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2011年1月20日 (木)

フェルディナンド・ダヴィッド

昨年2010年は、作曲家シューマンとショパンの生誕200年のメモリアルイヤーだった。ロマン派を代表する2人のメモリアルイヤーだけあって何かとにぎわった。

本日の主人公フェルディナンド・ダヴィッドは2人の影に隠れがちではあるが、1810年生まれのヴァイオリニストだ。本日が生誕201年にあたる。1月20日ハンブルクの生まれだ。メンデルスゾーンのお友達という位置付けがまぶしい。名高いヴァイオリン協奏曲の作曲にあたり何かとアドバイスした上に、初演に際して独奏を受け持った。彼はライプチヒ・ゲヴァントハウスのコンサートマスターで、後にライプチヒ音楽院のヴァイオリン科の教授にもなった。

1850年に発足したバッハ協会の設立発起人の名簿にも彼の名前が入っている。バッハのインヴェンションのヴァイオリンとヴィオラの二重奏版、我が家の楽譜にその校訂者として名前が書かれている。

1853年11月デュッセルドルフのシューマン邸初訪問から始まった長い滞在のあと、ブラームスはライプチヒに向かった。シューマンが急ピッチで進める作品出版の打ち合わせたが主たる目的だったと思われる。このときのライプチヒ滞在は出版交渉のほかにも、数多くの出会いがあった。クララの父ヴィークにも会っている。

ここでブラームスはダヴィッドに会っていたのだ。ダヴィッドはブラームスのヴァイオリンソナタを演奏している。おそらく今は散逸してしまったイ短調のヴァイオリンソナタだ。この出会いから20年後1872年の段階で既にヴァイオリンのパート譜しか残っていなかったらしいが、ダヴィッドが弾いたときはピアノの譜面もあったことは確実である。

後にブラームスはこのソナタの出版を見合わせたが、このときダヴィッドが楽譜を所望していれば、散逸は免れたかもしれない。残念だ。

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