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2011年3月31日 (木)

ワンポイントリリーフ

野球用語。1人多くて2人の打者を討ち取るために出てくる救援投手。左打ちの強打者に対して左投手をあてがうというケースで目立つ。単なるショートリリーフとは区別されいていると感じる。

ブログ「ブラームスの辞書」で展開中のアラビアンナイト計画では、当初の構想段階で本数が100本を越える企画や、10本に満たない企画が混在した。大型企画の間に小型企画を挟んでおくのだ。万が一大型企画の本数が膨張したら、小型企画の公開時期をズラして対処するためだ。

先日終えたばかりの献呈ネタはその典型だ。つまりこれがワンポイントリリーフだ。直前の企画「初版」が予想外に伸びた場合は、公開を延期されていたかもしれないということだ。

2011年3月30日 (水)

ルー・ゲーリッグ

米国メジャー・リーグの英雄だ。ニューヨーク・ヤンキースの永久欠番「4」番の持ち主でもある。ワグネリアンという噂もある。

2130試合連続出場という記録の持ち主だった。永らく不滅の記録だと思われてきた。

本日ブログ「ブラームスの辞書」は、2005年5月30日の開設以来「2131日連続記事更新」を達成した。つまりゲーリッグの数字を抜いたことになる。始まったばかりのマーラー特集をぶった切ってでも書きとどめたい話だ。

ゲーリッグの記録が抜かれた日はよく覚えている。1995年9月6日だ。ボルチモア・オリオールズのカル・リプケンが2131試合連続出場を達成しゲーリッグを抜き去った。1995年9月6日は我が家の次女の生まれた日でもある。記録達成の瞬間は日本は翌7日になっていたが、きっと忘れることはない。

メジャーリーグで2131試合連続出場するのは大変だが、ブログを2131日連続更新するのはそれほどでもないと感じる。たいして汗もかいていない。

2011年3月29日 (火)

ビューローの葬儀

1894年3月29日指揮者ハンス・フォン・ビューローの葬儀が行われた。ハンブルク・ミハエリス教会だ。マーラーが交響曲第2番「復活」の着想を得たのがこの時だったことは割と知られている。

グスタフ・マーラーは当時ハンブルクでビューローの薫陶を受けていたから、マーラーにとっては師匠の葬儀といえる。

1894年のマーラーが指揮した演奏会を調べていて驚いた。1894年3月29日つまり葬儀当日に、彼はワーグナーの「ジークフリートの葬送行進曲」をハンブルクで演奏しているのだ。場所といいタイミングといい選曲といい、師匠ビューローの葬儀の一貫であったことは確実だ。さらにマーラーがこの曲を単独で演奏するのは生涯でこの一回だけだ。

ところが、ブラームスが参列した形跡が無い。ブラームスはハンブルク市長の娘を通じて花環を贈って弔意を示すにとどまった。

「ワイン」「初演」「初版」「献呈」に次ぐ5番目の特集は「マーラー」だ。予めお断りしておくと本日立ち上げて、エンディングは5月19日とする。マーラー没後100年記念企画である。

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2011年3月28日 (月)

献呈特集総集編

アラビアンナイト計画4つめの企画「献呈」の総集編。

  1. 2011年03月13日 そもそも献呈とは 献呈の厳密な分類。 
  2. 2011年03月14日 献呈者名簿 献呈者リスト。
  3. 2011年03月18日 ヤーファ姉妹 ハンブルク時代の幼馴染にはop6。 
  4. 2011年03月19日  お世話になったあの方へ 初期作品の献呈先。
  5. 2011年03月21日 逆の立場 献呈されるブラームス。 
  6. 2011年03月22日  献呈の重複 1人で2度献呈をされている人たち。
  7. 2011年03月23日 献呈の頻度 献呈は次第に「よっぽどの事」になってゆく。
  8. 2011年03月25日 献呈されない不思議 ミュールフェルトなど。 
  9. 2011年03月26日  献呈より凄い ビューローと第3交響曲。
  10. 2011年03月27日 献呈のデリカシー 献呈には微妙な基準がある。
  11. 2011年03月28日 本日のこの記事。

「初演」「初版」「献呈」と続くシリーズが完結する。東北関東大震災の直後から始まった「献呈」特集は、学期末とも重なったためあわただしかった。 

進捗管理

2011年3月27日 (日)

献呈のデリカシー

献呈をするしない、つまり献呈の体裁を取る取らないの基準はどこにあったのだろう。

3月20日の記事「公の場」でブラームスの公の場は楽譜であると書いた。楽譜の表紙は玄関みたいなものだから、そこに献呈の辞が書かれるということは、極めてオフィシャルな性格を持った行為だ。献呈の体裁を取るということは、大臣の公式発言のようなものだ。記者クラブでのオフレコ発言とはとは違う。

後世の伝記作家や愛好家の間でどれほど有名なエピソードであっても、ただちにそれが献呈に結びつくとは限らない。アルトラプソディop53は、シューマンの3女ユーリエへの片思いとその破局が作曲のキッカケになっていることを知らぬ愛好家はいないが、アルトラプソディはユーリエに献呈されてはいない。アガーテのエピソードで名高い弦楽六重奏曲第2番もアガーテに献呈されていない。献呈していないブラームスのデリカシーを味わうべきだと思う。献呈は贈り手のブラームスにとっても、受け手にとっても幸福であることが前提になる。

2011年3月26日 (土)

献呈より凄い

4つの交響曲は誰にも献呈されていない。このうちの第3番には凄いエピソードが隠れている。

1890年1月8日、この日はハンス・フォン・ビューローの60歳の誕生日だ。ブラームスは盟友のビューローに第3交響曲の自筆スコアをプレゼントする。出版用の原稿としてジムロックに手渡したものとは別に書き下ろしたと推定されている。

