関係がある人物だということだ。

ジムロックという人物は音楽の素養もある、優秀な経営者である。その姿をブラームス、ドヴォルザークの双方から浮き彫りにしてきたつもりだ。それに成功すれば、きっとブラームスをより深く知ることが出来ると信じる立場だ。

間接照明の光源として、ジムロックはとても優秀だと感じる。

2010年5月23日 (日)

登場人物

昨日の記事「比較伝記学」で言及した手法を試してみた。ブラームスとドヴォルザークの伝記巻末の人名索引に登場する名前の比較だ。原則として作曲家に絞ったが、適宜作曲家以外も加えた。音楽之友社刊行の「作曲家◎人と作品」シリーズのブラームスとドヴォルザークの人名索引だ。赤数字がブラームスの伝記における言及回数で、青数字がドヴォルザークとする。たとえば1番のウェーバーは、ブラームスの伝記では2回言及があるのに対してドヴォルザークの伝記では言及が無いということだ。

  1. ウェーバー 20
  2. ヴェルディ 10
  3. ヴォルフ 12
  4. グリーグ 11
  5. サン・サーンス 20
  6. シェーンベルク 20
  7. シベリウス 02
  8. ジムロック 1738
  9. シュトラウスⅡ 50
  10. シュトラウス,R 20
  11. シューベルト 179
  12. シューマン,ロベルト 624
  13. シューマン,クララ 520
  14. ショパン 44
  15. スメタナ 027
  16. チャイコフスキー 41
  17. ドヴォルザーク 5-
  18. ハイドン 50
  19. バッハ,ヨハン・セバスチャン 253
  20. ハンスリック 195
  21. ブラームス -33
  22. ブルックナー 20
  23. ベートーヴェン 4612
  24. ヘンデル 80
  25. マーラー 21
  26. ムソルグスキー 04
  27. メンデルスゾーン 140
  28. モーツアルト 75
  29. ヤナーチェク 07
  30. ヨアヒム 485
  31. リスト 1414
  32. ワーグナー 3029

見ての通りだ。案の定興味深い。さらにこれをランキング化する。赤文字はブラームスで青文字がドヴォルザークだ。

  • 第1位 ロベルト・シューマンジムロック
  • 第2位 クララ・シューマンブラームス
  • 第3位 ヨアヒムワーグナー
  • 第4位 ベートーヴェンスメタナ
  • 第5位 ワーグナーリスト

ブラームス側は穏当なところだ。ワーグナーがバッハを抑えて5位に食い込んでいるのが目立つ程度だ。ワーグナーが同時代を生きただけにむしろこれが自然だ。はるか昔のバッハが6位に入る方が異常だ。

ドヴォルザーク側の第1位がジムロックとは恐れ入った。ジムロック恐るべしだ。2位はブラームスが入る。スメタナが第4位というのが目立つ。両者ともランクインはワーグナーだけだ。ある意味でさすがである。

何だか奥が深そうだ。

2010年5月22日 (土)

比較伝記学

何やら物々しいタイトルだが、完全に私の造語だ。どこかの大学でこういう名前の講義が開講されている訳ではない。

5月19日の記事「間接照明」においてブラームス以外の伝記に現われるブラームスの記述を通じて、ブラームスの姿を客観的に捉えたいと書いた。現在ドヴォルザークを題材に実験を継続中である。

ブラームスの伝記だけを読んでいては判らぬことが、ドヴォルザークの伝記を併読することで浮かび上がることがある。たとえば出版人ジムロックのキャラは、どちらか一方の伝記を読むばかりでは片手落ちの理解になる。

もっと対象を大きく取ろう。ブラームス、ドヴォルザークの伝記双方の巻末に人名索引がある。登場人物の名前とともに登場するページも記載される。この顔ぶれや言及の頻度をカウントして比較する。あるいは両方に登場する地名をカウントして同様の処理をする。こうした処理は数学とくに統計の知識が優先する。下手な思い入れが無いほうがいい。

