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2010年12月31日 (金)

越年

日本人は古来、気持ちよく正月を迎えたい民族だと思う。旧年中の懸案事項を出来るだけ年内に解決して、正月に持ち越さないことを目指す。やむを得ぬ事情で、年内解決が出来なかった場合、それが「越年」と言われることになる。プロスポーツ選手の契約更改が合意に至らずに年を越した場合、「越年更改」の見出しが新聞に踊ることもある。

11月18日「初演時期」を再度ご覧頂く。その年の夏に完成した大規模管弦楽作品が、秋の演奏会シーズンには初演されている。1879年1月1日ライプチヒにて初演されたヴァイオリン協奏曲だけが、例外だ。

初演が越年している。

ピアノ協奏曲なら、どれほど超絶技巧が盛り込まれようとも、初演の独奏はブラームス本人だ。独奏パートの取り扱いやオケとのバランスは、身に付いている。ヴァイオリンとなると微調整が難儀だったと思われる。大親友のヨアヒム相手とはいえ、メールも電話もない時代には相談、修正は厄介な手順だったことは確実だ。

勝手な想像をする。

前年、前々年と立て続けに交響曲を世に問い、ますます楽壇での地位を盤石にしたブラームスが、ヨアヒムとのコラボで放つ初のヴァイオリン協奏曲の初演が楽壇の注目の的だったことは否定できない。恒例に従い秋のシーズン早々の初演が予定されていたのではあるまいか。それが相次ぐ楽譜の手直しにより、次々とキャンセルになり、元から1879年1月1日に予定していたライプチヒが初演になってしまったというのが真相ではなかろうか。

1878年秋、欧州のいくつかの都市の会場が、「作曲者都合によりキャンセル」の憂き目に遭っていたと考えたい。

2010年12月30日 (木)

皆勤都市

11月26日の記事「都市対抗初演ダービー」の対象となった7作品全てについて、完成後の初シーズンで取り上げている都市が一つある。ライプチヒだ。

  1. 交響曲第1番 1877年1月18日
  2. 交響曲第2番 1878年1月10日
  3. ヴァイオリン協奏曲 1879年1月1日
  4. ピアノ協奏曲第2番 1882年1月1日
  5. 交響曲第3番 1884年2月7日
  6. 交響曲第4番 1886年2月18日
  7. ヴァイオリンとチェロのための協奏曲 1888年1月1日

上記の通りコンプリートだ。ウィーンは惜しい。ヴァイオリンとチェロのための協奏曲だけが初シーズンで取り上げられていない。

それにしてもライプチヒは面白い。このダービーの対象にしていないピアノ協奏曲第1番でも、1859年1月27日に演奏している。つまり交響曲4つと協奏曲4つ全て完成後の初シーズンで取り上げている。特にピアノ協奏曲第1番を真っ先に取り上げたのは、他にはハノーファーとハンブルクくらいなので、不評を浴びせたとはいえ貴重だ。

さらにもう一度上記のリストを眺めて欲しい。ピアノ協奏曲第1番を含めた8曲全て越年で取り上げている。シーズン開始後年内に取り上げた例はない。年明けにもつれ込みながらも、絶対に漏らさないという勝負強さを感じる。

2010年12月29日 (水)

大甘

見通しの立て方が緩いこと。昨年12月29日の記事で、備蓄が1095本に達したと述べた。割り算をすればそれが3年分に相当することがわかる。同時に2033年5月7日までの継続に必要な記事を定年退職までに備蓄してしまおうと決意した。1日2本の記事を思いつけばいい。1年で2年分の記事だとも言い換え得る。毎日1本公開しながら1年分を別途備蓄に回すということだ。定年を迎える10年後には10年分備蓄が増える。今ある3年分と併せれば13年分になり、2033年まで確保できる。

甘くはなかった。

つまりあれから1年後の今日までに、1460本の備蓄をせねばならなかったが、僅かに届かない。今朝現在の備蓄は1442本。目標に18本足りない。原因ははっきりしている。6月から1ヵ月半襲ってきたスランプだ。異動やワールドカップもあってその間記事を思いつけなかった。およそ2ヶ月で備蓄を50本切り崩した。

7月にアラビアンナイト計画を思いついて、スランプを脱しその後4ヶ月で挽回をしたが、1ヵ月半のスランプを吸収できなかった。今後はこうしたスランプが定期的に訪れることを織り込んだ計画が必要だ。

2010年12月28日 (火)

生誕200年の人々

2010年は、シューマンとショパンの生誕200年だった。メンデルスゾーンは2009年だし、リストは2011年だ。2010年±1年は、ロマン派初期の巨人たちが相次いで生まれたということだ。

我が愛するブラームスは1833年の生まれだ。音楽史の授業ではブラームスだってロマン派とされているが、ロマン派初頭の巨人たちからざっと20年遅れて生まれてきたのだ。このことは、もっともっと意識されてよい。音楽史の授業や書物でざっくりと分類されると見落としがちになる。上記4名のうちリストを除く3名とは、活躍の時期が重なっていないと申して良い。