出版社から刊行された印刷譜の表紙に「献呈の辞」が書かれるのも素晴らしいが、作曲者本人から手書きのスコアを贈られる栄誉は、ある意味で献呈を凌ぐと感じる。総延長数十小節の小品ではない。数百小節という規模、参加するパートの多さを考えると手書きスコアの価値は計り知れない。

もちろんビューローはその意味合いを十分に認識していた。その後、第3交響曲を指揮する機会を得たビューローは、ブラームスから貰った自筆スコアを演奏会当日に譜面台に持ち込む。そうしておいて実際には、スコアを閉じたまま暗譜で指揮するという挙に出た。超一流の指揮者ならではの感謝の表明であると感じる。

ジムロックに渡された出版用の原稿は行方不明になっいる一方で、ビューローに贈られたスコアは、ビューロー未亡人その他の手を経て現代に伝えられた。

2011年3月25日 (金)

献呈されない不思議

ロベルト・シューマンがブラームスから作品の献呈を受けていないと書いた。

もう一人意外なことに作品の献呈を受けていない人物がいる。クラリネット奏者リヒャルト・ミュールフェルトだ。ブラームス最晩年のクラリネット入り室内楽は、ミュールフェルトとのコンタクトから生まれたことは間違いない。ブラームスの惚れ込みようは半端ではないが、作品の献呈は一切されていない。

おそらくブラームスにもその意識はあったと思われる。その証拠にクラリネットソナタ2曲の自筆譜が、ミュールフェルトに贈られている。

ブラームス自身の社会的地位の向上により、献呈という行為が重みをました結果だと思われる。印刷譜の表紙に名前が載るよりも、作曲者本人から自筆譜を貰う方が嬉しいという考え方もありそうだ。

2011年3月24日 (木)

聴牌

「テンパイ」と読む麻雀用語。あと1枚で和がりの状態をさす。ゴールの1歩手前だ。スラングの世界では語尾に「る」を付与することで「てんぱる」という動詞が派生する。「あと1枚で和がりの状況が、かえってプレッシャーになっている」という意味だ。

長女は高校2年生の1年間を皆勤で走り抜けた。通常の高校生活に加えて部活に塾にと大車輪の1年だった。これで小学校5年から7年連続皆勤賞となった。めでたい。

つまりお兄ちゃんが既に達成している「中学高校6年皆勤」がてんぱったということだ。闇で待たずに即リーチという性格、加えて「高目即ヅモ」連発もあり得る勝負強さも兼ね備えているから、この緊張感が受験レースにプラスに作用すると信じている。

2011年3月23日 (水)

献呈の頻度

本日話題の献呈は「印刷譜の表紙に献呈の辞を載せる」というもっとも正式なパターンのことだ。3月14日の記事「献呈者名簿」をご覧頂く。ぶっちゃけた話、献呈された作品は創作史の初期に多い。

以前にも述べた通り、初期は「お世話になった人々」への謝礼が多い。自らが楽壇で認められた喜びの反映とも思える。

中年期以降になると、プライヴェートな相手には献呈の形をとらず、自筆譜のプレゼントが多くなる。献呈はあくまでの「公の場」だから、ブラームス自身の社会的地位が上がるにつれて、迂闊に選択出来なくなるようだ。伝記上での登場頻度ではかなりなレベルの人物に対しても、なかなか献呈されていない。

さらに交響曲が誰にも献呈されていないことも目立つ。ベートーヴェンの場合には、誰にも献呈されていない交響曲は、9つのうちただ1曲8番だけだ。献呈という行為の持つ影響力を考えて慎重になっているとも映る。

献呈は時間の経過とともにますます「よっぽどの事」になってゆく。

2011年3月22日 (火)

献呈の重複

2通りの意味がある。

  1. 一人の人間がブラームスから2つ以上の作品を献呈されている。
  2. 一つの作品が、2人以上の人間に献呈されている。

上記1の例は、たった2例だけだ。ヨアヒムとクララだ。ヨアヒムはピアノソナタ第1番とヴァイオリン協奏曲を献呈されている。クララはピアノソナタ第2番と「シューマンの主題による変奏曲」op9だ。一人で2回以上献呈されているのはこの2人だけだ。

上記2は存在しない。一つの作品が2人以上に献呈されることなんぞ有り得ないとばかりに、皆無である。考えたら当たり前だ。既に誰かに献呈済みの作品を献呈される方は、面白いハズが無いし、先に献呈されている側にとっても不愉快だろう。仮に先に献呈された人物が没した後だとしてもである。クララ・シューマンのロマンスイ短調の重複献呈が不自然だと思うのは私だけだろうか。

さて、上記1にはもうひとつ心温まる例外がある。「子供のための14のドイツ民謡集」WoO31だ。献呈の辞は「ロベルト・シューマンの子供たちへ」となっている。1858年のことだ。ロベルト・シューマンが没した翌々年の夏、避暑地で過ごすシューマン一家を訪ねたブラームスの手土産だ。この献呈の辞を読む限り、このとき存命だったシューマンの遺児7名への献呈とみなさざるを得ない。14の作品がひとまとまりで7名に献呈されていると見るべきだ。

この中には、シューマン夫妻の3女ユーリエが当然含まれる。ブラームスの密かな思いの対象だった彼女は、後に「シューマンの主題による変奏曲」op23を献呈されている。だから厳密に申せばユーリエは、ブラームスから作品を2度献呈されていることになる。彼女との失恋によって生まれたという「アルト・ラプソディ」op53がユーリエに献呈されていないという奥ゆかしさに免じて、上記1の仲間に入れてあげたい気分だ。

2011年3月21日 (月)