伝記が書かれるほどの作曲家全部について相互の関係の濃淡が類推出来ると感じる。 現代日本は、これをやるのに良い条件が揃っている。クラシックと呼ばれる音楽の故郷から時間的にも地理的も遠く隔たっていることで、かえって客観性が保てると思う。日本語で読める作曲家の伝記が数多く出ている。同一の出版社が伝記をシリーズ化してくれている。同一の判型、同程度のページ数、共通した編集方針の伝記が存在することに大きな意味がある。

何だか面白いような気がする。

2010年5月21日 (金)

クララの演奏旅行先

昨日の記事「気になる」でドヴォルザークはクララ・シューマンに会ったことがあるかという疑問を提示した。もしかして旅先の英国でとも書いた。手掛かりを求めてクララの海外への演奏旅行を調べてみた。

  • 1832年 フランス
  • 1837年 オーストリア、ハンガリー
  • 1839年 フランス
  • 1842年 デンマーク
  • 1844年 ロシア
  • 1846年 オーストリア
  • 1853年 オランダ
  • 1854年 ベルギー
  • 1856年 オーストリア、ハンガリー、イギリス、デンマーク
  • 1857年 イギリス、スイス
  • 1858年 スイス、オーストリア、ハンガリー
  • 1859年 オーストリア、イギリス
  • 1860年 オランダ、オーストリア
  • 1861年 ベルギー
  • 1862年 スイス、フランス、ベルギー
  • 1863年 オランダ、フランス、ベルギー
  • 1864年 ロシア
  • 1865年 ボヘミア、イギリス
  • 1866年 オーストリア、ハンガリー
  • 1867年 イギリス
  • 1868年 ベルギー、イギリス、オーストリア、ハンガリー
  • 1869年 オランダ、イギリス、オーストリア
  • 1870年 イギリス
  • 1871年 オランダ、イギリス
  • 1872年 イギリス、オーストリア、ハンガリー
  • 1873年 ベルギー、イギリス
  • 1876年 オランダ、イギリス
  • 1877年 オランダ、イギリス、スイス
  • 1879年 スイス
  • 1880年 スイス
  • 1881年 イギリス
  • 1882年 イギリス
  • 1883年 オランダ
  • 1884年 イギリス
  • 1886年 イギリス
  • 1887年 イギリス
  • 1888年 イギリス

何だか興味深い。クララという人のエネルギーが伝わる感じだ。一方でイタリアが現れないことが目立つ。演奏旅行でなければイタリアに行っているハズだが、コンサートツアーが1度もないとは驚いた。

ボヘミアは1865年に一度きりだ。おそらくプラハなのだと思う。このときドヴォルザークは24歳でプラハに進出を果たしていたが、相当な貧乏だったハズだ。英国で会ったとすれば青文字の3度だけについて可能性が残る。

2010年5月20日 (木)

気になる

音楽史について調べていると、作曲家演奏家同士の会見の記述が頻繁に現れる。後世の愛好家にとっては興味をかき立てられる情報だ。本日はそうした観点から気になる話題を一つ。

ドヴォルザークはクララ・シューマンと会ったことがあるのだろうか。

2人の伝記を読んでもはっきりと会ったとは書いてない。ドヴォルザークがブレークするのは、1878年のスラブ舞曲だからクララは59歳である。オーストリア国家奨学金への応募の時点でもクララは55歳だった。ドヴォルザークは当代最高のピアニストであったクララの名前くらいは知っていたに決まっているが、会った形跡がない。当時の大音楽家にとって、欧州は狭い。鉄道の普及もあって彼等は演奏会のために欧州中を駆け回ったのだ。だからどこか旅先でバッタリということはあり得るのだが、記録されていない。

