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2011年5月31日 (火)

サウル

ヘンデルのオラトリオのタイトルだ。ハンブルク時代の若きブラームスはこの作品に親しんでいた。

1862年9月ウィーン進出を決意したブラームスは、故郷ハンブルクを立つに当たって父親にこう切り出す。

「ことがうまく行かなくなった時の最高の慰めは、決まって音楽です」「ただ私の『サウル』の中だけはよくご覧になってください」「必要とするものがきっと見つかります」

ブラームスはヘンデルのオラトリオ「サウル」の総譜の中に、まとまった数の紙幣を挟んでおいたのだ。29歳の息子は故郷を立つにあたって、父にへそくりを置いてきたというわけだ。まだブレーク前とは言え、このときまでにささやかな蓄えがあったと考えられる。何だか遠回しなところがブラームスらしい。

家族への経済的援助は、その後も終生続くことになる。

2011年5月30日 (月)

ブログ開設6周年

2005年5月30日のブログ開設から6年が経過した。いつもの通りその日から一日の抜けも無く更新して来れたことを喜ぶ。2005年5月30日生まれの子供は、今年の4月に小学校に入学だろうか。さすがにブログ「ブラームスの辞書」を愛読してくれているとは思えないが、6年の歳月とはそういうものだ。

妄想も湧いてきた。この先2033年5月7日のゴールを目指して粛々とブログを続けていると、いつの日かきっとブログ「ブラームスの辞書」開設より後に生まれた読者を獲得する日も来よう。そのときその読者は、ブログ「ブラームスの辞書」上で自分の誕生日の記事を読むことが出来る。中学生がということも考えると早ければ7年後2018年にその日が来るかもしれない。夢のある話だ。まだ記事の備蓄がそこに届いていないけれど、そういう話はとても励みになる。

2011年5月29日 (日)

ハンザ同盟

高等学校の世界史で習った。「12世紀以降、貿易の独占と保護を目的に、北海・バルト海沿岸諸都市によって結成された都市同盟」程度の緩い定義しか思い浮かばない。

ところが、ドイツ史の入門書を手に取っているが、ハンザ同盟の定義は大変厄介だとされているのだ。同盟と呼びならわされている割には、加盟都市間の条約があるわけでもないし、加盟都市の権利や義務が明文化されてもいないばかりか、加入脱退の規定も曖昧だったという。一般に12世紀に北海・バルト海で活躍する商人たちの団体がその起源と位置づけられている。都市同盟に変質するのは13世紀以降とされている。

ブラームスの故郷ハンブルクは、9世紀にカール大帝の北方布教の拠点あるいは、異民族への防衛拠点として建設されたという。12世紀に十字軍遠征への貢献が認められて神聖ローマ帝国皇帝から、北海・バルト海の航行特権が認められて、リューベックとの都市同盟が成立したころからハンブルクはハンザ同盟の重要な拠点となった。

17世紀には一応ハンザ同盟は終結したとされているから、ブラームスの生まれた頃は存在しなかった。しかし、ハンブルクの正式名称「自由ハンザ都市ハンブルク」に誇りと歴史が反映している。

2011年5月28日 (土)

ヘルムート・シュミット

第5代ドイツ連邦宰相。1918年ハンブルク生まれ。音楽への造詣が深く、ピアノの腕前は相当なモンらしい。バッハやモーツアルトの録音もしているという。だからというわけではなさそうだがハンブルクっ子の信望を集めている。

1983年にはハンブルク名誉市民に選ばれている。妻のロキ・シュミットもまたハンブルク生まれで、おしどり夫婦として知られている。2009年ロキ夫人もまたハンブルク名誉市民に列せられた。もっとも最近のメンバーだ。もちろん夫婦での選定は史上初である。

2011年5月27日 (金)

正式な肩書

ハンブルク名誉市民に選ばれたとき、ブラームスの正式な肩書は「Dr.phil.h.c.」となっている。省略符が多くてわかりにくい。

「Dr.」は簡単で「博士」だ。次の「phil.」は音楽にちなんで「フィルハーモニー」かと思ったら違って「philosophie」で「哲学」だった。最後の「h.c.」は「honoris causa」の略で「名誉」の意味。全部続けると「名誉哲学博士」になる。

そうだ。大学祝典序曲作曲のキッカケを思い出すといい。ブラームスは1880年にブレスラウ大学から哲学の名誉博士号を授与されている。これを鮮やかに踏まえていると解される。

そして正式な選定理由は「卓越した音楽作品を通じて、故郷ハンブルクに栄光と名誉をもたらした功績」である。

2011年5月26日 (木)

Anerkenung der Hilfe

ドイツ語。直訳すると「救援への感謝」となる。ハンブルク名誉市民の選定者リストを調べていて、1843年のメンバーで注目すべき発見をした。

  1. コンラート・ダニエル・フォン・ブリュッヒャー伯爵 デンマーク王国アルトナ市長官。
  2. エドワルド・ハインリッヒ・フォン・ブロットヴェル プロイセン王国マグデブルク市長官
  3. ヨハン・シュミット 自由ハンザ都市ブレーメン市長

上記3名の選定理由は「Anerkenung der Hilfe nach den grosser Brand」となっている。「ハンブルク大火に対する救援への感謝」と解される。前年1842年5月5日未明、ハンブルク市は未曾有の大火に見舞われた。この大災害にあたり3市から寄せられた救援活動への謝意表明に他なるまい。