逆の立場

3月14日の記事「献呈者名簿」は、ブラームスが作品を献呈した人のリストだ。今日話題にするのはその逆、つまり「誰かからブラームスが作品を献呈されているケース」の事だ。

献呈をしているケースについてはマッコークルが網羅しているから、電子辞書と格闘すればよい。ところがこの逆、献呈されている件についてはマッコークルに記載されていない。マッコークルに記載が無いということは、ブログ「ブラームスの辞書」の出番なのだが、これがなかなか厄介だ。

ドヴォルザークの伝記を読むと「弦楽四重奏曲第9番ニ短調」がブラームスに献呈されていると書いてあるケースと、贈られたと書いてあるケースがある。厳密な意味での献呈の定義を満たしているか不明だ。「ブラームスに贈られた」とか「捧げられた」とか書いてあってもただちに献呈とまで断言が出来ないのだ。

2011年3月20日 (日)

公の場

「こうのば」または「おおやけのば」と読む。難解だ。「離婚後公の場に初めて姿を見せた」芸能人のコメントなど週刊誌でよく見かける。何か揉め事があると「出るとこに出る」などといわれることがあるが、「公の場」へ出ることだろうか。世の中社会の仕組みが複雑になって行くと、「公の場」での出来事を基本に物事が進められて行く。

大臣のオフレコ発言は、「公の場」ではない代表例だ。極端な話「公の場」でない発言は、言わば無かったも同然なのだ。

ブラームスの「公の場」は、演奏会の会場。自分が指揮または演奏をする演奏会は、逃げ切れぬ「公の場」だ。しかし作曲家ブラームスを考えると演奏会場よりももっと重要な「公の場」が楽譜だ。楽譜に盛り込まれたことこそが全てだと、おそらくブラームスは考えていた。その先演奏家がそれをどのような音にするかについては関与しない立場だ。関与しなくて済むように、周到に音符を並べた。誤解の起きそうな部分には音楽用語や音楽記号も添えた。

そこにこそ「ブラームスの辞書」の狙いがある。

自らの生存中はもちろん、没後も作品が誤解無く解釈されるように気を配ったことは確実だ。先輩作曲家研究の泰斗でもあったブラームスには、過去の作曲家の作品がその没後にどういう扱い方をされるかについては、人一倍知識があった。どういう残し方をすべきかについて確固たる信念があったに決まっている。

音楽用語や音楽記号の配置が、でたらめであるはずがない。

2011年3月19日 (土)

お世話になったあの方に

贈答品CMの名文句だ。

3月14日の記事「献呈者名簿」をご覧いただく。作品10以内の若い番号は8番を除いて全て誰かに献呈されている。献呈相手を見ると一定の傾向が読み取れる。

1853年10月初めて訪れたシューマン邸で出会った人々への献呈だ。

ブラームスの創作人生に決定的な転換点になった出来事だ。熱狂したロベルト・シューマンは、激賞する記事を投稿する一方で、有力出版社に刊行をかけあう。その結果1853年12月から翌年初頭にかけて、ブラームスの初期作品が相次いで出版される。

このときの献呈先は、シューマン邸訪問以降の一連の出会いの中で、「お世話になった方々」への謝礼の色彩が濃い。

それだからこそロベルト・シューマン本人に対して献呈された作品が無いことが余計に目立っている。

2011年3月18日 (金)

ヤーファ姉妹

ハンブルク生まれの姉妹。ブラームスの幼なじみだ。このうちの姉ルイーゼは、おそらく1844年にブラームスからピアノソナタを聴かされている。11歳のブラームスが作曲したソナタだ。

やがて彼女はシューマン夫妻に作曲とピアノを師事した。1853年にブラームスがデュッセルドルフを訪問して以降、再会を果たす。1854年ライプチヒのゼンフ社から刊行された6つの歌op6は、ヤーファ姉妹に献呈されている。

さてさて、このルイーゼという人は腕前も確かと見えて、1868年にはヘ短調ピアノ五重奏曲のパリ初演を手がけている。

2011年3月17日 (木)

母代わり

昨日の今日で「母代わり」などといえば、亡き妻に代わって子供らをいつくしんできた私の母のことかと思われかねないが、今日は少し違う。

次女が公立高校の前期試験に失敗した日、本人はそりゃあもう見ていられないくらいの落ち込み方だった。母も私もかける言葉が見つからず、家中が沈んだ雰囲気になった。そこへ帰宅したのが長女だ。既にメールで結果を知っていた長女は、全くいつもと変わらぬ明るさで妹に声をかけた。元々2人は同じ部屋で寝起きして勉強も背中合わせだ。普段から次女はお姉ちゃんに勉強を教わっていた。お姉ちゃんはかなり厳しくて、ズケズケと物を言うのだが、次女は不思議と従順だ。親が言ったら喧嘩になるようなこともお姉ちゃんなら受け入れることが出来るようだ。

夕食を囲んで、意外なことが起きた。長女が次女を優しく慰めている。口調は毅然としているのに内容は優しい。やがて次女が顔を上げて笑った。家中の雰囲気がほんのり明るくなった。この瞬間長女はまさに母親代わりだった。世の中優秀な母親は多い。すべからく母は偉大なのだが、たった2年前に自らが高校受験に挑んだ母親がいるとも思えない。長女はまさに一昨年の受験レースの経験者として妹を慰め諭し、やんわりと不安を取り除いた。前期発表の1週間後に実施される後期試験を前に鮮やかに気持ちを切り替えさせた功績は特筆大書されるべきである。次女は今回の姉の気遣いを背負って生きてゆくだろう。悪くない。

思いがけなく目撃した姉妹の絆を永遠に記憶するために記事にする。ブラームスとは何の関係もないが、これを記事に遺さずして何がブログかというくらいの喜び。

2011年3月16日 (水)

