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2010年11月30日 (火)

初演再考

現在クラシック音楽の市場は演奏会、CDとも既存作品がその主たるレパートリーになっている。とりわけ演奏会では過去の作曲家の作品のうち、知名度の高いものが順列組み合わせ的に選ばれて供される。現代作曲家の新作が供されることが無いとまでは言えないが、主流ではない感じ。

ところがブラームスの時代は違った。

ブラームスに限らず名高い作曲家の新作は、鳴り物入りで宣伝された。オペラを含む大規模作品の初演は、当時の欧州楽壇のエポックだったと考えて良い。だから作曲家の伝記や解説書を見ていると、主要作品の初演の話は欠くことの出来ないエピソードになっている。オペラを遺さなかったブラームスにとっての大規模作品は、ほぼ交響曲と協奏曲に限って良い。だからそれらの初演はいつも手厚く言及される。

私は「初演とその後」にまで幅を広げて情報を収集したいと考えた。初演されたそのシーズンでの取り上げられ方を調べたのはそのためだ。ブラームスの大規模管弦楽曲が、欧州各地でどのように受け入れられたのかという興味だった。

それが記事「都市対抗初演ダービー」だ。

2010年11月29日 (月)

リストアップの威力

ブログ「ブラームスの辞書」が事ある毎に何かとリストアップをすることは、既にお気づきの通りである。生命線と申し上げてもよい。26日の記事「都市対抗初演ダービー」を再度ご覧頂きたい。

マッコークルの至宝・ブラームス作品目録からの抜粋だ。交響曲4曲とピアノ協奏曲第1番を除く3つの協奏曲合わせて7曲について、初演に続いて演奏された日付と都市を列挙したものだ。

マッコークル作品目録の各々の作品のページには、初演の日時場所が掲載されている。作品によっては、そのシーズンの演奏された都市が書いてある。昨日の記事はそれを初演順に列挙した代物だ。

やってみて驚いた。各々のページに小さく書かれている時には読み飛ばしていたが、こうして一覧表になってみると、実にたくさんのことが判る。

2010年11月28日 (日)

リスト

あらかじめ設定された定義を満足する事柄を列挙すること。一覧表の形態をとるのが普通だ。定義の設定のしかたにより膨大なバリエーションが考えられる。情報めかして物を語ろうと思ったら欠くことの出来ないツールである。

実にふさわしいたとえがある。

私の初めての自費出版本「ブラームスの辞書」がそうだ。

この場合定義は「ブラームス作品の楽譜の上に出現する音楽用語」になる。各々の楽語がどこに出現するかや、私個人の見解も多々混入しているが、リストの一種であることは疑えない。

さらにその本の宣伝用にと立ち上げたこのブログ「ブラームスの辞書」にもリストが出てくる。当日の記事のお題に合わせて毎回定義を設定して、その結果を開示することで、私の主張が少しでも説得力を持つよう心がけている。範囲は音楽用語にとどまらず、地名やレストランにまで及ぶ。

「私はリストが好きなのだ」などと申すと某作曲家のマニアかと思う向きも現れ紛らわしくなるから、より正確に言うと「リスト化の過程」が好きなのかもしれない。リストを作っている時の苦労と完成時の快感、そしてそのリストから思いがけない傾向を発見したときの驚きが、やめられないのだ。

2010年11月27日 (土)

サロンの住人

ブラームスがデュッセルドルフのシューマン邸を訪問する前に、ワイマールのリストを訪ねたことは、大抵の伝記に載っている。

当時の楽壇におけるリストの位置づけは強大であった。ピアノ魔術師と謳われる程の腕前に加えて作曲にも秀でていた。持ち前の寛大な性格とルックスとも相俟って、彼の回りには自然発生的に人が集まった。「サロンが形成されていた」と表現されている場合もある。

ブラームスはそうした空気になじめずに、早々にリストの許を去り、シューマンを訪問したとされている。夫妻揃ってブラームスの演奏を聴いたというシューマン邸の寛いだ雰囲気を強調する意図もあろうが、大なり小なりサロンめいた雰囲気はあったのだと思われる。

こうしたサロンの住人の一人にウィリアム・メイスンがいる。ブラームスのリスト邸訪問の折、同席して、そこでのやりとりを目撃していたと思われる。ブラームスが演奏を固持した話、リストがブラームスのスケルツォop4を初見で演奏した話。それを聴いた人々が「ショパンに似ている」と言った話、リスト自身がソナタを演奏した際にブラームスが居眠りした話等々の出所は、この人の証言だったのだ。

この人米国ボストン生まれのピアニストで、早い話がリストの弟子だ。早々に退散したブラームスの側が、リストを取り巻く人物の中の一人を特に記憶していたとは思えないが、このメイスンさんは、どうもリスト一辺倒ではなかった。

その証拠に約2年後1855年11月27日、米国はニューヨークで、ブラームスのピアノ三重奏曲第1番(もちろん初版だ)を演奏した。これは公開演奏という意味では初演にあたるばかりか、ブラームス作品の米国初演でもある。1855年というこの段階、交響曲はおろか、ドイツレクイエムやハンガリア舞曲も世に出ていない。いわばブレーク前だ。

ブラームスがリストの許を去ったことは、メイスンも知っていただろう。程なくシューマンを訪ねたことは知るよしも無かったと考えられるが、10月に公開されたシューマン自身執筆の「新しい道」を読んで「ああ、あのときの」という具合に思い出したと思われる。1854年にブライトコップフから出版されたピアノ三重奏曲を1855年シーズン早々に米国で取り上げるというのは、思うだに意欲的である。

このときヴァイオリンを弾いたのがセオドア・トーマスという人物だ。何とニューヨーク・フィルハーモニックの創設者である。

2010年11月26日 (金)

都市対抗初演ダービー

ブラームスの4つの交響曲は、全て作曲家としての名声が確立されてからの完成だ。どの曲も完成後またたく間に各地で演奏された。一部協奏曲を含む大管弦楽曲は夏に避暑地で完成して、その年の秋からのシーズンで初演されるのが恒例になった。初演からそのシーズンのうちにどれだけの都市で演奏されたかを調べてみた。

<交響曲第1番>ハ短調op68 出版1877年10月ジムロック

  1. 1876年11月04日 カールスルーエ
  2. 1876年11月07日 マンハイム
  3. 1876年11月15日 ミュンヘン
  4. 1876年12月17日 ウィーン
  5. 1877年01月18日 ライプチヒ
  6. 1877年01月23日 ブレスラウ
  7. 1877年03月07日 ケンブリッジ
  8. 1877年03月31日 ロンドン
  9. 1877年04月16日 ロンドン

