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2011年4月13日 (水)

ちょっとがっかり

4月12日の記事「宮廷歌劇場指揮者」で、マーラーのウィーン進出がブラームス没のあわただしさの中で行われたと書いた。

マーラーは、ハンブルク市立歌劇場指揮者の身でありながら、ポスト獲得活動のためにウィーンに滞在していた。ブラームス没の翌日これに成功し、4月7日には報告の手紙をウィーンから送っている。

一方4月3日に死去したブラームスの葬儀は6日だ。ウィーン中を巻き込んだ盛儀だったという。ドイツ国内はおろか英国やフランス、オランダの諸都市からも弔使が訪れたという。棺を運んだ馬車の天蓋に巨大な花輪が2つだった。これらは故郷ハンブルクとウィーンが1つずづ出し合ったものだ。

マーラーの伝記を調べてもブラームスの伝記を調べても、マーラーがブラームスの葬儀に立ち合った形跡が浮かび上がってこない。マーラーほどの大物だ。葬儀に出れば何らかの記述が残るはずだ。それが発見できないのは参列しなかったのだと思う。このとき現ハンブルク市立歌劇場指揮者で、次期ウィーン宮廷歌劇場指揮者という立場のマーラーが、ハンブルクとウィーン双方に深いゆかりがあるブラームスの葬儀に出ぬということがあるのかと思う。

ましてやそのウィーンでのポスト獲得にはブラームスの支援が物を言ったのだ。作風の違いを乗り越え、指揮者マーラーの理解者ではなかったのか。弔使を送り込んだ諸都市のリストを見れば、ハンブルクが遠いという言い訳は失笑のタネでしかない。

現にドヴォルザークはプラハから駆けつけているではないか。

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