トリプルクラウン

英語で「三冠」のこと。スポーツで主要な3つのタイトルを1者が独占すること。個人や団体あるいは馬にも奉られる。野球では普通打撃三冠を指す。「ホームラン」「打率」「打点」である。競馬だと「日本ダービー」「皐月賞」「菊花賞」だ。もちろん希な偉業である。

長男の誕生日でもあった昨日、次女が中学を卒業した。我が家の子育てレースのしんがりを行く次女だから、これで我が家は長男の小学校入学から13年を経て義務教育から開放される。大きな地震の記憶も生々しい中の卒業式は、別の意味で長く記憶に残るだろう。入学式が大雨にたたられて以来、主要な行事が毎度悪天候になるというめぐり合わせの次女だが、最後の最後まで何かに憑かれている。

その開放の儀式は感動的だった。母はお決まりの涙であった。亡き妻に代わって3人の子供を慈しんできた母には、トリプルクラウンの称号が相応しい。

次女は中学最後の1年間を皆勤で乗りきった。つまりこれは「3年皆勤」の達成を意味する。中学生ともなると3年間皆勤は珍しくもないけれど既にが2人とも中学3年間皆勤の実績を確定させていた中で、狙って獲った皆勤賞だ。我が家の子供たちは3人とも、中学校の3年間欠席早退遅刻が無い。

これこそ我が家のトリプルクラウンだ。

2011年3月15日 (火)

毎度毎度の一工夫

昨日の記事「献呈者名簿」で、ブラームスから作品を献呈された人々の名簿を掲載した。企画「献呈」のオープングに伴う措置だ。献呈ネタを延々と連ねる前に、話題の中心となる基礎資料を先に提示しておく意味がある。その後の記事の中で必要に応じてリンクを貼って引用することが出来るからだ。

「初演」特集でも会期冒頭に「都市対抗初演ダービー」を公開してその後の指針を示したし、「初版」特集でも「初版出版社一覧」を早々に公開した。まさに基礎資料の提示という意味がある。

毎度毎度の手法ながら、話の展開を明確にするためには大変有効だ。

2011年3月14日 (月)

献呈された人々

ブラームスから作品を献呈された人々を調べることは、ブラームスの交友史を調べることになると昨日の記事「そもそも献呈とは」で書いたばかりだ。さっそくそれをやってみた。ブラームスから作品の献呈を受けている人の名簿を掲載する。

  • 001 1853年 ピアノソナタ第1番 ヨアヒム
  • 002 1854年 ピアノソナタ第2番 クララ
  • 003 1853年 6つの歌 ベッティーナ・フォン・アルニム
  • 004 1854年 スケルツォ エルンスト・フェルディナンド・ヴェンツェル
  • 005 1854年 ピアノソナタ第3番 イーダ・フォン・ホーエンタール伯爵夫人
  • 006 1853年 6つの歌 ヤーファ姉妹
  • 007 1854年 6つの歌 アルバート・ディートリヒ
  • 009 1854年 シューマンの主題による変奏曲 クララ
  • 010 1856年 4つのバラード ユリウス・オットー・グリム
  • 023 1863年 シューマンの主題による変奏曲 ユーリエ・シューマン
  • 025 1863年 ピアノ四重奏曲第1番 ラインハルト・フォン・ダルヴィック男爵
  • 026 1863年 ピアノ四重奏曲第2番 レージング夫人
  • 028 1863年 4つのデュエット アマーリエ・ヨアヒム
  • 033 1865年 ティークのマゲローネのロマンス ユリウス・シュトックハウゼン
  • 034 1865年 ピアノ五重奏曲 ヘッセン王女アンナ
  • 038 1866年 チェロソナタ第1番 ヨーゼフ・ゲンスバッヒャー
  • 039 1866年 16のワルツ ハンスリック
  • 051 1873年 弦楽四重奏曲第1番、2番 テオドール・ビルロート
  • 055 1872年 勝利の歌 プロイセン皇帝ウイルヘルムⅠ世
  • 067 1876年 弦楽四重奏曲第3番 テオドール・ウィルヘルム・エンゲルマン
  • 074 1878年 2つのモテット フィリップ・シュピッタ
  • 075 1878年 ロマンスとバラード ユリウス・アルガイヤー
  • 077 1879年 ヴァイオリン協奏曲 ヨアヒム
  • 079 1880年 2つのラプソディ エリゼベート・フォン・ヘルツォーゲンベルク
  • 082 1881年 ネーニエ ヘンリエッタ・フォイエルバッハ
  • 083 1882年 ピアノ協奏曲第2番 エドゥワルド・マルクゼン
  • 089 1883年 運命の女神の歌 マイニンゲン侯ゲオルク
  • 093b1885年  食卓の歌 クレーフェルトの友
  • 108 1889年 ヴァイオリンソナタ第3番 ハンス・フォン・ビューロー
  • 109 1890年 祭典と記念の格言 カール・ペーターセン
  • 121 1896年 4つの厳粛な歌 マックス・クリンガー

2011年3月13日 (日)

そもそも献呈とは

「特定の個人に作品を捧げること」とひとまず定義するが、議論の余地も残る。「あなたのために書きました」といって手稿譜をプレゼントすることは献呈には含まれないことがある。もらった側が、大切に保存した結果、後日出版されることもあるが、これは献呈ではない。

マッコークルは毎度の事ながら大変厳密だ。以下の通り4つに分けて記載されている。

  1. 印刷譜表紙に献呈の辞がある。
  2. ブラームスから自筆譜を贈られている。
  3. ブラームスから筆写譜を贈られている。
  4. ページの一部を贈られている。

