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2011年6月30日 (木)

海賊版

正規の版権に準拠しない出版物のことだ。楽譜やCDが含まれることも多い。ドイツ語で海賊は「Seerauber」(uはウムラウト)あるいは「Pirat」という。「海賊版」は「Raubausgabe」となる。

ウィーンの有力な出版社にハスリンガー社がある。「Haslinger」と綴る。ブラームス作品こそ手がけていないが、ベートーヴェンやシューベルト、ショパンなどの作品を刊行している。そこそこの有名どころだ。ブラームスは作品の刊行を任せていないとはいえ、日ごろコミュニケーションをとっていたようだ。

音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻93ページに痛快なエピソードがある。同社のマネージャーとブラームスのやりとりがホイベルガーによって証言されている。リーナウというマネジャー氏が、同社の社長がエルベの海賊の末裔だとブラームスに話したのだ。処刑寸前で恩赦になった云々。ブラームスはすかさず「だからおまえの会社は海賊版ばかり手がけているのだな」と応酬したという。リーナウはブラームスと親しくしていてたようだ。ホイベルガーの証言によれば、ウィーン近郊へのハイキングではしばしばブラームスと行動をともにしている。

それにしても何たる機転。ここでいう「海賊」は「Pirat」ではなく「Seerauber」だったと推定できる。「Seerauber」から「Raubausgaube」を即座に連想する機転がジョークの肝になっているからだ。

不思議な点がもう一つ。リーナウが「エルベの海賊」と言っていることだ。いうまでも無くエルベは川の名前だから少し変だ。

このジョークはもしかするとシュテルテベッカーの話が下敷きになっていたかもしれない。

2011年6月29日 (水)

初等学校

音楽之友社刊行の「作曲家◎人と作品シリーズ」のブラームスの13ページに興味深い記述がある。6歳のブラームスがハインリヒ・フリードリヒ・フォースの経営する初等学校に入学したとある。「フォース」のスペルが不明なのが残念だ。ドイツ人の姓としてありふれたものではない。

昨日の記事で戦艦ビスマルクが建造された造船所について述べた。その共同設立者がエルンスト・フォスだと書いた。「フォス」は「Voss」である。「Voss」がカタカナに転写される際「フォス」または「フォース」になるのは自然だ。造船所の創設はブラームスの初等学校入学よりもかなり後だが、ありふれていない姓「フォス」がどうも共通しているような気がする。

2011年6月28日 (火)

Kuewerderhafen

ハンブルクの地図を眺めていて発見した地名。いささか長い地名なのだが分解することでわかり易くなる。末尾の「hafen」は「港」とか「入り江」とかいう意味だ。その前の「werder」は「島」とりわけ「中洲」である。

ドイツの飛行機や船のプラモデルをよく作っていた私の脳味噌がピピッと反応した。飛行艇や爆撃機など双発の大型機を作っていたメーカーに「ブロームウントフォス社」があった。この会社、航空機を作るときは「ハンブルク航空機製造」と名乗っていたが、本来は1877年にヘルマン・ブロームとエルンスト・フォスが設立した造船所だった。彼らの創業の地がハンブルクの「Kuewerder」だ。現在の地図で「Kuewerder」を探しても見つからないけれど、「Kuewerderhafen」がその名残りであると考えて間違いあるまい。

何故この地名に私の脳味噌が反応したかをお話せねばならない。この地「Kuewerder」には当時ドイツ最大のドックがあった。1939年2月このドックで進水したのが他でもない戦艦ビスマルクだった。夢中になってプラモデルを作りその説明書を読んだ中に「ブロムウントフォス」の名前とともに「Kuewerder」があった。

たしか私は中学生だった。

2011年6月27日 (月)

ノーベル文学賞

アルフレッド・ノーベルは1833年10月21日生まれで1896年12月10日に没したから、ほぼブラームスと同時代人だ。ちょっとした衝撃で爆発するニトログリセンリンの使い勝手を改善したダイマイトの発明で知られる。1864年にはストックホルムの研究所で爆発事故を起こし弟エミールをなくした上に、スウェーデン政府からストックホルムでの研究を禁じられてしまう。