音楽史として振り返る場合は、20年など一瞬で、人によっては誤差の範囲なのかもしれないが、同時代を生きた生身の人間にとってはけして一瞬ではない。

ブログ「ブラームスの辞書」は2033年のブラームス生誕200年をゴールと定めている。シューマンやショパンの生誕200年でもある今年から見ればあと23年後だ。ブログ管理人の私は、ゴールの時73歳のブラ2寿となる。

2010年12月27日 (月)

プラハ不出馬

都市対抗初演ダービー」を観戦していて不思議に思っていることがある。プラハが無いのだ。プラハは現在の地図ではチェコ共和国の首都になっている。オーストリアハンガリー二重帝国の支配下にあった当時も今もボヘミア地方の中心都市であることに変わりはない。有力な音楽家を数多く輩出する魅力的な街で、当時も今もけして田舎ではない。そして何よりも、ブラームスの在世当時プラハではドイツ語が通じだのだ。

ドイツ語の通じる外国には億劫がらずに出向くことの多かったブラームスの新作が、初シーズンで取り上げられていないのは不可解だ。ウィーンからハンブルク、ドレスデンに向かおうと思えば、プラハは通り道でさえある。

対象の7曲が1曲もヒットしないのが不思議でならない。

2010年12月26日 (日)

「Lied」と「Gesange」の区別

今からかれこれ5年前の記事「Lied」と「Gesange」で1つの疑問を提起した。ブラームスはこれらをどう区別しているのかということだ。

このほどあっさり答えが見つかった。音楽之友社から1994年に刊行された「大作曲家ブラームス」(ハンス・A・ノインツィヒ)という本であっさりと言及されていた。

「Lied」は有節歌曲で、「Gesange」は通作歌曲だと断言されている。

有節歌曲は2007年8月8日にも取り上げた。詩節の1コーラス毎に同じ旋律が当てられている歌曲のことだ。狭義では1番カッコ、2番カッコやリピート記号が出現することもある。ブラームスの場合は、広義の有節歌曲が主役だ。詩節1コーラス毎に同じ旋律があてがわれるのだが、伴奏のパターンや和声がテキストの意味に従って微妙に変化していることが多い。だから楽譜の見てくれは通作歌曲然としているのだ。

こんな大切なことを見落としていたとは情けない。

2010年12月25日 (土)

ブリュル

イグナーツ・ブリュル(1846-1907)は「Ignaz Brull(赤文字はウムラウト)と綴られるブラームスの親しい友人。ウィーンの作曲家兼ピアニストだ。

この人何が凄いといってその特別扱いぶりは羨ましいの一言だ。

ブラームスは作品の初演にあたり、事前にピアノ連弾版を作成し試演する手順を踏むことが多かった。世間様に公式にお披露目する前に、流れを把握することが出来るし、何よりもクララに聞かせるにも好都合だった。そしてそうしたピアノ連弾版を出版することが商売になることも知っていた。交響曲もそうだった。曲が要求する編成が大きくて、簡単に試演という訳にも行かないから、ピアノ連弾版による「試写会」は不可欠だったと思われる。

そして連弾に必要な4本の腕のうち2本はブラームス自らが差し出したが、残る2本の腕を誰かに提供させねばならない。1番を除く3曲について、その大役を射止めたのがブリュルその人である。親しい関係者を集めた公式の「試写会」でブラームスのパートナーを務めるピアニストという位置づけはよっぽどのモンだと思う。

2010年12月24日 (金)

クリスマス休暇

都市対抗初演ダービー」のリストをよく見ても出てこないものがある。クリスマスとクリスマスイヴには、演奏会が開かれていない。やはりかの地ではクリスマスは家族と静かに過ごすものなのだろう。

12月21日から25日までの5日間は、「都市対抗初演ダービー」のリストに都市名が現れない。ついでに申せば大晦日もない。

日本だったらクリスマスコンサートと銘打った演奏会の一つも開かれそうなものだ。

もしかするとブラームスがサンタになるから忙しいのかもしれない。

2010年12月23日 (木)

目が点

今や死語か。たいそう驚いた様子を形容するが、狼狽も混入していそうだ。

CDショップで目が点になったまま立ちつくした。バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータにピアノ伴奏を付与したCDを発見した。編曲したのはロベルト・シューマンだった。声も出ない。2枚組3990円を後ろ髪引かれつつ購入。ハズレだった場合の落胆も考えたが、怖い物見たさには勝てなかった。シューマン編曲でなければ買っていないだろう。

詳しいことが判らないが、どうやらヴァイオリンのパートはそのままにしておいて、ピアノパートを付け加えているようだ。思っていたより普通。何もしていないとは申さぬが、シューマンのピアノ曲や室内楽でのピアノパートを想像してはいけない。「節度ある」と表現できる範囲にとどまっている感じだ。要所要所で和音の輪郭をくっきりと指し示している感じがする。バッハがうっすらと仄めかした和音進行を「こうでしょ」と言って種明かししているような印象。ヴァイオリン独奏では、聴き取りにくい隠れ声部が、ピアノであっさりと提示されていて驚かされた。「シューマンにはこう聞こえていたのか」という発見に近い。いくつか出現するフーガの冒頭でピアノを重ねていたらどうしようかとも思っていたが、杞憂だった。

