宮廷歌劇場指揮者
1897年4月15日グスタフ・マーラーはブラームスの支援の甲斐あって、念願していたウィーン宮廷歌劇場の指揮者に就任した。
グスタフ・マーラーの伝記の中にあってエポックを形成する出来事だ。この少し前1897年4月4日に宮廷楽長就任の意思を公式に表明する。これを友人に報告する手紙が書かれたのは4月7日ウィーンだ。マーラーは4月1日から交渉のためにウィーンに滞在していた。
就任の意思表示から11日後の15日は契約が成立した日である。これだけをさらりと書いてしまうと、ふむふむで終わってしまう。これら一連の手続きを岩波書店の「グスタフ・マーラー辞典」をもとにブラームスの伝記と比較してみよう。
- 4月1日 ブダペストへの演奏旅行からウィーンに入る。
- 4月3日 ウィーンにてヨハネス・ブラームス没。
- 4月4日 ブラームスの故郷ハンブルクはブラームスの死を悼んで、停泊中の全船舶が半旗を掲げたという。そしてこの日はグスタフ・マーラーが宮廷歌劇場指揮者就任の意思表示をした日。
- 4月6日 ブラームスの葬儀。
- 4月15日 マーラー宮廷楽長就任の契約書にサイン。
つまりグスタフ・マーラーの宮廷指揮者ないしは宮廷楽長への就任の手続きはブラームス没のあわただしい中で行われたということになる。少なくともマーラーはウィーンでブラームスの訃報に接したと思われる。これこそまさに歴史の偶然。
ウィーン中を巻き込んだ盛大な葬儀だったというから、その日ばかりはマーラー側の諸手続きが進まなかったと思われる。
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