巨大な災害からの復興には、周囲の援助は不可欠だ。アルトナは当時プロイセン王国の所属ではなく、デンマーク王国配下のホルステン公国の都市だった。現在ハンブルク市に編入されて行政区の一つになっていることからも判るように、被災地ハンブルクのすぐ西隣に位置する。避難民の受け入れや救援の先頭に立ったと思われる。

マグデブルクは、エルベ川を遡った位置にある。アルトナほど近いわけではないが、エルベ川の水運は救援物資の搬入に役立ったことだろう。

そしてブレーメン。ハンブルク同様北海に面した伝統あるハンザ都市だ。ハンブルクのライバルとして対抗意識を持っているが、非常時にあたり率先して駆けつけたと感じる。

もちろん首長たちが一人でどうなるものではない。首長の陣頭指揮のもと多くの人々が救援活動に従事したに違いない。具体的な救援活動の内容は明らかではないが、よその街の市長を名誉市民に選んでまで表明するような強い強い感謝は、その救援活動が本当に心のこもったものだったことの裏返しに決まっている。

1889年自らがハンブルク名誉市民に選ばれるにあたって、おそらくブラームスは過去12名の選定者を調べたハズだ。モルトケ将軍やビスマルクにもまして、この3名の名前と受賞理由を見て感動したと思われる。

ハンブルクの大火はブラームス9歳の時の出来事だ。ブラームスの思春期は市街の復興期と重なる。ハンブルクの復興はブラームスにとって他人事ではない。それを助けた3名の首長と同じ名簿に名前を連ねることを真の名誉としたに違いない。ブラームスはそういう男だ。

だからがんばれ日本。

2011年5月25日 (水)

Ehrenburger

正確に申せば「u」はウムラウトする。ドイツ語で「名誉市民」のことだ。「Hamburgische Ehrenburger」で「ハンブルク名誉市民」だ。

1889年にブラームスがハンブルク名誉市民に列せられたとき、既に12名がその栄誉に浴していた。最初のハンブルク名誉市民はテッテンボルンという将軍で、ナポレオン戦争の際の勲功によるものだ。10番目と11番目がモルトケ将軍とビスマルクで、これは1871年だから普仏戦争直後、ドイツ帝国誕生の一連の流れの中の話である。ブラームスは19世紀最後の選定だから19世紀は13名となる。

20世紀は15名が名を連ねる。飛行船に名前が残るヒンデンブルク、元西ドイツ首相ヘルムート・シュミットもいる。21世紀はまだ10年が経過したに過ぎないのだが5名が既に選ばれている。1814年の初選定からおよそ200年で33名。100年で15~17名の難関だ。並み居る作曲家たちに先んじて音楽家初の名誉市民は、相当な栄誉である。

ちなみにベルリンの名誉市民は100名を越えているらしい。

2011年5月24日 (火)

感謝のしるし

人は感謝のしるしとして何かと物を贈る。言葉で礼を述べるだけにとどまらず、別に贈り物をして感謝の気持ちを伝えるのだ。

ブラームスは作曲家だから、感謝のしるしとしてお世話になった人に曲を贈る。献呈という形をとったり、自筆署名入り初版印刷譜だったり形態は様々だ。作品一覧表中の献呈された人々の欄はそうした感謝のしるしが時系列的にお行儀良くならぶことになる。一見オヤというような人物に献呈されていても、よく調べると納得の理由が必ず潜んでいる。

ハンブルクでのポストに嫌われ続けたブラームスに、ハンブルク市は名誉市民の称号を贈ることで謝罪と和解の意思表示をする。わだかまりが完全に払拭された訳ではないが、ブラームスはこれを喜んで受諾する。そして時のハンブルク市長ペーターセンに「8声の合唱のための記念と祝典の格言」op109を献呈する。1889年9月9日にハンブルクで初演にこぎつける。何かの語呂か「9」が重なる。受賞の決定は5月23日だったが、授賞式は9月。この演奏会はそれに先立つ祝賀行事の一環だと思われる。

名誉市民への選定はこの市長が最終的に決裁したことは事実だが、実はもう一人功労者がいる。

ハンス・フォン・ビューローだ。彼はブラームスの友人でピアニストとしても指揮者としても成功した音楽家で、演奏会の前に聴衆にむかって演説することでも有名だった。こうと思ったら突き進む人なのだ。持ち前の行動力でハンブルク市を説得し、ブラームスへの名誉市民授与に対する障害を根気よく取り除いたという。

ブラームスは後に第3交響曲の手書き総譜をビューローに献じて、感謝の気持ちを表した。

2011年5月23日 (月)

名誉市民

1889年5月23日。ブラームスはハンブルクの名誉市民に選ばれた。今日は記念日。

ブラームスはそのお礼にop109をハンブルク市長カール・ペーターゼンに献呈している。娘のトニー・ペーターゼンとはその後も親しく文通している。

議会の説得など難題はあったらしいが、裏で画策したのが友人のハンス・フォン・ビューローだった。第4交響曲の演奏に際して発生した行き違いが原因でマイニンゲン宮廷楽団を辞していたビューローが当地ハンブルク歌劇場で指揮者をしていたのだ。