ホ長調のガヴォットなどはピアノで伴奏されても違和感が無い。根を詰めた仕事の時、BGMでさりげなく流されたらスルリと入ってきかねない。

もしかするとベンヤミン・シュミートというヴァイオリン奏者、上手いような気がする。独奏で音楽を作るのと違ってピアノとのアンサンブルも意識せねばならない分、余計な苦労もあると思うが、微塵も感じさせない。

シャコンヌのピアノ編曲にあたり右手の参加を封じたブラームスとの個性の対比が面白い。

2010年12月22日 (水)

分解マニア

長女は高等学校に入ってからも、時々勉強のこと私に質問してくる。

そうしたやりとりの中で、私が文系だったことも話した。数学苦手なので文系にしたが、実は古典も苦手だと言ったら、「私も」という反応だった。「国立は無理」などと早くもしょっぱいことを言っている。

数学苦手な私だったが、因数分解だけは得意だった。一方古典の中にも得意な分野があり、それが品詞分解だった。いつのことだったかそこまで黙って聞いていた長女が、「じゃあ、電気分解はどお」などと切れ込んできた。「おおお」ってなモンだ。水に電極を差して水素と酸素を発生させるアレである。「おう、得意だよ」と勢いで答えた。「パパは分解マニアだねえ」などと言われて鼻の下がのびたが、「加水分解」だったら危なかった。

私は楽曲のアナリーゼを読むのが好きだ。ブログ「ブラームスの辞書」はアナリーゼへの憧れで出来ている。何やら「分解マニア」と関係があるかもしれぬ。

今日長女17歳。

2010年12月21日 (火)

リースリンクを避けたか

懇意にしているワインショップがある。「ブラームスの辞書」を刊行する前からのおつきあいだからもう5年はたっている。品揃えはドイツワインオンリーという徹底振りが嬉しくて、我が家では節目節目にワインを買い求めることにしている。母までもがすっかりドイツワインの虜になってしまった。ここのご主人は我々顧客が買い求めていったワインを記録してくれているのだが、何の気なしにそれを見せてもらった。5年でかれこれ20本くらいにはなるのだろうか。

赤ワインを一度も買ったことが無いことは自覚していたが、何とドイツワインを代表するブドウ品種リースリンクをほとんど買っていないのだ。ショイレーベやフクセルレーベやシャルドネなどのマイナーな品種を買っていた。シャルドネはフランスワインの大黒柱ではあるのだが、ドイツワインの甘口ともなるとけしてメジャーではない。

ご主人はこうした我が家の嗜好を既に熟知た上でいろいろ薦めてくれていたのだ。むしろそれは私というより母の嗜好だ。母が酸糖のバランスで言えば糖が勝っているワインが好きなのだ。リースリンクは糖も去ることながらベースとしての酸が持ち味だから、知らず知らずにリースリンクを避けていたのだ。

ブラームスが好んだ「シュタインベルクのカビネット」は、間違いなくリースリンクだ。シュタインベルクを含むラインガウ一帯の優良畑は、ブラームス在世当時でさえ150年間リースリンクしか植えていない畑だからだ。母にリースリンクを薦めることにしよう。

2010年12月20日 (月)

因数分解

数学の用語。正確な定義なんぞ私の手には余る。おそらく素因数分解として初登場する言葉だ。共通因数をカッコの外に出したり、因数分解の公式を使ったりだ。数学苦手な私だが、実はこの因数分解だけは得意だった。

音楽用語「piu」は「もっと~で」と用いられる。ブラームスお得意の「微調整語」の一つと位置付けている。

ブラームスは確かにこの手の言い回しが得意ではあるのだが、単一の語句に2個の「piu」が用いられているケースは1度しかない。

独唱歌曲「つれない娘」op58-3の23小節目のピアノに出現する「piu p e piu dolce」がそれである。「もっと弱く、もっと優しく」と解することで異論は生じるまい。数学好きにとっては「piu」をカッコの外に出して「piu(p e dolce)」と因数分解したくなる。「piu p e dolce」とした場合「piu」が「dolce」まで修飾するのかどうか議論の余地があるが、このように「piu p e piu dolce」としておけば誤解の余地は無くなる。

現実に管弦楽のためのセレナーデop11の第1楽章443小節目のチェロに「piu p e dolce」が出現するのだ。

作曲年代で14年隔たる両作品にその種の整合性を求め得るか自信がない。

2010年12月19日 (日)

