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2010年8月31日 (火)

2ミニッツウォーニング

フットボールとバスケットボールは試合の方式が似ているといつぞや書いた。試合が4つの部分に分かれていることに加え、会場に掲示されたオフィシャルクロックの残り時間がゼロになると試合が終わる点も同じだ。サッカーのようなロスタイムの概念がない。その代わりボールデッドになるたびに律儀に時計が止まる。そしてボールデッドとタイムアウト以外で時計が強制的に止まるのが、本日のお題「2ミニッツウォーニング」だ。

フットボールでは第2クォーターと第4クォーターの残り2分で、必ず時計が止められる。ここからの2分間が、本当に面白いンですよというために時計を止めるのだ。実際に実力が拮抗したチーム同士の対戦だと、この先にドラマが待っている場合が多い。さらには、この間にテレビコマーシャルを挿入出来るというスポンサーへの配慮も無視できない。

グランドフィナーレまであと8日、ブログ「ブラームスの辞書」初の年間企画「ドヴォルザーク特集」の「2ミニッツウォーニング」である。

2010年8月30日 (月)

ブラームス神社創建2周年

ブログ「ブラームスの辞書」左サイドバナー上、ブラームス神社の創建から2年たった。ドヴォルザーク特集も大詰め、あと10日を切ったというこの時期に、神社創建祭が来るというのも何かの縁に違いない。「もう2年もたったか」というのが正直なところだ。

昨日までの2年間で集まった賽銭が12億6415万2023円。参拝者は延べ6070人を数える。

2010年8月29日 (日)

ドヴォルザークの辞書

「ブラームスの辞書」と同じ感覚で「ドヴォルザークの辞書」を作ったら面白いとマジで思う。

実際に「ドヴォルザークの辞書」を書くには、それに先行するデータベースを作成しなければならない。「ドヴォダス」だ。オペラも11曲あるからデータベースの作成は相当時間がかかる。さらに楽譜の現有勢力では抜けが多過ぎてお話にならない。

時間もお金も足りない。もしかするとブラームスの楽譜が我が家にほとんど揃っているのは素晴らしいことなのかもしれない。

2010年8月28日 (土)

推定埋蔵量

地下資源があとどれほど埋まっているかという予測のことだろう。一つの鉱脈にあとどれほど埋まっているかという正確な予測無しには掘削に着手出来まい。採算が合うかどうかの判断をする場合、単純な埋蔵量もさることながら、鉱石1トンから目的の鉱物がどれほど回収出来るかも重要だ。ボーリング調査を思い浮かべるが、現在では実際に掘らなくても、地中の様子がかなりわかるらしい。

4割ドボダスの状態で、偉そうなことを言えないと言い訳しながら、ドヴォルザーク作品の楽譜に現れる諸現象について、ボチボチと話題にしてきた。「ソステヌート」「poco f」「mp」などなどだ。手持ちの楽譜を眺めているだけで、バカにならない本数の記事を書くことが出来た。有望な鉱脈だ。

ドヴォルザークの楽譜が全部集まり、全ての音楽用語の集計が終わったら、どれほどの記事が採掘出来るか想像も出来ない。

2010年8月27日 (金)

ある手応え

ドヴォルザーク特集のグランドフィナーレまであと2週間を切った。ドヴォルザーク特集は楽しかった。目的はドヴォルザークとの関係をクローズアップすることを通じて、ブラームスのキャラをいっそう浮き彫りにすることだった。たしかにその目論見には手応えを感じたが、一方で悩ましい状態にも陥った。

ドヴォルザークに関連するネタで、ブラームスには関係がない話の中にも、面白い話が多いのだ。首尾良くブラームスへのこじつけに成功した場合は、記事として公開したが、こじつけに失敗したものは、原則として記事にしないという方針だった。もしそれらも公開していたら、あと数十は記事本数を稼ぐことが出来たハズだ。いっそのことドヴォルザークネタだけを分離独立して新ブログを立てることも一瞬考えた。

今やブラームスも私もドヴォルザークが大好きということだ。

とはいえ現実には公開したドヴォルザーク記事のうち約50本はブラームスには関係がない。話の流れを自然にするためにどうしても言及しておきたい事柄だ。それらの記事はブラームスネタの濃度が下がるリスクを顧みず、公開に踏み切ったということだ。

2010年8月26日 (木)

そういえばあの頃

私が所属した大学オケは年に2度の定期演奏会があった。大学を4年で卒業したから在学中に全部で8回経験したことになる。それぞれの演奏会でメインプログラムとして取り上げられた作品は以下の通りだ。

  • 1年夏 ドヴォルザーク交響曲第8番 初心者の弦楽器奏者だったから出演はしていない。
  • 1年冬 ブラームス交響曲第2番 私のオーケストラデビュウ。
  • 2年夏 ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」 このとき「大学祝典序曲」にはまって大好きなベートーヴェンがブラームスに抜かれた。
  • 2年冬 ブルックナー交響曲第4番「ロマンティック」
  • 3年夏 ブラームス交響曲第1番 
  • 3年冬 チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」 芥川也寸志先生の指揮だった。パートリーダーデビュウ。
  • 4年夏 ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」
  • 4年冬 マーラー交響曲第5番 総決算。

全部交響曲だ。この8曲の思い出は不滅だ。社会人になってからアマチュアオケに属していくつかの交響曲に参加したが、思い出の濃さにおいて学生時代の演奏に匹敵するものはない。卒業後もブラームスを弾いた。3番を除く3曲では2回以上の経験がある。それでも短い4年間に2曲出来たのは幸せだ。