<交響曲第2番>ニ長調op73 出版1878年8月ジムロック

  1. 1877年12月30日 ウィーン
  2. 1978年01月10日 ライプチヒ
  3. 1878年02月04日 アムステルダム
  4. 1878年02月06日 デンハーグ
  5. 1878年02月08日 アムステルダム
  6. 1878年03月06日 ドレスデン
  7. 1878年06月??日 デュッセルドルフ

<ヴァイオリン協奏曲>二長調op77 出版1879年10月ジムロック

  1. 1879年01月01日 ライプチヒ
  2. 1879年01月08日 ブダペスト
  3. 1879年01月14日 ウィーン
  4. 1879年02月22日 ロンドン
  5. 1879年03月06日 ロンドン
  6. 1879年03月22日 ロンドン
  7. 1879年05月25日 アムステルダム

<ピアノ協奏曲第2番>変ロ長調op83 出版1882年7月ジムロック

  1. 1881年11月01日 ブダペスト
  2. 1881年11月22日 シュトゥットガルト
  3. 1881年11月27日 マイニンゲン
  4. 1881年12月06日 チューリヒ
  5. 1881年12月11日 バーゼル
  6. 1881年12月14日 ストラスブール
  7. 1881年12月16日 バーデンバーデン
  8. 1881年12月20日 ブレスラウ
  9. 1881年12月26日 ウィーン
  10. 1882年01月01日 ライプチヒ
  11. 1882年01月08日 ベルリン
  12. 1882年01月13日 キール
  13. 1882年01月14日 ハンブルク
  14. 1882年01月18日 ミュンスター
  15. 1882年01月21日 ユトレヒト
  16. 1882年01月25日 デンハーグ
  17. 1882年01月26日 ロッテルダム
  18. 1882年01月27日 アムステルダム
  19. 1882年01月30日 アルンハイム
  20. 1882年02月17日 フランクフルト
  21. 1882年02月22日 ドレスデン

<交響曲第3番>ヘ長調op90 出版1884年5月ジムロック

  1. 1883年12月02日 ウィーン
  2. 1884年01月04日 ベルリン
  3. 1884年01月18日 ヴィースバーデン
  4. 1884年01月22日 ヴィースバーデン
  5. 1884年01月28日 ベルリン 
  6. 1884年02月03日 マイニンゲン
  7. 1884年02月07日 ライプチヒ
  8. 1884年02月12日 ケルン
  9. 1884年02月14日 デュッセルドルフ
  10. 1884年02日16日 バルメン
  11. 1884年02月23日 エルバーフェルト
  12. 1884年02月27日 アムステルダム
  13. 1884年03月07日 ドレスデン
  14. 1884年03月14日 フランクフルト
  15. 1884年04月02日 ブダペスト

<交響曲第4番>ホ短調op98 1886年10月ジムロック

  1. 1885年10月25日 マイニンゲン
  2. 1885年11月01日 マイニンゲン
  3. 1885年11月03日 フランクフルト
  4. 1885年11月06日 エッセン
  5. 1885年11月08日 ブッパータール-エルバーフェルト
  6. 1885年11月11日 ユトレヒト
  7. 1885年11月13日 アムステルダム
  8. 1885年11月14日 デンハーグ
  9. 1885年11月21日 クレーフェルト
  10. 1885年11月23日 ケルン
  11. 1885年11月25日 ヴィースバーデン
  12. 1886年01月17日 ウィーン
  13. 1886年02月01日 ベルリン
  14. 1886年02月09日 ケルン
  15. 1886年02月13日 マンハイム
  16. 1886年02月18日 ライプチヒ
  17. 1886年03月10日 ドレスデン
  18. 1886年03月30日 ブレスラウ 
  19. 1886年04月02日 マイニンゲン
  20. 1886年04月09日 ハンブルク
  21. 1886年04月15日 ハノーファー
  22. 1886年05月05日 フランクフルト
  23. 1886年05月10日 ロンドン

<ヴァイオリンとチェロのための協奏曲>イ短調op102 出版1888年5月

  1. 1887年10月18日 ケルン
  2. 1887年11月17日 ヴィースバーデン
  3. 1887年11月18日 フランクフルト
  4. 1887年11月20日 バーゼル
  5. 1888年01月01日 ライプチヒ
  6. 1888年02月08日 ベルリン
  7. 1888年02月??日 ハンブルク
  8. 1888年02月16日 ロンドン
  9. 1888年02月21日 ロンドン

興味深い。

 

2010年11月25日 (木)

聖アントニーのコラール

聖アントニーは3世紀エジプト生まれの聖人を指す。

ラテン語ではアントニウス、英語ではアンソニー、フランス語ではアントワーヌ、イタリア語ではアントニオだ。ブラームスの覚えめでたいドヴォルザークの名前アントニンにももちろん関係がある。欧米では人気のある名前だ。

さて「聖アントニーのコラール」は、ブラームスにある程度親しんだ人にはおなじみだ。「ハイドンの主題による変奏曲」のテーマのことだ。ブラームスがこのテーマを知ったのは友人でハイドン研究家のフェルデナンド・ポールからの紹介だという。「ディヴェルチメントHobⅡ46」の第2楽章である。現在では木管五重奏という編成で親しまれている。私が所属した大学オケでは、夏合宿の最終日に、1年生の木管楽器奏者がこのディヴェルチメントを演奏するのが恒例になっていた。その出来映えで、その学年の木管楽器のレベルを推し量ったのだ。

「ハイドンの主題による」という言い回しが微妙だ。このディヴェルチメントの段階で既に「聖アントニーのコラール」と記されていたという。このディヴェルチメントがハイドンの作品だったとしても、「聖アントニーのコラール」がハイドンの創作かどうかは怪しいとされている。ブラームスはそれを知っていたのかどうか五分五分だと感じる。

主題の出所はともかく、繰り広げられる変奏は極上だ。主題の提示は意図的にオリジナルをトレースしたものだ。

私の結婚式の時、披露宴の冒頭「新郎新婦入場」の際、「聖アントニーのコラール」がBGMだった。私自身の編曲により、弦楽器までもが演奏に参加する寿バージョンだった。披露宴の厳粛な雰囲気にとけ込み、新郎新婦の歩みにもピタリと同調する絶妙の選曲だったと思う。

2010年11月24日 (水)

初演オリンピック

ブラームスの作品を一度でも初演したことがある都市を現在の地図上の国別に集計した。

  • 1位 ドイツ 226回
  • 2位 オーストリア 210回
  • 3位 スイス 14回
  • 3位 イギリス 14回 全部ロンドン
  • 5位 チェコ 5回 全部プラハ
  • 6位 ハンガリー 4回 全部ブダペスト
  • 6位 ポーランド 4回
  • 8位 オランダ 2回 全部ハーグ
  • 8位 アメリカ 2回 
  • 9位 フランス 1回 全部ストラスブール(当時はドイツ領シュトラスブルク)