初演時期

ピアノ協奏曲第1番をのぞく3つの協奏曲と交響曲4つの初演日を列挙する。

  1. 交響曲第1番 11月4日 カールスルーエ
  2. 交響曲第2番 12月30日 ウイーン
  3. ヴァイオリン協奏曲 1月1日 ライプチヒ
  4. ピアノ協奏曲第2番 11月1日 ブダペスト
  5. 交響曲第3番 12月3日 ウィーン
  6. 交響曲第4番 10月25日 マイニンゲン
  7. ヴァイオリンとチェロのための協奏曲 10月18日 ケルン

ヴァイオリン協奏曲を例外として全て秋だ。完成はその年の夏である。夏の滞在先である避暑地で完成し、その年の秋に初演されていることになる。

会場の予約が心配になる。現代日本で大きな会場を良い日で押さえようと思うと、半年前では心許ない。おそらく完成を見込んで会場を押さえてあると解したい。

最初の第一交響曲でさえ、ブラームスの地位は万全だった。音楽界の重鎮が満を持して放つ大作という位置づけが揺らいだことは一度も無いと考えるべきである。

2010年12月18日 (土)

初演の不調とは

せっかく「都市対抗初演ダービー」を実施しているというのに、ピアノ協奏曲第1番がその対象から抜けている。

  1. 1859年1月22日 ハノーファー
  2. 1859年1月27日 ライプチヒ

マッコークルの初演の項目には上記2つの記録が残されているだけだ。上記の2番目、ライプチヒでの演奏がさんざんな悪評にさらされたことは既に何度か言及してきた。壮年期以降のブラームス大規模作品のパターンからはずれた1月中旬の初演というだけでもブラームスの苦労が透けて見えるようだ。1859年3月24日にハンブルクでも演奏されたらしいが、マッコークルに記載がない。

最初のシーズンに3回しか演奏されないという時点で既に、世の中から押された烙印が見えるようだ。最初のシーズンに10回20回演奏されるというのは、大変なことなのだ。

2010年12月17日 (金)

たった一度の初演

ブラームス作品の初演を一度でもしたことのある都市は35都市に及ぶ。208回のウィーン、63回のハンブルク、35回のベルリンがトップ3であることは既に述べた。本日はその逆、初演をたった一度だけ行った街の話だ。

  1. 1853年10月28日 デュッセルドルフ 「FAEソナタ」WoO2
  2. 1855年11月27日 ニューヨーク ピアノ三重奏曲第1番初版op8
  3. 1865年07月02日 ケムニッツ 「宗教的な歌曲」op30
  4. 1866年10月11日 ボストン 「弦楽六重奏曲第2番」op36
  5. 1868年04月10日 ブレーメン 「ドイツレクイエム」op45 
  6. 1870年11月10日 イエーナ 「アルトラプソディー」op53
  7. 1875年夏     ツィーゲルハウゼン 「夕立」op70-4
  8. 1881年12月14日 ストラスブール 「エーオルスのハープに寄せて」op19-5
  9. 1886年10月30日 ヘルマンシュタット「別れに臨んで」op95-3
  10. 1895年02月21日 メルセブルク 二重唱op61-2

なかなか味わいが深い。ブレーメンは名高い「ドイツレクイエム」の初演がただ一回の栄誉だったとは思わなかった。ニューヨークやボストンはともかくブレーメンがこれだけとは意外だ。FAEソナタは単にシューマン邸宅で、ヨアヒムを囲んでワイワイやっただけという気もする。身内の盛り上がりを初演に入れて良いのか気が引ける。

2010年12月16日 (木)

アンケート

人々の意見を広く収集するための調査手法の一つだ。世の中これが溢れている。昔は紙に書くのが普通だったが、今はネットが幅を利かせてきている。主催者側の都合により概ね以下の通りに分類される。

  1. 関係者の意見を広く求め、その後の活動に反映させようとするもの。
  2. 人々の意見が知りたいだけのもの。
  3. アンケートをすることに意味があるもの。

演奏会の後で書かされるアンケートはおそらく上記2か3だろう。その後の活動への影響は大きくない。少なくとも私のいたオケではそうだった。

世間で頻繁に見られる割には奥が深い。真剣に成果を求めようと思えば知恵も手間もかかる上にお金も時間もかかる。当初は上記1の目的で始めたのに、膨大な情報の処理に嫌気がさして放置されているケースも後を絶たない。

ブログ「ブラームスの辞書」の管理人としては、読者がブログをどう思っているのか知りたいとは思う。知りたい気持ちはヤマヤマだが、アンケートをお願いしてまでかとなると、そうでもない。アンケートをする以上、回収率がそこそこないとカッコ悪いし、答えが集まったら円グラフの一つや二つ作らねばと思うと気が重い。そしてその結果がその後のブログ運営に生かされているかのように見せねば申し訳が立たぬと言う物だ。

私の立場はおそらく上記2だ。単に知りたいだけである。誉められても叱られてもブログの内容や更新頻度は変わらないと思う。

2010年12月15日 (水)

代振りの報酬

ブラームスとの行き違いが元で、マイニンゲン宮廷楽団の指揮者を辞したビューローの新天地はベルリンフィルだった。今日まで続く隆盛の基盤を築いた功績はビューローのものである。

