ブラームス神社

  • 道中安全祈願

おみくじ

  • テンプレート改訂しました

独逸日記

  • ドイツ鉄道博物館のおみやげ
    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

ビアライゼ

  • Schlenkerla
    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

カテゴリー

« 2011年1月 | トップページ | 2011年3月 »

2011年2月28日 (月)

空白の理由

1月27日の記事「初版出版社一覧表」でブラームス作品の初版刊行を手がけた出版社を一覧化した。そこには出版社の名前と合わせて刊行年月を添えておいた。本日の記事はその出版年月に注目する。

1853年12月に記念すべきop1が出版されてから、1896年7月に「4つの厳粛な歌」op121が出版されるまで、ブラームスの創作史を作品の出版という切り口から眺めることが出来る。

注意深く眺めていると、作品が出版されていない年があることに気付く。新作の出版が無かった年だ。

  1. 1855年 前年2月27日シューマンのライン川への投身以降、一身を投げ打った献身のためだ。
  2. 1857年~1859年 1856年7月ロベルト・シューマン没に伴う停滞期。
  3. 1885年 10月~翌年9月の欧米風の決算期で見るとかろうじて空白を免れる。
  4. 1894年 「49のドイツ民謡集」WoO33が出ているから事実上セーフ。

1860年以降コンスタントに作品を出し続けていた様子がよくわかる。

2011年2月27日 (日)

衰えの兆候

昨日の記事「ジムロックの会計年度」に掲載した表を見て欲しい。

1890年~91年にかけての年度に刊行された新作は弦楽五重奏曲第2番ただ1曲だ。ブラームスの伝記を紐とけば、この作品を作曲した後、ブラームスが創作力の減退を感じたということが書かれている。後世の愛好家の立場で申せば、この五重奏曲の出来栄えは素晴らしいが、この年度はこの曲しか出版に回せなかったのだ。

その後一連のクラリネット入りの作品を出してスランプ脱出とされていることも多い。アウトプットの量という意味で申せば、89年~90年のシーズンのみ目立つが、その後はさほどでもない気がする。

そしてそのことは、ブラームス自身よりも出版人ジムロックが、認識していたと考えてよい。

2011年2月26日 (土)

ジムロックの会計年度

日本では4月に年度が始まり、翌年3月が年度末になる。これが欧米では10月始まりの翌年9月というサイクルが主流ではあるまいかと12月2日の記事「秋春制」で述べた。ドイツの出版社ジムロックの会計年度も、このサイクルではないかと想像する。

1868年以降ベルリンに居を構えたジムロックは、経営者フリッツと作曲家本人との蜜月関係を背景に、ブラームス作品の刊行を独占して行く様子は、1月27日の記事「初版出版社一覧」で明らかとなった。本日はそれを「会計年度」という切り口から再考する。

1868年10月「4つの歌曲」op46の初版を刊行してベルリン・ジムロック社の躍進が始まる。同年ブラームスの出世作「ドイツレクイエム」がリーターヴィーダーマン社から刊行されているが、ジムロックはその陰でひっそりと歌曲を出していた。

  1. 68/69 op46他3集の歌曲そして何よりハンガリア舞曲でブレーク。
  2. 69/70 「16のワルツ」op39 ハンガリア舞曲の次の矢だ。
  3. 70/71 謎の空白
  4. 71/72 運命の歌
  5. 72/73 勝利の歌
  6. 73/74 弦楽四重奏曲2つとハイドンの主題による変奏曲
  7. 74/75 年度末ギリギリにワルツ愛の歌で一矢報いる。
  8. 75/76 ピアノ四重奏曲第3番
  9. 76/77 弦楽四重奏曲第3番
  10. 77/78 交響曲第1番を年度初頭に、同2番を年度末に出す。
  11. 78/79 ハッスルした前年の反動かモテットとピアノ小品op76でお茶を濁した。
  12. 79/80 ヴァイオリン協奏曲とソナタ雨の歌、ハンガリア舞曲とラプソディop79
  13. 80/81 前年の反動か大学祝典序曲と悲劇的序曲を押し詰まってから出す。
  14. 81/82 ピアノ協奏曲第2番と歌曲3つ
  15. 82/83 ピアノ三重奏曲第2番と弦楽五重奏曲第1番、運命の女神の歌
  16. 83/84 交響曲第3番
  17. 84/85 歌曲5つでごまかす。
  18. 85/86 歌曲2つだけ。ブラ4作曲に2夏かかった皺寄せ。
  19. 86/87 交響曲第4番。チェロソナタ、ヴァイオリンソナタ、ピアノ三重奏曲。
  20. 87/88 ヴァイオリンとチェロのための協奏曲
  21. 88/89 声楽作品4つとヴァイオリンソナタ第3番
  22. 89/90 op109とop110
  23. 90/91 弦楽五重奏曲第2番だけ
  24. 91/92 クラリネット三重奏曲と同五重奏曲
  25. 92/93 ピアノ小品op116とインテルメッツォop117
  26. 93/94 ピアノ小品op118とop119
  27. 94/95 49のドイツ民謡集とクラリネットソナタ
  28. 95/96 4つの厳粛な歌

