文学の素養
ブラームスがドヴォルザークの才能を愛したことは確実だが、音楽的才能を絶賛するばかりではなかった。音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻の153ページに辛口の批評が載っている。1896年2月16日のホイベルガーの証言だ。
「ドヴォルジャークは、これ以上無いほど熱心なのに、それが災いしたのか文学をほとんど知らないんです。それどころか音楽書にもうとい。まあ一般教養は足りないが非凡な能力に恵まれているわけですな」
含蓄がある。音楽的才能に見合った文学的素養が欠けているという所見だ。音楽的才能への絶賛の裏返しだとも読める。文学的素養がついて行かないほどの楽才だということだ。次から次への旋律を生み出す能力(=旋律埋蔵量)だとひょっとすると負けているかもしれないが、文学的素養はオレのが上だくらいなニュアンスだと思う。作曲家の文学の素養は声楽曲を作曲するに際してのテキスト選択のセンスに反映する。
文学的才能がついて行かないとどうなるのか。
ドヴォルザークは全部で11のオペラを書いたが、本人の願望にも関わらずチェコ国外で名声を獲得するには至らなかった。11のうち8作がブラームス存命中に成立していながら、昨年7月29日の記事「オペラの話題」のリストにドヴォルザークの作品は現れない。魅力溢れる旋律を創造する能力に、脚本がオペラとして処理できるかを客観的に見極める能力が追いついていない。あれもこれもと手を染める脚本の拙さに足を引っ張られた。脚本の矛盾をも覆い隠して見せたモーツアルトや、好きなように脚本から作り上げるほどの才能ではなかったと申しては言い過ぎか。
場合によってはシューベルトだってテキストの選択があられもないと評する向きもある。
一方ホイベルガーはいくつかの声楽曲のテキスト選択を「教養があるね」と言ってブラームスから誉められているが、肝心な作曲ではコテンパンに批判されている。ドヴォルザークとは逆だ。
バランスが難しいのだ。
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