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2010年5月20日 (木)

気になる

音楽史について調べていると、作曲家演奏家同士の会見の記述が頻繁に現れる。後世の愛好家にとっては興味をかき立てられる情報だ。本日はそうした観点から気になる話題を一つ。

ドヴォルザークはクララ・シューマンと会ったことがあるのだろうか。

2人の伝記を読んでもはっきりと会ったとは書いてない。ドヴォルザークがブレークするのは、1878年のスラブ舞曲だからクララは59歳である。オーストリア国家奨学金への応募の時点でもクララは55歳だった。ドヴォルザークは当代最高のピアニストであったクララの名前くらいは知っていたに決まっているが、会った形跡がない。当時の大音楽家にとって、欧州は狭い。鉄道の普及もあって彼等は演奏会のために欧州中を駆け回ったのだ。だからどこか旅先でバッタリということはあり得るのだが、記録されていない。

条件を緩める。演奏会に訪れていたクララをドヴォルザークが見たことはあったのだろうか。クララはプラハを演奏旅行で訪れている。ドヴォルザークのプラハ進出1857年以降、ドヴォルザークがクララを演奏会場で見た可能性はある。1865年がその最初で最後の機会だったはずだ。貧乏でチケットが買えなかった可能性が低くないというのが難点だ。

あるいは2人がたびたび訪れたロンドンでバッタリということはなかったのかと考える。ドヴォルザーク最初の訪英は1884年。1888年にはクララの最後の訪英があったが、この年ドヴォルザークは英国に渡っていない。1884年から86年までの計5回がチャンスだった。

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