全くの偶然だが、ブラームスとドヴォルザークだけが2度取り上げられている。現在の私の両者への傾倒を予言しているかのようだ。

2010年8月25日 (水)

ドボコンの思い出

大学オケで私の一つ下の学年には上手い奴が多かった。

とりわけ某チェロ弾きは別格だった。彼とはなかなか縁が深い。学部学科が同じで私の次のオーケストラの団長でもあった。私が彼の結婚披露宴で司会をしたお返しに、私の結婚式の2次会のブラ4では、彼がチェロのトップを弾いた。快刀乱麻とノーブルが両立するチェロ弾きなのに、何故か某スナック菓子のキャラクター然とした風貌とのイメージのギャップも手伝ってか皆から愛されていた。

肝心なチェロがどれほどうまいかというと、大学4年の夏合宿で彼をソリストにしてドヴォルザークのチェロ協奏曲をやろうという話が出るほどだった。オケのメンバーには事前に楽譜が配られ、各自練習しておくようにと言われた。第一楽章だけとは言え、練習不足で青息吐息のオケをバックに、サクサクと弾きこなして見せた。もちろん私はバックでヴィオラを弾いた。ソロの邪魔をしないことだけを心がけていた。

当時私のニックネームは「あざらし」だった。だから彼にはその縮小形のニックネームが定着してしまった。私のことを「あざらし」と呼ぶ仲間は、今では誰もいないが、彼は今でもそのかわいらしい縮小形で呼ばれている。

2010年8月24日 (火)

仏の顔も三度まで

どんなに聖人君子でも大目に見てくれるのは3度までだというほどの意味か。「図に乗るんじゃねえぞ」というニュアンスを濃厚に含む。だから野球ではボール4球で1塁に行けるようになっているのかどうか定かではない。

ブログ「ブラームスの辞書」では開設からの記事が1685本、1833本、1841本に達した時に、それぞれ「バッハの日」「ブラームスの日」「ドヴォルザークの日」と称して彼らの生年にちなんで勝手に喜んできた。

この記事はブログ開設以来1960本目の記事だ。つまり管理人である私の生年に因むということになる。バッハ、ブラームス、ドヴォルザークの3人の後に私が続くようでは、「仏の顔も三度まで」と言われてしまうというのが本日のオチである。

2010年8月23日 (月)

ドヴォルザーク作品目録

行きつけの楽譜ショップでお宝を発見した。

「ドヴォルザーク作品目録」だ。見たところマッコークルの「ブラームス作品目録」に匹敵する厚みと重みだ。欲しい。

マッコークルの「ブラームス作品目録」が貴重な情報の宝庫であるなら、ドヴォルザーク作品目録だって同じに決まっている。著者はブルクハウザー教授だ。つまりドヴォルザーク作品の作品番号の錯乱を整理するために設定された「B番号」の根拠その人である。由緒正しい。しかし高い。

3万5千円の出費は、痛いを通り越している。加えて紙の質がマッコークルよりは少々落ちる。本文がチェコ語だ。ところどころポッツラポッツラとドイツ語が入る。英語とは言わぬがチェコ語ではもうほとんどお手上げだ。

でも欲しい。ローンでも組むか。

2010年8月22日 (日)

友情

ブラームスが世に出るにあたりシューマンの功績が大であったことは良く知られている。23歳年下のブラームスにとってシューマンは恩師という表現がふさわしい存在だったと思う。

ドヴォルザークの立身出世においてブラームスが果たした役割もこれに勝るとも劣らない。けれども恩師と生徒という感じよりは友人に近いものを感じる。ブラームスはシューマンの助力もあって、順調に音楽界での地位を上げていった。1862年29歳で決意したウィーン進出もうまくいった。オーストリア帝国の首都での音楽的な地位の向上により、国家奨学金の審査員となった。ブラームス41歳だ。このときドヴォルザークはプラハで雌伏の時を過ごしていた。ブラームスとドヴォルザークの違いは、決定的な出会いが何歳の時に訪れたかだけであるような気がする。

早くに出世したブラームスが運良く審査する側に回り、後を追ったドヴォルザークが審査に応募したに過ぎない。2人は師弟ではない。ドヴォルザークの側はブラームスに恩義を感じていたとは思うが、ブラームスはドヴォルザークを助言が必要な後輩とは思っていなかったと感じる。

才能に相応しい光をあてただけだ。

2010年8月21日 (土)

カルマート

音楽用語「Calmato」と綴られて「平穏に」と解される。ブラームス作品には以下の通り4箇所で出現する。

  1. 弦楽六重奏曲第1番第1楽章273小節目 全弦楽器 p dolce calmato
  2. 3つの四重唱曲「op31」の3番42小節目 ピアノを含む全パート sempre piu calmato
  3. ティークのマゲローネのロマンスop33の14番46小節目 ピアノのみ calmato
  4. 3つの四重唱曲「op64」の1番29小節目 ピアノのみ p calmato

出現の絶対数が少ない上に、規則性が見当たらず難解という他はない。「tranquillo」との区別なんぞ、試験に出たらお手上げだ。曲想からして「p」側のニュアンスであることだけは確実だと思う。

さてさて、ここから無理矢理ドヴォルザークにこじつける屁理屈をお楽しみ頂きたい。

ドヴォルザークの伝記を読んでいて興味深い記述に出会った。

1892年秋にアメリカに渡ったドヴォルザークは、翌93年の夏、アイオワ州スピルヴィルに滞在する。家族揃って13時間の列車の旅だ。その列車を降りた駅が「カルマー」だったと書かれている。スペルは「Calmar」だ。本日のお題、音楽用語の「カルマート」と似ている。ニューヨークから比べると相当な田舎。文字通り静かな街だと想像する。一行の目的地スピルヴィルは、ここからさらに8km離れていたという。