ビスマルクやモルトケ将軍もハンブルク名誉市民に列せられているが、この2人はハンブルクの出身ではない。ブラームスはハンブルクの生まれだから感激もひとしおだろう。

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2011年5月22日 (日)

ゆかりの作曲家

ハンブルク特集が始まったばかりだ。もちろんブラームスの故郷なのだが、まずはハンブルクゆかりの作曲家を確認しておきたい。

なんといってもメンデルスゾーンだ。1809年ハンブルクの裕福な銀行家に生まれた。

続いてはテレマン。彼はハンブルクの生まれではないけれど、1721年40歳でハンブルク市音楽監督に就任して86歳のときハンブルクで亡くなった。生前の名声はバッハをしのぐ。そのバッハの次男カール・フィリップ・エマニュエルはテレマンの後任だ。「ハンブルクのバッハ」などと呼ばれることもある。1788年ハンブルクで没した。

父のバッハも若いころハンブルクを訪れたことがある。訪れたというだけならブクステフーデも入れねばならない。チャイコウスキーとブラームスの会見もハンブルクだった。ドヴォルザークの渡米はハンブルクからだったという。シューマン夫妻だってハンブルク訪問がある。ゆかりと申しても単に訪れただけでよいならキリがない。

2011年5月21日 (土)

姉妹都市

英語で言う「Sister City」のこと。文化交流によって結ばれた都市のこと。ドイツ語だと「Schwesterstadt」という。おおってなもんだ。ドイツ語でいう「Stadt」つまり都市は女性名詞だ。どうりで兄弟都市とは言わない訳だ。

普通それらの当事者都市間には姉妹都市になるだけの理由がある。地理条件や歴史的条件が似ているとか、既に市民間の交流があるとかだ。

ブラームスの故郷ハンブルクは大阪市と姉妹都市の関係にある。「何でやねん」あるいは「何がやねん」てなもんだ。港町あるいは水の都という切り口だろうか。私は就職後すぐ3年間を大阪で楽しく過ごした。けれどもそれとこれとは話が別だ。大阪市民はハンブルクに安く行けるなどという特典は無いのだろうか。良いことがあるなら住民票を移すくらいは考えても良い。

2011年5月20日 (金)

ハンブルク

ブラームスの生まれた町。ドイツ最大の港町。「Hamburg」と綴る。

「burg」は「城砦」を意味する。外敵から町を守るために町の周囲を城壁で囲んでいたことの名残である。城砦があった町全てに「burg」が付くかというとそうでもないし、「burg」がついていない町には城壁が無かった訳でもないところに様々な事情もありそうだ。「山」を意味する「berg」と紛らわしいので少々注意がいる。

お気づきの方も多かろう。前企画「マーラー」は会期中にハンブルク関連記事が多かった。ビューローの葬儀がハンブルクで行われたエピソードが幕開けだったし、ハンブルク大火ハンブルク市立歌劇場、なども話題にした。いよいよブラームスの故郷ハンブルクを取り上げる。

「マーラー特集」に続いて「ハンブルク特集」が始まる。

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2011年5月19日 (木)

マーラー特集総集編

マーラー特集の総集編。

  1. 2011年03月29日 ビューローの葬儀 マーラーとビューローの関係から。
  2. 2011年04月02日  サイクリング シュタインバッハからイシュルへマーラーの銀輪行。
  3. 2011年04月03日 トラウン川のさざなみ さざなみは大海に注いだか。
  4. 2011年04月06日  マーラーの妻 アルマの音楽的嗜好。
  5. 2011年04月09日  春の六重奏曲 弦楽六重奏曲第1番とマーラー。
  6. 2011年04月10日  甘い果実 マーラーのブラームス観。
  7. 2011年04月12日 宮廷歌劇場指揮者 ブラームスの葬式と重なる就任の手続き。
  8. 2011年04月13日  ちょっとがっかり マーラーはブラームスの葬儀を欠席したか。
  9. 2011年04月15日  欠席者のリスト ブラームスの葬儀を欠席した大物4人。
  10. 2011年04月16日 哀悼の意 モーツアルトのレクイエムをハンブルクで演奏。
  11. 2011年04月17日  やっぱりがっかり 理由は知らぬが欠席は水臭い。
  12. 2011年04月19日  聖ミヒャエル教会 ブラームスの洗礼の教会でマーラー入信か?
  13. 2011年04月22日  得難い評価 マーラーのドンジョヴァンニ。
  14. 2011年04月23日 独奏クライスラー マーラー指揮のヴァイオリン協奏曲。
  15. 2011年04月24日 コンチェルトのお好み 表面を飾っただけでない協奏曲。
  16. 2011年04月25日  次席作曲家 私の中でのマーラーの位置。
  17. 2011年04月26日  マーラーの交響曲第3番 ブラ1に似ている。
  18. 2011年04月27日 エプシュタイン マーラーの恩師はブラームスの友人。
  19. 2011年04月30日 ロマン派の世代観 ロマン派の世代間隔を大切に。
  20. 2011年05月01日 ベートーヴェン賞 マーラーの選外とブラームス。
  21. 2011年05月03日  ベートーヴェン賞悲話 マーラーの友ハンス・ロット。
  22. 2011年05月04日  ハンブルク市立歌劇場 マーラーの報酬。
  23. 2011年05月08日  イ長調間奏曲 マーラーがアルマに聞かせたか。
  24. 2011年05月09日  フルーレジャック フランス民謡と聖ラファエルの類似。
  25. 2011年05月11日  三人のピントー ウェーバーの遺作オペラ。
  26. 2011年05月12日 濃度不足 マーラー特集の最終濃度の件。
  27. 2011年05月17日 サブタイトル マーラー特集の隠しテーマ。   
  28. 2011年05月18日 マーラー没後100年マーラー没後100年。合掌。
  29. 2011年05月19日 本日のこの記事。