そこで彼は研究施設をハンブルクに移転する。ブラームスがウィーンに出た2年後のことだ。本格的に会社を立ち上げてニトログリセンリンの精製をはじめた。ダイナマイトの発明は2年後の1866年だ。

ノーベル賞の設定は1901年だからブラームスには直接関係が無いと思っていたら、思わぬ接点があった。ブラームス歌曲4曲にテキストを供給しているパウル・フォン・ハイゼが1910年にノーベル文学賞を受けていた。

  1. スペインの歌 op6-1 スペイン民謡の独訳
  2. 日曜日の朝 op49-1 イタリア民謡の独訳
  3. 少女の歌 op95-6 イタリア民謡の独訳
  4. 娘の歌 op107-1

4作の内3つまでが外国詩の翻訳だった。ブラームスはハイゼを当代きっての作家として高く評価していたばかりか、ドイツでの評価が低いと嘆いていた。

2011年6月26日 (日)

義賊

庶民の味方。お上に逆らって非業の死を遂げることが多い。庶民の支持が厚いという共通点は必須と思われる。ねずみ小僧など日本にも候補者がいる。

ハンブルクを含む北ドイツにも義賊と呼ぶに相応しい人物がいた。クラース・シュテルデベッカーという海賊だ。1400年(1401年とも1402年とも)に40歳で死んだ。生まれた場所は不明。狙ったのはハンザ都市ハンブルクやブレーメンに出入りする商船だから、ハンザの敵でもあるのだが、戦利品を貧しい人々に分け与えたとされている。

庶民の人気を反映してか、地名や伝説が濃密に分布する。北海沿岸を走る観光街道は「シュテルデベッカーシュトラーセ」と命名されているし、ハンブルクなどいくつかの都市に銅像がある。

活動の拠点はオランダ国境に近い東フリースラント地方のマリーエンハーフェンという港だった。現在は内陸に入っているが当時は海岸に面していたという。近隣の娘との間に子をもうけたという話もある。ハンザ同盟全盛期ではあったが、このあたりにはハンザ都市はなく、むしろハンザは搾取者あるいは少なくとも競合者だったから、ハンザの商船を襲って市民に還元する海賊が英雄視されるもの無理は無い。

ハンザ諸都市の必死の取締りをかいくぐっていたが、ヘルゴランド島でついに仲間72名とともに捕らえられた。ヘルゴランド島は北海に浮かぶ孤島。ハンブルクやブレーメンから出る船を待ち伏せするには格好の位置。活躍の場もここなら捕まるものこのあたりだ。ハンブルクに移送されて裁判にかけられたが、案の定な死刑判決が出る。公開処刑にあたり、執行人に要求する。「仲間を一列に並べてくれ」「オレは首をはねられた後仲間の前を歩く」「「歩けたところまでの仲間の命を救って欲しい」

これが聞き届けられなかったとする説、途中で妨害されたとする説、11人が救われたとする説の3通りが伝えられている。

ブラームスはこの伝説を知っていた可能性が高い。

2011年6月25日 (土)

コレラパンデミック

コレラの世界的な流行のことだ。1840年に始まったアジア型コレラの流行がドイツに及んだのが1848年頃らしい。ブラームス15歳の頃だ。この年ブラームスはハンブルクにおいて初めて人前でピアノを弾いたが、コレラ流行の最中だった可能性もあるようだ。ちなみにこのとき流行の最先端は1858年に日本に及んだ。

1884年にコッホ博士がコレラ菌を発見するが、直ちに流行の撲滅には繋がらなかったらしい。現在ではコレラの主たる感染経路は、患者の糞便や吐瀉物が飲み水に混入することが主因だと判明しているから、それなりの体制が整っているが、当時はそこが思うに任せなかった。コレラ菌自体は発見されたが、効果的な予防法は手探りだったという。

