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2011年4月30日 (土)

ロマン派の世代観

私の生年は1960年で、父母は同い年で1935年である。これを100年前に置き換えてみる。

  • 1810年 母方の祖母
  • 1835年 父母
  • 1860年 私
  • 1895年 次女

おおってなモンだ。私の子持ちが10年遅い感じがするがご愛敬だ。上記に近い作曲家を列挙する。

  • 1810年 シューマン、ショパン
  • 1833年 ブラームス
  • 1860年 マーラー
  • 1895年 ヒンデミット

19世紀はロマン派の世紀だと実感出来る。私つまりマーラーから見れば、ブラームスは親の代で、シューマン、ショパンは祖父母の代だ。そしてヒンデミットは子供の代。ベートーヴェンやシューベルトは曽祖父より年長ということかもしれない。どうも物心付いて以来、「ロマン派」とひとくくりにされているから、こうした世代感覚を忘れがちになる。楽譜やCDの売り場ではこの感覚が特に麻痺する。

2011年4月29日 (金)

フィガロハウス

最近モーツアルトハウスと改名されたらしい。ウィーンはドームガッセにあったモーツアルトの住居跡だ。1884年から1887年にかけてモーツアルトが住んだとされている。ここで「フィガロの結婚」を作曲したから永らく「フィガロハウス」と呼ばれてきた。

現在でこそウィーンの観光名所になっているが、ブラームスがウィーンに進出した当時は、まだ普通の住宅だったようだ。

1862年10月、ウィーン進出間もないブラームスは早速ウィーンの音楽家たちとの交友を深め始める。四重奏団を率いるヴァイオリニスト・ヘルメスベルガーとは早速ピアノ四重奏を演奏して楽しんだ。ピアノはブラームス自身が担当し、ト短調のピアノ四重奏曲第1番を初見で演奏したらしい。

会場はウィーン音楽院ピアノ科教授のユリウス・エプシュタイン邸だという。何と何とこの邸宅が、フィガロハウスらしいのだ。複数の伝記でこの事実が確認出来ればいいのだが、現在裏付け調査中だ。

もし事実ならモーツアルトがベートーヴェンと語らった家だ。

2011年4月28日 (木)

敏腕マネージャー

マネージャーとはタレントや運動選手の活動周辺の雑事を引き受けて切り盛りする人のことだ。野球部の女子マネのようなケースを思い出すが、これを職業としている人もいる。代理人の仕事との厳密な境界は混沌としているらしい。

昨日の記事の「エプシュタイン」というタイトルを見て、ビートルズを思い出した人は少なくないはずだ。20世紀の大アーティストであるビートルズには敏腕マネージャーがついていた。

ブライアン・エプシュタイン(1934-1967)という。ブライアンはどこかアイルランドっぽさを連想させる名前だ。彼はリバプールの生まれなのだが、祖父はポーランド移民の子だという。エプシュタインが少しドイツっぽいのは、プロイセンの流れを汲んでいるからかもしれない。

1967年2月27日彼の急死は、ビートルズ解散の予兆だと指摘する向きもある。個性豊かな4人を束ねる手腕は確かで、EMIなどの大レーベルとの交渉も一手に引き受けていた。

ビートルズのライブ演奏の本拠地クラブ・キャバーンに近いレコードショップの経営者だったエプシュタインは、ビートルズの演奏に興味を持って急速に接近した。その彼がビートルズのマネージャーに正式に就任したのは1962年1月24日だ。私の2歳の誕生日である。

アラビアンナイト計画に入れる企画を考えている中で「ビートルズ」は、有力な候補だった。ところが記事がなかなか揃わなかったので断念となった。面白い話はたくさんあるのだが、ブラームスやドイツに結びつかないということだ。マーラーの師匠エプシュタインにかこつけて無理矢理公開する。ビートルズネタは今後適宜このような無理目な形で発信することとなる。

2011年4月27日 (水)

エプシュタイン

ユリウス・エプシュタイン(1832-1926)は高名なピアニストで、ウィーン音楽院のピアノ教授も勤めた。

ブラームスの伝記への登場のしかたが面白い。1864年のことだ、エリザベート・フォン・シュトックハウゼンという乙女がブラームスの前に現われた。相当な才能と、これまた並大抵でない容姿に恐れをなしたブラームスは、彼女の指導を他人に押し付ける。このときエリザベートの指導を委ねられたのがエプシュタインだった。この乙女こそが後にハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクと結婚したリーズルその人だ。

ブラームスとエプシュタインとは歳も近く、気を許したお友達だった。

時は流れて1875年。このころ既にウィーン音楽院のピアノ教授になっていたエプシュタインの前に15歳の少年が現われた。ピアノ演奏を聴いて感銘したエプシュタインは、少年をいきなり上級クラスに受け入れた。以降少年はエプシュタインの薫陶を受けて才能を開花させてゆく。ブラームスにとってのマルクゼンにも匹敵する存在だ。

少年の名はグスタフ・マーラー。

2011年4月26日 (火)