進捗管理はこちら

2011年5月18日 (水)

マーラー没後100年

作曲家グスタフ・マーラーは1911年5月18日ウィーンで没したから、本日は没後100年忌にあたる。没後100年のメモリアルイヤーなのだが、ここ日本では震災でそれどころではない状況が続いている。「自粛モード」が蔓延中だが、没年のメモリアルは元々バカ騒ぎは場違いだから、違和感はない。

それでもブログ「ブラームスの辞書」の「マーラー特集」は、意図した以上に重々しい企画になってしまった。だからこそ、そこに差し挟まれた次女の高校オケネタがささやかな光明として浮かび上がるという寸法だ。

2011年5月17日 (火)

サブタイトル

現在展開中の「マーラー」特集は3月29日のビューローの葬儀の記事で開始され、マーラー没後100年の記事まで続く。その間ブラームスの葬儀とマーラーの関係を深く論考し、さらにマーラーの友人ハンス・ロットの悲劇にも言及した。

地震を含む天災のネタ「大火」や「天明の大飢饉」の話、あるいは「葬送行進曲」をテーマにした記事も「Marcia Funebre」と「三拍子の行進曲」の2本を数える。「マーラー」という表向きの題名の裏には「死」というサブタイトルが掲げられていたようなものだ。

没後100年に合わせるマーラー特集自体は既に昨年アラビアンナイト計画が始まった段階で決まっていた。そこに震災が起きた。未曾有の大災害に接して「死」という言葉の持つ意味に直面せざるを得なかった。「マーラー特集」自体の延期も考えたが熟慮の末決行に踏み切った。「ブラームスの辞書」なりの哀悼の意の表明である。

会期はあと2日。合掌。

2011年5月16日 (月)

何卒ブラームス

一昨日の次女の高校オケデビュウのプログラムを眺めている。子供たちが趣向を凝らしたパート紹介が楽しい。3年生が引退で抜けても100名近くは残る。新体制が1年間挑む次回メインプログラムは、出来るだけ全員に出番があるような選曲をするようだ。

一昨日の演奏を聴いて、彼らの演奏でブラームスが聴きたくなった。ブラームスは金管楽器の出番がやや薄く、サブプログラムとの組み合わせが必須になるのだが、ブログ「ブラームスの辞書」のお奨めは、編成の厚み的にはシェーンベルク編曲ト短調ピアノ四重奏曲の管弦楽版。

  • ピッコロ1
  • フルート2
  • オーボエ2
  • イングリッシュホルン1
  • ピッコロクラリネット1
  • クラリネット2
  • バスクラリネット1
  • ファゴット2
  • コントラファゴット1
  • ホルン4
  • トランペット3
  • トロンボーン3
  • チューバ1
  • ティンパニ
  • グロッケンシュピール
  • シロフォン
  • 大太鼓
  • スネアドラム
  • シンバル
  • トライアングル
  • タンブリン

これに通常の弦楽五部が加わる。オリジナルのブラームスではちょっとありえない編成。とりわけ管楽器にはかなりのテクが要求される上に、アンサンブル上の難所も多いけれど親バカ補正で緩んだ脳味噌ながら一昨日のラヴェル「ラ・ヴァルス」を聴いた感じでは、努力目標の許容範囲だ。

交響曲が無理なら何とかこれをお願いしたい。何卒。

2011年5月15日 (日)

32年4ヶ月と1週間

昨日、次女の高校オケの定期演奏会があった。娘が大管弦楽団のメンバーとして演奏に参加している姿を見ることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。私自身がブラームスの第2交響曲で大学オケにデビュウしてから32年4ヶ月と1週間、とうとう娘がオケデビュウとあいなった。私が大学4年の夏に新世界交響曲を演奏した因縁の会場。次女はアンコールの「ラデツキー行進曲」に出演した。これが次女の記念すべきデビュウ曲だ。

<第一部>

  • ヨハン・シュトラウス二世 「美しく青きドナウ」
  • ポンキエッリ 歌劇「ラ・ジョコンダ」より「時の踊り」
  • ラヴェル 管弦楽のための舞踏詩「ラ・ヴァルス」

<第二部>

  • Jarrod Cagwin 「One Never Knows」
  • ハイドン 「木管五重奏のためのディヴェルチメント」より第1楽章、第4楽章
  • ラフマニノフ 「ヴォカリース」
  • ビゼー カルメン組曲より(卒業生オケ)

<第三部>

  • チャイコフスキー 交響曲第4番

15分の休憩が二度入り3時間25分の演奏会。「美しく青きドナウ」については何度も述べてきた。「時の踊り」の尋常ならざる切れ味は、単なる序奏に過ぎなかった。「ラ・ヴァルス」は本日最高のサプライズ。リズムも音色も変幻自在なオケ。木管の安定感に起因か。うっとり聞きほれてあっという間に休憩。