コレラ予防対策で上水重視か下水重視かの論争さえあった。

論争の決着に功績があったのが、実はブラームスの故郷ハンブルク市だ。5回目のパンデミックに相当する1890年代の流行の時、ハンブルクのアルトナ地区とその他でコレラの発生が劇的に違っていた。両地区における下水設備は同等だが、上水の供給方法の違いから原因が究明され、上水へのケアで感染率が抑えられることが判明したという。欧州におけるコレラ対策が劇的に進むことになる。

クララの孫ユーリエの日記の中にこのときのハンブルクでの流行の記述がある。

2011年6月24日 (金)

フンメルフンメル

ハンブルクっ子の挨拶。「Hummel Hummel」と綴る。スラングもいいところの言い回し。「Hummel Hummel」と呼びかけられたら「Moas Moas」と応じるのが本場の受け答えだ。

19世紀半ばまでのハンブルクはまだ上水道が完備していなかった関係で水運び人が職業になっていた。元兵隊のハンス・フンメルは、子供好きで、近所の子供を集めては兵隊の話をして聞かせた。彼の住居に引っ越してきたのが水運び人のヨハン・ウイルヘルム・ベンツという男。無愛想な男だったが子供たちは前の住人のフンメルが忘れられずに、ベンツを見かけると「Hummel Hummel」とからかった。当の本人が「Moas Moas」と応じたのがいつしか人々に広まったという。「Moas」はハンブルクの方言で「尻の穴」のことだ。子供たちは最初のうちこそ、フンメルを懐かしんでいたのだが、そのうちにこのやりとりそのものを楽しむようになった。

お互いがハンブルクっ子であることを確かめる合言葉のようになっている。「Hummel Hummel」と声をかけて相手がハンブルクっ子なら必ず「Moas Moas」と応じるということだ。

ベンツもフンメルも実在の人物でブラームスの生きた時代より少し前か重なるくらいの時代。そして今も尚この言い回しが伝えられているということは、ブラームスもこのやりとりを知っていた可能性が高い。

2011年6月23日 (木)

空港コード

世界の空港には必ず付与されている。3桁と4桁の2系統ある。このうち3桁の方は空港所在地の地名が織り込まれている。成田は「NRT」だし、羽田は「HND」だ。

ドイツの空港にももちろんある。

  • BRE Bremen
  • CGN Koln/Bonn Konrad Adenauer
  • DRS Dresden
  • DTM Dortmund
  • DUS Dusserdorf
  • ERF Erfurt
  • FDH Friedrichshafen
  • FKB Karlsruhe
  • FMM Memmingenn
  • FRA Frankfurt
  • HAJ Hannover
  • HAM Hamburg:Fuhlsbuttel
  • HHN Frankfurt:Hahn
  • LEJ Leipzig-Halle
  • LBC Lubeck:Blankensee
  • MUC Munchen
  • STR Stuttgart
  • SXL Berlin:Schonefeld これがベルリンとは不可解。
  • TXL Berlin:Tegel 同じく不可解。
  • VIE Wien

日本の空港からハンブルクへの直行便は見当たらないから、スーツケースに「HAM」と書かれた荷札をつけてもらうには、ドイツの国内線に乗る必要がある。

2011年6月22日 (水)

衣笠祥雄

連続試合出場の日本プロ野球記録保持者。広島カープ一筋の鉄人。その記録は2215試合だ。

3月30日にルー・ゲーリッグの記録2130を抜いたとはしゃいだばかりだが、本日のこの記事でブログ「ブラームスの辞書」は開設から2215日連続記事更新を達成した。比較などもってのほかと承知の上の数遊びである。

メジャーリーグ記録は2632試合。ボルチモア・オリオールズのカル・リプケン内野手。ブログ「ブラームスの辞書」がそこに並ぶのは2012年8月12日だ。

さてさて、次女の高校オケでのパートがセカンドヴァイオリンに正式決定した。今までは仮決定だったということだ。原則としてヴァイオリンの新入生はこの段階で決まったパートで卒業まで過ごすことになる。実はこれが本人の希望通りだった。今までに何回か団内オーディションがあって、先輩やトレーナーの先生方が相談して決定となった。

2011年6月21日 (火)