条件を緩める。演奏会に訪れていたクララをドヴォルザークが見たことはあったのだろうか。クララはプラハを演奏旅行で訪れている。ドヴォルザークのプラハ進出1857年以降、ドヴォルザークがクララを演奏会場で見た可能性はある。1865年がその最初で最後の機会だったはずだ。貧乏でチケットが買えなかった可能性が低くないというのが難点だ。

あるいは2人がたびたび訪れたロンドンでバッタリということはなかったのかと考える。ドヴォルザーク最初の訪英は1884年。1888年にはクララの最後の訪英があったが、この年ドヴォルザークは英国に渡っていない。1884年から86年までの計5回がチャンスだった。

2010年5月19日 (水)

間接照明

光源からの光が直接目に入らない照明とでも申して良いのだろうか。月夜の雪景色が仄かに明るく感じるのも間接照明の一種かもしれない。

現実的には照明器具からの光を天井や壁面に反射させて得られる照明のことを指す。かけたエネルギーに対する得られる照度は低くなるからエネルギー効率は落ちる反面、ソフトな感じが得られる。これに対する言葉が直接照明だ。照明器具からの光が直接目に入る。エネルギー効率は良いがギラギラとまぶしく感じることもある。

ブラームスのことを調べようと思った場合、ブラームス関連の書物をあたる。当たり前の話だ。これはいわば直接照明だ。手っ取り早い。ところが、ブラームス関連書物のうち伝記と呼ばれる一群には注意も要る。主人公の悪い面が実態通りに書いていないことがあるからだ。伝記が書かれるような偉人でさえ、長短両面があるに決まっているが、短の部分が故意か偶然か記述がぬるいことが多い。長の部分があまりに大きいために、偉人扱いにはなっているものの、実は短も相当なものだったというケースもあろう。伝記とはそういうものだ。

これに対する奥の手がある。いわば間接照明だ。他者について書かれた書物の中のブラームスの記述を調べるのだ。手っ取り早さは数段落ちるが、ブラームスが必要以上に持ち上げられている可能性は低い。目的の人物との関係浅からぬ人物、あるいは敵対した人物の伝記は有力なツールとなり得る。

ブログ「ブラームスの辞書」の中では、クララ、バッハ、ドヴォルザークを光源に据えた間接照明によってブラームスを浮かび上がらせたいと思っているところだ。

間接照明の光源が多いほど、客観性が増すと思う。

2010年5月18日 (火)

9曲クラブ

ドヴォルザーク最後の交響曲は現在でこそ第9番として定着しているが、初版の表紙には「第5番」と書いてあった。その他の交響曲の状況を以下に示す。

  • 第1番 初演1936年 出版1961年
  • 第2番 初演1888年 出版1951年
  • 第3番 初演1874年 出版1911年
  • 第4番 初演1892年 出版1912年
  • 第5番 初演1879年 出版1888年 ただし「第3番」として
  • 第6番 初演1881年 出版1882年 ただし「第1番」として
  • 第7番 初演1885年 出版1885年 ただし「第2番」として
  • 第8番 初演1890年 出版1892年 ただし「第4番」として
  • 第9番 初演1893年 出版1894年 ただし「第5番」として

ドヴォルザーク生前の出版は現行の5番以降の5曲だ。きっちりと出版順に付番されたことが判る。現行番号でいう2番3番4番は微妙だ。生前に初演されながら出版は没後になっている。さらに1番は初演も出版も没後である。

ドヴォルザークの交響曲がはっきりとその全貌を認識されるのは今世紀に入ってからで、出版物として完結するのは1961年ということになる。ここに至ってはじめて新世界交響曲が、「第9番」という認識が定着したということだ。

特に第1番「ズロニツェの鐘」は、ドヴォルザーク自身でさえすっかり忘れていたとされている。新世界交響曲のことを「5番と印刷された8番目の交響曲」と認識していた可能性が高い。交響曲1曲を書いておきながら、すっかり忘れてしまうというのも豪快な話である。

現在でこそベートーヴェン、ブルックナー、マーラーという「9曲クラブ」の一員と認識されているドヴォルザークだが、本人は8曲と思っていたかもしれない。

2010年5月17日 (月)