2部は、パーカッション奏者2人のキリリと引き締まったアンサンブルで始まる。ハイドンは、木管合奏編曲バージョン。第二楽章のハイドンヴァリエーションで名高い聖アントニーのコラールも聞きたかった。震災があって急遽プログラムに取り入れた「ヴォカリース」は、見舞いの気持ちと癒しを届けたいという紹介通りの丹念な演奏。練習不足により「完成度」が心配とのコメントがあったが、そんな尺度を持ち出すのは失笑を招くだけだ。続くカルメン組曲は卒業生で結成されたオケの演奏。ほぼ全員大学生だ。一部音大生もいる。2年前のドヴォルザーク8番でソロを聴かせてくれた子がコンマスだった。ハープとのからみが美しい間奏曲のフルートを吹いたのは、これまたドヴォ8のフィナーレで、名高いソロの難所をサクッと吹いた子だった。

それで三部。案の定すごい演奏だった。震災後という状況にピタリとはまる選曲。敢えて凄絶な演奏と言いたい。子らの表情との落差が大きい。第一楽章冒頭のホルンで、ただならぬ決意表明が提示されグイグイと子供らのペースに。第二楽章では木管の繊細なアンサンブルが聴けた。「裏にはどれほどの厳しい練習が」とさえ思わせない軽々感が貴重だ。薄明かりの中を跳ね回るようなピチカートの第三楽章の冴えは、アタッカで続くフィナーレの準備体操でしかなかった。「白樺は野に立てり」の第二主題が始まるころ、隣で聴いていた母が泣き出した。震災の影響で大切な本番直前2ヶ月の練習が足りなかったとの懸念もあったが、それを自覚した生徒たちの気迫こそが本日の演奏を下支えした感じ。第一ヴァイオリンの切れ味は最後まで衰えなかった。

大拍手の中、顧問でもある指揮者が3年生一人一人のそばに歩み寄りねぎらう。難解なソロのあった子の手をとって持ち上げる。感極まって涙する子もいる。この瞬間になって、「ああ、これは部活なんだ」と我に返る。何故泣き出したのか母に訊いた。「なんだかわからないけど凄いから」という答えが帰ってきた。チャイコの4番なんかはじめて聴く母の反応の通りの気迫なのだが、細かいズレを気迫でカバーというノリではないところがすばらしい。

実はこの演奏会は3年生の引退公演でもある。素晴らしいアンコールが終わって灯りが落ちはじめると、ステージのあちこちでメンバー同士のハイタッチが巻き起こった。一年生が上級生をねぎらっている。2年前に次女と聴いた演奏会で1年生だった子たちの引退の花道が今日だ。1年生の思いには理由がある。特に弦楽器だ。4月に入団した弦楽器の新入生は5月のこの演奏会に全員出演する。初心者はおよそ1ヶ月で「ラデツキー行進曲」に挑む。その間、3年生のヴァイオリニストが経験者も含む全1年生をマンツーマンで指導する。これが彼らの伝統なのだ。上級生と新入生の絆はこのときに基礎が固まるということだ。このラデツキーは唯一全学年が出演する演目だ。3年生と1年生はこの1曲だけしか共演の機会が無い。だからこそハイタッチに意味がある。「お世話になりました」「あとは頼んだぞ」の意味に決まっている。

オーケストラは部活の厳しさでは校内随一だと聞いていたが、なるほどだ。礼儀はもちろん校則の遵守や学業との両立も厳しく指導される。ステージを見てそれが単なる噂ではないと実感出来た。

本日の演目にブラームスは一切無かった。それでいてなお湧き上がるこの喜びは一体なんだろう。娘がすばらしいオケに仲間入り出来たことに尽きる。2年後のこの公演に無事にたどり着けるよう祈らずにはいられない。ブラームスのご加護を。

親バカモード全開ご容赦。

2011年5月14日 (土)

義援金

音楽之友社刊行「ブラームス回想録集」第2巻136ページ。ホイベルガーの証言だ。

1895年5月16日の記述として、「一昨日開催されたアリーチェ・バルビのお別れコンサートの収益が、ライバッハ震災の義援金に回された」とブラームスが話してくれたとある。つまりそのコンサートは116年前の今日。ライバッハは現在のスロベニア共和国の首都リュブリャナのことだ。1895年に大震災があり市街全域が壊滅した。それに対する義援金のことだから一応辻褄はあっている。

しかしブラームス愛好家としては腑に落ちない点も残る。ブラームスがアリーチェ・バルビにぞっこんで彼女の結婚に伴う引退公演では急遽伴奏を引き受けたエピソードまである。このコンサートは1893年12月21日だから、ライバッハの震災よりずっと以前の話である。彼女のお別れ公演が1度ではなく数回あり、そのうちの1回が1895年5月14日だったということでなければ辻褄が合わない。1年半前の演奏会の収益を寄付するというのでは、タイミングが緩すぎる。

ともあれブラームスの伝記の中に登場するほぼ唯一の「地震ネタ」と申してよい。

2011年5月13日 (金)

2222本目の記事

本日この記事がブログ開設以来2222本目の記事である。

震災が起きたのが3月11日だった。その翌日に記事「地震」を公開した後、すぐに「献呈特集」を立ち上げた。子供たちの学年末関連ネタが混入したものの、ほぼ震災には言及していない。世の中多くのブログで華美なネタは回避され、更新のペース自体も下がっているケースが多いなど自粛モードが主流となっている。