1年続くドヴォルザーク特集屈指のおバカネタ。

2010年8月20日 (金)

ブラバン引退

夏のコンクールを最後に、次女が中学のブラバンを引退する。3月の定期演奏会には出演するから、正確には中断と申すべきか。

来春の高校受験に備えることになる。既にヴァイオリンのレッスンもやめているからこれで受験モードに入る。高校入学後オーケストラに入ってヴァイオリンというのが本人の意思だが、中学3年間をブラスバンドで過ごし、トロンボーンに触れたことは本当に本当に本当に大きな収穫だ。ヴァイオリンへの相乗効果は計り知れないものがある。レッスンで与えられた課題に対する姿勢が一変した。自分で考えて個人練習の設計が出来るようになった。

10年続いたヴァイオリンレッスンは、事実上娘たちのスイッチ探しに終始した。自ら音楽に親しみ、心から音楽を欲するスイッチだ。長女はとうとうそれを見つけることが出来なかった。実は次女のスイッチの場所も難解だった。中学に入りブラスバンド部に入部した時、スイッチ探しはほとんど諦めた。ところがあろうことかブラバンに入部してトロンボーンを選んだことが起死回生の一策となった。初心者でトロンボーンを始めて、落伍するまいと必死に取り組む中からスイッチが見つかったということだ。私が8年かけても見つけてやれなかったスイッチが、ブラバン仲間との泣き笑いのなかから呆気なく見つかったのだ。

そして次女は高校でヴァイオリンを選ぶと宣言した。受験の行方が判らないから油断は禁物だが、トロンボーンがヴァイオリンの歩みの杖になったようなものだ。入学と同時に無理してトロンボーンを買い与えた判断を我ながら誇りに思う。マイ楽器への愛着も彼女の大きなモチベーションになっていた。中学校3年間のブラバンは、回り道のようで実は一番の近道だったと今心から思う。

彼女の受験レースに、ブラームスとドヴォルザークのご加護を。

2010年8月19日 (木)

連れの性格

ブラームスの晩年の友人にヴィクトル・ミラー・ツー・アイヒホルツがいる。ウィーンの貴族の家柄で、音楽にも造詣が深かった。ウィーンブラームス協会の初代会長にもなった。

ブラームスはたびたび食事に呼ばれた他、独身で家庭を持たないブラームスに暖かな家庭的もてなしをして喜ばれた。

あるときブラームスは「ドヴォルザークを家に連れて行ってもいいか」と手紙で尋ねた。そりゃあそうだ。毎回暖かくもてなしてくれているからと言って、自分の友人を何の断りもなく、連れて行くのはエチケット違反だ。

「演奏会の後、ドヴォルザークの都合がついたら、お宅にご一緒したい」「料理は彼の分を自分が取り分けるから」と精一杯の心遣いをしている。ブラームスはドヴォルザークをミラーに紹介したいのだ。挙げ句の果てに「一人で一方的にまくしたてるような男ではないから」とまで付け加えている。ブラームスがドヴォルザークの才能ばかりではなく人柄にまで、惚れ込んでいる様子がよくわかる。良き妻に恵まれて子だくさんのドヴォルザークを暖かい家庭の雰囲気でもてなしたいと考えるのは、とても自然だと感じる。

この申し出に対するミラー家の反応が残っていないのが残念だ。ブラームスとドヴォルザークを接待出来るなら、大変な名誉だと思う。

2010年8月18日 (水)

フランツ・ヨーゼフ1世

実質的にオーストリア・ハンガリー二重帝国最後の皇帝。即位は1848年18歳だった。そこから延々68年も皇帝の座にあった。

ウィーン市街を囲んでいた城壁を撤去して環状道路リンクを作らせたのも彼。個人的には波瀾万丈だったが、ウィーンは繁栄を見た。彼の治世は後期ロマン派全てを覆い、ウィーン世紀末をも貫いている。晩年には「国の父」とまで言われて国民に親しまれたという。ちなみにドヴォルザークが機関車を見に通ったプラハの表玄関・フランツ・ヨーゼフ駅は彼の名前に因んだネーミングだ。

ブラームスが1862年にはじめてウィーンに進出した時、彼は既に帝位にあった。そして27年後、1889年6月6日56歳のブラームスに「芸術と科学のための金の大勲章」を授けたのもフランツ・ヨーゼフ1世だった。この年の暮にブラームスはフランツ・ヨーゼフ1世に謁見している。後日ドヴォルザークもまた同じ勲章を授かった。

1830年8月18日にウィーンのシューンブルン宮殿で生まれたから、今日が180回目の誕生日だ。

2010年8月17日 (火)

地名語尾3大B

いかにも唐突だが「バッハ」「ベルク」「ブルク」を地名語尾3大Bに認定する。何等資格も権利も無い私の認定だが、昨今ドイツの地名にのめりこんでいる感触からそう感じる。「~bach」(小川)、「~berg」(山)、「~burg」(城)だ。小川や山や城がある場所がそう名付けられたと解される。よくしたものでアルファベット順に並べるとそれがそのまま出現頻度の高い順になる。この3つが全地名語尾の出現ベスト3かどうかは怪しい。おそらく最多は「dorf」に譲ると思うが、上位進出は固いところだ。

意外と海岸線が短いドイツだ。海に関係する地名は相対的には低くなるから、「川」「山」「城」はとても自然だ。

何よりも面白いのは、この3つのうち2つが実在する著名な作曲家名と一致することだ。

地名語尾を数えたくなってきた。

2010年8月16日 (月)