ブラームスはこれらを上手に使い分けて交友関係の潤滑油にしていたと感じる。

重みという面では上記1番がもっとも価値がある。

印刷譜の表紙に献呈の辞が書かれるという不可避の条件があるからだ。ここに単なるプレゼントとの大きな違いがある。ヨアヒムに贈られた「FAEソナタ」や、クララに贈った「弦楽六重奏曲第1番第2楽章のピアノ版」は献呈ではなく単なるプレゼントだ。

献呈は、印刷譜の表紙に明記されることで、「贈り手」「受け手」以外に事実が公表されるという見逃せない側面が生じる。

単なるプレゼントは、贈り手と受け手の秘密にすることも出来るが、献呈の場合は、両者のひとかたならぬ関係を世の中に知らしめることになる。「私はこの人を大切に思っています」ということを世間に公開する機能が図らずも発生するということだ。

献呈相手を調べることはブラームスの交友史をたどることにほぼ等しい。

という訳でアラビアンナイト計画の次のなるお題は「献呈」だ。地震発生のため1日遅れの開幕。

2011年3月12日 (土)

地震

昨日14時46分宮城県沖を震源とするマグニチュード8.89.0の大地震があった。まずは被害に遭われた人たちに心からお見舞いをしたい。

次女の入学手続きや制服購入などのため有給休暇を取得した。制服採寸のために立ち寄った千葉市内のデパートで地震にあった。14時46分と15時16分ごろ2度強烈な揺れを感じた。立っていられないほどの揺れで、マネキンや商品が少し倒れた。15時30分ごろ従業員の誘導で避難。マイカーは立体駐車場の中に残して帰宅することになる。留守番の長女から長男と長女の無事がメールで寄せられて一安心したのも束の間JRも京成電鉄もマヒ。復旧の見込みについての明確なアナウンスはまだないが、どうも無理そうなので、タクシー乗り場に行くと、大きな駅前ロータリーをぐるりと取り囲むように長蛇の列。タクシーの姿は無い。早々に見切りをつけて徒歩で帰宅することとした。この時点で既に携帯電話はマヒ状態だ。母と次女は不安そうにしている。ここから自宅まではおよそ30kmはあるからだ。

私の判断は家の方向に歩きながら通りかかるタクシーを拾うのが目的だ。街は驚くほど平穏で、この時点では渋滞もないように見える。20分程歩いたところで運良くタクシーに遭遇。たった今車庫から出てきた個人タクシーだ。訳を話して「船橋まで」と告げると嫌な顔一つせずに受けてくれた。ほっとしたが程なく渋滞につっかかる。ラジオでJRの本日中の復旧断念が伝えられたので、判断は正しかった。通常なら1時間かからない距離だが、結局2時間半たっぷりかかって帰宅。

帰宅は6時半。家に損傷はなく、ライフラインも無事だが、私のCDが全部棚から滑り落ちたり、娘の部屋の小物が散乱したのが目立った被害。我々の帰宅前に長男と長女が協力して後片付けが出来ていた。機転を利かせた長女が地震直後の室内を撮影していた。

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↑私のCD。

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↑娘らの部屋

ニュースで伝えられる被害の大きさ、とりわけ津波被害の悲惨さには心が痛む。同時に家族全員無事のありがたさが身に沁みる。特に長男と長女の冷静な対応には驚いた。

2011年3月11日 (金)

初版特集総集編

ワイン、初演に継ぐ企画マラソンの3弾「初版特集」が昨日終わった。以下の総集編である。

  1. 2011年01月25日 発売初日 第4交響曲発売初日の風景。 
  2. 2011年01月26日 初演と初版 初版と出版社に関するあれこれ。
  3. 2011年01月27日 初版出版社一覧 全作品の初版出版社リスト。
  4. 2011年01月29日 初版刊行ランキング ジムロック絶対有利の物証。
  5. 2011年01月31日  シュピーナ シューベルトゆかりの出版社。
  6. 2011年02月03日 ヘンレはどうした 出版社ヘンレは戦後の創業である。    
  7. 2011年02月04日 失態 ゼンフ社が写譜していれば散逸は免れた。
  8. 2011年02月05日  自筆譜の所在 ブラームスの自筆譜はよく残っている。
  9. 2011年02月06日 自筆譜の権威 自筆譜より校正済みスコアのほうが大切。
  10. 2011年02月07日  為替差損 原稿料はマルク建てに限る。
  11. 2011年02月08日 出版社選びのバランス ブライトコップフに絞らない。
  12. 2011年02月09日  声楽得意の出版社 リータービーダーマン社のこと。
  13. 2011年02月10日 本社移転 ジムロックの本社はボンからベルリンに移転した。
  14. 2011年02月11日 代替わり ジムロック社の社長交代の話。
  15. 2011年02月12日 聖霊降臨祭 1860年の聖霊降臨祭の矛盾。
  16. 2011年02月13日 第3ソナタをめぐって 急遽op5におさまったソナタ。
  17. 2011年02月14日  版権 ブライトコップフから版権を買うジムロック。
  18. 2011年02年15日 版権買い取りの範囲 ジムロックはどことどこから買ったか。
  19. 2011年02月16日  もう一つの別れ アガーテ六重奏曲の出版について。
  20. 2011年02月18日 筋を通す ピアノ三重奏曲第1番の改訂で筋を通したか。
  21. 2011年02月19日 ある疑問 ゼンフからブライトコップフへの版権譲渡か。
  22. 2011年02月21日 標準小売価格 楽譜の価格の件。
  23. 2011年02月22日 歌曲の発売単位 楽譜の組版効率で曲数を決めたか。
  24. 2011年02月23日  組版の知識 第3交響曲の組版は早く終わるという見解。
  25. 2011年02月24日  絶版譜の復刻 版権購入の真の目的。
  26. 2011年02月26日  ジムロックの会計年度 出版の空白年度を作らない配慮。 
  27. 2011年02月27日  衰えの兆候 創作力の衰えをジムロックは認識したか。
  28. 2011年02月28日 空白の理由 作品出版の空白年について。 
  29. 2011年03月01日 公然の秘密 ジムロックとブラームスの蜜月は周知か。  
  30. 2011年03月02日 悪ノリついで 初版刊行空白の普仏戦争。
  31. 2011年03月03日  発番の担い手 作品番号付与を本人がコントロール。
  32. 2011年03月04日  出版の遅れ 作曲順と刊行順の違いから読み取る。 
  33. 2011年03月05日  マーケトシェア 19世紀欧州楽譜出版業界の趨勢は。 
  34. 2011年03月06日 ヘルテルの牙城 ブライトコップフ&ヘルテル社の位置付け。 
  35. 2011年03月07日  作曲家全集 ブライトコップフ&ヘルテル社の威光。 
  36. 2011年03月08日  印税 ブラームスの楽譜は印税方式ではなかった。 
  37. 2011年03月10日 熊の由来 ブライトコップフ社の熊についておバカな仮説。
  38. 2011年03月11日 本日のこの記事。

