ルサルカ
夏休みには水の事故のニュースが増える。人間は生きてゆくために水を欠かすことが出来ないのだが、水とのかかわり方を誤ると命を落とすこともある。世の中の観光地は水辺が多い。水のある風景は古来人々を癒してきたが、水の事故もまたその周辺で起きる。
欧州の言い伝えには「水の精」がしばしば現われる。湖や川、あるいは泉の底に棲んで、人を水底に引き込んでしまう。大事な水源に人目を避けて近づいて悪さをすることへの警告という側面がありはしないかとも思うが、やはり古来水の事故が後を絶たなかった名残りだと思っている。大切な人、とりわけ子供を水の事故で突然失った家族の悲しみは深い。「水の精」の仕業とでもして無理矢理心の整理をつけていたのだろう。
ドヴォルザークの最も有名なオペラ「ルサルカ」のタイトルロールは「水の妖精」ということになっている。ソプラノで歌われるこの役の他に、水の精の男も登場する。どうもオペラの設定を見る限り、ルサルカや水の精の男は、人間を湖の底に引きずり込む癖がある。民話を題材にとったオペラ「ルサルカ」が、そうした民間伝承の反映である可能性は低くないと感じる。
ドヴォルザーク作品にはもう一つ「水の精」がある。op107が付けられた交響詩「水の精」だ。エルベンのテキストを管弦楽でトレースした作品だが、湖底に棲む水界の王と結婚した娘の悲劇が描かれる。湖底イコール死のイメージはここでも共通している。
実はブラームスにも水の精が現われる。「混声合唱のための14のドイツ民謡集」WoO34の3番目「夜のひとときに」という作品だ。「Bei nachtelicher Weil」という歌いだしで、猟師と水の精の湖畔での会話が描かれる。原因は明かされないまま、猟師は悩みを水の精に訴える。悩みを聞いた水の精の答えは「水の中に入ってらっしゃい」というものだ。猟師はその通りにして、湖に飛び込みやがて沈んでいき、水底で心の安楽を得たと結ばれる。
先のルサルカや「水の精」の設定に通じるものを感じる。キリスト教以前の素朴な伝承が、そっくり保存されているかのようだ。「水の精」はさておきブラームスとルサルカにも共通することがある。死のイメージと隣りあわせでありながら、描写には暗さが無いという点だ。どちらかというと清らかで静謐なイメージだ。特にブラームスの手による民謡は、敬虔なニュアンスに溢れた絶唱である。
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