不評の原因分析
ピアノ協奏曲第1番の初演が、さんざんの評判だったことは既に述べた。
1859年1月22日ライプチヒだ。不評やむなしの条件が揃っていたとも言える。
ライプチヒは恩師シューマンが「新音楽時報」を創刊した街だ。ブラームスの出現に驚喜したシューマンがセンセーショナルな論文を投稿したが、そのころ既にシューマンは編集主幹の座を離れていた。後任はフランツ・ブレンデルという人物。どちらかと申せばあちら側の論客だ。つまりシューマン創刊の「新音楽時報」は、既に「新ドイツ派の機関誌」という位置付けになっていたのだ。
シューマンがベートーヴェンの後継者と絶賛する若者が、新ドイツ派のホームでいきなりデビュー戦を戦ったようなものだ。お手並み拝見モード満載、こてこてのアウェイだ。
ブラームスは失意の中で友人たちに書き送る。「そもそも有力なピアニストは皆新ドイツ派だから、取り上げてもらえるはずも無い」と歎く。リスト、ビューロー、タウジヒ等、ブラームスの超絶協奏曲を弾きこなせそうなピアニストは新ドイツ派に属していたから、半ば諦め顔のブラームスだ。
そんなことはない。クララを忘れては困る。
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