ヨアヒムの判断

ヨーゼフ・ヨアヒムは1831年に生まれ1907年に没した19世紀を代表するヴァイオリニストの一人である。ヴァイオリン教師、指揮者、作曲家としても才能を発揮した。

さすがに名人なので同世代の作曲家たちの創作意欲を刺激してきた。ブラームスも唯一のヴァイオリン協奏曲をヨアヒムに献呈している。実際にヨアヒムはこれを初演した。初演後もしばらくほぼ独奏者の栄誉を独占し続けた。自らの弟子たちにブラームスのヴァイオリン協奏曲を広めたのも彼である。ブラームスのヴァイオリン協奏曲が現在の位置づけにあることについてヨアヒムの功績は大きい。

またヨアヒム四重奏団のリーダーとしてブラームスの室内楽作品の演奏にも積極的だったし、指揮者としていくつかの管弦楽曲を初演するなど、ブラームス作品全般への傾倒が顕著である。ハンガリア舞曲のヴァイオリン版への編曲も彼の功績の一つである。

さらに当時あまり演奏されることがなくなっていたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の再評価にも功績があった。現在ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲がスタンダードな位置にあるのはヨアヒムのお陰である。

一方ドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲もヨアヒムに献呈されたかの様相だ。ヨアヒムは作曲の過程でドヴォルザークからあれこれと相談を持ちかけられてもいる。シューマンもヴァイオリン協奏曲の初演をヨアヒムに依頼している。なのにヨアヒムはこの2曲の協奏曲を生涯一度も演奏しなかった。また、シューマン、ディートリヒ、ブラームスの3人がヨアヒム歓迎のために共作した「FAEソナタ」も、ブラームス作の第3楽章以外は公に演奏していないらしい。これらはブラームスやベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲に対する態度と対照的である。何より彼は演奏家であるから、中途半端にコメントが残っているよりも、演奏していないという事実は雄弁だと思う。

その一方で、ドヴォルザークの弦楽四重奏の10番と11番をヨアヒム四重奏団が初演しているから、ドヴォルザークを嫌っていた訳では無さそうだ。

晩年、若い頃の様な友情が保てなくなった後も、ブラームスの作品に対するヨアヒムの高評価は一貫している。ベートーヴェンよりもブラームスを高く評価していた形跡さえあるという。

2010年8月15日 (日)

まさかの助言

ブラームスとドヴォルザークはヴァイオリン協奏曲をそれぞれ1曲ずつ残した。1878年に完成させたブラームスに2年遅れてドヴォルザークも発表にこぎつけた。ほぼ同時期の作品である。

そしてもう一つ両者に共通することがある。当時欧州楽壇に君臨していた大ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムが作品の成立に深く関与している。

ブラームスとヨアヒムのやりとりは有名だ。フィナーレのテンポについてのヨアヒムの助言が記録されている。当初「Allegro giocoso」としたブラームスに対しヨアヒムは「ma non troppo vivace」を加えないと難しいと主張した。だからブラームスのヴァイオリン協奏曲の第3楽章冒頭には「Allegro giocoso,ma non troppo vivace」と書かれている。

まさかと思うことがある。

ドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲の第3楽章冒頭の指定は「Allegro giocoso,ma non troppo」となっている。ブラームスと似ている。

ヨアヒムの助言の賜物かもしれない。今日はヨアヒムの命日だ。

2010年8月14日 (土)

ヘルダー

ヨハン・ゴットフリート・フォン・ヘルダー(1744~1803)のこと。ドイツの神学者、文学者、思想家である。昨日の記事「諸国民の声」の主人公だ。ブラームスが彼の著作を愛読していた形跡があることが話題の中心だった。

ところが、この人ドヴォルザークの伝記にも現れる。

昨今の伝記は単に主人公の人生をトレースするだけにとどまらず、歴史的な位置付けをも浮き彫りにする意図が込められていることが多い。チェコの音楽史の中のドヴォルザークの位置付けを明らかにしようというものだ。

ドヴォルザーク出現以前のチェコ音楽の実態を把握しようと試みる時、本日のヘルダーが登場するのだ。18世紀後半のことだ。

民族のアイデンティティを確認強化する上で、母国語はもちろん民俗や文化がとても重要であるという思想を唱えた。長くオーストリアの支配下にあったチェコでも歓迎され、音楽においては民謡の復興を促すことになったとある。なるほどブラームスが愛した「諸国民の声」は、民謡の集大成だった。こうした民謡重視の機運がドヴォルザーク出現以前に既に盛り上がっていた。

ドヴォルザークの出世作「モラヴィア二重唱」のテキストは、まさにこうした動きの結果だったという訳だ。

ブラームスとドヴォルザークには共通して民謡への暖かな視点を感じる。

2010年8月13日 (金)

諸国民の声

原題を「Stimmen der Volker」(oはウムラウト)という。ドイツの文学者、詩人、哲学者のヨハン・ゴットフリート・フォン・ヘルダー1744~1803(Johan Godfried von Herder)の作品だ。「諸民族の声」とされている場合もある。