気付いたことをいくつか。

  1. 都市別ではダントツの第1位ウイーンを擁しながら、国別だと2位になるオーストリア。それもそのはずウィーン以外の都市ではマイニンゲンの2回が加わるだけだ。ハンブルクやベルリンを含む21の都市が226回を稼いだドイツに負けてしまう。マイニンゲンの1回は第4交響曲なのだが、今大会は「交響曲補正」がかからないから特別扱いしない。
  2. 英国と米国を除くと全てドイツ語圏と考えられる。
  3. ロンドンだけの数値で3位の英国は侮れない一方、英国と3位を分け合ったスイスはチューリヒ、バーゼル、ルツェルンの3都市がバランス良く初演している。
  4. 不明の曲が400曲近くあるので、これが判明すると順位が変わるかもしれない。
  5. 日本が無い。当たり前だが残念。

2010年11月23日 (火)

名刺代わり

アラビアンナイト計画がスタートした。2013年7月2日まで企画を隙間無く敷き詰めるというコンセプトだ。その第一弾「ワイン」がつい先日終わった。

開幕企画だけに気合が入った。10月6日つまり2002本目の記事の翌日に立ち上げて、ボージョレヌーヴォーの解禁日11月18日までの44日間に42本のワインネタを発信した。実に95.5%の高濃度だった。このあとこの濃度に達する企画は無いとひとまず断言しておく。

44日の期間中にワインネタを発信しなかったのは以下の通り。

  1. 10月8日 「アラビアンナイト計画
  2. 11月4日 「カールスルーエ

上記1番は今後1000日の決意表明だった。2番はワインネタを積み上げる中から浮かび上がった「カール大帝」のエピソードから派生した。彼の名前を冠したカールスルーエで交響曲第1番が初演された日に相応しい脱線だ。ところが一見脱線に見える「初演」ネタは、ワイン特集の次なる企画の予告編になっているという仕掛けだ。

今後アラビアンナイト計画会期中に発信する企画は、こうした「連想」や「語呂合わせ」を軸に、次々とテーマを手繰り寄せる形で展開することになる。今のところ用意した企画は先日のワインを含めて20本だ。

2010年11月22日 (月)

最多初演都市

ブラームスの作品をもっとも回数多く初演した都市はウィーンである。サプライズも何もない妥当な話だ。その回数は208回だ。

ここで少々の説明が要る。ブラームスの作品番号の最大は122だ。なのに初演の回数が208回とは一見不自然と映る。208というカウントは細かい作品毎だ。たとえば「16のワルツ」op39を一気に初演した場合のカウントは「1」ではなく「16」だ。こうしてカウントした場合作品の総数は当然作品番号の最大値とは一致しない。編曲や偽作の疑いのある作品の扱いは微妙だが、これがひとまず「852」に膨れあがる。

つまり全体の24%が、ウィーンということになる。1862年以降ブラームスが本拠地とした音楽の都にふさわしい位置づけだ。

同様にカウントして第2位はハンブルクの63回。ウィーンとは3倍以上の開きがあるが、ブラームスの故郷が面目を保った。第3位はベルリンで35回である。

ハンガリア舞曲やワルツが一括して初演されているとそれだけで数値が膨らむから取り扱いには注意が少々必要だからあくまでも目安だ。

2010年11月21日 (日)

史書というもの

史書つまり歴史を綴った書物、とりわけ正史といわれる王朝公式の歴史書は、1つの王朝が終わった後になって、後を継いだ王朝の手で描かれるのが恒例だった。中国歴代王朝の歴史書は、みなそうだ。日本もこれに倣っている。中国4000年の歴史はこうして後世に綿々と伝えられているのだ。

実は為政者たちにとっては死活問題でもあった。そもそも王朝の平和的交代は「禅譲」と呼ばれて理想とされてはいるものの、そうたびたび起きるものではない。王朝の交代には大抵簒奪や革命がついてまわる。現王朝に歯向かってことが成就しなければ反乱軍というレッテルが貼られてしまうのだ。たまたま上手くいったにしても、決起当初は謀反または反乱だ。

王朝の交代が達成された後、為政者がまず民衆にするのが、自らの王朝の正当性のアピールだ。前王朝との交代がいかに正当かを示す必要があるというわけだ。そういう意味で前王朝の正史を編纂出来るのはまことに好都合だ。嘘はいかんが、誇張と省略を駆使して、せっせと大義名分を後付けするということも自在だ。

ドヴォルザーク特集明けのインターヴァル後、新たな試みとしてトリプルアラビアンナイトまで、途切れることなく企画を放つと宣言した。読者にはいつ企画が代わったか判りにくいという事態も予想されるので、企画の継ぎ目に総集編記事を挿入することにした。前企画の流れを総括する意味だ。企画の切れ目が血なまぐさいということはあり得ぬが、メリハリは必要と感じる。

18日の記事がその第一弾で、「ワイン特集総集編」だった。

2010年11月20日 (土)

初演をめぐって

作品の初演は作曲家の伝記の中では、エポックを形成する。オペラや交響曲ともなると主要な作品の初演は、作曲家のみならず社会にとってもちょっとした出来事になるケースも増えてくる。

マッコークルの「ブラームス作品目録」は、さすがにその点心得ていて、作品の初演に関する記述が実に細かい。初演年月日は元より、初演の都市、会場、演奏者、新聞記事など盛りだくさんの内容になっている。それでも初演が不明とされている作品もかなり多い。作品番号無き作品も含む全852作品のうち、なんと368作品が「初演不詳」とされている。

ワインに次ぐ新テーマを立ち上げる。

次のお題は「初演」だ。初演を巡る話をあれこれ集めてみるつもりだ。

2010年11月19日 (金)

ブログ開設2000日

本日この記事をアップしたことにより、ブログ「ブラームスの辞書」は2005年5月30日の開設以来、2000日連続記事更新と相成った。

昨日がボージョレーヌーヴォーの解禁日で、ワイン特集の千秋楽だった。ブログ開設2000日と1日ズレるというあたりが絶妙だ。本日のようなブログ運営上の記念日区切りは、特集記事の間に割ってでも挟み込むのがお約束とはいえ、特集の流れをブッタ切ってしまうというリスクもある。本日のような記事を企画の切れ目に入れるほうが、ブログの運営としてシャープである。

記念日で気分を変えて次の企画に無理なく移ることが出来る。偶然の有効利用。

2010年11月18日 (木)

ワイン特集総集編

ドヴォルザーク特集後、最初の企画「ワイン特集」は本日のこの記事をもって終わる。今後トリプルアラビアンナイトまで、企画を途切れさせずに走りきると宣言したばかりだ。明後日から新企画が立ち上がるので、ワイン特集の総集編を発信しておく。