マーラーの交響曲第3番

グスタフ・マーラーの交響曲第3番ニ短調は1902年ドイツ・クレーフェルトにて初演された。今から108年前である。この年の3月にアルマと結婚したばかりだ。

この作品演奏に約100分を必要とする。マーラーの交響曲で最長となっている。そして第1楽章冒頭の主題はブラームス第1交響曲の第4楽章、いわゆる「歓喜の主題」に似ている。そのブラームスは、初演後 ベートーヴェンの第九交響曲との類似を散々指摘されてきたが、マーラーにおいてはさほど執拗でないと感じる。

ブラームスの場合ベートーヴェンとの類似には意味がある感じだが、マーラーは単なる借用という雰囲気が感じられる。ブラームスとはかなり隔たった巨大な編成で、演奏時間もブラームスの交響曲2曲分だ。つまり最初から距離があるから似ていても聞き流されるのかもしれない。

2011年4月25日 (月)

次席作曲家

私にとっての最大の作曲家がブラームスであることは、既にお気づきいただけているものと思う。その一方、ブラームスに次ぐ第二の位置にいる作曲家が誰なのかわかりにくい面もある。1年間企画を放ち262本の記事を堆積させたドヴォルザーク、あるいはバッハが有力候補なのだが、マーラーの位置付けも高い。

大学生活最後の演奏会で弾いたのがマーラーの第5交響曲だったことが全ての始まりだ。亡き妻はこのとき1年生で大学オケデビューだった。新婚旅行で訪れたウイーンで、ショルティ指揮のシカゴ交響楽団の演奏で同曲を聴いた。マーラーの妻の実家だった家にも寄ったし、グリンツィンクへ墓参りにも行った。長女の名前にはマーラーの妻の名を拝借した。

マーラー特集の中で一度はこれらに言及せねばならぬと思っていた。ブラームスの次の位置をバッハやドヴォルザークと争う存在である。

Photo

2011年4月24日 (日)

コンチェルトのお好み

グスタフ・マーラー書簡集の中に興味深い記事を見つけた。ニューヨーク着任後のある日、大ヴァイオリニスト、クライスラーを招いた演奏会での、演目について知人に意見を求めている。

マーラーは、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームスの中から選べと言っている。表向きの効果を狙った作品ではダメだといって、別に2人の作曲家の実名を上げている。なるほどマーラーは1910年3月10日と11日にブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏している。このときのヴァイオリン独奏がクライスラーだった。昨日の話の前にあったエピソードということになる。

ヴァイオリン協奏曲には「表向きの効果を狙った曲」とそうでない曲があると、指揮者マーラーは認識していたということだ。そうでない曲を演奏したいと考えていたことは確実で、その中にブラームスのヴァイオリン協奏曲があったということだ。

2011年4月23日 (土)

独奏クライスラー

指揮者としてのグスタフ・マーラーがブラームス作品をどの程度取り上げたのか2008年7月7日の記事「指揮者マーラー」で述べた。

そこには交響曲ばかりでなく協奏曲も載せておいた。ヴァイオリン協奏曲が3回と、ピアノ協奏曲第1番が1回だった。ところが悩ましいことにソリストが不明だった。

このうち1910年3月10日のニューヨークでのヴァイオリン協奏曲についてソリストが判明した。フリッツ・クライスラーだったのだ。

となるとその翌日3月11日のヴァイオリン協奏曲もソリストはクライスラーという可能性が高まる。

いやはや何とも羨ましいメンツである。

2011年4月22日 (金)

得難い評価

2009年8月8日の記事「完璧なドンジョヴァンニ」でブダペストでのマーラー指揮の「ドン・ジョヴァンニ」の公演を聴いたブラームスが、絶賛したと書いた。

ブラームスによるそうした高評価を伝え聞いたマーラーが、友人にそれを報告した手紙が残っている。宛先はブラームスの書物にも頻繁に登場するホイベルガーだ。

マーラーは、ブラームスによる高評価を「目下のところ、もっとも有り難い評価」と表現して、たいそう喜んでいる。

問題の公演は1890年12月16日で、手紙の日付は12月23日になっている。このときマーラーの職場はブダペストだ。翌年1891年にはハンブルク市立歌劇場指揮者に就任する。ウィーンへの進出は、7年後のことである。ウィーンへの就職のアシストという具体的なうまみはまだ脳裏に無かったに違いないが、楽壇の重鎮ブラームスから評価される有り難みだけは、既に感じていたものと思われる。

2011年4月21日 (木)

Marcia funebre

葬送行進曲という意味。ブラームスでは「埋葬歌」op13の冒頭に「Tempo di marcia funebre」として用いられる。「葬送行進曲のテンポで」と解される。この曲実はお宝だ。

ソプラノ、アルト、テノールに2分割されたバスという混声五部合唱。オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンに3本のトロンボーンとチューバ、それにティンパニが加わる伴奏。トロンボーンがやたらカッコいいので次女がすっかり気に入っている。テキストは16世紀のボヘミアの賛美歌から採られている。ハ短調4分の4拍子。演奏時間約8分の小品ながら只者ではない。1860年の出版だが、作曲は1858年に遡る。