進捗の報告はこちら。   

2011年3月10日 (木)

熊の由来

名高い楽譜出版社ベーレンライター社とブライトコップフ&ヘルテル社は、イメージキャラクターが共にになっている。ベーレンは熊の複数形だから何となく納得していたのだが、一方のブライトコップフ&ヘルテル社は訳がわからなかった。先日来同社のことを調べていて、とうとう決定的な仮説に思い至った。

1719年同社を創立したのがベルンハルト・クリストフ・ブライトコップフだった。ファーストネームのベルンハルトは、英語のベルナルドに相当し「熊のように強いもの」つまり「勇者」を意味したらしい。

創業者のファーストネームにあやかって熊のイラストが採用されたと思われる、と大ボケをかまして、「初版特集」の幕引きとする。明日は総集編。

2011年3月 9日 (水)

夢のかけら

我が家に子供が3人いるのにはがある。ブラームスのピアノ五重奏曲を家族で演奏するためだ。亡き妻はピアノで私がヴィオラだから、子供3人でヴァイオリン2本とチェロを受け持てばいいと考えた。次女が生まれたとき「第二ヴァイオリン」が生まれたと喜んだ。その後妻の死もあって計画は大きくつまづいた。長男はチェロなんぞに見向きもしなかったし、長女は8年のヴァイオリンよりもバドミントンを選んだ。だから、今もトロンボーンやヴァイオリンに接している次女は、我が家の「夢のかけら」だ。

昨日その次女が志望校に合格した。

公立高校は、前期後期の2度チャンスがある。前期はここを受けて不合格だった。後期にどこを受けるか親としては超悩ましかったが、次女はすいすいと予定のここを受けた。親としては経済的な事情もあって何とか公立にと思っていたかから、後期は安全運転で行って欲しいという面もあったが、次女は断固オーケストラのある学校にこだわった。少なくとも自分の偏差値に合わせて通学可能圏から選ぶという発想はなかった。高校オケでヴァイオリンをやりたいという強い意思の裏返しだ。親としてこれほど嬉しいことはないのだが、ハラハラドキドキも一様ではなかった。

私が大学入学後はじめてヴィオラに取り組んだ年齢より3つも若いのに、11年のヴァイオリン経験者として高校オケの門を叩く。「夢のかけら」の逆襲にブラームスのご加護を。

佳境にさしかかった初版特集に割って入るほどの嬉しさ。

2011年3月 8日 (火)

印税

本の売上げに応じて、出版社から著作者に支払われる対価とでも申しておく。「税」という文字が使われているがいわゆる税金ではない。

印税額=販売部数×単価×定率

上記のような数式で求められるようだ。定率の部分は業界内の慣習に加えて力関係で決まるらしい。印税だけで飯が食って行けることは、著作者の夢である。我が「ブラームスの辞書」は、自費出版だから印税とは無縁である。

2009年10月26日の記事「生涯収入」でブラームスに印税が支払われていたかと問題提起した。

ブラームスの時代にも、作品の原稿料の支払いには一括払いと印税方式があったことは、ブラームスとジムロックの手紙から解るらしい。

  1. 一括払い 原稿を出版社に手渡しと同時に作曲者ブラームスに一括して払われる。作曲者にとっては最低保障を確保出来るが、バカ売れ大ブレークした場合にはその分を取り損なう。出版社にとっては作曲者への支払いを固定費として確定できる。売れなかったら損をかぶる。
  2. 印税方式 楽譜の売れ行きがパラレルに反映する。後々の手続きが煩雑かもしれない。

ブラームスはジムロックに「現行の方式(一括払い)だと得しているのか損しているのかが解らない」と書き送る。つまり少なくともジムロック社はブラームスとの取引において印税方式を採用していないということだ。楽譜が売れるという自覚があれば「印税方式」の方が作曲者にとっては経済的には有利だ。「本当は印税方式にしたいところだが、優柔不断だし、きままな独身の身分では、強行に主張しなかった。好ましいことではない」としている。1881年のことだ。

ジムロックからすれば「十分なことはさせてもらっている」という自覚もあっただろう。ドヴォルザークと比較する限りブラームスの特別扱いは明らかだ。結局印税方式は採用されずに終わった。

2011年3月 7日 (月)

作曲家全集

特定の作曲家の作品全てを収録した楽譜またはCDのことと思って間違いあるまい。昨日ブライトコップフ&ヘルテル社の欧州楽譜出版界における特別な地位について述べた。本日はその続きだ。同社は大作曲家の楽譜全集の刊行事業においても他社の追随を許さない。以下に主要作曲家全集を列挙する。刊行が始まった年の順だ。