上記3番1870年~71年のシーズンに空白を作って以降、ジムロックがブラームスの新作を手がけなかった年度は無い。蜜月関係を背景にブラームスの財産管理人でもあったジムロックが、万が一経営で失態を犯して社業が傾くと、財産管理を委託していたブラームスも困るのだ。ジムロック社の楽譜事業の基幹がブラームスであることは確実だから、空白の年度を作らないように配慮していたと感じる。

2011年2月25日 (金)

普仏戦争

1870年に起こったプロイセンとフランスの戦争。準備万端のプロイセンがあっという間に勝って、ドイツ帝国が成立した。

ブラームス37歳の時の出来事だ。兵隊に志願しようと考えたこともあるという。後年になってもブラームスはこのときの感激を知人に語っている。

歴史好きのブラームスは、詩人ヴィトマンから贈られた「青少年のための普仏戦争史」という書物を熟読したという。

ナポレオンの没落後の欧州を再設計するウィーン会議は、やはりドイツを小国の集まりのままにした。フランスという国はどこまでも地続きの隣国ドイツの強大化を恐れた。「プロイセンはやばい」と感じていたと思う。そのプロイセンに現われた切れ者がビスマルクだ。鉄血宰相のイメージは強いが、内政もしっかりしていた。少ない兵力を効率的に配置することで、多方面作戦に備える。プロイセン国内の鉄道網の急速な発展は偶然ではない。これに加えて巧みな外交だ。残念ながらナポレオン3世よりは役者が少々上だ。

というようなビスマルクをブラームスは賛美する。あるいはビスマルクの右腕モルトケ将軍も同様だ。2人ともブラームスに先んじてハンブルクの名誉市民に列せられていた。

2011年2月24日 (木)

絶版譜の復刻

ジムロックがブライトコップフ社から初期ブラームス作品の版権を買い取ったことは2月14日の記事「版権」の中で話題にした。音楽之友社刊行の「ブラームスのピアノ音楽」(デトレフ・クラウス著)の9ページにもこのことが載っていた。

驚くべきことは版権を買い取ったジムロックの目的である。当時絶版となっていたピアノソナタ全3曲の復刻が狙いだったらしい。ブライトコップフ社が、版権を持ったまま増刷をしないと絶版状態になる。版権を買い取って新規に出版しなおすことがジムロックの狙いだった。

ブライトコップフ社はアガーテ六重奏曲の一件以来ブラームスとは絶縁状態にあったからピアノソナタの絶版状態を放置していたものと思われる。

こういうエピソードを知るにつけジムロックの才覚に感心させられる。単なる商才だけでは片付けられないものを感じる。

2011年2月23日 (水)

組版の知識

ブラームスと出版人ジムロックの交友は有名である。大出版社ジムロックの社長に就任する前からの付き合いだ。ジムロックとの付き合いはブラームスに出版関連の知識をもたらしたと思われる。

交響曲第3番は、ブラームスの4つの交響曲の中では最も規模が小さい。このことはブラームス本人もよく認識していて、友人宛の手紙の中で「Symphonichen」としていることからも明らかだ。交響曲が縮小語尾によってモデファイされている。いわば「小交響曲」のニュアンスだ。

第3交響曲の規模の小ささを踏まえた言い回しがある。友人への手紙の中で「第3交響曲は短いから、組版も簡単に出来る」というくだりがある。このエピソードは、どんな書物でももっぱら交響曲第3番の規模が小さいという指摘のために引用される。私としては、そのこととは別に、ブラームスが出版の工程にも明るかった証拠だと思っている。

いくつもの出版社と刊行の交渉をするうちに、出版社側の事情にも精通していたと解したい。出版社から見たブラームスは、超一流の作曲家であったと同時に、タフな交渉相手でもあったと考える。

2011年2月22日 (火)

歌曲の発売単位

昨日の記事「標準小売価格」を書くためにマッコークルを調べていて、わくわくするような仮説にたどり着いた。ジムロック社がボンからベルリンへ移転するのは1866年のホルントリオop40の後だ。おそらくこの間に社長の交代があり、ブラームスの友人フリッツ・ジムロックが父から経営権を譲り受けた。それを前提に以下の表をご覧いただく。歌曲の作品一覧と、初版のページ数を示す。

op19のジムロックは父だが、op46は息子である。息子つまりベルリンのジムロックになって初めて手がけたブラームス作品がop46だった。その後op49まで4つの歌曲が続けざまにジムロックから刊行されたが、全て刷り上り15ページになっている。収録曲数は4、5、7、5とまちまちだが、全部15ページだ。