ブラームスは友人からこの本を知らされているが、どうも気に入ったようだ。晩年に至るまで座右に置かれて愛読されていた可能性がある。

  1. 「4つのバラード」op10の第1番ニ短調 「エドワード」 1854年
  2. 「8つのリートとロマンス」op14の3番 「マリーの殺害」 1858年
  3. 「8つのリートとロマンス」op14の4番 「ソネット」 1858年
  4. 「3つの二重唱」op20の1番 「愛の道1」 1858年
  5. 「3つの二重唱」op20の2番 「愛の道2」 1858年
  6. 「3つの歌」op42の3番 「ダルトラの墓場の歌」 1861年
  7. 「バラードとロマンス」op75の1番 「エドワード」 1877年
  8. 「3つのインテルメッツォ」op117-1 「ある恵まれない母親の子守唄」 1892年

上記の8曲が、明らかに「諸国民の声」に触発されている。初期から後期までちらばっているのがわかる。3番と4番を除くと、暗い内容が多い。

ブラームスの歌曲には、民謡にテキストを求めたものが多い。この7曲もその系統だ。英国とくにスコットランドの詩が独訳されたものである。

2010年8月12日 (木)

ドヴォルザーク家の家計簿

2008年12月30日の記事「家計簿」では、シューマン入院後ブラームスがシューマン家の家計簿を記入していたと書いた。その後3月5日の記事「家計簿の担い手」や同6日の記事「家計簿の跡継ぎ」で、家計簿にまつわる興味深い話を連ねた。

そこで浮かび上がってきたのは、ドイツでは家計簿の記入は家長の仕事らしいということだった。シューマンもバッハも本人が家計簿をつけていた。生涯独身を貫いた人々がどうしていたか別として音楽家もその習慣にのっとっていたのだと思われる。

ところが、ドヴォルザーク関連書物を調べていて面白い記事にで出会った。何と「家計簿をアンナ夫人がつけていた」という記述を発見した。おおおってなモンだ。ドヴォルザーク家では家計簿は奥様がつけていたのだ。こんなことを断言しているのは唯一ここだけというお宝情報なのだが、もう一つ二つ裏付けが欲しいところだ。

2010年8月11日 (水)

大種明かし

昨年6月28日から7月28日まで実施した「謝恩クイズ」の答えが「オペラ」だった。本日はその裏話だ。今頃になって何故という方も多いと思うがご辛抱いただく。

昨年9月8日に立ち上がり、現在開催中の企画「ドヴォルザーク」の記事は一昨年2008年の初頭から備蓄が始まった。あちらこちらの調べ物がとても楽しかった。意外なことにドヴォルザークのことを深く知ろうとするとワーグナーに立ち入らざるを得ない。初期ドヴォルザークあるいはオペラについての記述には、ワーグナーの影響を指摘する表現が多い。2009年9月11日の記事「ある方程式」はその代表例である。

そうした下調べの過程で図らずもオペラに関連する記事が蓄積してしまった。当時はカテゴリー「オペラ」が無かったから、カテゴリーの付与に苦慮した。ブラームスはオペラを遺していないことが私自身の先入観として頭にこびりついていた。ある日、それこそ蹴つまずいた拍子にカテゴリー「オペラ」を作ってしまえばいいのだと気が付いた。

一度思いつくとブラームス系ブログにカテゴリー「オペラ」があるという違和感が自分でも気に入った。いっそクイズにしてやれとなった。2009年7月には慶事が多く、記念企画を考えていたのでまさに渡りに船となった。当時採用中の旧カテゴリー体系で28番が欠番になっていることを利用した謝恩クイズの骨格は程なく固まった。ブラームス系のブログではおよそ縁遠い「オペラ」というカテゴリーを、鳴り物入りで立ち上げるための企画が「謝恩クイズ」だった。正解者が出る出ないはあくまでも時の運だと割り切った。あとはどこかでしゃべってネタバレにならぬよう注意していたということだ。

書き溜めたオペラネタのうち、ドヴォルザークに関係がないものを選んで昨年8月のオペラ月間用とした。残ったドヴォルザーク系オペラネタについて去る7月28日から粛々と公開し始めたという訳だ。

ふと気が付くと本日はブログ「ブラームスの辞書」開設の日から1900日目に相当する。初の年間企画「ドヴォルザークイヤー」のグランドフィナーレまでもう1ヶ月を切った。

2010年8月10日 (火)

ドルフ考

日本語の地名語源を考える際、アイヌ語というのは常に有力な選択肢である。これが北海道の地名に限られてもいないところが面白い。

ドイツ語ではラテン語だ。ブレスラウでおなじみ語尾の「au」については、8月7日の記事「水辺語尾」で言及したばかりだ。その周辺に面白い話がないかと探していてお宝情報に巡り会った。それが本日のお題「ドルフ」である。「dorf」と綴られるドイツ語は「村」の意味だ。シューマンの悲劇があったデュッセルドルフが有名だけれども、ドイツの地図を見ているといくらでも見つかる。

実はこの「dorf」の起源はさらに遡ることが出来るらしい。古代ゴート語だ。現代ではすっかり死語で、わずかに古文献にのみその痕跡が残る。それを操ったゴート人は、東ゲルマン民族に属する。ポーランド周辺から黒海沿岸に進出したらしいが、後にフン族に統合されてしまったともいう。ローマ人たちは彼等に手を焼いた。だから「ゴート人の」という言葉が「野蛮な」と同義になった。これが「ゴシック」の語源らしい。

どうやら古代ゴート語で「dorf」は「畑」を意味するというのだ。「おおお」ってなもんだ。狩猟採集の生活が、定住によって栽培の生活になるというのはいわゆる定石だ。狩猟をやめて定住すれば、喰うために畑を開くことは必定だ。日本ならば間違いなく田んぼだ。畑が村の語源とは、美しい整合性だと思う。問題があるとすればブラームスにこじつけられないことだ。

2010年8月 9日 (月)