魔弾の射手

カルル・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826)のオペラのタイトルだ。ドイツロマン派オペラの幕開けとなった記念碑的作品。序曲に現われる荘重なホルンのアンサンブルは、森のオペラの面目躍如だ。「狩人の合唱」はドイツ男声合唱中屈指の名曲だ。

ブラームスとの関係で申せばヒロイン・アガーテのアリアが、ドイツレクイエムの再演の際、第3曲の後に挿入されたこともある。ブラームスは第2幕「狼谷」の場面を引き合いにウェーバーの手法を称賛する。

ここから、作品の解説やお薦めCDネタに流れないところは、最早お約束でさえある。おバカな脱線こそが生き甲斐だ。

「魔弾」は文字通り悪魔の弾丸だ。6発は射手の思いのままに命中するが、7発目は悪魔の思うところに命中するという。「魔弾の射手」の原題は「Der Freischutz」という。赤文字の「u」はウムラウトする。「フライシュッツ」とでも読むのだと思う。

音楽之友社刊行の「作曲家◎人と作品シリーズ・ブラームス」の19ページに15歳のブラームスのコンサートの記述がある。ベートーヴェンの「ワルトシュタイン」を演奏したエピソードだ。新聞誌上に好意的な批評が載ったとあるが、この新聞の名前が「フライシュッツ」とされているのだ。カタカナで書かれているから元のスペリングがわからないが、邦訳すれば「魔弾の射手紙」なのかもしれない。この新聞が日刊紙で、日曜休刊だったら、完璧な洒落だと思う。6発は射手の思いのままに命中するが、7発目は悪魔の思うところに命中するという魔弾のコンセプトにピッタリである。悪魔の思うところに命中しては困るから日曜を休刊していると解し得る。

1821年6月21日「魔弾の射手」初演だから今日は記念日。初演場所がハンブルクだったら完璧なのだが、そうも行かずにベルリン。

2011年6月20日 (月)

シュタインヴェック

ハインリヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェックは、1836年に1台のピアノを製作した。のちに米国へ移住したシュタインヴェックは、1853年にニューヨークでスタインウェイ・アンド・サンズという会社を興す。世界的ピアノメーカー・スタインウェの始まりだ。シュタインヴェックは「Steinweg」と綴るが、英語では「Steinway」になる。

1880年にはドイツ・ハンブルクに工場を建て、やがてこの地に欧州本社が置かれることになる。以降世界中のピアニストたちの帰依を勝ち取ってきた。コンサート用の楽器としてブラームスはスタインウェイとベヒシュタインを好んだ。ブラームスがスタインウェイを弾いたのは1868年が最初とされている。まだハンブルクに進出する前だから、ニューヨーク工場製だ。

2011年6月19日 (日)

抱きしめたい

ビートルズの日本デビューシングルのタイトル。オリジナルは「I wanna hold your hand」だから「抱きしめたい」は意訳だ。

ビートルズには日本語で歌われた作品は無いけれど、ドイツ語で歌われた曲は2つある。「She loves you」と「抱きしめたい」だ。「She loves you」のドイツ語版は「Sie liebt dich」だから戸惑いはないのだが、「抱きしめたい」の方は「Kom gib mir deine Hand」になっている。日本語ほどではないが意訳になっている。

両ドイツ語版の歌詞の中の「Ich」や「dich」「mich」を見るとこれらはドイツ標準語になっているようだ。下積み時代にハンブルクで演奏したビートルズだから、平地ドイツ方言になっていやしないかと思ったがさすがに無理だった。

2011年6月18日 (土)

日当比較

ハンブルクで過ごした少年時代。10歳そこそこのブラームスが夜の街でピアノ演奏のアルバイトをしていた話はよく知られている。そこでの日当が2マルクだった。時給ではなくて一晩2マルクでおよそ1000円だ。

ビートルズブレーク前のハンブルク遠征での日当がわかった。1960年8月の第一回ハンブルク遠征のとき、彼等の日当は1日30マルクだった。およそ15000円だ。当時メンバーは5人だったから一人当たり3000円だ。夕方から深夜にかけて1時間のステージを5~7回こなすことに対する報酬である。