本当のところ不安だった。未曾有の大惨事を前にブログがどうあるべきなのか全く整理が付かないまま、とりあえず記事の継続だけを目的に走ってしまったのが「献呈」特集だった。記事は震災前に書けていたから直接の影響は無いが、心中穏やかではなかった。

「献呈」特集をしているうちに、心の中を整理した。「被害の大きさ深刻さを目の当たりにして、記事の更新も出来ませんでした」などというのは性に合わない。私の方針は「ブログを続けられる境遇に感謝しつつ、粛々と継続」だった。「マーラー特集」には、ブログ「ブラームスの辞書」なりの震災対応が色濃く反映することとなった。記事を連ねることでしか、伝える手段は無いと考えている。

2011年5月12日 (木)

濃度不足

現在進行中の企画「マーラー」は、アラビアンナイト計画5番目の企画だ。ハンス・フォン・ビューローの葬儀の記事で3月29日に立ち上げて、マーラー没後100年の翌日までの51日間だ。今日までに公開した記事は26本。会期末まであと一週間で3本公開する予定だ。

最初と最後が決まっている企画は難しい。記事の本数が多くて収まりきれないのも悩ましいが、今回のマーラーは逆に記事が確保出来なかった。濃度が上がらず、いかがなものかと思案していたときに震災が起きた。だから地震関連ネタを挟み込む余裕があった。

51日の会期中に29本の記事を確保するにとどまったために、50%台の濃度で着地する。それを震災ネタを入れてごまかしたということだ。

2011年5月11日 (水)

3人のピントー

カルル・マリア・フォン・ウェーバーの遺作オペラ。1887年ウェーバーの孫カルル・フォン・ウェーバー大尉から依頼を受けたグスタフ・マーラーが、ほぼ旋律だけという断片から補筆しオペラに仕上げた。26歳のグスタフ・マーラー渾身の難事業であったという。この気合はただ事ではないのだが、若きマーラーはカルル大尉の妻マリオン・マティルデに思いを寄せていたという指摘もある。1888年1月20日マーラーの指揮によりライプチヒで初演された。そこそこ成功したとされている。

これに対してのブラームスのコメントが記録されている。音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻56ページだ。

ブラームスはウェーバーが残した断片を見たことがあるようだ。旋律と演奏時間が書かれているだけで、ベースラインが無いことを指摘している。残された部分が少なすぎて、ここから復元となると誰が引き受けてもウェーバーの語法は残らないと断言する。たとえそれがマーラーほどの男の手によるものでも純粋にウェーバー風の作品にはなるまいとしている。

確固たるオペラ観、確固たるウェーバー観、確固たるマーラー観が無ければ吐けない言葉である。

2011年5月10日 (火)

備蓄復旧

東日本大震災から明日で2ヶ月。地震のあった3月11日には記事の備蓄が1492本だった。地震をキッカケに記事をパッタリと書けなくなった。家族も家も職場もみな無事なのに、脳味噌だけが機能不全に陥った。今までのスランプとは別の場所が切れてしまった感じだった。従来のスランプは、ネタの根源のアイデアそのものを思いつけないという症状だったが、今回は違った。ネタは思いつけているのに文章にできないという感じ。

あせりはなかったものの、ほぼ1ヶ月備蓄を切り崩し続け1460本台まで下がった。仕方が無いので、下書き済みの記事の推敲や公開順の整理にいそしんだ。あるいは思いついたアイデアを文章にすることは諦めて、メモに専念して機能の回復を待った。何かにつけ自粛ムードの漂う今回の連休は、脳味噌のリハビリにうってつけだった。

おかげさまで連休を通じて脳味噌の機能がほぼ復旧した。昨日現在記事の備蓄は1544本まで増加した。震災前から50本以上増えた。

今振り返ってみると一つの転機があった。それは4月7日次女の高校入学だ。入学式で聞いた「美しく青きドナウ」。干からびた心に染み入るトレモロだった。どこまでもまっすぐで心のこもったシュトラウス。入学する我々にも、迎えてくれる上級生にも、生々しい震災の記憶が脳裏にあったに決まっている。やったたどりついた我々、これまた震災騒ぎの中準備を進めた上級生たちが、一同に会した入学式だ。特別の環境が、特別の演奏を生み出したと感じる。あれを聞いて心のモヤモヤが引き始めた。満開の桜の下で子供たちが奏でる「アイネクライネナハトムジーク」も、素晴らしかった。入学後毎日、次女と部活の様子を話す機会に恵まれたことも大きい。

次女の高校オケが復旧の力になった。

2011年5月 9日 (月)

フレール・ジャック

フランス民謡のタイトル。輪唱で歌われることが多い。元々は長調だが、これを短調化したものも親しまれている。マーラーの交響曲第1番の第3楽章では、この「フレール・ジャック」がニ短調で歌われる。名高いコントラバスのソロに始まる例の旋律だ。

フランス民謡と言いつつ、欧州各地で地元の言語で歌われているらしい。日本語にもなっている。小学校か中学校の音楽の教科書に出て来た記憶がある。

ドイツでもきっと歌われていたのだろう。

ブラームスが収集出版したドイツ民謡集の中に似た旋律をもつ曲がある。「聖ラファエル」WoO34-7である。短調版のフレール・ジャックに似ている。ブラームスが民謡収集の現場にしていたライン地方は、フランスから近いから、こういうことも起きるのだと思う。