リナルド

作品番号50を背負ったカンタータだ。テキストはゲーテだが原作はタッソーの「開放されたエルサレム」という。第一回十字軍を舞台にした恋愛叙事詩と呼ぶべき作品である。ヘンデルには同名のオペラがある。リュリやロッシーニも同じテキストに曲をつけている。リナルドはその主人公の名前だ。彼は十字軍の騎士である。

さてさて、1903年に完成し、作曲者の没する直前に初演されたドヴォルザーク最後のオペラは「アルミダ」という。実はこの作品の原作は「開放されたエルサレム」なのだ。脚本はヴルフリツキーという人。アルミダはヒロインの名前だ。つまりこの話はリナルドとアルミダの恋のお話である。

ドヴォルザークとブラームスは、ともにタッソー原作「開放されたエルサレム」という素材を目にした。それでもブラームスはオペラに走らなかった。ヘンデルを初めとする先輩の作品は当然知っていたから避けたのかもしれない。あるいは、ゲーテのテキストの特殊性をもってこの現象を説明出来るかもしれない。

ゲーテのテキストには恋人のアルミダは直接登場しない。リナルドとその他の登場人物の会話や筋立てによって、アルミダの存在が強く仄めかされているが、アルミダ自身は登場しないことがこのテキストの特色だ。ブラームスもそうした構成の特殊性を作品の編成に反映させている。つまりこのカンタータ「リナルド」は「独唱テノールと男声合唱」のための作品となっている。恋人アルミダが現われないことは明白だ。恋愛の当事者の片方つまりアルミダを登場させずに恋愛を描ききることがゲーテの狙いである。まさにブラームスはそこに共感したと思われる。女性の主役不在だ。なるほどオペラにしないのも道理である。

そしてドヴォルザークはこれをオペラに仕立てた。もちろん女性も登場する脚本だ。しかし、ドヴォルザーク作品の解説書を読んでも、傑作という扱いにはなっていない。

昨日の記事はドヴォルザーク最初のオペラを話題にした。今日は最後のオペラの話。

2010年8月 8日 (日)

悲劇的序曲

「Tragische Ouverture」の訳語だ。作品81を背負って1880年12月26日に初演された。場所は楽友協会大ホール。演奏はハンス・リヒター指揮のウィーンフィルだ。1880年夏にイシュルで完成したものが、その年のシーズンにさっそく初演される。しかもこの場所このメンツである。当時の音楽界におけるブラームスの磐石な位置付けが透けて見える。出版はもちろんジムロックだ。

ここから作品の解説や感想、あるいはおすすめCDネタに走らないのが、ブログ「ブラームスの辞書」の特色である。

1870年10月19日ドヴォルザークは29歳で初めてのオペラ「アルフレッド」を完成させた。ブラームスと出会う前だし、スラブ舞曲によって世に出る前だ。だから完成はさせたが、すぐに演奏はされなかった。初演はドヴォルザーク没後の1938年を待たねばならない。この作品の序曲は1912年にジムロック社から出版された。「劇的序曲」(Dramatika Ouvertura)である。ところがこのタイトルはジムロック社による操作である可能性が高い。原題は「Tragicka Ouvertura」つまり「悲劇的序曲」だったのだ。

ドヴォルザークのオペラが先に有名になり、この序曲もろとも出版されていたらと考える。序曲のタイトルは素直に「悲劇的序曲」とされただろう。そこから10年後、大学祝典序曲と一対をなす序曲をブラームスが完成させていたとしても、「悲劇的序曲」というタイトルは選ばれなかったと思う。1912年ドヴォルザークの序曲を出版する段になって困ったのはジムロック社だ。オリジナル通りのタイトルにすればブラームスの作品81と紛らわしくなる。だからドヴォルザークのほうを「劇的序曲」として出版したのだ。

1874年オーストリア国家奨学金の審査員としてドヴォルザークの存在を知ったブラームスが、ジムロックに紹介して世に出したことは有名だ。ブラームスのことだから毎年応募してくるドヴォルザーク作品を熟読していたに決まっている。けれども1870年にひっそりと完成していたドヴォルザーク最初のオペラなど、ブラームスはもちろんジムロックも見落としていたということだ。

2010年8月 7日 (土)

ロスタイム

サッカーの用語。試合開始から45分が経過してから、終了のホイッスルが吹かれるまでの時間。「インジュリータイム」「アディショナルタイム」とも言われる。極論すれば主審のさじ加減一つで決まる。会場に掲示されたオフィシャルクロックの残り時間が無くなることが、そのまま試合終了を意味するバスケットボールとの大きな違いだ。

とりわけ後半だ。同点または1点差の時に得点の変動があった場合、ドラマと位置づけられることが多い。「ドーハの悲劇」は特に名高い。

ドヴォルザークは、1895年に発表した弦楽四重奏曲を最後にロスタイムを迎えたと感じる。残りの人生8年は、創作上のロスタイムであるかのようだ。ドヴォルザークが心の底から欲したのは決勝ゴールならぬオペラのヒットだ。交響曲や室内楽で獲得した栄光を、オペラでも勝ち取りたいと思った。ゴールキーパーまで総動員のパワープレーにも似たオペラへの傾注だが、不発に終わったと見る。交響曲や室内楽で物にした名声を得られずに終わったという意味だ。

逆にきらめくオペラの大家たちが、その創作のロスタイムで交響曲分野での成功を欲した例を知らない。

ブラームスのロスタイムは、事実上クララの死から始まった。1年も経たぬうちにロスタイムは終わる。オペラの作曲に奔走することはなかった。op121の「四つの厳粛な歌」と、op122「オルガンのための11のコラール前奏曲」だけがロスタイムから生まれている。残り時間の使い方を知り尽くした余裕のパス回しと言ったところか。