ブラームスの時代から100年以上隔てているから単純比較は無謀なのだが、妙に説得力がある。当時ビートルズはまだ貧乏で、リバプールからハンブルクへの移動はワゴン車だったという。

今日6月18日はポールマッカートニーの誕生日だ。

2011年6月17日 (金)

ビートルズ発祥の地

実はビートルズが好きだ。そのビートルズの発祥の地は一般に英国リヴァプールとされている。ところがだ。リヴァプールはメンバーの出身地あるいは、前身となったグループ発祥の地という意味ではOKだが、厳密な意味でのビートルズ発祥の地ではないとも言える。

1960年8月のことだ。ビートルズの前身シルバービートルズは、ドイツハンブルクのクラブ経営者ブルーノ・コシュミダーから演奏のオファーを受けた。当時のメンバーは、ジョン、ポール、ジョージにスチュアート・サトクリフを加えた4名だった。渡独前夜にドラマーのピート・ベストが加わった5人は8月17日午後ハンブルクに着いてすぐコシュミダーの事務所で契約をする。このときの契約書上で「ビートルズ」と名乗ったのが「The Beatles」が公式記録に現われる最初の事例だ。だからビートルズ発祥の地はハンブルクだとも言える。

その夜から10月3日までレーパーバーンにあるクラブ「インドラ」で演奏した。騒音の苦情に屈する形で10月4日からはクラブ「カイザーケラー」に場所を移す。リンゴ・スターとの出会いは「カイザーケラー」だと言われている。この店は今でもあるらしい。あるときビートルズが別のクラブ「トップテン」で無断に演奏したことから12月半ばで英国に帰国する。これが第1回ハンブルク遠征だ。

翌年1961年4月1日から7月1日までが第2回ハンブルク遠征。この遠征中に公演の合間を縫って、7曲がレコーディングされている。「マイボニー」と「ザセインツ」を収録したシングル番がドイツポリドールからリリースされた。

第3回ハンブルク遠征は1962年4月11日からだ。元メンバーのスチュワート・サトクリフが急死した翌日に当たる。5月31日までハンブルク「スタークラブ」で演奏した。

デビューシングル「Love me do」発売前のハンブルク遠征はこの3回だ。

第4回は1962年11月1日から11月14日。5回目は同年12月18日から31日だ。この2回は録音だけだったとも言われている。

ビートルズはハンブルクと縁が深いとだけは記憶しておきたい。

2011年6月16日 (木)

ヨアヒムの激怒

1862年11月、ハンブルクフィルハーモニー音楽監督の人事に関してブラームスが期待を裏切られた話は6月14日「ハンブルクの呪い」で取り上げた。

ブラームスの落胆は相当なもので、クララに愚痴をこぼした。クララは「あまり深刻に受け止めないように」と励ます。親友のヨアヒムもこの人事にはお冠だったようだ。

「今回のハンブルクの決定はブラームスを侮辱したものとして長く芸術史に記憶されるだろう」とハンブルク在住の知人に書き送っている。

かなりの剣幕。

2011年6月15日 (水)

郵便番号

郵便物配送の効率化を狙って住所をコード化したもの。わが国では7桁の数字になっているが、もちろんドイツにもある。自動車の登録番号では登録地の地名がアルファベット1文字から3文字の略号になっていたが、こちらは5桁の数字である。ドイツ語で「Postleitzahl」といい、しばしば「PLZ」と略記される。

以下に主要都市のPLZを示す。

  • ベルリン 10115~14199
  • ハンブルク 20000~27999
  • ブランデンブルク州 01000~01999
  • ブレーメン 27000~27999
  • ハノーファー 30000~30999
  • ゲッティンゲン 37073、37077、37081
  • アイゼナハ 99801~99817
  • デトモルト 32756、32758、32760
  • デュッセルドルフ 40547
  • ドルトムント 44000~44399
  • ケルン 51060~51149
  • ボン 53110~53119
  • フランクフルト 60000~60999
  • ウイースバーデン 65183~65207
  • シュトゥットガルト 70173~70629
  • カールスルーエ 76131~76229
  • ミュンヘン 80000~80999
  • ニュルンベルク 90300~90499
  • バイロイト 95441~95448