ブラームスが残した最古の葬送行進曲と見て間違いない。とりわけ長いクレッシェンドの果てに鎮座する凄絶なフォルテシモは、ドイツレクイエムの第2曲を先取りしているように思える。ティンパニの3連符が瓜二つだ。

さらにここだけの話だが、冒頭の粛々とした歩みは、最晩年のインテルメッツォ嬰ハ短調op117-3を髣髴とさせるものがある。お叱り覚悟ついでに申せば、さらにその先4つの厳粛な歌op121の1番にまでつながっているような気がしてならない。

「宗教的な歌」op30とならぶ初期合唱曲の白眉だ。

2011年4月20日 (水)

ハンスリック

記事「欠席者のリスト」でブラームスの葬儀の欠席者を話題にした。参列して当然の大物4人が欠席していると問題を提起した。

  1. ハンス・リヒター
  2. ヨーゼフ・ヨアヒム
  3. グスタフ・マーラー
  4. エドゥワルド・ハンスリック

上記のうち3番までの3名は、みな演奏家だからキャンセル出来ぬ演奏会と重なったのだと推定した。

本日はハンスリックを話題にする。実はこのネタが載っている「ブラームスの実像」の最終章の末尾に訳注が振られている。最終章そのものはブラームスの葬儀の模様を伝える翌日の新聞記事の和訳だ。訳者は葬儀の様子を伝える記事を執筆し、無署名で寄稿したのがまさにハンスリックではないかと指摘している。

なるほど、記事は参列者でなければ判らないようなことまで克明に書かれている。さらに各国音楽界が送り込んだ要人の名前まで事細かである。翌日の新聞記事であることを考えると執筆者の情報網に嘆息せざると得ない。そして記事は「さらば親愛なる巨匠ヨハネス」と結ばれている。

以下推測だ。

ハンスリックは、19世紀後半の音楽界を2分した大論争の片側の当事者だ。そしてブラームスはいわば戦友だ。戦友の死を悼む最大の方法として、もっとも得意とする方法を採用したと考える。音楽評論界の重鎮として君臨するハンスリックにとってもっとも得意な方法とは、つまりペンを執ることだ。親友の旅立ちの様子を渾身のレポートとしてまとめ、無署名とすることでブラームスに頭を垂れたのだ。おそらく故人の近親者として葬儀の中心にいたに違いない自分の名を記事から抹殺することで最高の弔意を示したと解したい。

ハンスリックは欠席してはいなかった。

2011年4月19日 (火)

聖ミヒャエル教会

ハンブルクのシンボルと位置づけられる教会。ハンブルク港を目指す船乗りたちの目印にもなったが、第2次世界大戦の時は連合軍の爆撃作戦の目標にもなったという。エストウエスト通りという見抜き通りに面している。

1833年にハンブルクで生まれたブラームスが洗礼を受けたことでも知られている。

さてさて1897年グスタフ・マーラーがカトリックへの改宗のため洗礼を受けたのが、聖ミヒャエル教会だとされている。マーラーの伝記を読むと必ず言及されているエポックだが、「ハンブルクの聖ミヒャエル教会」とだけされていて、はたしてブラームスが洗礼を受けたのと同一の教会なのか確認が出来ない。

周知の通りブラームスはプロテスタントだ。マーラーの改宗はローマカトリックへの改宗だから、同じ教会ではあり得ないかとも思う。岩波書店の「グスタフ・マーラー事典」では「小さな聖ミヒャエル教会」という表現が見られる。「小さな」というのが気になる。ブラームスが洗礼を受けたハンブルクのシンボルであるところの聖ミヒャエル教会とは別のという意味が「小さな」に込められている可能性がある。

2011年4月18日 (月)

3拍子のマーチ

マーチは一般に「行進曲」と訳されて久しい。既にこの訳に違和感を感じる人は少ないと思われる。世の中一般には夥しい数の行進曲が存在する。4分の2拍子が主流である。中には8分の6拍子も混ざるが、概ね偶数拍子が守られている。恐らく人類の直立二足歩行に起因すると思われる。

イタリア語では「marcia」だ。ブラームスには以下の通りの実例がある。

  1. 埋葬歌op13 冒頭「Tempo di marcia funebre」
  2. シューマンの主題による変奏曲op23 第10変奏冒頭「Tempo di marcia moderato」
  3. 男声合唱のための5つの歌op41-3冒頭「Molto moderato,alla marcia」

上記1番は葬送行進曲。ハ短調の葬送行進曲なのでベートーヴェンの第三交響曲を思い出す。3例全て偶数拍子である。

ドイツ語では「Marsch」になる。ブラームスの実例は以下の通り。

  1. ドイツレクイエムop45第2曲冒頭「Langsam,marschmassig」
  2. 男声合唱のための5つの歌op41-4冒頭「im marsch tempo」

