献呈のデリカシー
献呈をするしない、つまり献呈の体裁を取る取らないの基準はどこにあったのだろう。
3月20日の記事「公の場」でブラームスの公の場は楽譜であると書いた。楽譜の表紙は玄関みたいなものだから、そこに献呈の辞が書かれるということは、極めてオフィシャルな性格を持った行為だ。献呈の体裁を取るということは、大臣の公式発言のようなものだ。記者クラブでのオフレコ発言とはとは違う。
後世の伝記作家や愛好家の間でどれほど有名なエピソードであっても、ただちにそれが献呈に結びつくとは限らない。アルトラプソディop53は、シューマンの3女ユーリエへの片思いとその破局が作曲のキッカケになっていることを知らぬ愛好家はいないが、アルトラプソディはユーリエに献呈されてはいない。アガーテのエピソードで名高い弦楽六重奏曲第2番もアガーテに献呈されていない。献呈していないブラームスのデリカシーを味わうべきだと思う。献呈は贈り手のブラームスにとっても、受け手にとっても幸福であることが前提になる。
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