1894年2月にエジプトのカイロで没した後、ビューローの後釜選びは難航したと伝えられている。

常任指揮者が最終的に、ニキッシュに決まるまでの間、マイニンゲン時代ビューローの弟子だったRシュトラウスに、何度か代振りが依頼されたらしい。このときベルリンフィル側がRシュトラウスに提示した条件が残っていた。

1回500マルクだ。公演で1回指揮をすると25万円という条件だ。ゲネプロやステリハは、どうしていたのか気になるところであるが、詳細は不明である。

微妙だ。高いのか安いのか判断に苦しむ。

2010年12月14日 (火)

祝30万アクセス

ブログ「ブラームスの辞書」の開設以来のアクセスが本日未明に30万に達した。

ありがたい。私のような者のブログに30万アクセスとは。ブログ開設以来2025日目なので、一日平均148アクセスだ。理由は定かではないが、ひとまずめでたい。

2010年12月13日 (月)

郷土の文学

難解。

このところ入り浸っている市立図書館の書棚に書かれていた。「市内に住む人が出した本を一括して置いておく棚」という意味なのだと思う。「小説、詩歌、短歌、俳句、エッセイを出版された方からの寄贈をお待ちしています」と書き添えられていた。辞書はダメなのだろうか。

かなりの数か集められてたが、閲覧者が鈴なりというわけでもなさそうだ。自費出版が結構な数を占めている。

「ボ~クも」っとばかりに1冊献本した。「辞書はダメです」と言われはしないかビビっていたが、あっさり受けてもらえた。現実には、ほぼ保存だけが目的と化している棚に加えられることになる。ブラームス愛好家は芸術書の棚近辺にしか出没しないから、借り出されることはあるまいと悟っていたが、図書館ホームページの書名検索には、キチンと引っかかってくれるらしい。

「ブラームスの辞書」も郷土の文学の仲間入りである。

2010年12月12日 (日)

ブラームスの助言

Rシュトラウスは、ハンス・フォン・ビューローの弟子だったから、ブラームスと面識を持っていた。Rシュトラウスのへ短調交響曲の感想とアドヴァイスがブラームスの口から発せられている。

音楽之友社刊行の「作曲家◎人と作品シリーズ」ブラームスの166ページに詳しく書かれいる。

ブラームスがマイニンゲン滞在中にヘ短調交響曲を聴いたとされている。Rシュトラウスは手記「ハンス・フォン・ビューローの思い出」の中でそのことに言及する。ブラームスは「なかなか良い」という感想の後に「シューベルトを研究して8小節単位の旋律を書く練習をしろ」と助言したという。「旋律の戯れが多過ぎる」とも指摘されている。

この一連のやりとりをもって、著者西原稔先生は、ブラームスとRシュトラウスの作風の違いを強調しておられる。

「ピアノ演奏の歴史」という本の中98ページにもこの出来事が言及されている。一連の助言について述べたRシュトラウスは、最後に「私は助言に従った」と付言している。Rシュトラウスの作品は、ブラームスの助言に従った延長線上にあるということとも受け取れる。

音楽史を飾る2人の作曲家のキャラがシューベルトを題材に浮き彫りになっているエピソードだが、取り扱いには注意が必要だ。ブラームスの真意はなお、明らかとは言い難い。

2010年12月11日 (土)

Rシュトラウスはどうした

リヒャルト・シュトウスがそのキャリアの初期にハンス・フォン・ビューローに師事していたことはよく知られている。ビューローがマイニンゲン宮廷楽団の指揮者だった頃だ。この楽団にはブラームスがしばしば出入りしていた。それどころか第4交響曲の初演を任されている。

1885年10月25日の初演の日。Rシュトラウスがトライアングルを叩いていたと言われている。その後ブラームスとビューローは、マイニンゲン宮廷楽団を率いて欧州各地に赴いた。「都市対抗初演ダービー」のリストを見れば、それが事実上「ブラ4初演ツアー」だったことをうかがい知ることが出来よう。

その瞬間、ブラームスの第4交響曲を演奏できるオケは、世界中でマイニンゲンだけという夢のようなシチュエーションを引っさげての演奏旅行だ。

ささやかな疑問がある。

Rシュトラウスは、その演奏旅行に帯同したのだろうか?それとも初演での一回コッキリの出演だったのだろうか。あるいは3度あったマイニンゲンでの公演にのみ出演していのだろうか。

2010年12月10日 (金)

蜜月の終焉

12月8日の記事「マイニンゲンの貢献」で「都市対抗初演ダービー」のリストに補助線を引いて欲しいと書いた。それは1881年10月ブラームスとマイニンゲン侯の対面から始まるマイニンゲン宮廷楽団の機能供与が、その後の大規模管弦楽作品の成立と受容に大きく影響しているという趣旨だった。