ズロニツェの鐘

数奇な運命を辿り、全くの偶然から再発見されたドヴォルザークの交響曲第1番ハ短調の通称だ。1865年の作曲にもかかわらず初演は1936年を待たねばならない。完成年で申せばブラームスの1番より早い。

ドヴォルザークもまたキャリア初の交響曲にハ短調を採用した。「ドヴォルザークもまた」と申し上げるには訳がある。当ブログの主役ブラームスと同じだからだ。

「ズロニツェの鐘」の楽章毎の調性を列挙する。

  • 第1楽章 ハ短調
  • 第2楽章 変イ長調
  • 第3楽章 ハ短調
  • 第4楽章 ハ長調

驚いたことにベートーヴェンの第5交響曲と完全に一致する。これを偶然と放置するにはこらえ性が足りていない。ベートーヴェンからの影響を嫌というほど喧伝されているブラームスの第1交響曲でさえ、これほどの一致は見せていない。それでももちろん「ズロニツェの鐘」が「ベートーヴェンの第10」だと評された形跡はない。

2010年5月16日 (日)

野鳩

ドヴォルザークの交響詩のタイトルだ。1898年に初演されている。

チェコの詩人エルベンの詩集「花束」の中のバラードから着想されている。

夫を毒殺して、若い男と再婚しようとした夫人が、罪の意識から発狂して自殺に至るという筋立てだ。夫が埋葬された墓の上に大きな樫の木があって、そこに野鳩が棲みついた。その鳴き声が夫人を追い詰めてゆくというストーリーだ。野鳩とその鳴き声が物語のキーになっている。

演奏時間20分ほどにまとめられた佳品。

ヤナーチェク指揮で初演された他、マーラーも初演の翌年にウィーンフィルの演奏会で取り上げている。

一方、ドヴォルザークの趣味はハトの飼育だった。ヴィソカーに別荘を構えてから、そこでハトの飼育を始めたのだ。伝記には訪問先でハト料理が供され憤然として引き上げたエピソードが大抵書いてあるが、この趣味が鳩レースへの参加を意味するのかまでは言及されない。

愛鳥週間今日まで。

2010年5月15日 (土)

バラード

フランスに起源を持つ詩の定型の一つ。押韻や行数などが定型化されている。

ドヴォルザークはチェコの詩人エルベンの詩集「花束」の中から4つのバラードを選んで交響詩に仕立てた。タイトルは下記の通りだ。

  1. 水の精
  2. 真昼の魔女
  3. 金の紡ぎ車
  4. 野鳩

ストーリーを調べると何やら共通点がある。どうも話が陰惨だ。ストーリーの展開上どの作品でも人が死ぬのだ。「金の紡ぎ車」以外の3作はラストで人が死ぬからどうも後味がよろしくない。エルベンという人の作風かもしれないが、それを題材に採用するかどうかはドヴォルザーク本人の判断に違いない。交響詩にするからには起伏のあるストーリーの方がいいに決まっている。テキストを忠実に描写した結果、平板な音楽になってしまうからだ。

その点は理解するが、事情を知らぬ私にとっては「魔女」「亡霊」「復讐」「死」のてんこ盛りは心理的抵抗は避け得ない。

そういえばブラームスのop10-1のバラードも息子の父殺しを母が詰問するという陰惨な内容だった。

バラードの定義は詩形だけでなく、内容も陰惨なものに限るという不文律でもあったのだろうか。

2010年5月14日 (金)

同姓のよしみ

血縁関係が無くても同じ苗字の人には何となく親近感が湧くものだ。

ドヴォルザークのことを調べていて奇妙な話を見つけた。チェコの歴史学者にルドルフ・ドヴォルザークという人がいる。私が追いかけているアントニン・ドヴォルザークとは血縁関係はない。けれどもこの人作曲家ドヴォルザークに何となく親近感を持ったのだろう。ある時古物屋で手書きの楽譜を見つけた。ドヴォルザークと署名があるから、それを買い求めた。

