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2011年2月11日 (金)

代変わり

ライプチヒにおけるピアノ協奏曲第1番の不評は、順調に見えた作品の出版にも影響を与えた。海千山千の出版社の腰が引けて来るのだ。シューマンのセンセーショナルな紹介記事で、にわかに注目が高まりはしたが、お手並み拝見モードだった人々も多い。ましてや出版社は慎重だ。楽譜が売れねば損をかぶるのだから無理もない。ブライトコップフ社も様子見モードに入った。あの大作「ドイツレクイエム」出版の栄誉はスイスの出版社「リーター・ヴィーダーマン社」の上に輝いている。ドイツの出版社の腰砕け振りが透けて見える。

1860年シューマン追悼の式典がボンで開かれブラームスも出席した。そこで出版人のペーター・ヨーゼフ・ジムロックと面識を持つ。もちろんブラームスは作品の出版を持ちかけるが、彼は慎重な姿勢を崩さない。「管弦楽のためのセレナーデ第2番」他少々の室内楽を出版するにとどまった。

むしろ重要なのは、この時に知り合った社長の息子フリッツだった。音楽を含む一般教養も豊かだったフリッツとブラームスはたちまち深い友情で結ばれた。おそらく1868年のジムロック社の本社移転は、フリッツへの社長交代がキッカケになったと考える。父親ペーター・ヨーゼフが没した日時が解らないのだ。1868年前後に父が没してフリッツが社長に就任していると考えたい。

ジムロック社はベルリン移転、つまりフリッツの社長就任とともにブラームス作品に積極的になる。1869年ハンガリア舞曲のブレークはその最初のサクセスストーリーだ。やがてジムロックはブライトコップフ社の失策にも乗じて、ブラームスを事業の根幹に据え、ドヴォルザークさえその傘下に取り込む。

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