  1. 6つの歌曲op3 15ページ ブライトコップフ
  2. 6つの歌曲op6 23ページ ゼンフ
  3. 6つの歌曲op7 13ページ ブライトコップフ
  4. 8つの歌曲op14 23ページ リーターヴィーダーマン
  5. 5つの歌曲op19 13ページ ジムロック
  6. 9つの歌曲op32 26ページ リーターヴィーダーマン 
  7. 4つの歌曲op43 19ページ リーターヴィーダーマン
  8. 4つの歌曲op46 15ページ ジムロック
  9. 5つの歌曲op47 15ページ ジムロック
  10. 7つの歌曲op48 15ページ ジムロック
  11. 5つの歌曲op49 15ページ ジムロック
  12. 8つの歌曲op57 15ページ リーターヴィーダーマン 
  13. 8つの歌曲op58 15ページ リーターヴィーダーマン 
  14. 8つの歌曲op59 上巻21ページ リーターヴィーダーマン
  15. 8つの歌曲op59 下巻14ページ リーターヴィーダーマン
  16. 9つの歌曲op63 上巻20ページ ペータース
  17. 9つの歌曲op63 下巻20ページ ペータース
  18. 9つの歌曲op69 上巻19ページ ジムロック
  19. 9つの歌曲op69 下巻22ページ ジムロック
  20. 4つの歌曲op70 15ページ ジムロック
  21. 5つの歌曲op71 19ページ ジムロック
  22. 5つの歌曲op72 19ページ ジムロック
  23. 5つの歌曲op84 23ページ ジムロック
  24. 6つの歌曲op85 19ページ ジムロック   
  25. 6つの歌曲op86 21ページ ジムロック
  26. 5つの歌曲op94 14ページ ジムロック
  27. 7つの歌曲op95 23ページ ジムロック
  28. 4つの歌曲op96 15ページ ジムロック
  29. 6つの歌曲op97 19ページ ジムロック
  30. 5つの歌曲op105 21ページ ジムロック
  31. 5つの歌曲op106 19ページ ジムロック
  32. 5つの歌曲op107 15ページ ジムロック
  33. 4つの厳粛な歌op121 19ページ ジムロック

私は自費出版に向けたやりとりの中で、ページ数は出来れば16の倍数がいいと言われた。どうしてもだめなら8の倍数になるようにと薦められた。そうすると組版の効率がいいからだ。効率がいいとはすなわちコストを下げられるということだ。上記のページ数は表紙を「1」と数えている。たとえば15ページと言えば8枚の紙に両面印刷して綴じた感じである。つまり実質16ページだ。

交響曲など大作については刷り上りページ数を考慮することなど無理に決まっているが、書き溜めたストックからその都度適宜印刷に回していた歌曲の場合、組版効率のいいページ数に収まるように作品を選んでいた可能性を考えている。上記の表の中で色をつけたのが「4n-1」というページ数を持つ作品だ。実質のページ数が4の倍数になるということだ。

歌曲において一つの作品番号に収める作品の数に規則性がありはせぬかと、ずっと考えていたが極めて難解だった。組版効率のよいページ数になるようブラームスが協力していたということは無いだろうか。ジムロック社の経営実権を握ったフリッツの提案で、ブラームスが協力したなどということは考えすぎだろうか。

「4n-1」になっていない作品のうちop63とop69にはその理由もある。これらは「青春」「郷愁」というテーマを持たせた事実上の連作歌曲だから刷り上がりページ数の調整が難しい。

ピアノ小品の事情も歌曲と似ている。

  1. バラードop10 23ページ ブライトコップフ
  2. 8つの小品op76 上下各18ページ ジムロック
  3. 7つの幻想曲 op116 上巻18ページ ジムロック
  4. 7つの幻想曲 op116 下巻15ページ ジムロック
  5. 3つのインテルメッツォop117 15ページ ジムロック
  6. 6つの小品 op118 19ページ ジムロック
  7. 4つの小品 op119 19ページ ジムロック

見ての通り「4n-1」が目立つ。

作品が一定数たまるとその都度印刷に回すという出版形態の場合、単一作品番号にどう収録するかには、組版効率も十分に考慮され、演奏に支障の無い限りブラームスも承知していたと考えたい。

2011年2月21日 (月)

標準小売価格

今や死語か。メーカーが末端小売価格の形成に関与していた時代の遺物。代金を支払って所有権が移ってしまったら、所有者がいくらで売ろうと自由という論理に取って代わられた結果、「メーカー希望小売価格」という表現に差し替えられた模様。商品の外装にもこれが記載されるようになって久しい。

楽譜はどうだろう。スコアの一番最後には書かれている。奥書があればそこにも書かれているが、室内楽や管弦楽曲のパート譜には書かれていなかったような気がする。ましてやなんであれ、表紙には書かれていないのが普通だ。

マッコークルの作品目録はやはり芸が細かくて、ブラームス作品の初版印刷譜面の表紙に何が書かれていたか、細かく記載されている。

何と一部の楽譜を除き、販売価格が記載されている。時代により出版社により記載の無い楽譜もあるが、これがなかなかお宝な情報だ。今まではブラームスやドヴォルザークにジムロックが払った原稿料の話を繰り返してきたが、こちらは、その支払いをカバーすべく出版社が付与した「標準小売価格」に相当するからだ。

出来上がり10ページ程度の小品だと2マルク程度。大管弦楽のスコアになると20マルクを超えることもある。つまり1000円から1万円少々ということだ。なんだか現代の感覚に近い。ネットでダウンロードという手がない分出版社有利かもしれない。

印刷部数が判れば、利益率までも推定出来そうだが、重版が起きると計算は難しくなる。

2011年2月20日 (日)

ある日のディナー

壮年期以降のブラームスは欧州楽壇の重鎮だった。それ相応の収入はあったが、生活は慎ましやかだったと関係者は口を揃える。けれども彼らはブラームスがおいしいものが好きだったとも証言する。

友人の家に招かれた際には、そこでご馳走になるのだが、そこの奥方たちからすこぶる評判がいい。何でも平らげるもてなし甲斐のある客だったのだ。もちろんただ食べるだけではない。大いに飲んだのだ。そして会話が弾みお開きは夜半ということも珍しくなかったらしい。