面白いのは上記2番とイタリア語側実例の3番だ。作品41の3番と4番という隣り合う出番でありながら、イタリア語とドイツ語に割れている。

今日の本題にたどりついた。上記1番ドイツレクイエムの第二曲は偶数拍子ではない。名高い葬送行進曲だが、4分の3拍子なのだ。重々しく引きずるような葬列にはかえって3拍子のほうが似つかわしいとも思われる。愛する人を埋葬の地に送り届ける葬列が、サクサクと流れては困るのだ。

古来からマーチという解釈があるピアノ四重奏曲第1番第3楽章の中間部もまた4分の3拍子になっている。

さらにだ。実は私が密かに葬送行進曲だと感じている曲がある。「4つの厳粛な歌」の第3曲だ。この曲拍子は2分の3拍子だ。偶数ではない。第5小節目の2分音符で数えて3拍目にピアノの左手が「mp」で四分音符2個を刻む。これが合図になって続く7小節の間、事実上4分の2拍子に聴こえる。この部分が実は個人的には曲中の白眉だと思っている。私には葬送行進曲に聴こえているのだ。

2011年4月17日 (日)

やっぱりがっかり

グスタフ・マーラーが1897年4月16日にハンブルク最後の演奏会で、モーツアルトのレクイエムを演奏したと昨日書いたばかりだ。マーラーの演奏会の記録を調べていた興味深い発見をした。

そのハンブルクの演奏会の選曲がブラームスへの哀悼の意思表示だと推測したが、その直前の演奏会は、1897年3月31日ブダペストだった。4月1日から15日までちょうど15日間は、演奏会が空白だったのだ。マーラーの書簡集を調べるとどこにいたかがわかる。ウィーンにいたのだ。正確には4月1日から8日まで一週間のウィーン滞在だ。9日には友人宛の手紙がハンブルクから投函されている。これ4月16日のハンブルクでの最終公演を準備したものと思われる。

しかししかし、それならばブラームスの葬儀には出席出来たハズだ。4月13日の記事「ちょっとがっかり」で述べたように、ウィーン進出の恩人の葬儀に欠席とは水臭い。キャンセルの出来ぬ演奏会と重なっていたら仕方ないと4月15日の記事「欠席者のリスト」で書いたが、15日間も演奏会の空白があり、ましてやウィーンに滞在したと判明した以上、がっかりが復活する。

もし葬儀への欠席が事実なら4月16日の演奏会のモツレクには「葬儀欠席のお詫び」の意味もこめられていたに違いない。

2011年4月16日 (土)

哀悼の意

1897年4月16日グスタフ・マーラーはモーツアルトのレクイエムを本拠地ハンブルクで演奏した。この時次なる1897年~98年のシーズンからウィーン宮廷歌劇場指揮者への就任が決まっていたから、慣れ親しんだハンブルクでは最後のコンサートになった。

しかも、ハンブルクの生んだ巨匠ヨハネス・ブラームスは、わずか2週間前にウィーンにて没したばかりだった。マーラー自身のウィーン進出をアシストしたブラームスは、モーツアルトのレクイエムの優秀な校訂者でもあった。この選曲が哀悼の意思表示でなかったら、いったい何だったというのだ。

絶妙の選曲と言わざるを得ない。

2011年4月15日 (金)

欠席者のリスト

人は何かとリストアップする。特定の条件を満たす要素を漏れなく拾い出しては表にする。その表に何かを物語らせたいからだ。表に現れた顔ぶれを分析して未知の傾向を読み取ろうと心を砕く。

書物「ブラームスの辞書」の狙いは、まさにそこにあった。ブラームス作品の楽譜に出現する楽語を抜き出してアルファベット順に並べる中から、ブラームスの用語使いの癖にたどり着きたいと心から願う立場だ。

ところが、リストに載ってきた事項もさることながら、逆にリストから漏れた事項が雄弁に何かを物語ることがある。4月7日の記事「poco p」がその例だ。

音楽之友社刊行、日本ブラームス協会編「ブラームスの実像」の最終章にブラームスの葬儀の模様が克明に描写されている。葬儀への参列者が個人団体を問わず列挙されているのだ。いわば「参列者リスト」だ。日本のような芳名帳があれば、量といい質といい貴重な逸品になったに違いない。

本日の論旨から申せば、今日の主役はそのリストに名前の無い人たちだ。ブラームスとの関係、当時の社会的地位から申して載っていてもおかしくない人物が抜けているのだ。

  1. ハンス・リヒター
  2. ヨーゼフ・ヨアヒム
  3. グスタフ・マーラー
  4. エドゥワルド・ハンスリック

この4人だ。ブラームスの昔の恋人アガーテが載っていないとしても、さほど驚くには当たらぬが、これら4名は「載っていてもおかしくない」どころではなくて「載ってなければならない」と感じる。もちろん記事の最後にはウィーン中の音楽関係者や友人が多数参列したと書かれているが、この4名がその他大勢として扱われるハズがない。

1番のハンス・リヒターは、1897年3月7日にウィーンフィルを指揮してブラームスの前で第4交響曲を演奏した。ウィーン市民は広く知られていたから、葬儀に欠席すれば目立つ。「ブラームスの実像」本文に欠席の理由が書いてある。ブダペストの演奏会と重なったためだそうだ。なるほど2番目のヨアヒムとともに2人は当代屈指の演奏家だ。友人恩人の葬儀といえどもコンサートのキャンセルなどおいそれと出来るものではないのだ。