欠番も多いので注意が必要だ。概ね北から南に行くに従って高い番号になるようだ。

自動車の登録番号に次ぐコードネタだが、意外にはまりそうだ。

2011年6月14日 (火)

ハンブルクの呪い

米国の野球、メジャーリーグには奇妙な言い伝えがある。

ベーブ・ルースを放出したために、長い間ワールドシリーズに勝てなかったボストン・レッドソックスは「バンビーノの呪い」に取り憑かれていると噂されてきた。この呪いは既に解かれているが、シカゴカブスの「山羊の呪い」はまだ継続中だ。

ブラームスにも故郷ハンブルクについて似たような話がある。ブラームスはハンブルクからウィーンに進出して、文字通り国際的作曲家の座に駆け上ったのだが、本人は故郷ハンブルクでポストに就くことを希望していた。「俺が俺が」としゃしゃり出るタイプではないことも、微妙に影響して、とうとう生涯ハンブルクでのポストにありつけなかった。これを生涯独身の言い訳に使っている形跡もある程だ。もちろんブラームスの作品や演奏に対しては、ハンブルクはいつも暖かい反応を示したが、ポストにありつけない巡り合わせはブラームスを嘆かせた。

最初の挫折は1862年11月だ。長く努めたグルントの後任に、友人のシュトックハウゼンが選出された。これが相当なショックで、クララ・シューマンに愚痴をたれたらしい。ウィーン進出を決心するキッカケになったことが確実視されている。真相は闇の中だが、ブラームスが貧民街の出身だったからとも言われている。その後もハンブルクフィルハーモニーの音楽監督の空席は2度もブラームスを通り越して外国人にあてがわれた。

1889年になってハンブルク市は不手際を謝罪し、ブラームスを名誉市民に選ぶ。あろうことか1896年になって音楽監督のオファーを出すというおまけつきだ。さすがにブラームスはこれを悲しげに断った。

一方後世の研究者の中には、デトモルトに始まってウィーン楽友協会に終わったブラームスの勤め人稼業がどれも3年以内の在任にとどまり、延長のオファーに応じていないことを理由に、ハンブルクでもきっと長くは続かなかったと推測する人もいる。

故郷ハンブルクに対するこうした一連の執着は、伝記の書き手により扱いに濃淡があるので注意が必要と思われる。

2011年6月13日 (月)

駅コン

昨日3年生が引退してはじめての公式行事があった。駅前のコンコースでのコンサート。あの震災の当日、母と私と次女は、高校の制服の採寸のためにデパート6階にいた。地震のため予定が全てキャンセルになって店の外に避難した。マイカーは立体駐車場から取り出せない上に、電車は運転再開の目処が立たなかった。タクシー待ちの長大な行列を見て途方に暮れたあの場所が演奏会の会場だった。

あれから3ヶ月、次女が高校オケにいることの幸せをかみ締めた。6曲のプログラムの圧巻は「ふるさと」。「うさぎ追いしかのやま」で始まるあの曲だ。オーケストラ伴奏の合唱。次女は合唱を担当した。心にしみた。子供たちの心を込めた「ふるさと」が震災の記憶を丹念に洗い清めてくれた。どの曲も熱演だったが今日の主役はこの曲だ。

あの日のタクシー待ちと同じ黒山の人だかりが、生徒たちの演奏に聞き入った。会場の設営から進行まで、じつにきびきびと気持ちのいいコンサートだった。

2011年6月12日 (日)

あと8000本

本日のこの記事はブログ開設以来2252本目に相当する。我がブログ「ブラームスの辞書」では、ブラームス生誕200年にあたる2033年5月7日まで欠かさずに記事を更新し続けることを目標に掲げている。それまでに必要な本数は10252本だ。

従来計算ミスをしていた。ブログ開設の日2005年5月30日から、ゴールの日2033年5月7日までは10205日あるから、記事が10205本必要だと書いてきた。ところがブログ創設の年の7月までは一日に複数本の記事を公開し、47本余計に発信していた。だからゴールインに必要な記事の本数は10205本に47本加えた10252本となる。