2010年8月 6日 (金)

野球とサッカー

実のところ昨日の記事「オペラと交響曲」は、本日のこの記事の前置きだった。

サッカーのワールドカップと野球のWBCの両方を制覇する最初の国はどこだろう。

サッカーのワールドカップの優勝経験国はわずか8カ国。ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの南米3カ国に、ドイツ、イタリア、イングランド、フランスそしてスペインの5カ国で計8つである。ここまで申せば私の言いたいことは察しがつくだろう。野球とサッカーで世界一になるのは相当難しいのだ。サッカーワールドカップで優勝するような国は野球が盛んではないのだ。

となると野球&サッカーの2冠は現段階でサッカー優勝経験が無い国から出る可能性が高い。以下可能性を考える。

<メキシコ>サッカーも野球もそこそこ強い。サッカーワールドカップがアメリカ大陸で開催されるといいところまで行く。野球はご存知の通りアメリカさえ脅かす存在だ。第一回WBCでは、米国に勝利して日本をアシストした。

<アメリカ>意外とサッカーが強い。「野球のほうが心配だ」というのがジョークに聞こえない。

<韓国>サッカーでベスト4、野球で準優勝の経験がある。実績から申せば筆頭格だ。

他にはまずオーストラリアだ。簡単ではないがあり得る。次いでパナマ、ニカラグア、ホンジュラスなどの中米勢、野球で南米最強のベネズエラなどが思い浮かぶ。意外な大穴は中国かもしれぬ。今のところサッカーでも野球でも国際大会における目立った成績は無いが、オリンピックでのメダルの荒稼ぎを見ていると潜在力は高いと感じる。カナダあたりよりは現実味があると感じる。

そして日本だ。現WBCチャンピョンで、野球では2連覇中だ。次のWBCが2013年だということを考えると、2010年サッカーワールドカップ南アフリカ大会で達成の可能性があったのは日本だけだった。惜しい。

ブラームスの母国ドイツは西ドイツ時代を含めればサッカーなら優勝3回の強豪だ。しかし野球は絶望だ。ドイツが野球で優勝する可能性よりは、日本がサッカーで優勝する可能性の方が高いと信じて止まない。

2010年8月 5日 (木)

オペラと交響曲

オペラと交響曲をクラシック音楽というジャンルの2本柱と称してもブログは炎上するまい。ボヤで収まると考える。

世の中の作曲家、定義は曖昧ながらここでは一応名の通った作曲家に限る。以下ような分類を試みた。

  • A オペラ、交響曲とも遺した。
  • B オペラだけ遺した。
  • C 交響曲だけ遺した。
  • D オペラ、交響曲とも遺していない。

定義が曖昧というお叱りを物ともせず、さらにエスカレートする。

  • 1 オペラ、交響曲とも傑作を書いた。
  • 2 オペラだけに傑作がある。
  • 3 交響曲だけに傑作がある。
  • 4 オペラ、交響曲とも傑作がない。

第1群 相当な狭き門だ。モーツアルト、ベートーヴェン、チャイコフスキー、ドヴォルザークは議論の余地がある。

第2群 イタリアオペラの巨匠たちは皆ここだ。気のせいかそもそもイタリアの作曲家と交響曲の概念があまりなじまない。やはりワーグナーもウェーバーもここだ。気の毒だがリヒャルト・シュトラウスもである。

第3群 ブラームスは当然ここだ。ブルックナー、ハイドン、シューマン、メンデルスゾーン、シューベルト、マーラーもここか。

第4群 ショパンもバッハもここだから舐めてはいけない。

つまり第1群に入るのは相当狭き門だ。イタリア起源のオペラといかにもドイツっぽい交響曲の両立は難しいのだ。他国の様式の吸収消化が得意なバッハが遅れて生まれてきたらきっと第1群に割って入っただろう。第2群の者に傑作交響曲を期待するのは相当酷だ。そもそも意欲も無さそうだ。第1群の候補は第3群に求めるべきだ。第3群のメンバーが傑作オペラを書く可能性の方が高いと感じる。

メンデルスゾーンやシューベルトはもう少し長生きすれば可能性はあったかもしれない。オペラ指揮者として優秀なマーラーだって風の吹き回し一つで第1群入りもあったと思う。チャイコフスキーやドヴォルザークは認めてあげたいと感じる。

ここでブラームスが気の利いたオペラの一つも書いていたら相当カッコ良かったと思う。

この両分野で傑作を書くのはやはり相当な偉業だ。狭き門ぶりをブラームスはよく知っていたと思う。オペラが「ブラームス唯一の失敗作」になるリスクを回避した可能性を想像してしまう。単なる臆病との境界線は混沌としている。

 

2010年8月 4日 (水)

マーラーの仕返し

グスタフ・マーラーは当初、オペラの解釈者あるいは指揮者として台頭した。

1898年12月4日ドヴォルザーク最後の交響詩「英雄の歌」を初演したのはマーラーだった。その後2人は良好な関係にあったらしいが、不思議なこともある。

ウィーンからニューヨークに至る指揮者マーラーのキャリアの中で、ドヴォルザークの交響曲が取り上げられていないのだ。いくつかの序曲や交響詩が取り上げられてはいるものの交響曲は無い。一方でマーラーは、ウィーンとニューヨークどちらにおいてもブラームスの交響曲を指揮をしたことがある。