ブラームス晩年の友人に、ヴィクトール・ミラー・ツー・アイヒホルツがいた。ウィーンの貴族の家系を持ついわゆるセレブだ。ウィーンブラームス協会の初代会長でもある。ウィーンやミュルツシュラークでは彼の家によくお邪魔した。彼の妻の日記にはブラームスに提供したディナーの献立が記録されているという。ガイリンガーがその一部を引用している。

これによれば1896年2月20日、今から115年前のディナーの献立が判る。

  • 脳のコンソメ
  • 伊勢エビのサラダ
  • 野菜つき牛フィレ
  • ハムのマディラ島産白ワイン
  • 山鶉
  • アイスクリーム
  • パン菓子
  • シャンパン
  • コーヒー

スープと魚介類各1種の他3種の肉を必ず供するようにしていたという。これは友人宅へのお呼ばれならではの豪華メニューだったらしい。

初版特集の真っ只中でこの話題では、浮き上がることこの上ないが、ここでこの記事を提示しておかないと今後の展開が苦しいため已む無く公開する。こう見えても苦労しているということだ。

2011年2月19日 (土)

ある疑問

ジムロックが当時絶版になっていた3曲のピアノソナタを新たに刊行するためにブライトコップフ社から版権を買い取ったらしい。音楽之友社刊行の「ブラームスのピアノ音楽」には、「op1、op2、op5について初版の出版人であるブライトコップフから版権を買い取った」と明記されている。

おかしい。

マッコークルによればピアノソナタ3曲のうちブライトコップフ社から初版が刊行されているのは1番と2番だけで、3番はゼンフ社から出されている。「3つともブライトコップフ」ではない。

2月15日の記事「版権買取の範囲」でブライトコップフ以外に初版を刊行した出版社には版権の買取を仕掛けなかったのかと疑問を提示した。ゼンフ社もそのうちのひとつだ。もしかするとゼンフ社は同じライプチヒのブライトコップフに何らかの形でピアノソナタ第3番の版権を譲渡したのではないかと感じる。

1888年ジムロックがブライトコップフから版権を買い取った時点で、ピアノソナタ第3番の版権がブライトコップフに移っていた可能性がある。

2011年2月18日 (金)

筋を通す

物事の辻褄や理屈に合う行動を貫くこととでも申し上げておく。やり抜くことが出来れば、カッコいいことこの上無いが、そうも行かないのが世の中だ。

2月16日の記事「もう一つの別れ」で、ブラームスが弦楽六重奏曲第2番op36の出版にあたり、ブライトコップフと揉めたと書いた。これ以降生涯ブライトコップフから作品を刊行していないと断言した。ところが2009年10月20日の記事「作品の価格表」を注意深く読むと、疑問も湧く。

1890年に改訂されたピアノ三重奏曲第1番の出版がジムロックになっている。1854年に初版がブライトコップフ社から刊行されているから版権の問題が生じかねないと思っていた。ところが2月14日の記事「版権」でも述べた通り、既に1888年にはジムロック社が、ブラームス初期作品の版権を、ブライトコップフ社から買い取っている。ブライトコップフ社に気兼ねせずにジムロック社から刊行することが出来たということだ。妙に筋が通っている。

もしかすると話は逆で、ジムロックの版権買い取りを待って改訂に踏み切ったなどということを想像してしまう。

2011年2月17日 (木)

1日平均150アクセス

電卓をご用意いただきたい。

昨夜20時頃、ブログ「ブラームスの辞書」は2005年5月30日の開設からの通算アクセスが、313350に達した。昨日はブログ開設から2089日目だったということで、「313350」を「2089」で割っていただく。

すると本日のお題「150」が求められる。とうとう平均アクセスが150に達した。ブログ開設当初は1日10アクセスほどの日が続き、週間で100アクセスさえままならなかった。

平均アクセスが100に達したのは開設から1077日目の2008年5月10日だった。平均値を50上げるのに1012日かかったことになる。

今年に入ってからの一日平均アクセスは200そこそこだから、この先200に達するのはさらに難儀である。

気を取り直して明日からまた初版ネタ。

2011年2月16日 (水)

もう一つの別れ

弦楽六重奏曲第2番op36は、ブラームスの婚約者アガーテのエピソードとともに語られる事が多い。第1楽章にアガーテを音名化したモチーフが現れるからだ。アガーテとの別れの記憶が込められているようだ。

ところがこの弦楽六重奏曲にはもう一つの別れが色濃く刻印されている。

この作品は毎度毎度のジムロック社から出版されているが、そのように決定するまでには下記の通り紆余曲折があった。

  1. リーダー・ヴィーダーマン社
  2. ジムロック社
  3. ブライトコップフ社
  4. ジムロック社

当初考えられていたのは1番のリーター・ヴィーダーマン社だった。条件面で折り合いがつかずにジムロック社に持ち込まれたが、ここでも合意に至ることはなかった。次のブライトコップフ社でようやく出版のはこびとなったが、土壇場でキャンセルとなる。どうもブライトコップフ社の都合に振り回されたようだ。仕方なくもう一度ジムロック社に持ち込まれて1863年に出版にこぎつけた。

上記で言う1番と2番は条件面の折り合いが付かなかったというケースだ。これは商売にはよくあることで、ケンカではない。その証拠にジムロック社やリーダー・ヴィーダーマン社からはその後も作品が出版されている。