  1. 2010年10月06日 シュタインベルク ビルロート未亡人のおもてなし。
  2. 2010年10月07日 2つのカビネット KabinettとCabinet。
  3. アラビアンナイト計画の立ち上げ
  4. 2010年10月09日 カビネット考 シュタインベルクがCabinetを考案。
  5. 2010年10月10日 2山5城 大産地ラインガウの銘醸畑。
  6. 2010年10月11日 壁ワイン シュタインベルク特産の壁ワイン。
  7. 2010年10月12日 リースリンク ドイツワインの大黒柱。 
  8. 2010年10月13日 小さな満足 2010本目を「ベルンカステラードクトル」で祝う。
  9. 2010年10月14日 石の山 ブドウ栽培の地勢を表す地名。
  10. 2010年10月15日 ヨハニスベルクは「ヨハネの山」
  11. 2010年10月16日 二大産地 ヨハニスベルクとシュタインベルク。
  12. 2010年10月17日 北緯50度を舐めてはいけない。
  13. 2010月10月18日 奇跡のクランク 北緯50度に横たわるクランク。
  14. 2010年10月19日 シュペトレーゼ 追いはぎのおかげで貴腐ワインが出来た。
  15. 2010年10月20日 メッテルニヒ侯爵 シュロス・ヨハニスベルクを褒美にもらう。
  16. 2010年10月21日 論功行賞 シュロス・ヨハネスベルクの元の持ち主。
  17. 2010年10月22日 ナポレオン高地 ナポレオンのいた痕跡。
  18. 2010年10月23日 ヴィンテージ ワインの当たり年。
  19. 2010年10月24日 ワインのコレクション 良い年のワインは無闇に飲まれない。
  20. 2010年10月25日 嘆きの年 1945年のこと。
  21. 2010年10月26日 ボトリティス・シネレア 貴腐ワインを生む菌。
  22. 2010年10月27日 シュトラウス ワインが出来た印。
  23. 2010年10月28日 アイスヴァイン 糖度を上げるもう一つの方法はギャンブル。
  24. 2010年10月29日 マディラの白ワイン ある日のメニューから。 
  25. 2010年10月30日 発泡ワイン 次女指揮者デビュー。
  26. 2010年10月31日 テロワール ワインを育む環境。
  27. 2010年11月01日 ヘッセン州立醸造所 現在のシュタインベルクの持ち主。
  28. 2010年11月02日 カール大帝の功績。
  29. 2010年11月03日  3W 男性の三大道楽。
  30. ワインスルーエ
  31. 2010年11月05日 ゴールのマーク 「ブラームスの辞書」2033本目の記事。
  32. 2010年11月06日 収穫の時期 イタリア産新酒ノヴェッロの解禁。
  33. 2010年11月07日 フィロキセラはブドウの天敵。
  34. 2010年11月08日 検疫体制 フィロキセラの侵入を阻止する体制。
  35. 2010年11月09日 ドクトル モーゼル・ベルンカステルの銘醸畑。  
  36. 2010年11月10日 ラベルの風景 ドクトルのラベル。 
  37. 2010年11月11日 ミュスカデ バッハ・コーヒーカンタータに現われるワイン。 
  38. 2010年11月12日 ヘンデルヴァリエーションの評価に現れた新約聖書の言葉。
  39. 2010年11月13日 20パーセント ゴールまで残り80%。シュペトレーゼの濃度。
  40. 2010年11月14日 最後の手段 街を救った一気飲み。
  41. 2010年11月15日 再びビルロート未亡人 シュタインベルクのカビネットの画像。 
  42. 2010年11月16日 マラガのワイン ブラームスの伝記最後のワインネタ。
  43. 2010年11月17日 Ausdrucksvoll異聞 音楽用語とテイスティング用語。
  44. 2010年11月18日 本日のこの記事。

ワイン特集の最後を飾る今日は、ボジョレーヌーヴォーの解禁日でもある。本日まで44日の会期に42本のワインネタ、実に95%を越える。アラビアンナイト計画の船出に相応しい高濃度だが、あっという間の44日でもあった。この分だとあと956日だってあっという間かもしれない。

2010年11月17日 (水)

Ausdrucksvoll異聞

「Ausdrucksvoll」はドイツ語だ。「表情豊かに」と解されて音楽用語にもなっている。イタリア語「espressivo」に相当する語彙だと思われる。ベートーヴェンの後期以降、ドイツ語圏の作曲家たちが楽譜上にドイツ語を置くようになる。本日話題の「Ausdrucksvoll」もそうした流れの中で音楽用語として定着していった。ブラームスにも以下の通りの用例がある。

  1. Sehr langsam und ausdrucksvoll 「五月の夜」op43-2
  2. Langsam und ausdrucksvoll 「2つのモテット」op74-2
  3. Anmitig und ausdrucksvoll 「インテルメッツォ」op76-3
  4. Sanft bewegt und sehr ausdrucksvoll 「6つの歌とロマンス」op93a-4「さよなら」
  5. Einfach und ausdrucksvoll 「嘆き」op105-3
  6. Anmitig bewegt und ausdrucksvoll 「湖上で」op106-2
  7. Sehr lebhaft und ausdrucksvoll 「気位の高い女に」op107-1

さて、この文脈でワインに繋がるから驚きだ。ワインのテイスティング用語という一連の語彙群がある。ワインの味わいを言葉に変換する長きにわたる試みの中から合意が形成されてきた言葉たちだ。瓶に詰められた後も尚熟成を続けるワインの個々の熟成段階における味の特徴が言葉に置換されている。これらを順に示すことで瓶詰め後の熟成の深まりがトレース出来る仕組みだ。

  1. Mostig 「ジュースっぽい」 原料ブドウ果汁を「Most」ということから来る。
  2. Garig 「発酵臭のする」
  3. Unfertig 「未完成の」
  4. Unentwickert 「飲むにはまだ十分でない」
  5. Verschlossen 「まだ内に閉じこもった」
  6. Jung 「若い」 そろそろか。
  7. Frisch 「フレッシュな」
  8. Entwickert 「ぼちぼち飲み頃の」
  9. Ausgebaut 「十分に飲み頃に達した」
  10. Ausdrucksvoll 「最上の状態に近づいた」
  11. Auf der Hohe  「最頂点の」
  12. Reif 「完熟した」
  13. Abgelagert 「完熟しきった」
  14. Gealtert 「少し歳を取った」
  15. Alt 「歳をとった」
  16. Edelfirn 「優雅に枯れた」
  17. Firn 「枯れ味の」
  18. Stumpf 「冴えない」
  19. Schal 「気の抜けた」
  20. Mude 「疲れた」
  21. Matt 「疲れ果てた」
  22. Tot 「死んだ」