2011年5月 8日 (日)

イ長調の間奏曲

マーラーの伝記のいくつかに載っている悩ましい記事。

1908年夏。ニューヨークから一時帰国したマーラーは、避暑地で過ごした。そこで妻のアルマにピアノを弾いて聞かせたらしい。

何とブラームスのイ長調間奏曲だという。しかし微妙な言い回しなので、ピアノを弾いたのはマーラーの友人のようにも読める。

さらに、「イ長調間奏曲」という表現も悩ましい。ブラームスの間奏曲でイ長調を採用するのは「op118-2」だけだ。ブラームス嫌いのアルマの耳にはどう聞こえたのだろう。

↓東京駒込 六義園

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2011年5月 7日 (土)

天保の大飢饉

ブラームスの誕生日。しかも今年はラフォルジュルネでも取り上げられたというのに、本日のタイトルはいかにも怪しい。

じゃがいもはドイツの食糧事情の改善に大きく貢献した作物である。救荒作物としてのじゃがいもの効用だ。日本ではどうなっていたのかと調べた。申すまでもなく日本の主食は米だ。貨幣の代わりでさえある。だが救荒作物かと申せばそうではない。救荒作物とは米の不作を補う存在でなければならない。さつまいもや雑穀が地域の実情に合わせて栽培されていたという。全国共通という視点からなら味噌が俄然注目される。保存性抜群の蛋白源で、いざというときには藁を粉にして味噌をまぶして食べるなどという用法もあったらしい。味噌のたくわえがあれば餓死しないとまで言われている。江戸時代の飢饉は1年で収まらなかった。完全な終息には5年かかるケースも珍しくない。江戸の4大飢饉の中で最後にやってきた天保の飢饉は天保4年に始まった。やませの影響を強く受ける東北地方の被害が大きく終息までに5年かかったとされている。

毎度毎度の飢饉にいためつけられた人々は工夫もした。備蓄米だ。脳味噌のスランプに備えてせっせと記事を備蓄するのに似ている。その保存性が見込まれて味噌も重要な備蓄物資になった。時には5年に及ぶ飢饉の被害を見越して、東北の旧家では味噌7年分の備蓄を家訓として最近までこれが守られていたという話もあるくらいだ。

飢饉が始まった天保4年を西暦に直すことが本日最大のオチになる。それは1833年だ。ブラームスの生誕から5年間日本は未曾有の飢饉に襲われていたということだ。

昨夜ブラスマスイヴは、珍しくフランスワインで乾杯。貴腐にしては格安のお値段につられて買い求めたが、正解だった。

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2011年5月 6日 (金)

地震雷火事親父

東日本大震災の余韻さめやらぬ中だというのに、最近の子供たちにこれを示しても、何のことだか伝わらない可能性を真剣に考えている。七五調で心地よいリズムなのだが、どうにも伝わらない。「親父」の代わりに「津波」でも入れねば説得力がない。これはひとえに「親父」が怖くなくなったせいだ。困ったものだ。

古くは欧州にも似たような言葉があったらしい。「ペスト・狼・オスマントルコ」だ。キッチリ七七になっていて、日本語としても優秀だ。「地震が多くて建物が木造」の日本とはラインナップが違うようだ。ペストは時折欧州を襲う疫病の代表格。全人口の4分の1が犠牲になることも少なくない。ブラームスのウィーンでの住居に近いカール教会は、17世紀の流行の際、「ペスト退散」を祈願して建てられてものだ。

狼は放牧中の家畜や人を襲うが、神の使いとみなされていることもあって、嫌われる一方でもないようだ。そしてそしてオスマントルコだ。1453年のコンスタンチノープルの陥落以降、欧州人はオスマンの恐怖におののいた。国境を接するハプスブルク家とりわけウィーンは一層切実だったと思われる。

2011年5月 5日 (木)

大火

米国では発生したハリケーンに名前を付ける。アルファベット順に男女交互の名前があらかじめ用意されている。日本の台風は毎年発生順に番号が付与されるに過ぎない。

台風には名前はつけなかったのだが、江戸時代にしばしば猛威をふるった大きな火事つまり大火には名前がついている。1657年の大火は「振り袖火事」、1682年のものは「お七火事」という具合だ。ハリケーンは発生と同時に命名されるが、火事は鎮火後だ。迫り来る火から逃れるだけで精一杯で名前をつけているヒマはない。大勢の人の命を奪う火事だが、その魔の手から逃げきった人々が後から名前を付けるのだ。

ブラームスの故郷ハンブルクも大火に見舞われた。

1842年5月5日午前1時に出火。折からの北西の風に煽られて丸2日燃え続けたという。消失面積は約160平方キロだ。ハンブルク市の下町ほとんど全てを焼き尽くしたこの火事の規模がどれだけかというと、神奈川県川崎市を焼き尽くしたくらいと思えばどれだけの一大事か想像が付く。

ブラームスの伝記のうちいくつかはこの大火に言及している。ブラームスはもちろん家族もこの火事で亡くなっていないが、親戚あるいは知人の中には命を落としたり家財を失ったりした人もいるだろう。それがブラームスのペシミスティックな人生観に影響を与えたという説を提示している記述もある。