ところが3番のブライトコップフ社は、事情が違うようだ。土壇場で方針変更を打ち出したブライトコップフ社への不信感は拭い難いものだったと見える。その証拠にこの後、ブライトコップフ社はブラームス存命中作品の出版をすることがなくなる。つまりケンカだ。ジムロック社絶対優位の伏線となる出来事だった。

ブライトコップフ社とのケンカ別れがこめられた弦楽六重奏曲だ。アガーテのエピソードに言及しない説明書はほぼ無いが、こちらのケンカの話は何故か見逃されていることが多い。

2011年2月15日 (火)

版権買い取りの範囲

昨日の記事「版権」で、ジムロック社がブラームス作品の版権をブライトコップフ社から買い取ったと書いた。1月29日の記事「初版刊行ランキング」で申せば、首位のジムロックが、3位のブライトコップフから版権を買い取ったという図式だ。

ブラームス作品の出版独占を目論むジムロックは、ブライトコップフ以外の出版社には版権の買い取りを申し入れなかったのだろうか。

先のランキングで2位のリーターヴィーダーマン社は、初期の重要作品の初版を手がけているから、独占を狙うジムロックにとっては目の上のたんこぶだろう。

ゼンフ、シュピーナ、ペータースなど少ないながらも版権を有する出版社はあったはずだ。どうしていたのだろう。

2011年2月14日 (月)

版権

印刷物を出版する権利とでも言うのだろう。

一般に著者が持っているのではなく、出版社が持っているものだという。自費出版と一般の出版ではまた事情が違うと思われる。

本がベストセラーにでもなれば版権の持ち主たる出版社は、大もうけが出来るという。残念ながらベストセラーになるかどうかを原稿の段階で正確に予測することは難しい。だから作品の版権を獲得することは、出版者にとってはある種のギャンブル。ましてやその版権の獲得に大金を投じることにでもなれば尚更だ。

1888年4月。ブラームスの友人にして出版社のジムロックは、商売上の競争相手ブライトコップフ社からブラームスの初期作品の版権を買い取った。1888年といえば交響曲も既に全て世に出た後だ。つまり作曲家ブラームスの名声は高値安定の域にあった。ブラームスはジムロックからの手紙での報告が4月1日であったことを指して、「エイプリルフールならいいのに」と驚いて見せた。

ジムロックの払った金額が莫大だったのだ。ブラームスは作品の原稿と引き換えにブライトコップフ社から受け取った金額を記憶していたから、この取引でブライトコップフ社がどれほど儲けたかたちまち察したに違いない。ブラームスは「とてもおめでとうとはいえない」と手紙を結んでいる。

ドヴォルザークに対する姿勢とは雲泥の差だ。ジムロックの商売上の嗅覚は鋭い。ブラームスへの友情などという奇麗事ではないのだ。ブラームス作品の版権を有することの商売上の意義を、ブラームス以上にしっかりと認識していたに違いない。

2011年2月13日 (日)

第3ソナタをめぐって

本日の主役はピアノソナタ第3番ヘ短調op5だ。

ブラームスが残した最後のピアノソナタだ。発売されているCDという観点から眺めるともっとも人気の高いピアノソナタということも出来るが、何故か謎も多い。

交響曲、室内楽を含めたソナタでは、唯一の5楽章制を採用している。初演などで批判にサラされたわけでもないが、その後ピアノソナタが書かれていない。

また当初イ短調のヴァイオリンソナタがop5としてライプチヒの出版社ゼンフに手渡されていたが、出版前に急遽ピアノソナタ第3番に差し替えられた。イ短調ヴァイオリンソナタはその後破棄された。

献呈先イーダ・フォン・ホーエンタール伯爵夫人というのも謎めいている。弟フリッツの就職で世話になった謝礼というのがどうやら真相のようだ。

さらに一部の伝記は、後年ブラームスがこのソナタを改訂する意向を持っていたと伝えている。結局は踏みとどまっているが興味深い。

2011年2月12日 (土)

聖霊降臨祭

ブラームスの友人で、大出版社を経営するフリッツ・ジムロックとブラームスの出会いを調べていた。音楽之友社刊行の「作曲家◎人と芸術シリーズ」の「ブラームス」の72ページに大きなヒントが載っている。

1860年5月27日から30日までデュッセルドルフでライン音楽祭が開催され、ブラームスがそこで友人たちと親しく交流したと書かれている。そしてブラームスはその音楽祭の後、ボンに移動して聖霊降臨祭の日に行われたシューマン追悼祭に出席したとある。ジムロックと出会ったのはこのときとされている。

ボンはジムロック社創業の地だから一応辻褄が合う。

しかし1860年の聖霊降臨祭の日付を調べていて疑問が湧いた。その年1860年の聖霊降臨祭は5月27日だったのだ。聖霊降臨祭は復活祭の49日後だ。復活祭は春分の日以降に訪れる最初の満月の日の次の日曜日と決まっているから、年によってズレる。復活祭を計算起点とする祝日もまた同様だ。

上記書物の記載を信じる限り、その年の聖霊降臨祭は6月1日以降でないと辻褄が合わない。これが東方教会となると話は別で6月3日が聖霊降臨祭だ。ブラームスのドイツレクイエム初演が1868年の聖金曜日とされているから、ドイツが西方教会に属しているのは明らかだ。