その時期以降の作品が、初演のシーズンで何回取り上げられたかを以下に記す。

  1. ピアノ協奏曲第2番 21回
  2. 交響曲第3番 15回
  3. 交響曲第4番 23回
  4. ヴァイオリンとチェロのための協奏曲 9回

初演が12月にずれこんだ第3交響曲が15回というのは致し方ない面もあるが、ほぼハローウィンには初演にこぎつけたピアノ協奏曲第2番と第4交響曲の20回超は凄まじい。この3曲の積極的な取り上げられ方の陰に、ビューローとマイニンゲン宮廷楽団の貢献があることは申すまでも無い。

だから上記4番目のヴァイオリンとチェロのための協奏曲の9回という激減ぶりが不審である。

これには切ない必然が横たわっている。第4交響曲の初演ツアー中にブラームスとビューローの間に揉め事が起きた。とりわけビューローの怒りは深く、あろうことかマイニンゲン宮廷楽団指揮者の辞任へと発展する。1886年のことだ。ヴァイオリンとチェロのための協奏曲が1887年11月に初演を迎えた時、ビューローは既にマイニンゲンの指揮者の地位に無かった。マイニンゲン宮廷楽団の機能供与は終わっていたのだ。

ヴァイオリンとチェロのための協奏曲が、ブラームス最後の管弦楽曲になってしまった原因の一つがこれかもしれない。

2010年12月 9日 (木)

ローテーションの谷間

野球の用語だと思っている。投手には休養が必要だ。登板過多は選手生命を縮める原因だという。だからどれほど優秀な投手でも一定の間隔を開けてマウンドに立つ。チームが大抵複数の先発投手を擁しているのはそのためだ。ところが実際には、移動日、悪天候、連戦などの巡り合わせで、主力投手が誰も投げられないという日が出来てしまう。それが「ローテーションの谷間」だ。チームにとってはピンチだが若手にとってはチャンスでもある。

12月2日の記事「秋春制」をご覧頂きたい。秋から春の演奏会シーズンを念頭に初演作品を羅列してみた。再度掲載する。

  1. 76~77シーズン 交響曲第1番(76年11月)
  2. 77~78シーズン 交響曲第2番(77年12月)
  3. 78~79シーズン ヴァイオリン協奏曲(79年1月)
  4. 79~80シーズン
  5. 80~81シーズン
  6. 81~82シーズン ピアノ協奏曲第2番(81年10月)
  7. 82~83シーズン 
  8. 83~84シーズン 交響曲第3番(83年12月)
  9. 84~85シーズン 
  10. 85~86シーズン 交響曲第4番(85年10月)
  11. 86~87シーズン
  12. 87~88シーズン ヴァイオリンとチェロのための協奏曲(87年11月)

76~77シーズンから87~88シーズンまでの12シーズンをブラームスの絶頂期だと提案したが、4つめのシーズンと5つめのシーズンが空白になっている。絶頂期にあって2シーズン連続の空白は目立つ。

この「ローテーションの谷間」を埋めたのが大学祝典序曲op80と悲劇的序曲op81だ。

  • 大学祝典序曲 1881年1月4日 ブレスラウ
  • 悲劇的序曲 1880年12月26日 ウィーン

つまり上記5シーズン目の空白を埋める存在になっているのだ。

2010年12月 8日 (水)

マイニンゲンの貢献

11月4日の記事「都市対抗初演ダービー」でブラームスの大規模管弦楽曲の初シーズンにおける演奏状況を一覧にした。そのリスト自体が大変示唆に富んでいるという話は既に何度もしてきた。さらに理解を深めるための補助線を引く。

それは1881年10月17日だ。ブラームスはハンス・フォン・ビューローの紹介でマイニンゲン侯と知己を得る。侯爵の覚えめでたいブラームスは、マイニンゲンの宮廷管弦楽団の機能を自由に使ってもよいという特権を供与された。同楽団の指揮者だったビューローの功績はとても大きい。彼は同楽団を率いると瞬く間に、欧州屈指の水準に引き上げた功労者だ。

この時以降、ブラームスは夏の間に避暑地で完成した作品を、実際にオーケストラを鳴らしながら検証し、楽譜の細部を整えることが可能になった。ブラームス程の音楽家だから作曲の時点で完成形が頭の中で鳴っていることは確実だが、実際に音を出して確認出来ることのメリットは計り知れない。第一交響曲では、初演後にも楽譜の手直しがされていたと伝えられている。この手の手直しはつきものなのだと思うが、これ以降そうした手直しが、初演前に出来てしまうようになった。

初演の段階における作品の完成度が、格段に向上したことと思う。

加えてピアノ協奏曲第2番と第4交響曲においては、マイニンゲンの楽団を率いた初演ツアーの様相を呈する。この両者の最初のシーズンにおける演奏回数が群を抜いていることからもマイニンゲン宮廷楽団とビューローの貢献度は大である。

ピアノ協奏曲第2番と交響曲の3、4番において最初のシーズンの演奏地にマイニンゲンが出現するようになることは特筆すべき変化だ。

2010年12月 7日 (火)

