検疫体制
昨日の記事「フィロキセラ」の続きだ。どうも欧州でのフィロキセラの被害についてドイツの記述が緩いと感じていた。壊滅あるいは全滅という表現にお目にかからないと書いた。その周辺を掘り下げてみた。
米国から研究用に持ち込まれた苗木に運悪くフィロキセラ・バスタトリクスがついていたことが引き金だった。1863年にフランス・プロヴァンス地方で最初の被害が出た。2年後にはボルドーに飛び火し、その後20年でフランス全土100万ヘクタールのブドウ園が壊滅した。現代のドイツ全土のブドウ園の面積の10倍である。
隣国ドイツはその状況を知って発生を阻止する法律まで制定して固唾を呑んでいたが、1874年にボン近郊でドイツ最初のフィロキセラが確認された。懸命の措置によりフランスほどの大損害にはならなかったというのは、どうやら本当らしい。初上陸の国がドイツだったら、やはり大損害になったのだと思う。フランスからの組織的意図的情報収集の賜物に決まっている。
怪我の功名もあった。フィロキセラに耐性を持つ米国産への接木が最良の対策だと判明した頃から、ブドウの接木の技術が急激に発達したという。米国産ブドウとの交配よりも接木のほうがよいということもわかってきた。ドイツ各地の土壌の性質に合わせて台木のアメリカ種を選ぶことでブドウの品質向上を実現したのだ。肥沃過ぎる土壌には意図的に成長力の弱い品種を台木に用いるということさえ行われている。
大陸移動によってユーラシア大陸とアメリカ大陸に分かれたブドウだったが、フィロキセラに対抗する接木の技術によって再度結び付けられたというわけだ。
ドイツ正確にはプロシアは1870年から1871年にかけてフランスと戦った。普仏戦争だ。戦火を交えながらもフィロキセラをドイツに侵入させなかったという事実は顧みられていい。当時まだ領邦乱立のドイツではあったがフィロキセラへの検疫体制はほぼ完璧だったのではあるまいか。ボン近郊への初の侵入は普仏戦争の2年後だ。奇跡的だと思う。
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