何よりもブラームス9歳の誕生日の2日前だ。丸2日燃えたとあるから鎮火は5月7日だったハズだ。この年ブラームスは誕生日を祝ってもらえなかった可能性もある。

2011年5月 4日 (水)

ハンブルク市立歌劇場

グスタフ・マーラーがウィーン宮廷歌劇場指揮者に就任するまでハンブルク市立歌劇場に勤務していた。1891年から1897年のことだ。「ハンブルク市立」というと「横浜市立」や「大阪市立」と同じノリを想像してしまうが、少し違う。ハンブルクは州と同格の独立市だから、ザクセン州立、バイエルン州立に近い。周知の通りドイツは連邦制だから、州立は日本人の想像よりは、国立に近いイメージとなる。

さて、ライプチヒ勤務中の1886年、ハンブルク市立歌劇場からマーラーに主席楽長就任のオファーがあった。条件面で折り合いがつかず見送られている。

このときにマーラー側が主張した年俸が6000マルクだった。3ヶ月の休暇と2年目以降の解約権、さらにワーグナーやモーツアルトのいくつかのオペラの独占上演権を主張したようだ。このときマーラーは26歳だったが指揮者としての実力が徐々に知られ始めていた。ハンブルク側との交渉がまとまらなかったのは、これらの諸条件のうちの全部または一部が食い違ったために違いない。

新進気鋭のオペラ指揮者が要求する年俸が6000マルクだったということだ。

ブラームスの交響曲1曲の相場は15000マルク。マーラーが要求して合意できなかった年俸の2.5倍にあたる。1875年以降に発表されたブラームスの室内楽は1曲3000マルクが支払われているから、その2倍だ。

当時の楽壇におけるブラームスの位置付けには嘆息せざるを得ない。

2011年5月 3日 (火)

ベートーヴェン賞悲話

ハンス・ロットHans Rottという男がいた。ウィーン音楽院時代のグスタフ・マーラーの学友だ。才能ある男で卒業作品のコンペで惜しくもマーラーのピアノ五重奏曲の前に涙を呑んだ。マーラー自身も彼の才能を高く評価した。

ハンス・ロットは、1880年のベートーヴェン賞に応募すべく交響曲を完成させた。それを有力審査委員のブラームスにピアノで演奏して聞かせた。そこで彼は「作曲を諦めたほうがいい」というほどの酷評にあう。落ちたも同然というショックを受けて精神を病む。フランスに近いミュールハウゼンという街に職を求めて列車で赴任する途中、乗り込んだ列車にブラームスが爆薬を仕掛けたという妄想にかられて精神病院に収容される。4年後1884年にそこで没した。

悲しい話だ。ブラームスの伝記にはけして現われないエピソードである。

ブラームスとマーラーの間に横たわる越え難たい溝は、1881年の「嘆きの歌」の落選に先立つ悲劇によって予告されていたかのようだ。

2011年5月 2日 (月)

CBS

「Chiba Bravo Service」の略。私が在籍していたころ、大学オケにあったとされる実態不明の組織。定期演奏会でメインプログラムの演奏終了と同時に「ブラボー」を叫ぶ「サクラ」の集団のことらしい。

主にメインプログラムに出番の無い1年生の仕事である。客席に紛れ込んで「ブラボー」を叫ぶのが任務だ。後で演奏会の録音を聞いて、出来を議論した。終止和音の鳴るかならぬかのうちにオフサイドスレスレで叫ぶことは当然イエローカードの対象である。声の朗々たるトーンを自慢する奴など様々だ。何故か女性はいなかった。

弦楽器の人間は、初心者でも大抵冬の演奏会には出演するので、入学間もない6月の夏の演奏会が見せ場になる。演奏会当日の裏方の役割によっては出来ないこともある。私の場合1978年6月の第43回定期演奏会がチャンスだった。伊福部昭「交響譚詩」、モーツアルト「交響曲第40番」と続いた後のドヴォルザーク交響曲第8番の後だ。終わりがとても華々しいのでタイミングは簡単な部類だが当日はステージマネージャー補助で舞台袖に待機だったので叫べなかった。

マーラーに叱られる。

2011年5月 1日 (日)

ベートーヴェン賞

ウィーン音楽院の在校生と卒業生が参加するコンクールの優秀者に授与される賞だ。賞金は500グルデン、約1000マルクであった。

1881年ウィーン音楽院卒業から3年を経たグスタフ・マーラーは「嘆きの歌」をもってコンクールに2度目の応募をするが、ブラームスやハンスリックを含む審査員からの拒絶にあう。マーラー関連の書物には「選に漏れた」程度の表現はなく、みな「拒絶にあった」等の激しい形容を用いている。

ワーグナーに心酔し、既にブルックナーとも深く親交があったマーラーの意欲作だ。2管編成を遥かに凌駕する大編成の管弦楽、混声合唱に、3人の独唱者を加え、40分の演奏時間を要する巨大な外見だけで、ドン引きする向きもあったに違いない。ブラームス本人のコメントは残っていないが、1873年から数年続けてオーストリア国家奨学金を獲得したドヴォルザークとの対応の違いは明らかだ。

立身出世を遂げた後、マーラーは「嘆きの歌」の選外を回想する。曰く「あのときベートーヴェン賞が取れていたら、全く違った音楽家人生になっていただろう」

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