Rシュトラウスはどうした
リヒャルト・シュトウスがそのキャリアの初期にハンス・フォン・ビューローに師事していたことはよく知られている。ビューローがマイニンゲン宮廷楽団の指揮者だった頃だ。この楽団にはブラームスがしばしば出入りしていた。それどころか第4交響曲の初演を任されている。
1885年10月25日の初演の日。Rシュトラウスがトライアングルを叩いていたと言われている。その後ブラームスとビューローは、マイニンゲン宮廷楽団を率いて欧州各地に赴いた。「都市対抗初演ダービー」のリストを見れば、それが事実上「ブラ4初演ツアー」だったことをうかがい知ることが出来よう。
その瞬間、ブラームスの第4交響曲を演奏できるオケは、世界中でマイニンゲンだけという夢のようなシチュエーションを引っさげての演奏旅行だ。
ささやかな疑問がある。
Rシュトラウスは、その演奏旅行に帯同したのだろうか?それとも初演での一回コッキリの出演だったのだろうか。あるいは3度あったマイニンゲンでの公演にのみ出演していのだろうか。
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コメント
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<田中文人様
大いに気になっております。
音楽史とまで振りかぶるのはいささか重荷ですが、1885年秋のRシュトラウスの単なるスケジュール管理の問題かと存じます。
投稿: アルトのパパ | 2010年12月11日 (土) 08時33分
R.シュトラウスの音楽史における立ち位置を考えると、確かに気になりますね。
投稿: 田中文人 | 2010年12月11日 (土) 05時48分