人々の嗜好は様々だから、フレッシュな味を好む人もいれば完熟を好む人もいる。概ね上記6番から17番くらいがポジティブなニュアンスを持つ。そして10番目に本日話題の「Ausdrucksvoll」がある。それも頂点の一つ手前の飲み頃の位置だ。ほぼピーク時を指すと考えてよい。

シュタインベルクのカビネットの愛好家だったブラームスがこの手のワイン用語を知っていたとして何等不思議ではない。そうした知見が「Ausdrucksvoll」の楽譜への配置に影響を与えた可能性も考えている。単に「espressivo」の対応概念と捉えるのはもったいない。

「ausdrucksvoll」の解釈に詰まったら、ひとまず高級ドイツワインで一息ついてみる価値はありそうだ。

 

2010年11月16日 (火)

マラガのワイン

1897年4月1日の出来事としてホイベルガーが記述している。家政婦トゥルクサ夫人が、フェリンガーから届いた「マラガの甘口ワイン」をブラームスにすすめたとある。ブラームスは「イシュルまでとっておこう」と答え口にしていない。

これが伝記に現われる最後のワインネタだ。

「マラガ」とは地名だ。スペイン南部の海岸部、ジブラルタル海峡を地中海に入ってすぐのあたり。キリスト生誕の数百年前にはブドウの生産が始まっていた地域である。このあたりは甘口の酒精強化ワインつまりシェリー酒の産地だ。単に「マラガのワイン」ではなく「甘口」と特筆されていることからも、死の床にあったブラームスに届けられたのが「シェリー酒」だった可能性を強く示唆する。

ブラームスが64年の生涯を閉じる2日前の話だ。出来ることならベルンカステルのドクトルを届けてあげたかった。

ワイン特集もあと2日。

2010年11月15日 (月)

再びビルロート未亡人

1897年2月5日ブラームスの親友で医師のビルロート博士の未亡人が、ブラームスをもてなしたことがホイベルガーによって証言されている。そのとき「シュタインベルクのカビネット」が供されたとある。まさにそのことが発端となってワインネタがほとばしった。「芳醇なラインワインやシュタインベルクのカビネット」という表現が気になっていろいろ調べたら、これがお宝情報のヤマだった。

Doctor_009

「ブラームスのお気に入りがシュタインベルクのカビネットだ」ということがキッカケで一連のワインネタが炸裂したのだから、どこかでこの画像を公開するのは必須だ。

  1. KLOSTER EBERBACH  エーバーバッハ修道院を表す。シュタインベルクの畑の持ち主だ。
  2. Hessische Staatsweinguter ヘッセン州立醸造所
  3. 2008 2008年産
  4. STEINBERGER シュタインベルクの畑の
  5. RIESLING KABINETT リースリンク種のブドウで作ったカビネット
  6. RHEINGAU ラインガウ

まさにこれが現代の「シュタインベルクのカビネット」である。既に述べたようにブラームスの時代とはカビネットの意味が変わっている。当時のカビネットは「Cabinet」である上に、今よりもとっておき度が高かった。現在の序列で言うならアウスレーゼは最低ラインだろう。その上のベーレンアウスレーゼやトロッケンアウスレーゼともなると万札が複数形で必要になるから、Kabinettでちょうどいい。

Doctor_007

シュタインベルクのカビネットは、ドイツ最高の地位をヨハニスベルガーと分け合う超エリートワインだったことが身に沁みた。あわせてビルロート未亡人のもてなしっぷりは見事というほかはない。

2010年11月14日 (日)

最後の手段

万策尽きる一歩手前の手段のこと。医者に匙を投げられた殿様の最後の手段がワインだった話は既にしておいた。本日も最後の手段がワインだった話だ。

ドイツ30年戦争の最中、ローテンブルク市はプロテスタント側に付いたため、バイエルン公国から攻撃を受けた。ティリー将軍率いるバイエルン軍の猛攻によく耐えたが、1631年10月に降伏した。ティリー将軍の戦後処理は市全域の破壊という過酷なもので、嘆願はことごとく退けられた。ここで登場するのが、フランケンの特上ワインだ。10月というタイミングからして出来たてだった可能性が高い。これをティリー将軍に献上したのだ。ワイン好きのティリー将軍は条件を示した。

「献上されたものと同じワイン3リットルを一息で飲み干せる市民が現れたら、市域の破壊を思いとどまる」というものだった。

好物のワインを献上されて心を動かす将軍も将軍だが、「3リットルの一気飲み」という条件を受けて立つ者が現われるというのもドイツならではである。

この難問を受けて見事クリアしたのが、他ならぬローテンブルク市長ヌッシュだった。老市長はワイン3リットルの一気飲みに成功し、市を破壊から救った。同市の街並みは中世の面影を残しているという点ではドイツで1、2を争う。それが観光資源にもなっているから、万が一一気飲みに失敗して破壊されていたら、とんでもない損失だった。

市立博物館にはこのときの一気飲みに用いたジョッキが今も残っているという。

2010年11月13日 (土)

20パーセント

本日のこの記事がブログ開設以来2041本目の記事だ。本ブログの目標2033年5月7日までの継続を考える場合、10205本の記事が必要になることは、既にたびたび申し上げてきている。2041本という半端な数字は、惜しいことに13で割れるので素数ではない。けれども到達目標10205本のちょうど5分の1に相当する。だから進捗率20%という訳だ。開設から5年半、一日の抜けもなくここまできたが、まだまだ目標の2割とは、手強い。あと記事が8164本必要だ。

区切りの日がワイン特集の真っ只中に到来したのをいいことに無理矢理ワインにこじつける。

ドイツワイン格付けの最高ランクに君臨するのがQmPだ。このQmPもさらに細かく序列化されている。判定基準は原料ブドウ果汁の糖度だ。この基準は地域は品種によって微妙に違うという細かさがドイツらしい。たとえば大産地モーゼルにおけるリースリンク種の場合、シュペトレーゼと認められるためには、原料ブドウ果汁におよそ20%の糖度が要求される。「およそ20%」という基準はドイツらしからぬ曖昧さだ感じる向きも多かろう。

本当の基準はパーセンテージではない。ドイツ独特の基準でこれをエクスレ度という。原料果汁1000mlの重さを測る。もし水1000mlだったら1000gとなるハズだが、原料果汁は1000よりは重くなる。超えた分のほとんどは糖分だ。原料果汁1リットルが1076gであることを「エクスレ度76」という。モーゼルのリースリンクはエクスレ度76でシュペトレーゼを名乗ることが出来る。これをパーセントに換算するとおよそ20%になるということだ。

これがQmP最高ランクのトロッケンベーレンアウスレーゼともなると何故か全産地全品種共通で「エクスレ度150」が要求される。原料果汁1リットルが1150g以上となる必要がある。パーセンテージにするとおよそ36%だ。貴腐菌の力を借りねば到達不可能と言われている。ちなみに過去ドイツ最高のエクスレ度は、1959年モーゼル・ベルンカステラードクトルのターニッシュ醸造所で記録した312である。150本少々のベーレンアウスレーゼになったという。