ハンス・リヒターの欠席の理由になったブダペストの演奏会のプログラムを見てみたい。リヒターのことだ、ブラームスの訃報に接して予定のプログラムを急遽取りやめ、オールブラームスプログラムに差し替えるくらいのことはしていたかもしれない。

こうして見るとマーラーの欠席も合点が行く。今でこそ作曲家としての名声が定着しているが、若きマーラーは何よりもまず指揮者として台頭したのだ。

一概にマーラーを責めてはなるまい。

2011年4月14日 (木)

競合

高校生活が始まって一週間。既に次女はオーケストラに入部届けを出したようだ。練習見学もしているらしい。入部希望者が集まり始めているが、ブラバン出身者が多いと言っている。中学のブラバンを経験した管楽器希望者を指している。次女だって中学のブラバンでトロンボーンを吹いたれっきとした「ブラバン経験者」なのだが、希望楽器はヴァイオリンと書いたようだ。ブラバン経験者でありながらヴァイオリンにも10年のレッスン歴があるところが、ささやかな売りの一つである。

毎日毎日私が「今日部活どうだった」と尋ねるものだから、最近は投げやりな返事しかかえって来ないのだが、私にとってはそうした会話こそが宝物だ。この先次女のオーケストラライフのエポックを順に取り上げてゆくだけで10本の記事を確保することは容易だろう。万が一ブラームスにでも取り組むことになれば、30本も夢ではない。

ところがである。次女の高校オケ生活は3年生の夏前には終わる。実質2年と少々でしかない。2013年の5月である。現在ブログ「ブラームスの辞書」で展開中の「アラビアンナイト計画」のゴールはさらにその先の2013年7月だ。つまり次女の高校オケ生活がスッポリとその会期に収まってしまう。既に企画や記事の確保備蓄が進み、空白日も少なくなって来ているから、次女にまつわるブラームスネタが増殖すると競合を起こしかねない。

2011年4月13日 (水)

ちょっとがっかり

4月12日の記事「宮廷歌劇場指揮者」で、マーラーのウィーン進出がブラームス没のあわただしさの中で行われたと書いた。

マーラーは、ハンブルク市立歌劇場指揮者の身でありながら、ポスト獲得活動のためにウィーンに滞在していた。ブラームス没の翌日これに成功し、4月7日には報告の手紙をウィーンから送っている。

一方4月3日に死去したブラームスの葬儀は6日だ。ウィーン中を巻き込んだ盛儀だったという。ドイツ国内はおろか英国やフランス、オランダの諸都市からも弔使が訪れたという。棺を運んだ馬車の天蓋に巨大な花輪が2つだった。これらは故郷ハンブルクとウィーンが1つずづ出し合ったものだ。

マーラーの伝記を調べてもブラームスの伝記を調べても、マーラーがブラームスの葬儀に立ち合った形跡が浮かび上がってこない。マーラーほどの大物だ。葬儀に出れば何らかの記述が残るはずだ。それが発見できないのは参列しなかったのだと思う。このとき現ハンブルク市立歌劇場指揮者で、次期ウィーン宮廷歌劇場指揮者という立場のマーラーが、ハンブルクとウィーン双方に深いゆかりがあるブラームスの葬儀に出ぬということがあるのかと思う。

ましてやそのウィーンでのポスト獲得にはブラームスの支援が物を言ったのだ。作風の違いを乗り越え、指揮者マーラーの理解者ではなかったのか。弔使を送り込んだ諸都市のリストを見れば、ハンブルクが遠いという言い訳は失笑のタネでしかない。

現にドヴォルザークはプラハから駆けつけているではないか。

2011年4月12日 (火)

宮廷歌劇場指揮者

1897年4月15日グスタフ・マーラーはブラームスの支援の甲斐あって、念願していたウィーン宮廷歌劇場の指揮者に就任した。

グスタフ・マーラーの伝記の中にあってエポックを形成する出来事だ。この少し前1897年4月4日に宮廷楽長就任の意思を公式に表明する。これを友人に報告する手紙が書かれたのは4月7日ウィーンだ。マーラーは4月1日から交渉のためにウィーンに滞在していた。

就任の意思表示から11日後の15日は契約が成立した日である。これだけをさらりと書いてしまうと、ふむふむで終わってしまう。これら一連の手続きを岩波書店の「グスタフ・マーラー辞典」をもとにブラームスの伝記と比較してみよう。

  • 4月1日 ブダペストへの演奏旅行からウィーンに入る。
  • 4月3日 ウィーンにてヨハネス・ブラームス没。
  • 4月4日 ブラームスの故郷ハンブルクはブラームスの死を悼んで、停泊中の全船舶が半旗を掲げたという。そしてこの日はグスタフ・マーラーが宮廷歌劇場指揮者就任の意思表示をした日。
  • 4月6日 ブラームスの葬儀。
  • 4月15日 マーラー宮廷楽長就任の契約書にサイン。

