サロンの住人
ブラームスがデュッセルドルフのシューマン邸を訪問する前に、ワイマールのリストを訪ねたことは、大抵の伝記に載っている。
当時の楽壇におけるリストの位置づけは強大であった。ピアノ魔術師と謳われる程の腕前に加えて作曲にも秀でていた。持ち前の寛大な性格とルックスとも相俟って、彼の回りには自然発生的に人が集まった。「サロンが形成されていた」と表現されている場合もある。
ブラームスはそうした空気になじめずに、早々にリストの許を去り、シューマンを訪問したとされている。夫妻揃ってブラームスの演奏を聴いたというシューマン邸の寛いだ雰囲気を強調する意図もあろうが、大なり小なりサロンめいた雰囲気はあったのだと思われる。
こうしたサロンの住人の一人にウィリアム・メイスンがいる。ブラームスのリスト邸訪問の折、同席して、そこでのやりとりを目撃していたと思われる。ブラームスが演奏を固持した話、リストがブラームスのスケルツォop4を初見で演奏した話。それを聴いた人々が「ショパンに似ている」と言った話、リスト自身がソナタを演奏した際にブラームスが居眠りした話等々の出所は、この人の証言だったのだ。
この人米国ボストン生まれのピアニストで、早い話がリストの弟子だ。早々に退散したブラームスの側が、リストを取り巻く人物の中の一人を特に記憶していたとは思えないが、このメイスンさんは、どうもリスト一辺倒ではなかった。
その証拠に約2年後1855年11月27日、米国はニューヨークで、ブラームスのピアノ三重奏曲第1番(もちろん初版だ)を演奏した。これは公開演奏という意味では初演にあたるばかりか、ブラームス作品の米国初演でもある。1855年というこの段階、交響曲はおろか、ドイツレクイエムやハンガリア舞曲も世に出ていない。いわばブレーク前だ。
ブラームスがリストの許を去ったことは、メイスンも知っていただろう。程なくシューマンを訪ねたことは知るよしも無かったと考えられるが、10月に公開されたシューマン自身執筆の「新しい道」を読んで「ああ、あのときの」という具合に思い出したと思われる。1854年にブライトコップフから出版されたピアノ三重奏曲を1855年シーズン早々に米国で取り上げるというのは、思うだに意欲的である。
このときヴァイオリンを弾いたのがセオドア・トーマスという人物だ。何とニューヨーク・フィルハーモニックの創設者である。
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