やがてこのルドルフ・ドヴォルザークがこの世を去った後、遺品の中から発見されたその楽譜がセンセーションを巻き起こした。それがドヴォルザークの交響曲第1番の発見である。

24歳のドヴォルザークによって書かれたハ短調の交響曲で「ズロニツェの鐘」と呼ばれている。オーストリア国家奨学金とは別の懸賞に応募するために書かれたが、ドヴォルザーク本人すらその存在を忘れていたという代物だ。

この世の中のブラームスさんの遺品から、ヨハネス・ブラームスの未発表作品が発見される可能性を期待してしまう。

2010年5月13日 (木)

もう一つの論争

19世紀後半のドイツ・オーストリアの楽壇においてブラームス派とワーグナー派の論争があったことは有名である。

ところが、隣国のチェコでもちょっとした論争があったという。19世紀後半は民族の独立の風潮の中、国民楽派の台頭を見た時期である。民族的な題材を用いたオペラや交響詩を切り開いたスメタナを国民楽派の祖とする考え方が根付いていった。これが一方の当事者だ。もう片方はドヴォルザークである。民族的な素材を用いて民族的な心情を表現したことは事実だが、その器にドイツ・オーストリア伝統のソナタ形式を用いたことが批判の対象になった。目的は同じなのに表現の手段に「標題音楽」を用いるか「絶対音楽」を用いるかの違いに見える。

チェコ国内では、当時スメタナ派有利だったらしい。ドヴォルザークより16歳年長のスメタナは、チェコ音楽界のリーダーとしてドヴォルザーク作品にも理解を示したし、ドヴォルザークもスメタナを先輩として尊敬していたが、周囲はそっとしておかなかった。音楽学者を中心とした論争がドヴォルザークの死後も続いていたという。

一方で国民の支持が厚いスメタナの日常会話は皮肉なことにドイツ語だったらしい。

2010年5月12日 (水)

スメタナ

ドヴォルザーク、ブラームス双方の伝記でしばしば言及されるジムロックについては既に、バカにならない数の記事を公開してきた。一方ブラームスの伝記においては、顧みられることはほぼ皆無ながら、ドヴォルザークの伝記においては最重要な位置付けにいるのがベドルジハ・スメタナ(1824-1884)だ。

チェコ国民学派の開祖と位置付けられており、母国チェコでは人気の上でドヴォルザークを凌ぐとも言われている。

ドヴォルザークは1864年から1871年までプラハの仮国民劇場オーケストラにヴィオラ奏者として所属していた。2年遅れてスメタナが指揮者として着任し薫陶を受けた。ドヴォルザークより16歳も年長で、何よりもオペラの分野で傑作を残した。さらに「わが生涯」と通称される弦楽四重奏の非公開初演でドヴォルザークがヴィオラを受け持っている。逆にドヴォルザークの作品のいくつかがスメタナ指揮で初演されている。

1884年5月12日スメタナ没。これによりチェコ国民楽派の第一人者は、ドヴォルザークに移ってゆく。

2010年5月11日 (火)

荒削り

微妙な言葉だ。手許の辞書には「物事の仕上げが不十分なことのたとえ」とある。あまりよくないニュアンスが感じられる。そうした一方で「伸びしろの大きさ」「ふところの深さ」が込められているケースも見かける。

音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻ホイベルガーの記述によれば1887年12月4日、ウィーンフィルがハンス・リヒターの指揮でドヴォルザークの「交響的変奏曲」を演奏したことがわかる。ブラームスがこれを聴いた感想をホイベルガーに述べている。