どこかに何らかの行き違いがあると考えざるを得ない。

2011年2月11日 (金)

代変わり

ライプチヒにおけるピアノ協奏曲第1番の不評は、順調に見えた作品の出版にも影響を与えた。海千山千の出版社の腰が引けて来るのだ。シューマンのセンセーショナルな紹介記事で、にわかに注目が高まりはしたが、お手並み拝見モードだった人々も多い。ましてや出版社は慎重だ。楽譜が売れねば損をかぶるのだから無理もない。ブライトコップフ社も様子見モードに入った。あの大作「ドイツレクイエム」出版の栄誉はスイスの出版社「リーター・ヴィーダーマン社」の上に輝いている。ドイツの出版社の腰砕け振りが透けて見える。

1860年シューマン追悼の式典がボンで開かれブラームスも出席した。そこで出版人のペーター・ヨーゼフ・ジムロックと面識を持つ。もちろんブラームスは作品の出版を持ちかけるが、彼は慎重な姿勢を崩さない。「管弦楽のためのセレナーデ第2番」他少々の室内楽を出版するにとどまった。

むしろ重要なのは、この時に知り合った社長の息子フリッツだった。音楽を含む一般教養も豊かだったフリッツとブラームスはたちまち深い友情で結ばれた。おそらく1868年のジムロック社の本社移転は、フリッツへの社長交代がキッカケになったと考える。父親ペーター・ヨーゼフが没した日時が解らないのだ。1868年前後に父が没してフリッツが社長に就任していると考えたい。

ジムロック社はベルリン移転、つまりフリッツの社長就任とともにブラームス作品に積極的になる。1869年ハンガリア舞曲のブレークはその最初のサクセスストーリーだ。やがてジムロックはブライトコップフ社の失策にも乗じて、ブラームスを事業の根幹に据え、ドヴォルザークさえその傘下に取り込む。

2011年2月10日 (木)

本社移転

会社の本社機能が別の場所に移転することだ。

ブラームスの友人にして財産管理人のフリッツ・ジムロックは、楽譜出版業、ジムロック社の経営者だった。ブラームスの伝記には「ベルリンのジムロック社」として登場する。このことは同社の本社がベルリンに置かれていたことを物語る。

ロベルト・シューマンの交響曲第3番「ライン」の出版もジムロック社とされているが、こちらには「ボンのジムロック社」と書かれている。

元々ジムロック社はフリッツの祖父ニコラウスが1790年に起こした会社である。創業の地がボンだったかどうか確認出来ていないが、ボンに本社が存在した時代があったことは確実だ。フリッツ・ジムロックは1837年ボンの生まれだ。このとき経営者ジムロックの一家がボン在住だったと推定出来る。本社がボンにあったと考えられる。

ジムロック社から出版されたブラームス作品の最古のものは、「管弦楽のためのセレナーデ第2番」op16だ。1860年11月のことだ。このときはまだ「ボンのジムロック社」になっている。ボン時代のジムロックの手によって世に出たのはop40のホルン三重奏曲が最後で1866年11月となっている。1868年12月の「4つの歌曲」op46では「ベルリンのジムロック社」に変わっている。

1866年12月から1868年11月までの間に本社移転があったと推定できる。

2011年2月 9日 (水)

声楽得意の出版社

1月29日の記事「初版刊行ランキング」の中、首位のジムロックに続く2位にリーターヴィーダーマン社がある。何かと話題のブライトコップフ社を押さえての2位だというのになかなか話題に上らない。

彼等の本拠はスイスだ。ヴィンタートゥールという街である。ブラームス作品の初版刊行を最初に引き受けたのはおそらく1861年の「アヴェマリア」op12だ。最後の作品は「8つの歌曲」op59である。

1859年1月27日、ライプチヒにおけるピアノ協奏曲第1番のさんざんな評判は、各出版社にブラームス作品の取り扱いを尻込みさせる結果となった。シューマンから直接紹介されたライプチヒのブライトコップフでさえ、「管弦楽のためのセレナーデ」op11を機に、しばしの空白になる。フリッツの父の代だったジムロックも同様だ。

そうしたドイツ系出版社の尻込みに乗じて台頭したのがリーターヴィーダーマン社だった。手がけた作品を見ると、ピアノ協奏曲第1番が最初に目につく。一連の尻込みの元になった曰く付きの作品だ。敢えて火中の栗を拾うように、ドイツ系各社を押しのけて初版刊行に踏み切ったようにも見える。その後順調に初版の刊行を引き受けるが、どうも出版の分野が声楽作品に偏っている。「シューマンの主題による変奏曲」op23と名高い「ワルツ」op39が例外だ。

そうした声楽得意路線は、やがてブラームスの出世作「ドイツレクイエム」op45初版の刊行を任されることで頂点に達する。1868年のことだ。リーターヴィーダーマン社の得意な様子が目に浮かぶ。

ジムロックはおそらくその年かその前年に、社長が交代した。ブラームスの親友フリッツが父親から経営権を引き継ぐ。ジムロックの逆襲をリーターヴィーダーマン社が予期していたか興味は尽きない。

2011年2月 8日 (火)