つまりグスタフ・マーラーの宮廷指揮者ないしは宮廷楽長への就任の手続きはブラームス没のあわただしい中で行われたということになる。少なくともマーラーはウィーンでブラームスの訃報に接したと思われる。これこそまさに歴史の偶然。

ウィーン中を巻き込んだ盛大な葬儀だったというから、その日ばかりはマーラー側の諸手続きが進まなかったと思われる。

2011年4月11日 (月)

緊急事態

あれから1ヶ月過ぎた今もまだ日本は緊急事態の中にある。我が家にも小さな影響が現れているが、家族の団結が試されていると考えている。改めて子供たちには伝えていないが、何となく察してくれている。自分のわがままを少しずつ削り取って家族のために差し出すことだ。

私の脳味噌はこの1ヶ月ほぼ記事を思いつけなくなっている。記事を考える方向に脳味噌が働かない感じだ。今までのスランプとは少し違う。ブログ運営上の緊急事態と言える。もし我がブログが、記事の備蓄をせずに日々の書き下ろしを標榜していたら、おそらくどこかで記事が途切れていたと思う。

2033年5月7日まで毎日記事をアップすることを目標に掲げた時、こうした脳味噌の機能不全が最大のリスクだと感じた。だからせっせと記事の備蓄に走った。おかげで今のところ記事が途切れることは無いし、アラビアンナイト計画も進行中だ。一時は1492本を数えた備蓄も今は1480本台で一進一退になっている。

いざというときのために記事の備蓄があるのだ。つまり今がいざという時である。

2011年4月10日 (日)

甘い果実

1891年イシュルにブラームスを訪問したマーラーは、それを友人に手紙で報告している。

その中で、マーラーはブラームスを「節くれだってごつごつとした老木だが、甘い果実を結ぶ」と表現している。鬱蒼と葉を茂らせたたくましい幹を見るのは楽しみだとも言っている。

30代そこそこのマーラーの60歳に近づいたブラームス評として興味深い。

同じ手紙の中で「我々のやりとりは友情とは言えない」とも言い添え、ブラームスに気に入られそうな面だけを出すようにしていると明言している。

おそらくブラームスに近づいたのは下心もあったに違いない。ウィーン宮廷歌劇場のポストを狙うマーラーにとっては、ブラームスの覚えめでたいということが不可欠なのだと感じる。

2011年4月 9日 (土)

春の六重奏曲

音楽史上の位置付けこそ論争の当事者ということになっているが、ブラームスのワーグナーへの思いは単純ではない。不快感を表明することだってあるにはあったが、勢いでワーグナーを支持する輩よりは数段冷静だった。おずおずと距離をとったかと思うと、並々ならぬ関心を示したりもする。ワーグナーのブラームス観がほぼ一定なことと対照的だ。

グスタフ・マーラーとブラームスの関係もこれと似ている。ブラームスのマーラー観はほぼ一定だ。作曲家としての評価はよくて保留といったところだが、指揮者解釈者としての評価は相当高い。

難儀なのはマーラーのブラームス観だ。どうも分裂気味だ。今日と明日では自分同士で意見が分かれている感じがする。時にはかなり頻繁に辛らつな言葉が並ぶ。言葉だけはどぎついが、私のブラームスラブは微動だにしない。揺らぐ心配があるとすれば言葉を発したマーラー自身の品格だ。プライヴェートな書簡の中だからという気の緩みもあるのだろう。

その一方で、ブラームスへの称賛の言葉も時々吐いている。

「もし僕が魅力的な変ロ長調六重奏曲に出会わなかったら、ブラームスに絶望してしまうところだった」と他でもない妻アルマに宛てた手紙の中で述べている。

弦楽六重奏曲第1番変ロ長調op18。人呼んで「春の六重奏曲」。

2011年4月 8日 (金)

懐かしい街

次女が通うことになった高校は、次女にとっては第二志望だったのだが、母と私にとっては一押しだった。最寄の駅から学校まで歩く途中の左側にある小学校は、私自身が小1途中から小2の3学期まで通った学校だ。次女は私が小学校から就職までを過ごした街の隣町に通うということだ。何よりもその高校は私にとっては憧れで、文化祭にも行ったことがある。

だから次女が志望校を選ぶ2校に残った時こちらを推した。最終的には次女の意思を尊重したけれど、第一志望を前期受験して失敗し、第二志望で後期試験で合格したのは、何かの導きに違いない。

昨日、母と私は懐かしい懐かしい街並を眺めながら入学式に向かった。

その入学式は感動的。オケが主役を食うばかりだった。式典の要所要所にフルオーケストラが音楽を差し挟む入学式は、華麗の一言だ。保護者が着席をはじめて間もなく、オケがリハーサルを始めた。「美しく青きドナウ」だ。冒頭のホルンを準備するヴァイオリンのトレモロを聴いて背筋が冷たくなった。心洗われるシュトラウス。震災以降心に折り重なっていたモヤモヤを丹念に洗い流すかのよう。リハーサルで既にこの有様だった。