「すごい。ちょっと荒削りで、なんというか野性的なんだ」

ホイベルガーはブラームスが感激して夢中で述べたと証言している。ブラームスの「荒削り」「野性的」という表現には否定的なニュアンスは感じられない。

1877年に完成したドヴォルザークの管弦楽作品だ。管弦楽のための変奏曲はあまり数が多くない。御大ブラームスには至宝「ハイドンの主題による変奏曲」があるから、案の定ドヴォルザークが手本にしていた可能性を指摘する向きは多い。けれども根拠が明示されていることは少ない。世の中に多いとは言えないジャンルにブラームスとドヴォルザークが作品を残していれば、後から出した方に影響があってと論ずることはありがちなことである。根拠を示さぬ指摘なら中学生でも出来る。もう少しロジカルにならないものだろうか。

そんなことより作品番号のない男声合唱曲B66-3「ヴァイオリン弾き」という作品の旋律がそっくり転用されている。そのせいなのかどうか定かではないが、途中にコンサートマスターによる繊細なソロがある。先にその合唱曲を聴いておくと味わいが一層深まることを付け加えておく。

2010年5月10日 (月)

マジで無理

愛鳥週間が始まる。昨年の5月10日は、歌曲特集真っ只中ということで、悪乗りがエスカレートし、ブラームス歌曲のテキストに登場する鳥をリストアップするという暴挙に出た。それが「動物」「植物」「色彩」へと展開し、歌曲特集に花を添えた。

ブログ上でブラームスに試みたことを、ドヴォルザークにも応用したいと願っているから、ドヴォルザーク歌曲に登場する鳥をリストアップ出来ないかと考えた。

難易度が半端でなく高い。

まず我が家にドヴォルザーク歌曲の楽譜が無い。CDも無い。これだけで挫折するには十分だ。万が一あったとしても歌詞の多くはチェコ語だ。

ドヴォルザークで鳥のリストが完成し、既に作成済みのブラームスと比較が出来たらどんなに面白いだろう。それを作る過程と完成後の比較からどれほどの記事が書けるか、想像してみるがいい。

歌曲の全作品の楽譜とCDが揃っている上に、強力な電子辞書まである。ブラームスは幸せだ。

2010年5月 9日 (日)

母の日

今日は母の日だ。ブラームスの母クリスティアーネは写真が残っている。当時はまだ写真は珍しい時代だから、ある程度お金持ちでないと残りにくい。画家に肖像を描かせるにもお金が要る。ブラームスの母は息子が作曲家としてブレークして金回りが良くなった後に写真を残すことが出来た。

ところが、ドヴォルザークの母アンナの写真が見つけられない。肖像画も見つからない。父親の肖像は残っているが、母親はお手上げである。

写真や肖像が残ることは大変なことだったのだ。

2010年5月 8日 (土)

平城京遷都1300年

西暦710年「平城京に都を遷す」は、受験生の常識だ。2010年の今年は奈良・平城京に都がおかれてから1300年の節目である。

次女は昨日から修学旅行に出発した。初日の昨日奈良を訪問しているハズだ。明日までの2泊3日は、トロンボーンもヴァイオリンも忘れて古都を満喫して欲しい。

本来ブラームス神社のご利益など期待できないが、出発の日がブラームスの誕生日だったから、道中ブラームスのご加護をお祈りした。

2010年5月 7日 (金)

アントン・ザイドル

相当なワグネリアン。ワーグナーに心酔したハンガリー生まれの指揮者だ。

1891年ニューヨーク・フィルの指揮者になった。ドヴォルザークの新世界交響曲の初演を指揮したのはこの人だ。

ドヴォルザークはアメリカから帰国後絶対音楽の分野であまり曲を遺していないことは2月9日の記事「多分偶然」で言及した。おそらくそれは、ドヴォルザーク自身のオペラへのあこがれが最大の原因だと思うが、ニューヨークでアントン・ザイドルと知り合ったことも影響しているような気がする。

ワーグナー唯一の交響曲ハ長調の自筆スコアは紛失している。現在出版されているのは、パート譜を元に復元された楽譜だという。この復元を担当したのはアントン・ザイドルその人だ。凄腕のワグネリアンだということが判る。