ウィーンはともかくニューヨークはドヴォルザークゆかりの土地だ。ましてやマーラーがポストを得たニューヨークフィルハーモニックは、新世界交響曲を初演したことでも知られている。マーラーのニューヨーク着任は、そのセンセーショナルな初演から15年ほどしか経過していない。聴衆の中にはグスタフ・マーラー指揮の新世界交響曲を聴きたい人もいたに違いない。少なくとも私は聴きたい。

ルサルカの一件以来、2人の蜜月関係がこじれていたのかもしれない。

2010年8月 3日 (火)

水辺語尾

シューマンの故郷ツヴィッカウ(Zwickau)、大学祝典序曲ゆかりのブレスラウ(Breslau)、ハイドンの故郷ローラウ(Rohlau)の語尾を見ると「au」になっている。その気になって探すとたくさん見つかる。ナッサウ、リンダウ、ターラウなどなどだ。ドイツ語の地名語尾は、城砦を表す「~burg」、山を表す「~berg」、渡し場を表す「~furt」、村を表す「~dorf」、町を表す「~stadt」などが有名だが、この「~au」がよくわからなかった。

「ブラームスの辞書」op97の所有者でもあるドイツ語の先生に、恐る恐るお尋ねしたところ、一瞬で謎が解けた。

「au」はラテン語の「aqua」(水)に由来する地名語尾だ。水辺を表す地名だ。そういえばブレスラウはオーデル川の畔だった。ドイツ語の辞書なら「Aue」と引けば出てくる。

水難や洪水のリスクを差し引いても、人々の生活に水は欠かせない。人々は水辺に集まり集落を作ったのだ。だから水辺を表す地名はおびただしい数が存在するということだ。オペラ「ルサルカ」の元になった伝承は、水辺の集落が良く似合う。

お答えいただいた先生には「oroboros」でも決定的な助言をいただいている。今回もノータイムの即答だった。本日はお礼代わりの記事。

2010年8月 2日 (月)

ルサルカ

夏休みには水の事故のニュースが増える。人間は生きてゆくために水を欠かすことが出来ないのだが、水とのかかわり方を誤ると命を落とすこともある。世の中の観光地は水辺が多い。水のある風景は古来人々を癒してきたが、水の事故もまたその周辺で起きる。

欧州の言い伝えには「水の精」がしばしば現われる。湖や川、あるいは泉の底に棲んで、人を水底に引き込んでしまう。大事な水源に人目を避けて近づいて悪さをすることへの警告という側面がありはしないかとも思うが、やはり古来水の事故が後を絶たなかった名残りだと思っている。大切な人、とりわけ子供を水の事故で突然失った家族の悲しみは深い。「水の精」の仕業とでもして無理矢理心の整理をつけていたのだろう。

ドヴォルザークの最も有名なオペラ「ルサルカ」のタイトルロールは「水の妖精」ということになっている。ソプラノで歌われるこの役の他に、水の精の男も登場する。どうもオペラの設定を見る限り、ルサルカや水の精の男は、人間を湖の底に引きずり込む癖がある。民話を題材にとったオペラ「ルサルカ」が、そうした民間伝承の反映である可能性は低くないと感じる。

ドヴォルザーク作品にはもう一つ「水の精」がある。op107が付けられた交響詩「水の精」だ。エルベンのテキストを管弦楽でトレースした作品だが、湖底に棲む水界の王と結婚した娘の悲劇が描かれる。湖底イコール死のイメージはここでも共通している。

実はブラームスにも水の精が現われる。「混声合唱のための14のドイツ民謡集」WoO34の3番目「夜のひとときに」という作品だ。「Bei nachtelicher Weil」という歌いだしで、猟師と水の精の湖畔での会話が描かれる。原因は明かされないまま、猟師は悩みを水の精に訴える。悩みを聞いた水の精の答えは「水の中に入ってらっしゃい」というものだ。猟師はその通りにして、湖に飛び込みやがて沈んでいき、水底で心の安楽を得たと結ばれる。

先のルサルカや「水の精」の設定に通じるものを感じる。キリスト教以前の素朴な伝承が、そっくり保存されているかのようだ。「水の精」はさておきブラームスとルサルカにも共通することがある。死のイメージと隣りあわせでありながら、描写には暗さが無いという点だ。どちらかというと清らかで静謐なイメージだ。特にブラームスの手による民謡は、敬虔なニュアンスに溢れた絶唱である。

2010年8月 1日 (日)

江戸の仇を長崎で

筋違いな仕返しくらいな意味。理不尽な話なのだが、同時によくある話でもある。

ドヴォルザークのオペラ「ルサルカ」。おそらく彼のオペラの中ではもっとも世の中に受け入れられているのだと思う。ドヴォルザークはオペラの領域で国際的な名声を得ることが望みだった。そのためには作品がチェコ国外で上演されることが必須だった。

ウィーン宮廷歌劇場での上演が交渉されたことはあったが、結局合意に至らず、ウィーン進出が暗礁に乗り上げた。なんだかもったいないと思う。

このとき宮廷歌劇場指揮者だったのがグスタフ・マーラーだ。マーラーの伝記がこのときの交渉に言及しているのを見つけた。ドヴォルザーク側からの法外な要求のために合意出来なかったとある。過大な経済的な見返りを求められたというニュアンスだ。

ドヴォルザークはベルリンの出版社ジムロックに何度も煮え湯を飲まされている。ジムロック社のドヴォルザークへの対応はブラームスへのVIP待遇とは、雲泥の差があることは既に述べてきた。ドヴォルザーク側の言い分も聞かねばならないが、こんなところで鬱憤を晴らしていたのかもしれない。

ベルリンの仇をウィーンで討ったようなものか。

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