入場はマイスタージンガー、退場は威風堂々、何度か聴いたパターンだが、今までのは全部吹奏楽バージョンだった。厚い弦楽器がもたらす響きの奥行きは何にも代え難い。校歌が弦楽合奏で伴奏されたのが飛び切りの格調だった。

式からの帰り道、各サークルのメンバーが新入生の勧誘に忙しい。満開の桜の下で、弦楽五重奏によるアイネクライネナハトムジークを聴かせてくれていた。軽々の暗譜がまぶしかった。勧誘されるまでもない。次女の決意は既に固まっている。あと2年少々このエネルギーの中に身を投じることになる。

ブラームスのご加護を。

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本日新カテゴリー「743 高校オケ」を創設する。

2011年4月 7日 (木)

poco p

音楽用語「poco p」は「ブラームスの辞書」に記載されていない。ということは、つまりブラームスが作品の楽譜上に一度も「poco p」を使用していないということを意味する。収録がされていないこと自体に大きな意味を持っている言葉である。

ダイナミクス用語「p」はブラームスの作品の楽譜上7500箇所以上にばら撒かれている。ブラームスの用いたあらゆる音楽用語の中でも最多の頻度を誇る。ブラームス節の根幹を規定するダイナミクスでさえある。一方の「poco」は、これまたブラームス節の根幹たる「微調整語」「抑制語」の筆頭格で、約750箇所に出現する。両者はダイナミクス用語、微調整語それぞれの筆頭でありながら、この2つの語の併用例「poco p」が一度も無いことは何やら象徴的である。

「poco」が「p」を修飾するケースが一度も無いことと対照的に「f」を修飾した「poco f」は約310箇所存在する。しばしば「pf」と略記されながらも、いつでもブラームス節を熱く縁取る濃い出番ばかりである。

それなのに「poco p」は一度も使用されていない。「pp」と略記するとピアニシモと紛らわしいからという苦し紛れの解釈も試みているが釈然としない。実は約2500箇所存在する「pp」の中に「poco p」の省略形が混入していないか本気で心配している。

実は「poco p」の不存在は「f」側の「molto f」の不存在と対になっている気がしてならない。下記で示した通り「p」には煽り系の「molto」が似合う一方、「f」には抑制系の「poco」が似合うという図式が想定される。

  • p側 「poco p」:× 「molto p」:○
  • f側 「poco f」:○ 「molto f」:×

つまり「p」を「もっと」と煽り、「f」を「程ほどに」と抑えるのがブラームスの癖と思われる。実際には「molto f」にはたった一つだけ用例があるが、マクロ的には無視しうる。

2011年4月 6日 (水)

マーラーの妻

グスタフ・マーラーの妻はアルマという。いわゆる才色兼備で、男性にもてまくった。マーラーはそれが悩みのタネだったとも言われている。1964年に85歳で没したから、つい最近まで生きていたのだ。

アレクサンダー・ツェムリンスキーに師事して作曲を学んだ。ワーグナーに心酔してオペラ志向だったという。数曲の歌曲が現代に伝えられている。並の才能ではなかったらしく、絶対音感の持ち主だったと証言する向きもある。

一方音楽作品の批評眼も持っていた。ラヴェル、ドビュッシー、ストラヴィンスキーがお好みだった反面、古典派以前の音楽には関心がなかったようだ。

さてさてブログ「ブラームスの辞書」的には大問題がひとつある。

アルマは、ブラームス嫌いだということだ。この点で夫と見解が一致しているというのが皮肉である。現在マーラーが発したとして伝えられている言葉のいくつかのソースが、アルマになっているけれど、最近の研究者はどうも眉にツバを塗っているという。マーラー本人のブラームス評として伝えられている言葉も、額面通りに受け取っていいものか心配になる程だが、アルマ自身のブラームスへの低評価だけはどうやら本当らしい。

困ったものだ。

2011年4月 5日 (火)

買出し隊

震災以降の平日、母の買い物に長男が同行することになった。震災後一週間、スーパーの店頭はかなり混雑した。「おばあちゃん一人では危ない」と言い出したのは長女だった。既に春休みに入っていた長男が、その日から必ず母について行くことになった。日用品の買い物なのだが、ちょっとした重さになる。余震も心配な上、混雑もあるし殺気立っているから、大学生男子の同行は心強い。停電情報を携帯でキャッチして買出しの時間を決めた。

15日の卒業式以降、次女が家での留守居役になった。終業式を終えた長女が加わる頃には、店頭の混雑はかなり解消したが、子供たちの買出し応援が続いた。機転の利く長女が加わることで、母を留守番にして、子供らだけで買い物に行くことも出来たが、母はむしろ子供との同行を楽しんでいるかのようだった。

危急存亡のとき、少々の不自由は我慢だ。瓦礫の下で祖母と10日間がんばった少年に比べればささやかなものだが、こういうときだからこそ子供たちの隠れた一面を垣間見ることが出来た。

明日から長男新学期で、買出し応援も一段落。

2011年4月 4日 (月)