アントン・ザイドルの誕生日は皮肉なことにブラームスと同じ5月7日だ。

2010年5月 6日 (木)

チャイコフスキーの嘆き

本業と平行して著述活動をしていた作曲家は意外と多い。シューマンやワーグナーがすぐに思い浮かぶ。ブラームスやドヴォルザークは違う。このほどチャイコフスキーの文章を見つけた。ブラームスについての見解が書かれている。その中に垣間見えるチャイコフスキーのブラームス観を以下に列挙する。

<プラスのニュアンス>

  1. 立派で信念に忠実でエネルギッシュ
  2. ドイツではブラームスに対する愛着が大変広がっている
  3. 数多くの権威者、あらゆる音楽協会がブラームスの音楽の助成と保護に尽力中
  4. ほとんどベートーヴェンと同等の扱いを受けている。
  5. スタイルが常に崇高
  6. 大まかな表面上の効果をアテにしない
  7. 妙に新しい楽器の組み合わせで聴衆に不意打ちを食わせない
  8. 全てが意味深長かつ堅実で、明らかに独立独歩

<マイナスのニュアンス>

  1. 旋律的な独創性の欠如
  2. 楽想に特色がない
  3. よくわかる旋律がほとんど提示されない
  4. 和声的、副次的、転調的な付属物で埋め尽くされている

明らかにチャイコフスキーは困惑している。彼の感性に照らせば、ブラームスのドイツでの高い位置づけが不可解なのだ。短い文章の中に称賛と非難が交互に現れる。挙げ句の果てに想像力の欠如を埋め合わせるために、深遠さを装っていると推測し、「何よりも美しさが欠けている」と結ぶ。

様々な立場の読者を意識して公表された文章ならではの、迂回した言い回しに溢れていることに感心する。ハンスリック、ビューロー、カルベック、ガイリンガー等ブラームス党員たちの称賛一辺倒よりもある意味で公平とも感じる。下手をすると苦笑いをしながらブラームスも同意しかねない説得力が宿っている。

もう一度上記のマイナスのニュアンスで挙げられたことをよく読んでみる。チャイコフスキーは、自分はそれらを全て克服済みだという立場だと思われる。同様に克服済みなのがドヴォルザークだとも感じる。チャイコフスキーのこの原文にはドヴォルザークが念頭にあったとは思えないが、さんざん指摘されているドヴォルザークの長所にピタリだ。おそらく指摘事項を多分にブラームスは意識していると思う。自らに不足する要素を併せ持つドヴォルザークへの肩入れがその証拠だ。

チャイコフスキーの誕生日は5月7日だ。本来明日公開したい記事だが、今年ばかりはそうも行かぬ事情がある。

2010年5月 5日 (水)

国葬

国家が取り仕切る葬儀くらいのぬるい定義しか思い浮かばない。

1904年5月1日ドヴォルザークがプラハでこの世を去った。兄のような存在ブラームスの没から7年だ。

葬儀は5月5日。国葬として行われた。兄貴分のブラームスでさえ国葬ではなかった。ハンブルク生まれのブラームスは1862年以降ウィーンに定住したが、やはり国葬にはしにくいのだろう。ドイツの国葬にもオーストリアの国葬にもなっていない。

何と言ってもドヴォルザークはオーストリア貴族院の終身議員だった。音楽家としては初めての快挙らしい。もちろんブラームスもなっていない。ドヴォルザークの社会的な位置づけは相当なものなのだ。

オーストリア貴族院の終身議員にして、世界的な作曲家が首都プラハで没したのだ。国葬をしてもどこからも文句は出ない。

2010年5月 4日 (火)

美人薄命

シューマンの3女ユーリエが、27歳の若さでこの世を去ったことは知られている。現代よりも平均寿命は短かったとはいえ、27歳はいかにも若い。

実はドヴォルザークの3女オティーリエも27歳で亡くなっている。1878年生まれの彼女が1905年に亡くなっていたのだ。父アントニン・ドヴォルザークが没した翌年のことだ。ドヴォルザークの伝記には書かれていないことが多いので見落としがちだ。