初演の指揮者

ブラームスはその経歴の初期おいて合唱指揮者として台頭した。だから創作の初期に成立した合唱曲は、ほぼ自ら初演を指揮をしていると見て間違いない。

問題は管弦楽曲だ。純粋な管弦楽曲の他、合唱への管弦楽伴奏の作品も含めて、その初演における指揮者をリストアップした。

  1. 管弦楽のためのセレナーデ第1番op11 ヨアヒム
  2. 埋葬歌op13 ブラームス
  3. ピアノ協奏曲第1番op15 ヨアヒム
  4. 管弦楽のためのセレナーデ第2番op16 ブラームス
  5. ドイツレクイエムop45 ブラームス
  6. カンタータ「リナルド」op50 ブラームス
  7. アルトラプソディop53 エルンスト・ナウマン
  8. 運命の歌op54 ブラームス
  9. 勝利の歌op55 ブラームス
  10. ハイドンの主題による変奏曲op56a ブラームス
  11. 交響曲第1番op68 オットー・デッゾフ
  12. 交響曲第2番op73 ハンス・リヒター
  13. ヴァイオリン協奏曲op77 ブラームス
  14. 大学祝典序曲op80 ブラームス
  15. 悲劇的序曲op81 ハンス・リヒター
  16. ネーニエop82 ブラームス
  17. ピアノ協奏曲第2番op83 アレクサンダー・エルケル
  18. 運命の女神の歌op89 ブラームス
  19. 交響曲第3番op90 ハンス・リヒター
  20. 交響曲第4番op98 ブラームス
  21. ヴァイオリンとチェロのための協奏曲op102 ブラームス

案の定興味深い。全21曲のうち本人の指揮は13曲だ。60%強はかなりの高率と思う。ブラームス本人を除いて一人で2回以上はハンス・リヒターとヨアヒムだけだ。意外なことにハンスフォン・ビューローは初演を振っていないが、ピアノ協奏曲第2番を携えた演奏旅行では、ブラームスとビューローが指揮と独奏を交互にこなしたという逸話もある。

ピアノ協奏曲の初演では1番2番どちらもブラームス本人が独奏を担当したから、1番では指揮ヨアヒム、独奏ブラームスという黄金ペアになった。ところが後のヴァイオリン協奏曲では、指揮ブラームスの独奏ヨアヒムが実現した。

交響曲の初演で自らタクトを取ったのは、4番だけというのが不思議だ。一方合唱曲はアルトラプソディ以外はブラームスになっているから合唱曲得意もうなずける。

2010年12月 6日 (月)

絶頂期の定義

作曲家の価値が生み出す作品の質で決まるとするなら、質の高い作品が密度高く生み出された時期を「絶頂期」と定義することで一定の理解は得られよう。さらに今回「都市対抗初演ダービー」を展開する中から、その定義について提案を試みる。

11月12日の記事「秋春制」をご覧頂きたい。1876年の交響曲第1番から1887年のヴァイオリンとチェロのための協奏曲まで、大規模管弦楽曲がほぼ隔年というペースで生まれていた。おそらく愛好家は、一年おきに放たれるブラームス渾身の大作を心待ちにしていたと思われる。もちろんその他に室内楽や器楽作品も現れているから、当時の聴衆は本当に幸せだ。

大管弦楽曲が密度高く生まれたこの12年をブラームス創作の絶頂期と位置づけたい。

音楽之友社刊行の作曲家◎人と作品の中の「ブラームス」では、第4章が「偉大な様式の形成」とタイトリングされている。この記事が1876年から1885年までの10年になっている。私の位置づけとはヴァイオリンとチェロのための協奏曲の扱いで差が出ている。

2010年12月 5日 (日)

お代わりランキング

都市対抗初演ダービー」において「お代わり」とは、同一シーズンに同一都市で、同一作品が複数回演奏されることだ。以下の9回しかない。

  1. 交響曲第1番 ロンドン 2回
  2. 交響曲第2番 アムステルダム 2回
  3. ヴァイオリン協奏曲 ロンドン 3回
  4. 交響曲第3番 ヴィースバーデン 2回
  5. 交響曲第3番 ベルリン 2回
  6. 交響曲第4番 ケルン 2回
  7. 交響曲第4番 フランクフルト 2回
  8. 交響曲第4番 マイニンゲン 3回
  9. ヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ロンドン 2回

ケルン、フランクフルト、マイニンゲンで計7回演奏された第4交響曲はさすがだ。

トリプルはヴァイオリン協奏曲を3回演奏したロンドンと、第4交響曲を3度のマイニンゲンだ。マイニンゲン侯お気に入りの4番だからマイニンゲンの4番2度お代わりは、判るような気がするが、ロンドンのヴァイオリン協奏曲2度お代わりは、ヨアヒムの功績以外の何物でもあるまい。

他にロンドンはブラ1とヴァイオリンとチェロのための協奏曲をお代わりしている。「お代わり王」はロンドンに決定だ。

2010年12月 4日 (土)