半旗

旗の掲揚の方法。弔意を表する手法の一つである。一旦旗ざおの頂上まで上げてから、中ほどまで降ろす。回収の時はその逆で、旗ざおの頂上まで上げてから降ろすという。

重要人物の死去の際に見られる。

1897年4月4日だから、ブラームス死去の翌日、ブラームスの故郷ハンブルクでは停泊中の船が全て半旗を掲げたという。ドイツ最大の港町だから相当な数の船舶でにぎわっていたに違いない。外国籍の船も少なくはなかろうが、ハンブルクの港湾当局は半旗掲揚を発意し、みながそれにしたがったということだ。ハンブルク出身にして名誉市民、欧州屈指の作曲家の死を、街全体で惜しんだのだ。

2011年4月 3日 (日)

トラウン川のさざなみ

ブラームスとマーラーの関係を論ずる際、しばしば引用されるエピソードがある。

ブラームスの夏の避暑地イシュル近郊で2人は散歩に出る。マーラーは傍らのブラームスに、「きれいな波が来ていますよ」とトラウン川を指さす。「新しい音楽の流れです」と切り出す。ブラームスは「ほほう」とばかりにマーラーが指し示す方角に目を凝らして「きれいだね」と大人の対応をする。「けれども、あの波が沼に注いで淀むのか、大海に達するのかが大切ではないかね」とチクリだ。

若きマーラーは自信に満ちて、楽壇の重鎮ブラームスを前にしても臆するところもない。「新しい流れ」を自らになぞらえ、ブラームスから同意を引き出すための先制攻撃に出た。

迎え撃つブラームスは、マーラーの中央突破をサラリと交わしつつ、肩の力の抜けた対応だ。川面の波を自らになぞらえたマーラーの寓意を受け止め、川の対照としての大海を持ち出す。ベートーヴェンの有名な例え「バッハは小川(Bach)ではなく、大海と称するべきだ」を踏まえている可能性も感じてしまう。「きれいはきれいだが、大切なことは他にある」とキッパリである。

マーラーという波が大海に注いだのかどうか、ブラームスが自分で確かめるには残された時間が少し短すぎた。

2011年4月 2日 (土)

サイクリング

気候の良いシーズンに、景色の良いところを自転車で遠乗りするのは気持ちがいい。

1893年から1896年にかけて毎夏、ハンブルク市立歌劇場指揮者だったグスタフ・マーラーはオーストリア・アッター湖東岸のシュタインバッハの別荘に住んだ。作曲に専念するためだったので作曲小屋と呼ばれている。2番目と3番目の交響曲が生まれたことで名高い。

マーラーがこの地を選んだのは訳がある。ウィーン宮廷歌劇場指揮者に就任するための周到な準備の一環として、ブラームスへの接近を図ったのだ。このシュタインバッハはブラームス晩年の避暑地バート・イシュルに近いのだ。マーラーはしばしば作曲の合間を縫ってブラームスをイシュルに訪ねた。イシュルまで片道25km弱の道のりを自転車で通ったという。

シュタインバッハを出てアッター湖東岸を南下する。約4kmのヴァイシェンバッハでアッター湖畔から離れて東南東に伸びる峠道に入る。ヴァイシェンバッハ川沿いに遡るということだ。ヘレン山脈南麓を進むこと12kmでミッテルバイシェンバッハに到達。ここからはトラウン川に沿って南西に向かい、6kmでブラームスのいるイシュルに着く。あたり一帯はザルツカンマーグートと呼ばれるオーストリア屈指の景勝地だ。往復50km近い道のりも30代半ばのマーラーには、心地よいサイクリングだったに違いない。

マーラーの心地よいサイクリングはブラームスの知遇を得るためだ。ウィーン宮廷指揮者就任の後ろ盾を求めての銀輪行。後にマーラーは「ブラームスの気に入りそうな面だけを見せるよう心がけた」と友人に語っている。百も承知のブラームスは、作曲はともかく指揮者としての才能を認め、協力を約束したという。

2011年4月 1日 (金)

自転車

ブラームスは作品の保守的な傾向にも関わらず、世の中に現れる「新しい物」を取り入れるのが好きだった。どしどし試すのが好きだったとも言える。部屋には当時は珍しかった電灯が引かれていたし、自分のピアノ演奏を録音もしている。鉄道もドシドシ利用していたが、このころ既に鉄道はポピュラーになっていて「新しい物好き」の対象にはなっていなかったかもしれない。

ところが自転車は、どうもブラームスの覚えめでたいという訳には行かないらしい。ブラームスの時代の自転車と現代の自転車は違うのだと思うが、ペダルをこぐ姿が不格好というのが理由だ。傍若無人な自転車に後ろからけしかけられたこともあるのだろう。あるいは単に自分が乗れないという理由もあり得る。

1885年ドイツで発明されたガソリンエンジン車は、まだまだ珍しくブラームスの伝記には見当たらない。一般への普及は20世紀を待たねばならない。自転車を嫌っていたブラームスにとって陸上移動の手段は鉄道と馬車、そして徒歩だった。

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    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
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