プラハ音楽院におけるドヴォルザークの教え子スークと1898年に結婚していたがわずか7年の結婚生活だったということだ。

2010年5月 3日 (月)

信心深さ

ブラームス関連書物を読んでいて感じることがある。ブラームスが教会に行ったという記事を見かけない。数々の記述からブラームスがプロテスタントであることは容易に推測出来るが、あまり信心深いという感じがしない。日曜日に教会に行くことなど、当たり前だからいちいち伝記には書かれないのかもしれないが、気になる。そりゃあ親しい友人とはクリスマスカードのやりとりはしているし、贈り物も交換しているが、今一つ熱心さに欠けているような気がする。

バッハはライプチヒ・トマス教会のカントルだからとかく教会関連の記述が多い。リストは僧籍に入っていたし、ブルックナーは教会のオルガニストだ。ドヴォルザークは割と頻繁に「敬虔なカトリック」であったという記述にぶつかる。

音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻157ページに興味深い記述がある。1896年2月24日のことだ。ブラームスがドヴォルザークを「熱狂的なカトリック」と称している。「ドヴォルザークほどの働きバチは、疑ったりするヒマが無いから、子供時代に刷り込まれたことに一生従うのさ」と言っている。「自分とは逆に」というニュアンスが言外ににじみ出る。

もちろんブラームスには無視しえぬ質量の宗教作品がある。多くの場合のテキストは、聖書から選ばれている。聖書に関する知識は詩人のヴィトマンも感心しているが、信仰の深さが特筆大書されているわけではない。当たり前だから書いていないとも言える。

一方、ドヴォルザークはブラームスを評して「これほどの大人物でありながら、信仰を持っていない」と嘆く。ドヴォルザークには「大人物には確固たる信仰があるものだ」という基準があったことを物語る。そしてドヴォルザークはブラームスがその基準を満たしていないと感じているということなのだ。ブラームスのドヴォルザーク評と表裏の関係ながら矛盾しないエピソードである。

2010年5月 2日 (日)

挽歌

死者に捧げる歌。万葉集では「相聞」「雑歌」と並ぶ三大部立の一つである。「挽」という文字には「引く」という意味がある。死者の棺を挽く時の歌だ。いわば葬送行進曲かもしれない。

棺を挽く足取りだから物理的にも心情的にも重いのだ。サクサクと軽快に流れるようなアレグロでは具合が悪かろう。ブラームスではドイツレクイエムの第2曲や、op13の「埋葬歌」などが思い浮かぶ。何よりも「ネーニエ」op82だ。「Nanie」(aはウムラウト)は、ローマに由来する「挽歌」という意味だ。友人で画家のフォイエルバッハの死を悼んでシラーのテキストを得て作曲したものだ。

ドヴォルザークにも出色の葬送行進曲がある。スターバトマーテルop58の第3曲「慈しみの泉なる御母よ」だ。付点の効果が素晴らしく、モーツアルトのレクイエムの「コンフターティス」に似ていると思う。明記こそされていないが、気分はまさに挽歌である。

2010年5月 1日 (土)

ドヴォルザーク忌

5月1日はドヴォルザークの命日だ。プラハで没した。

彼は1841年9月8日の生まれ。つまり9月生まれ5月没だ。これはブラームスの大好きなクララと同じだ。

ドヴォルザークの没年は1904年なのだと思うが、国内屈指のメジャーな音楽系出版社から刊行されている作品解説集の冒頭、生涯編においてドヴォルザークの没年を1903年としている。これだけなら単なるミスかとも思うのだが、わざわざ「日露戦争の前年」と付記しているから、単純な誤植ではない。

複数の資料をあたればすぐにわかるのだが、この本一冊で試験前の調べ物をしていると、痛い目を見ることもありそうだ。

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