10月13日の記事でご覧に入れた写真を見て欲しい。ラベルには「Wwe.Dr.H.Thanisch」と書かれている。つまりこれが「ターニッシュ醸造所」だ。ちなみに「Wwe」は未亡人の意味。醸造所に現在の繁栄をもたらした「ドクター・フーゴー・ターニッシュの未亡人カタリーナ」の記憶のためにこのように表示されている。

2010年11月12日 (金)

ヘンデルヴァリエーション

ワインに関わる格言が新約聖書に登場する。

「誰も新しいワインを古い皮袋に詰めたりしない」

「新しいことを古い形式で縛ってはいけない」というほどの意味合いだ。この後イエス自身の言葉が「さもないと皮袋が避けて袋もワインも使えなくなる」と続く。

これがなかなか理に叶っている。新しいワインつまり若いワインは、まだ発酵が止まっていないということがある。発酵が止まっていないということは、引き続き炭酸ガスが発生中ということだ。袋の中に炭酸ガスが充満すると弾力性が失われた皮袋が避けてしまう。万人を納得させるに足る説得力がある。聖書はこの手のたとえ話がとても上手い。

さて本日のお題「ヘンデルヴァリエーション」は、「ヘンデルの主題による変奏曲」op24の通称だ。この作品について論ずる文章は高い確率でワーグナーの言葉を引用する。1864年ブラームス本人の演奏でこれを聴いたワーグナーは「古い方法でも心得ある者の手にかかると本当にいろいろなことが出来るものだ」と感想を漏らしたという。

この言葉の原文が知りたい。どうも先のワインの格言を踏まえた言い回しのような気がしている。ブラームスのヘンデルヴァリエーションは、格言「誰も新しいワインを古い皮袋に詰めたりしない」の例外を形成すると言いたかったのではあるまいか。ブラームスは聖書の言葉に反して「新しいワイン」を「古い皮袋」に詰めて成功していると言いたいのだ。

2010年11月11日 (木)

ミュスカデ

フランスはナント周辺。ロワール川が大西洋に注ぐあたり特産の白ワイン用ブドウ品種のこと。爽やかな甘口の白を生み出すという。その名声は18世紀中葉のドイツ・ライプチヒにも届いていた。

1732年とも35年とも言われる頃、バッハが作ったのが「コーヒーカンタータ」BWV211だ。コーヒー好きの娘が父親に駄々をコネる他愛の無い筋書き。ドイツ・ライプチヒのコーヒーへの熱狂を今に伝える。第4曲ロ短調8分の3拍子ソプラノのアリアは、娘がコーヒーへの思いを切々と訴える。「コーヒーはキス1000回より素晴らしい」と歌って始まる。フルートのオブリガートが美しいなどと思っていると次を聞き逃す。「ミュスカデワインよりマイルド」と続くのだ。

本日のお題「ミュスカデ」がバッハの「コーヒーカンタータ」に出てくるということだ。欧州に名の知れた甘口の白よりマイルドとは素晴らしい。これが当時のドイツを席捲したコーヒーブームなのだ。テキストの作者ピカンダーは、市民の側にあるコーヒー熱を知り尽くしていた。コーヒーの素晴らしさを示す比喩に用いる以上、万人にとって説得力がある物でなければならない。そうでなければ「ほらあのミュスカデの甘口の白よりマイルドなんですよ」とやる意味が無い。そして大事なことは、ミュスカデのワインがコーヒーを持ち上げるための小道具になっているということだ。

さて、あまりコーヒーなど飲まぬ我が家の長女が昨夜、3泊4日の修学旅行から無事帰宅した。母は道中の無事を祈ってささやかなコーヒー断ちであった。

2010年11月10日 (水)

ラベルの風景

昨日の記事「ドクトル」で10月13日に入手したワインについて述べた。本日はさらにその続きである。

ワインのラベルは面白い。記載の義務も多くて窮屈ではあるのだが、制約の範囲内で何とか個性を出そうという意欲が伝わってくる。今一度先般入手したラベルを見る。

Doctor_003

「Doctor」の文字の下に「Nr14」とある。そのすぐ下に描かれているのがランズフート城だ。病に倒れたのはここの殿様だ。

Doctor_002

下の方に川が描かれている。船が浮かんでいるからすぐにお判りいただけるだろう。これがモーゼル川で右手が上流だ。一番下「Mosel-Saar-Ruwer」のすぐ上に「Bernkasetel-Kues」とあるのがこのあたり一帯の地域名だ。川上から下ってきて右岸が「Bernkastel地区」で左岸が「Kues地区」。両者が合わさってBernkasetel-Kues地区と総称されているのだ。だからラベルに描かれる川の向こうがBernkastelとなる。

ラベル中央やや左寄りに白いゲレンデのように見える三角形の部分が「Doctor」の畑である。モーゼルに面した南向きの斜面約3ヘクタールだ。

2010年11月 9日 (火)

ドクトル

モーゼル川中流の大産地ベルンカステルに「Doctor」(医者)という畑がある。14世紀のことだ。トーリア大司教ベームント2世がこの地ランズフート城で病に倒れ、医者に匙を投げられた。万事休するかという時に近隣のブドウ園から献上されたワインを飲んだところ奇跡的に回復した。喜んだ大司教はこのブドウ園に「Doctor」の名を献じて感謝の意を顕した。

20世紀に入ってモーゼル初のトロッケンベーレンアウスレーゼ(≒貴腐ワイン)が作られたのもこのブドウ園だ。

ブラームスの伝記に現われるワインはラインガウばかりだ。緑のボトルでおなじみのモーゼルは今でこそラインガウと比肩する位置にあるのだが、19世紀の時点ではまだブレーク前だったから、ブラームスの伝記にはもっぱらラインワインばかりが言及される。

そう10月13日の記事「小さな満足」で念願のワインを入手したと騒いだ理由が本日の記事でほぼ明らかになる。有名なエピソード付きの超一級畑のワイン、しかも最上ヴィンテージ1990年物が手に入ったということだ。

2010年11月 8日 (月)

検疫体制

昨日の記事「フィロキセラ」の続きだ。どうも欧州でのフィロキセラの被害についてドイツの記述が緩いと感じていた。壊滅あるいは全滅という表現にお目にかからないと書いた。その周辺を掘り下げてみた。

米国から研究用に持ち込まれた苗木に運悪くフィロキセラ・バスタトリクスがついていたことが引き金だった。1863年にフランス・プロヴァンス地方で最初の被害が出た。2年後にはボルドーに飛び火し、その後20年でフランス全土100万ヘクタールのブドウ園が壊滅した。現代のドイツ全土のブドウ園の面積の10倍である。