出版社選びのバランス

ブラームスの初期作品の出版社について調べていて、興味深いことに気付いた。

  1. ピアノソナタ第1番ハ長調op1 ブライトコップフ
  2. ピアノソナタ第2番嬰へ短調op2 ブライトコップフ
  3. 6つの歌曲op3 ブライトコップフ
  4. スケルツォ op4 ブライトコップフ
  5. ピアノソナタ第3番へ短調op5 ゼンフ
  6. 6つの歌曲op6 ゼンフ
  7. 6つの歌op7 ブライトコップフ
  8. ピアノ三重奏曲第1番 ブライトコップフ
  9. 「シューマンの主題による変奏曲」op9 ブライトコップフ

全部がブライトコップフにはなっていないのだ。ブラームスの作品に驚喜したシューマンは、ブラームスをセンセーショナルに紹介する一方で出版の話を精力的に進めた。このときシューマンの念頭にあった出版社はブライトコップフだった。シューマンはブライトコップフからブラームスの作品を出版すべく詳細なプランをブラームスに提示してきた。あまりの性急さに当惑したブラームスがヨアヒムに宛てた手紙も残っている。事実シューマンのプランにあった作品の約半分が出版を見送られている。と同時に廃棄の運命を辿った。出版にこぎつけた作品全てがシューマン紹介のブライトコップフから出されていないというのが興味深い。

1853年秋おそらく11月に出版の打ち合わせにと赴いたライプチヒで、ブラームスはゼンフからの申し出を受けたという。

シューマンの尽力をそのまま受け入れて初めての出版社を1社に絞ってはいなかったのだ。おそらくヨアヒムをはじめとする何人かが相談に乗ったのだと思うが、尊敬する人物の薦めのままに出版を進める朴訥な青年ではなかった。ブラームスは生涯楽譜の出版社とは上手に付き合っている。そうした絶妙なバランス感覚が既にこのときに発揮されていたと解したい。

2011年2月 7日 (月)

為替差損

通貨間の価値の違いから、商取引上発生する損くらいの意味か。

1871年統一ドイツの出現で登場した通貨がマルクである。1875年以降ブラームスが没するまで、ほぼ作品の出版を独占したジムロックは、ブラームスへの原稿料をマルク建てで支払った。通貨としてのマルクが強かった証拠だと推定した。

ピアノ協奏曲第1番初演の失敗で腰の引けたドイツ系の出版社を出し抜いて、声楽作品を中心に、数多くの出版を手がけたリーターヴィーダーマン社は、スイスの出版社だが、ブラームスへの原稿料の支払いは、フリードリヒスドールと呼ばれたプロイセンの金貨だった。1871年マルク出現後に刊行されたop57とop58の両歌曲集についてもフリードリヒスドールで支払っている。ジムロックが支払いにフリードリヒスドールを用いたのは1868年刊行のop46からop49までの歌曲集までだ。

ドイツ統一によって出現したマルクが強い通貨だったとした場合、ドイツ以外の国の出版社が、マルク建てで原稿料を支払うと、為替差損が発生すると思われる。スイスの出版社リーターヴィーダーマン社が1871年のマルク出現後も支払いにマルクを用いていないのはそのためではあるまいか。

ブラームスがマルク建ての支払いを希望したとすると、ドイツ以外の出版社が不利を被ることになる。ドイツレクイエムの出版を任されたほどのリーターヴィーダーマン社が、「8つの歌曲」op59を最後にブラームス作品の初版出版が無いことと符合する。

2011年2月 6日 (日)

自筆譜の権威

大作曲家の自筆譜ともなれば、音楽的価値に加えて骨董的価値も計り知れない。ブラームスの自筆譜の所在は、マッコークルにほとんど掲載されていて、博物館や図書館をはじめとする、確かな場所に収蔵されている。それなりの丁寧な扱いを受けているということだ。

ところが、ブラームスは友人で出版人のジムロックへの手紙の中で、自筆譜の価値について興味深い見解を述べている。

「権威があるのは、手書きの原稿ではなくて、私自身が校正したスコアです」

ブラームス本人の言葉であることでいっそう重みが増している。当代一級の音楽学者たちとの交流があったブラームスだから、作曲家の自筆譜が研究面での超一級の資料であることは、百も承知でなおこの発言である。

むしろブラームスは自筆譜の持つ弱点にも知悉していたと思われる。骨董的な価値は棚上げにして、広く世間に公開する手段としての出版に重きを置き、その出版においては、何が重要かを語った言葉だと感じる。手書きの原稿には間違いもあるし、作曲家が必ずしも達筆ではないことに起因する誤解も生じる。それらを全てお見通しの作曲家本人の手により校正済みのスコアこそが、出版譜の底本になるべきだという見解だ。

最近こういう話を聞いてカッコいいと思うようになってきた。歳だろうか。

2011年2月 5日 (土)

自筆譜の所在

ブラームスの場合、多くの作品の自筆譜が残っている。作品完成の過程を示すスケッチの類はほとんど残されていないが、完成した作品の自筆譜の所在はほぼ明らかになっている。マッコークルの「ブラームス作品目録」はそうした情報の集大成である。

一方バッハ関係の書物を読んでいて気づくことは、現在紛れもないバッハの真作とされている作品でも自筆譜が残っていないケースが少なくない。他人の筆写譜だけが残っているケースの方が多いくらいなのだ。

