信心深さ
ブラームス関連書物を読んでいて感じることがある。ブラームスが教会に行ったという記事を見かけない。数々の記述からブラームスがプロテスタントであることは容易に推測出来るが、あまり信心深いという感じがしない。日曜日に教会に行くことなど、当たり前だからいちいち伝記には書かれないのかもしれないが、気になる。そりゃあ親しい友人とはクリスマスカードのやりとりはしているし、贈り物も交換しているが、今一つ熱心さに欠けているような気がする。
バッハはライプチヒ・トマス教会のカントルだからとかく教会関連の記述が多い。リストは僧籍に入っていたし、ブルックナーは教会のオルガニストだ。ドヴォルザークは割と頻繁に「敬虔なカトリック」であったという記述にぶつかる。
音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻157ページに興味深い記述がある。1896年2月24日のことだ。ブラームスがドヴォルザークを「熱狂的なカトリック」と称している。「ドヴォルザークほどの働きバチは、疑ったりするヒマが無いから、子供時代に刷り込まれたことに一生従うのさ」と言っている。「自分とは逆に」というニュアンスが言外ににじみ出る。
もちろんブラームスには無視しえぬ質量の宗教作品がある。多くの場合のテキストは、聖書から選ばれている。聖書に関する知識は詩人のヴィトマンも感心しているが、信仰の深さが特筆大書されているわけではない。当たり前だから書いていないとも言える。
一方、ドヴォルザークはブラームスを評して「これほどの大人物でありながら、信仰を持っていない」と嘆く。ドヴォルザークには「大人物には確固たる信仰があるものだ」という基準があったことを物語る。そしてドヴォルザークはブラームスがその基準を満たしていないと感じているということなのだ。ブラームスのドヴォルザーク評と表裏の関係ながら矛盾しないエピソードである。
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