先の先の話

2022年のサッカーワールドカップの開催地がカタールに決定した。今から12年後だ。日本は落選。初の単独開催は持ち越しになった。直感としてはえらく先の話だ。それでもリニア新幹線の開業予定よりは5年も早い。日本の単独開催の方が米国の火星探査計画よりは、数段実現の可能性が高いと信じる。

しかしだ。先の話だとばかりも言っていられない。我がブログ「ブラームスの辞書」のゴールはもっと先の2033年だ。

ずっしりとしたやり甲斐。

2010年12月 3日 (金)

海を渡る初演

ピアノ三重奏曲第1番と弦楽六重奏曲第2番の世界初演が米国だったことは12月1日の記事「ボストンの栄誉」で述べた。初演が大西洋を渡ったということだ。

実は晩年のピアノ小品の初演が海を渡っている。op116とop117の一部、それからop118とop119の全曲がロンドンで初演されている。ファニー・デイビスやイローナ・アイベンシュッツなどクララ・シューマンの高弟たちが、故国に戻って演奏したのだ。初演の段階で楽譜は出版されていないから、手稿譜に基づく初演だ。おそらく暗譜に決まっている。この2人ブラームスの覚えめでたいということだ。

ロンドンは侮れない。ヘンデル、メンデルスゾーン、ドヴォルザークなどを熱狂的に迎えた実績がある。この3人は自らロンドンを訪れているから当然とも言えるが、頑として渡英を拒んだブラームスの作品も、暖かく受け入れた。

2010年12月 2日 (木)

秋春制

昨今サッカーJリーグに絡んで話題に上る言葉だ。日本を代表するプロ球技・野球とサッカーは、どちらも春に開幕して秋までレギュラーシーズンを戦う。これが春秋制だ。サッカーの本場欧州では、開幕が秋になっている。年末年始を挟んで春に優勝が決まる。実はこれが「秋春制」だ。新大陸アメリカを眺めてみる。4大プロスポーツのうち春秋制になっているのは野球だけだ。どうも欧米では秋春制が主流に見える。日本のJリーグも欧州諸リーグ並に、秋春制に移行してはというのが話題になっているのだ。

欧米での年度は10月がスタートになってることと関係があるかもしれない。

欧州の演奏会シーズンも実は「秋春制」だ。10月に開幕して遅くも5月にはシーズンを終える。冬が演奏会のシーズンである。だからブラームスは、演奏会のシーズンの終了とともにイタリア旅行に出かけたり、避暑地に赴いたりするのだ。

そうした観点から記事「都市対抗初演ダービー」を眺めてみる。

  1. 76~77シーズン 交響曲第1番(76年11月)
  2. 77~78シーズン 交響曲第2番(77年12月)
  3. 78~79シーズン ヴァイオリン協奏曲(79年1月)
  4. 79~80シーズン
  5. 80~81シーズン
  6. 81~82シーズン ピアノ協奏曲第2番(81年10月)
  7. 82~83シーズン 
  8. 83~84シーズン 交響曲第3番(83年12月)
  9. 84~85シーズン 
  10. 85~86シーズン 交響曲第4番(85年10月)
  11. 86~87シーズン
  12. 87~88シーズン ヴァイオリンとチェロのための協奏曲(87年11月)

見ての通りだ。カッコ内に記した初演年月だけを見ていると見落としがちだが、最初の3つヴァイオリン協奏曲までは、3シーズン連続の新作初演ということになる。第1交響曲を待たせただけに、その後は新作を連発して欧州の聴衆たちの心をつかんだと解したい。

2010年12月 1日 (水)

ボストンの栄誉

1866年10月11日米国はボストンでブラームスの弦楽六重奏曲第2番が初演された。米国初演ではなく、世界初演だ。演奏はメンデルスゾーン五重奏団らしい。米国初演が欧州初演より早い例、つまり世界初演になっているケースは、1855年11月27日ニューヨークでのピアノ三重奏曲第1番初版とこのボストンだけだ。ニューヨークでのピアノ三重奏曲第1番の初演は、まだ海の物とも山の物ともわからない駆け出しのブラームス作品を前に、腰が引けた欧州を出し抜いたニューヨークのファインプレーである。

このボストンは少々事情が違う。

楽譜は1866年の4月には出版されていた。だから1866年の秋が楽譜刊行後初の演奏会シーズンだ。ブラームスの名声は少しずつ上がって来ていたから。出来たての新作をシーズンの開幕早々に取り上げようという試みは十分あり得る。現にボストンの初演からわずか9日後に、スイス・チューリヒでこの六重奏曲の欧州初演があった。タッチの差である。

マッコークルで不明扱いの中に、「本当は米国が初演」というケースがあるかもしれないから、あまり威勢のいい断言は出来ないが、少なくとも現段階での公式記録上は、この時のボストン以降、ブラームス作品の世界初演が米国で行われることが無くなった。ブラームスの名声が上がりに上がってしまい、作るそばから欧州で初演というルーチンが出来上がってしまったと解したい。

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