  1. J.S.バッハ 全46巻1851年~1899年。いわゆる「旧バッハ全集」でブラームスも所有していた。
  2. ヘンデル 全96巻1858年~1902年。編集主幹クリュサンダーはブラームスの友人。ブラームスは全巻の予約者だった。
  3. ベートーヴェン 全25巻1864年~1890年。ブラームスの友人ノッテボームやマンディチェフスキーが編集に関与。
  4. パレストリーナ 全33巻1862年~1907年。
  5. モーツアルト 全67巻1876年~1907年。
  6. ショパン 全14巻1878年~1880年。
  7. パーセル 全26巻1878年~1928年、1957年~1965年。
  8. シューマン 全31巻1881年~1997年。クララの監修による。
  9. シューベルト 全41巻1884年~1897年。
  10. シュッツ 全18巻1885年~1927年。
  11. Jシュトラウス 全7巻1889年。
  12. ラッソ 全21巻1894年~1925年。
  13. ラモー 全18巻1895年~1924年。
  14. ベルリオーズ 全20巻1900年~1907年。
  15. リスト 全34巻1907年~1936年。
  16. ハイドン 全11巻1907年~1933年。
  17. ヴァーグナー 全10巻1912年~1929年。
  18. ブラームス 全26巻1926年~1927年。

ブラームスが校訂に関与したケースを赤文字にしておいた。モーツアルト、ショパン、シューベルト、シューマンとは馥郁たるメンツである。自作の出版についてはブライトコップ社と袂を分かつ一方、同社が刊行する大作曲家の全集については、校訂に関与していたことになる。事情がありそうだ。

ブライトコップフ&ヘルテル社の威光を示して余すところがない。生前懇意にしていなかったワーグナーやブラームスの全集も出している。特にブラームスは全26巻をたった1年でコンプリートさせている。同社の力の入れ方が偲ばれる。

フランスや英国の作曲家もあり、レパートリーがドイツ系一辺倒でもないところが凄い。メンデルスゾーンはどうしちゃったのかという感じがする。

2011年3月 6日 (日)

ヘルテルの牙城

現在に至るもなお、楽譜出版の雄として君臨するブライトコップフ&ヘルテル社の創業は、1719年に遡る。ベルンハルト・クリストフ・ブライトコップフがライプチヒで出版業を起こしたことに始まる。楽譜出版に手を染めたのは二代目のヨハン・ゴットロープ・インマニュエルの時代だ。1755年である。ところが同社は3代目の時代に経営に行き詰まる。1795年おそらくそこでライプチヒの銀行団が送り込んだのが、ゴットフリート・クリストフ・ヘルテルだ。弱冠32歳のヘルテルは鮮やかに社業を回復させた。このときから同社は「ブライトコップフ&ヘルテル」という社号を用いることとなった。私がブログで単に「ブライトコップフ社」と書いているのは正確ではない。

昨日の記事で欧州の主要な楽譜出版社のマーケットシェアを知りたいと書いた。他人任せは良くないと調べてみたが、どうもブライトコップフ&ヘルテル社の地位は強大だった。ジムロックのブラームスのほか、マインツのショット社と蜜月だったワーグナーを除くと、ブライトコップフ&ヘルテル社の独壇場だ。

アガーテ六重奏曲出版にまつわるトラブル以降、ブライトコップフ&ヘルテル社と袂を分けたブラームスは、欧州を牛耳る大出版社と事を構えたということだ。おそらくそれはヘルテルの子供2代目の時代である。

2011年3月 5日 (土)

マーケットシェア

市場占有率と訳されて、業界に君臨する言葉。業界内序列を決定するもっとも有力で根源的な数値である。これに一喜一憂、右往左往という向きは少なくない。

さて私がブラームスを通じて親しむクラシック音楽業界はざっと150年前の欧州だ。そこには数多の作曲家、演奏家が跋扈していたことは確実だが、音楽の普及面で出版社の位置づけは相当高いと感じる。楽譜出版業界が形成されていたと解して間違いあるまい。

当時の欧州楽譜出版業界のトップブランドはどこだったのだろう。業界上位にはどういう出版社が並ぶのだろう。楽譜の年間売上高総合計つまりマーケットサイズを突き止め、各々の出版社の売上高がわかれば、マーケットシェアを計算することが出来る理屈だ。

もしそれが不可能な場合の簡便法として使えそうなのが、1月27日の記事「初版出版社一覧」だ。この一覧を有力作曲家全てについて調べてエクセルに入力する。全部入力が終わったところで、出版社名をキーにソートする。あとはひたすら数える。少なくとも初版の刊行についての取り扱いシェアが判明するハズだ。

ブラームスとドヴォルザークを事実上独占していたジムロックの位置は、かなり高そうな気がする。

ブラームスについてはエクセル入力が終わっているので誰か他の作曲家で作ってはくれまいか。

2011年3月 4日 (金)

出版の遅れ

1月27日の記事「初版出版社一覧表」をご覧いただく。とりあえず最初の3作でいい。

  1. 1853年10月 ピアノソナタ第1番op1 ブライトコップフ
  2. 1854年2月 ピアノソナタ第2番op2 ブライトコップフ
  3. 1853年10月 6つの歌op3 ゼンフ

作品2のピアノソナタ第2番よりも、op3の「6つの歌」が先に出版されている。事情を知らぬ愛好家は、1853年10月にop1とop3が刊行された時、「おやop2は?」と思うはずだ。昨日の記事「発番の担い手」で述べたように、作品番号は原稿を出版社に手渡した順だとすると、op2のピアノソナタはop3の「3つの歌」より早く手渡されているハズだ。