隣国ドイツはその状況を知って発生を阻止する法律まで制定して固唾を呑んでいたが、1874年にボン近郊でドイツ最初のフィロキセラが確認された。懸命の措置によりフランスほどの大損害にはならなかったというのは、どうやら本当らしい。初上陸の国がドイツだったら、やはり大損害になったのだと思う。フランスからの組織的意図的情報収集の賜物に決まっている。

怪我の功名もあった。フィロキセラに耐性を持つ米国産への接木が最良の対策だと判明した頃から、ブドウの接木の技術が急激に発達したという。米国産ブドウとの交配よりも接木のほうがよいということもわかってきた。ドイツ各地の土壌の性質に合わせて台木のアメリカ種を選ぶことでブドウの品質向上を実現したのだ。肥沃過ぎる土壌には意図的に成長力の弱い品種を台木に用いるということさえ行われている。

大陸移動によってユーラシア大陸とアメリカ大陸に分かれたブドウだったが、フィロキセラに対抗する接木の技術によって再度結び付けられたというわけだ。

ドイツ正確にはプロシアは1870年から1871年にかけてフランスと戦った。普仏戦争だ。戦火を交えながらもフィロキセラをドイツに侵入させなかったという事実は顧みられていい。当時まだ領邦乱立のドイツではあったがフィロキセラへの検疫体制はほぼ完璧だったのではあるまいか。ボン近郊への初の侵入は普仏戦争の2年後だ。奇跡的だと思う。

2010年11月 7日 (日)

フィロキセラ

ワインの天敵。フィロキセラ・ヴァスタトリクスという虫。ブドウの根に寄生して壊滅的な打撃をもたらす。アメリカ原産。アメリカから欧州に持ち込まれたブドウの根に寄生していたことから1870年代以降の欧州ブドウ産地を壊滅に追い込んだ。1880年代にはフランスのワイン生産を半減させるに至った。

フランスに続いてスペイン、イタリア、ポルトガル、ギリシアに広がったとされるが、不思議なことにドイツが記述から抜けているケースが多い。南欧においてはしばしば「壊滅」「全滅」という表現が用いられるのに対してドイツはどうも表現が緩い。さらにこの虫の特性として石ころがちな土地を好まないという記述もある。石ころだらけの土地に追いやられたドイツのブドウ栽培はフィロキセラに対抗するには良かったのかもしれない。あるいは高緯度ドイツの寒さもプラスに作用したかもしrない。

さて、人類はそれでもフィロキセラに対抗する手段を見出した。フィロキセラ原産地のアメリカには、フィロキセラ耐性のある品種が存在したのだ。その木を台木にして欧州品種を接木することでフィロキセラの被害が食い止められることが判り、現在欧州ではアメリカ産への接木が行われている。この方法の品質への影響については古来議論があった。ワインのヴィンテージを読む際に「接木以前」を区別するようになったらしい。また接木せずに本来の根が保たれている木を「自根」と呼んで区別していたとも言われている。モーゼルの上流にはこの「自根」が残っていて珍重されているらしい。

さて、ここでさる10月23日の記事「ヴィンテージ」を今一度ご覧いただく。19世紀のドイツワインのヴィーンテージだ。1869年の次の超優良年は1893年だ。この24年の空白は19世紀以降最長の空白だ。フィロキセラが猛威を振るった時期と重なっている。この間超優良年より少し劣る優良年を拾っても1880年と1886年の2度しかない。仮に天候に恵まれても、フィロキセラが蔓延していたらワインの仕込みどころの話ではない。

1896年2月5日ビューロー未亡人がブラームスに振舞った「シュタインベルクのカビネット」が「フィロキセラ禍」以前のヴィンテージなのか、はたまた生き残りの「自根」なのか判っていない。証言者ホイベルガーにこの情報を求めるのは酷だろう。直前の優良年1993年物であるなら接木が施されていたとしても不思議ではない。

2010年11月 6日 (土)

収穫の時期

本日はイタリア産新酒ノヴェッロの解禁日だ。今年採れたブドウで仕込んだワインを今日から飲んでもよいということだ。フランス産ボジョレーヌーヴォーの解禁日はさらに遅くて今年で申せば11月18日だ。

昨今話題のドイツワインはさらに遅いらしい。何せ高緯度である上に、晩熟で名高いリースリクの作付けが多い。それらを遅摘みにしてとなるとさらに遅れる。イタリア産やフランス産が解禁される11月には、まだ収穫前ということもあり得る。ましてや貴腐ワイン、アイスワインともなれば収穫が年越しということだってあるらしい。

まだある。天候に恵まれた年のワインはさっさと飲んではもったいないとする愛好家も多いから、解禁を待ってそそくさとというのも良し悪しだ。新酒が出来ると居酒屋の軒に木の枝が吊るされてそれを知らせるという習慣があるから、待ち構えている人も大勢いるのだとは思うが、カウントダウンイベントにはどうにもなじみにくい。

あくまで未確認だが、ドイツではカビネット以上の品質のワインの瓶詰め品が年明け前に売られることを禁止しているらしい。

私としては、クリスマスが正月くらいでちょうどいい。

2010年11月 5日 (金)

ゴールのマーク

ブログ「ブラームスの辞書」は、2033年5月7日ブラームス生誕200年まで、毎日更新を旗印に、日々記事を書きためている。2033は聖なる数字だ。本日のこの記事はブログ「ブラームスの辞書」開設以来2033本目の記事である。23年は人の一生を基準にすれば短くないが、地球の営みを基準にすればホンの一瞬だ。地質時代の区分は億年単位で刻まれる。小学校高学年から中学にかけて恐竜にはまったせいで、地質時代にも興味を持った。本日はそれを思い出しながらワインへのこじつけを試みる。

古生代の中ごろにデヴォン紀と呼ばれる時代がある。およそ4億年前から始まるこの時代の地層がライン西部の基礎的な土壌を形成している。一方ライン東部のフランケン地方は別の地層だ。三畳紀と呼ばれる地層で中生代の初期に当たるから少々新しい。両者のワインの味の違いをこのあたりから説き起こそうという試みはけして珍しくない。その三畳紀の後が恐竜で有名なジュラ紀だ。当時のドイツには始祖鳥もいたハズだ。パンゲアという巨大大陸の上である。

やがて6500万年前に新生代が始まる。始まってすぐおよそ6000万年前にブドウの直接の先祖が現われる。この第3紀を象徴するのが造山運動でアルプスが形成された。この時の地殻変動が原因でデヴォン紀や三畳紀の地層が表土に押し出されたという。パンゲア大陸が分裂して移動を始めるのもこのころで、ユーラシア大陸とアメリカ大陸にブドウの先祖ごと分かれることになった。アメリカにしかいないブドウの害虫フィロキセラはこのころ以降の発生かもしれない。