自筆譜が残っていることの利点は、真作であることが容易に証明出来る点にある。自筆譜であるかどうかの証明にはそれなりの手間もかかるだろうが、一旦自筆譜であることが解ればそこから得られる情報は貴重である。ブラームスはロベルト・シューマンの助力の甲斐もあって、作品1の出版から程なく押しも押されもせぬ地位を獲得したおかげでその自筆譜にもそれなりの敬意が払われた。実際の演奏にあたっての見やすさは疑問だが、音楽的価値は絶大だ。加えて骨董的な価値も発生していたことは想像に難くない。

バッハ作品を論ずる際にいつも考慮しなければいけない偽作問題は、ブラームスではほとんど発生しない。作品の発生にまつわる謎解きの楽しみはないのだ。

2011年2月 4日 (金)

失態

「恥ずかしい失敗」くらいの意味か。欧州のワールドカップ予選で、強豪国がキプロスやマルタあたりに引き分けたりすると翌日の新聞に「失態」の言葉が踊る。私にとってはこの用例がもっともピッタリ来る。下手をすると監督交代の引き金になったりするから侮れない。

ライプチヒにゼンフという出版社があった。1853年作品の出版準備のためにライプチヒを訪れたブラームスに近づき、いくつかの作品の初版刊行を任された。当初ブラームスはシューマンに紹介されたブライトコップフが第1の選択肢だったが、一本化することを避けた。

作品5としてイ短調ヴァイオリンソナタの原稿を手渡したが、出版前に急遽ヘ短調ピアノソナタに差し替えられた。現在のピアノソナタ第3番である。おそらくこの差し替えの際、ブラームスはイ短調ヴァイオリンソナタの原稿の返却を求めたハズだ。そしてゼンフはその求めに応じて返却したのだ。

気の毒な面もあるが、私はこれを「失態」と呼びたい。

ブラームスの求めに応じて返却したこと自体は仕方がない。返却前に誰かに写譜させるくらいの知恵は回らぬものかと心から思う。現にミサ・カノニカや、初期の合唱作品のいくつかは返却に応じると同時に密かに作成されていた私的な筆写譜によって現在に伝えられている。出版のプロである彼等にとってソナタ1曲の写譜なんぞ朝飯前だろう。企業倫理に反するかもしれないないが、粋な計らいだとも思う。

今後、ゼンフ社の倉庫の中あるいは関係者の子孫の家から、ブラームスのイ短調ヴァイオリンソナタの筆写譜でも発見されたら、そのときは喜んで本日の失態呼ばわりをお詫びさせていただく。

2011年2月 3日 (木)

ヘンレはどうした

「ブラームス作品目録」通称「マッコークル」を出版したのはヘンレ社だ。

原典版のありがたみにおいて他の追随を許さない位置づけと申しもいいだろう。我が家にももちろんいくつかある。シックなデザインだからお部屋のインテリアにもなる。さりげなく置かれているだけで空気が和む気がする。楽譜と同じデザインの手帳も愛用させてもらっている。

ところがだ。

ブラームスの伝記をめくっていてもヘンレの名前はちっとも現れない。

それもそのはず、ヘンレ社の創立は1948年だ。生前のブラームスとは関われるハズが無かった。昨今の原典版志向の高まりとともの急速にその地位を高めたということだ。

2011年2月 2日 (水)

日本ゆかりのドイツ人

日独交流150周年に因む記事。

  1. フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト1796-1866医師。博物学者。1823年来日。ブラームスの元婚約者アガーテは、彼の従兄弟の娘にあたる。
  2. ハインリッヒ・ユリウス・シュリーマン1822-1890 メクレンブルク生まれの考古学者。トロイアの実在を遺跡発掘によって証明した。1865年来日。
  3. ロベルト・コッホ1843-1910 クラウスター生まれ。医師。細菌学者。1908年来日。北里柴三郎の師。
  4. エルヴィン・フォン・ベルツ1849-1913年 ビーティヒハイム生まれの医者。1976年来日。宮内省侍医。日本人と結婚している。
  5. ハインリッヒ・エドムンド・ナウマン1854-1927 マイセン生まれの地質学者。1875年から10年日本に滞在・東京帝国大学地質学教室の初代教授。大地溝帯フォッサマグナの発見者。ナウマン象の名前は彼に因む。

日本にやってきたドイツの有名人。ブラームスと時代が被っている人を生まれ順に列挙した。

2011年2月 1日 (火)

冥土の土産

「冥土」は、仏教において「死者の魂が行くところ」だから、「あの世への手土産」くらいの意味か。生前最後の成果というニュアンスも漂う。

ブログ「ブラームスの辞書」の目標を、「ブラームス生誕200年までの欠かさぬ継続」などという大風呂敷を広げてしまった結果、図らずも私のライフワークの様相を呈しはじめた。未達成に終わったとしても誰かに叱られる訳でもないのに妙に気合が入っている。

何としても10205本の記事を漏れなく抜かりなく公開して、冥土の土産としたい。

私が冥土の土産を達成出来なくても、おそらく妻はにこにこと笑っているだけだろうが、それでは私の気が済まぬ。何としてもこの土産はブラームスに手渡さなくてはならないからだ。

今日で妻が亡くなってちょうど15年だ。本日この話題に言及することは、ある種の願掛けでもある。

« 2011年1月 | トップページ | 2011年3月 »

フォト

ブラームスの辞書写真集

  • Img_0012
    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
2020年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
無料ブログはココログ