この例のように作品を作品番号順で並べた場合と、実際の刊行順に並べた場合とでは、順序が食い違っているケースがある。上記の例で申せばop2のピアノソナタに何等かの事情が発生し出版が遅れたと解し得る。この手の順番異常が起きている作品を以下に列挙する。

  1. ピアノソナタ第2番op2 1854年2月 ブライトコップフ
  2. スケルツォop4 1854年2月 ゼンフ
  3. ピアノソナタ第3番op5 1854年2月 ゼンフ
  4. 6つの歌曲op7 1854年11月 ブライトコップフ
  5. ピアノ三重奏曲第1番 1854年11月 ブライトコップフ
  6. シューマンの主題による変奏曲 1854年11月 ブライトコップフ
  7. 管弦楽のためのセレナード第1番 1860年12月 ブライトコップフ
  8. アヴェマリアop12 1860年12月 リーターヴィーダーマン
  9. 埋葬の歌op13 1860年12月 リーターヴィーダーマン
  10. 8つの歌曲op14 1860年12月 リーターヴィーダーマン
  11. ピアノ協奏曲第1番op15 1861年4月 リーターヴィーダーマン
  12. マリアの歌op22 1862年12月 リーターヴィーダーマン
  13. シューマンの主題による変奏曲 1863年4月 リーターヴィーダーマン
  14. 詩篇第十三編op27 1864年5月 シュピーナ
  15. ピアノ五重奏曲op34 1865年12月 リーターヴィーダーマン
  16. パガニーニの主題による変奏曲op35 1866年1月 リーターヴィーダーマン
  17. 弦楽六重奏曲第2番op36 1866年4月 ジムロック
  18. ドイツレクイエムop45 1868年11月 リーターヴィーダーマン
  19. 4つの歌曲op43 1868年12月 リーターヴィーダーマン
  20. 勝利の歌op54 1872年12月 ジムロック
  21. 弦楽四重奏曲第1番、第2番 1873年11月 ジムロック
  22. ハイドンの主題による変奏曲op56 1873年11月 ジムロック
  23. ピアノ四重奏曲第3番op60 1875年11月 ジムロック
  24. 交響曲第1番op68 1877年10月 ジムロック
  25. 2つのモテットop74 1878年12月 ジムロック

以下にその傾向を整理する。

  • 赤字で示したとおり着手から完成に時間がかかったと伝承される「訳あり作品」が、軒並みリストアップされている。
  • 見ての通り創作史の初期に密度高く現われる。
  • ブライトコップフとトラブルがあった弦楽六重奏曲第2番は案の定遅れた。
  • 組版や印刷に手間のかかる大曲での遅延さえ第1交響曲を最後に姿を消す。
  • ジムロックの手際を誉めるブラームスの談話が一部伝えられているが、事実扱い作品数の割りにジムロックは少ない。
  • 逆にリーターヴィーダーマンが目立つ。
  • 1879年以降まったく現れない。ジムロック独占体制の進行と一致する。つまり1879年以降は、作品番号順がそのまま作品の刊行順になっているということだ。

  

2011年3月 3日 (木)

発番の担い手

2009年7月14日の記事「作品番号のコントロール」でブラームスが自作に付与する作品番号をある程度コントロールしていたかもしれないと書いた。

ブラームスは手許の作品を出版社に送付する際、表紙に印刷する作品番号をいちいち指図していたと解したい。作品の出版がジムロックの独占体制になる以前は、その手のコントロールがますます重要になる。出版済み作品のうちの最も大きい番号が、最新の作品とは限らないからだ。大管弦楽作品とピアノ小品では、刷り上がりまでの所要時間が違っていて当たり前だ。先に渡した大管弦楽作品よりも、後から渡したピアノ小品の方が先に刷り上るというのは大いにあり得る。

だから現在流布する作品番号は、厳密には作品の完成順ではなくて、出版のためにブラームスが出版社に原稿を手渡した順となる。発番のコントロールは、あくまでもブラームス本人が司っていた。本人の一括管理が絶対に必要だ。

2011年3月 2日 (水)

悪乗りついで

普仏戦争」が1870年に始まったと書いた。もっと詳しく申せば、1870年7月に始まって翌1871年5月には終結を見た。このことを頭に入れた上で、2月26日の記事「ジムロックの会計年度」をご覧願う。

1869年以降で、ジムロックからブラームスの新作が刊行されなかったのが1度だけある。それはいわゆる「70~71会計年度」だ。1870年10月に始まって1871年9月に終わる1年である。

そうだ。その年度は普仏戦争とピタリと重なっている。もちろんプロイセン率いるドイツ諸邦連合の圧勝だったとはいえ、作品の出版が滞るというのは十分あり得る話だ。プロイセンひいてはドイツにとっての「危急存亡」のいくさだ。たとえ出版したところで売れ行きが芳しくなかろうと、ジムロックが計算をしていたと考えたら行き過ぎだろうか。

悪乗りも味わいのうち。

2011年3月 1日 (火)

公然の秘密

当事者は秘密にしているつもり、あるいは秘密という前提で行動しているのに、世の中に広く知られてしまっている状態を言う。

ブラームス作品の刊行についてジムロック社の絶対優位の状況を掘り下げてきた。その過程でささやかな疑問が湧いてきた。

ジムロック社の社長フリッツ・ジムロックが作曲家ブラームスの財産管理人である事実を、世間様はどれほど認識していたのだろう。あるいは世間様まで範囲を広げずとも音楽界では、どう認識されていたのだろう。この事実が秘匿出来ていたのか、はたまた公然の秘密だったのかに興味がある。

出版の実績から見れば、ただならぬ関係にあるということは出版業界では自明のことだったに違いないが、財産管理を一任するほどの間柄だったことは、あまねく知られていたのだろうか。

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