人類の登場はこのあと第4紀を待たねばならない。氷河期があってその時代に氷河が運んだ土砂が黄土として地表に残された。一般に肥沃と呼ばれる土地には、この土壌が多いのだが、あまり多いとリースリンクの足を引っ張りかねない土壌だ。

最後の氷河期が1万年前に終わる頃には人類は既にブドウを食していたと考えられている。ブドウ果汁が絞られていた証拠およそ8000年前の果汁絞り器や、6000年前の容器が出土している。ほぼワインの発明と認めてよいとされている。黒海とカスピ海に挟まれた地域での出来事だ。同時にワインに適したブドウの選別も始まっている。製造や貯蔵の技術はその後ローマ時代に完成の域に達したと考えてよい。ワインの製造については「イタリア人が最近2000年でなした実績より、ローマ人が200年で編み出したことのほうが重要だ」などといわれるほどだ。

ブラームスの登場にはさらに1600年程度の時間がいる。

2010年11月 4日 (木)

カ-ルスルーエ

「Karlsruhe」と綴る。語感から申せば「カール・スルーエ」だ。ところが実際には「カールス・ルーエ」が妥当だ。さらに付け加えるならば、「カール・ス・ルーエ」となるべきだ。「カール」は人名だ。ドイツの歴史を紐解けば、カール大帝がすぐに目に留まる。フランク王国時代の英雄で、現在の中欧の枠組みを築いたとされている。フランスでは「シャルルマーニュ」と呼ばれている。

「カール」に続く「ス」は「s」で所有を表す。「カールス」は「カールの」である。最後の「ルーエ」は「Ruhe」で「休息」だ。全体では「カールの休息」となる。日本だって高貴な人物や英雄の足跡が地名に反映していることなど珍しくない。

生涯の大半を征戦に費やしたカール大帝が、束の間の休息をした場所だと推測する。カールスルーエが、名高い温泉地バーデンバーデンに近いことも「休息地」という想像を豊かにしてくれる。その他ライン南岸にはカール大帝にからむ史跡も多い。「Ingelheim」にも彼が滞在したというエピソードが伝えられている。

「Ruhe」という言葉が語尾になるケースはさほど多いとはいえないが、「Friedorichsruhe」という地名もある。「フリードリヒの休息」だ。フリードリヒはプロイセンに名高い王がいたし、十字軍の時代には「赤ひげ王フリードリヒ」が輩出している。だからこの地名も「人名+s+ruhe」で「英雄の休息」という解釈ですんなり収まる。

さらに「Ruhe」から末尾の「e」が脱落した「Ruh」にも、興味深い用例がある。「Heinrichsruh」だ。「ハインリヒの休息」がそれである。「ハインリヒ」は「支配者の家」を語源とするゲルマン人の伝統名で、歴史上何名かの王の名前になっているから「英雄の休息」の概念と矛盾しない。

1876年11月4日カールスルーエにおいて第一交響曲初演という手の込んだオチである。だから今日は訳あってワイン特集はお休み。いわば「ワインスルーエ」である。

2010年11月 3日 (水)

3W

ドイツでは「3W」といえば「Wein」「Weib」「Wurfelspiel」(サイコロ賭博)を言うらしい。日本語への転写には意訳が必要で、「飲む打つ買う」となる。もはや説明不要の男性の3大道楽を表す。日本語では動詞の羅列になるが、ドイツ語では名詞になる上に語順も変わる。それでも「飲む」つまり「Wein」が先頭であること変わりはない。

ドイツの「3W」には担当の神様がいるらしい。酒神バッカス(Bacchus)、恋の神ヴィーナス(Venus)、賭博神デシウス(Decius)だ。古来男たちは巧妙で「全ては神様がそそのかしたせいで、自分のせいではない」という言い訳とセットになっていたという。「飲む打つ買う」という動詞では、主語は男たち自身になってしまう。これらを名詞に置き換え担当の神様を設定したところに苦心の跡とユーモアを感じる。

これら神様の頭文字を繋げてみて欲しい。男性アンダーウエアの某有名ブランドと一致する。偶然として一笑に付せない説得力がある。

2010年11月 2日 (火)

カール大帝

カール大帝(742-814)といえばご存知フランク王国の王だ。彼の治世においてフランク王国はもっとも勢力を伸ばした。現在の中欧諸国の基礎を築いたと評価される英雄である。実際カール大帝がしたのはラインガウを含むあたり一帯の土地を国有化つまり大帝にとっては私有化し、改めて司教や修道院に分配した。

在位期間のほとんどを征服戦にあてたカール大帝だが、言い伝えによるとガリア今のフランスにブドウの栽培を普及させたのは彼の功績だというが、考古学的には、もっと遡る証拠も多々発見されていて鵜呑みは危険だ。現在のドイツ領内でも彼にまつわる伝説が数多く残っている。ワインの大産地で名高いラインガウの対岸、ライン川をはさんで向かい合う位置にインゲルハイム(Ingelheim)という街がある。ここにカール大帝の王宮があった。

春浅いある日カール大帝は、ライン川をはさんだ対岸、雪が真っ先に消える丘を指して「あそこにブドウを植えよ」と言った。真っ先に雪が消えるということは、あたりで一番の陽だまりがそこにあるということだ。かくして人々はそこにブドウを植えいつしかワインの名産地になったと伝えられている。その丘こそが先日来さんざん話題にしているヨハニスベルクである。シュロス・ヨハニスベルク(ヨハニスベルクの館)の創立は1050年だが、ブドウの栽培はそれよりもさらに遡るということが推定できる。

北緯50度、ブドウ栽培の北限にあって日当たりこそが好立地の条件だ。この説話はその点を巧みに押えている。山肌に残雪が織り成す形で種まき時期を悟った「雪形」に通ずるものがある。

地図を開く。ヨハニスベルクの対岸に本当にインゲルハイムがある。

2010年11月 1日 (月)

ヘッセン州立醸造所

ビルロート未亡人が晩年のブラームスをもてなした「シュタインベルクのカビネット」はエーバーバッハ修道院所有の畑で採れたブドウから作られた。修道院の設立は1151年だ。現在ではそれらもろともヘッセン州の所有となっている。修道院の建物こそがヘッセン州立醸造所の本部として使用されているらしい。

シュタインベルクの畑は現在も残っていて「エアステス・ゲウェグス」(第一級畑)の評価を受けている。1971年以降意味とスペルが変わってしまってはいるものの、「シュタインベルクのカビネット」は理論上生産され得ることになる。QmPではもっともお求めやすい値段になるハズだからありがたい。

そしてそれは州のお墨付きのワインでもあるということだ。一度は飲んでみたいものだ。

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ブラームスの辞書写真集

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