つまりその目標まであと8000本必要ということだ。ブログ右サイドバナーの下の方、懐中時計の下にあるカウントダウンメーターがちょうど8000日を示している。1500本強の備蓄があるから、残り8000日であとおよそ6500本の記事をひねり出さねばならない。

いやいや我ながら荒唐無稽でため息が出るには出るのだが、800本だったらつまらないかもしれない。

2011年6月11日 (土)

ハフラバ

日本における、高速道路や鉄道のネーミングについて考える。東名高速、名神高速、京葉道路、関越道などの高速道路。あるいは総武線、京成電鉄、京葉線、予讃線などの鉄道もだ。これらは起点と終点の地名から一文字ずつ取ってきてつなげた造語である。

ドイツにも似たようなケースがあった。それが「ハフラバ」だ。ドイツ語では「HaFraBa」と綴る。「ハンブルク」「フランクフルト」「バーゼル」の頭文字を順に繋げたものだ。これらの都市を結ぶとドイツを南北に縦断する線になる。1920年代には、これらを高速道路で繋ぐための財団が組織された。これがアウトバーンの始まりとなった。現在のアウトバーン7号線の北半分と5号線に相当し、ハフラバと呼ばれている。

2011年6月10日 (金)

コルヴェット艦ハンブルク

コルヴェット艦とは3本の帆柱を持つ軍用艦のことだ。ドイツ語で「Korvette」と綴る。咸臨丸もコルヴェット艦だったと申せば形の想像は容易だろう。ドイツの軍艦には地名や人名が付与される。コルヴェット艦ハンブルクは1841年4月6日にブレーマーハーフェンで進水した。当時プロイセン海軍の軍港はキールかヴィルヘルムスハーフェンだった。ブラームスの故郷ハンブルクは貿易港だから軍艦が寄港することは無かろう。ブラームスが幼い頃見かけたというオチにはちょっと無理がある。

しかし、例によって音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第1巻72ページに興味深い記述がある。1868年夏、ブラームスは友人のアルベルト・ディートリヒと連れ立ってヴィルヘルムスハーフェンの大軍港を見学したとある。しかもそれはブラームスの希望だったとアルベルト・ディートリヒが明言している。ブラームスは軍艦に興味を持っていた可能性がある。

コルヴェット艦ハンブルクは、1852年には退役して民間に払い下げられた後、1859年まで商船としてデンマークや英国と行き来していた。商船になってしまえば、ハンブルク港に寄港していたどころか、母港にしていた可能性も低くはあるまい。

2011年6月 9日 (木)

渡り鳥ライン

ハンブルクとコペンハーゲンを結ぶ交通機関の総称。道路、鉄道、フェリーで構成される。ハンブルクから北東に向かうルートが、スカンジナビア半島へ向かう渡り鳥のコースと一致するために命名された。ドイツ語では「Vogelfluglinie」という。

ハンブルクを出ると北東の街リューベックに向かう。さらに北東に向かいオルデンブルクを経て、プットガルデンからフェリーとなる。

さて、アウトバーンだ。ハンブルクからオルデンブルクの少し手前まで伸びるアウトバーン一号線の通称が「渡り鳥線」になっている。ハンブルク以南は「ハンザ線」。

ブラームスは1870年にコペンハーゲンを訪問している。もちろん当時はアウトバーンなど無かったが、鉄道でこの渡り鳥線を快走した可能性が高い。

2011年6月 8日 (水)

アウトバーン

ドイツが誇る高速道路網。20世紀になってから構想が具体化された。そのアウトバーンには現在1から999までの番号が付与されている。アウトバーン1号線はどこからどこなのか調べてみた。以下アウトバーン1号線が通る都市。

  1. ハイリゲンハーフェン 北海沿岸の港町。
  2. リューベック
  3. ハンブルク
  4. ブレーメン
  5. オスナブリュック
  6. ミュンスター
  7. ハム
  8. ドルトムント
  9. レヴァークーゼン
  10. ケルン
  11. ブランケンハイム
  12. ゲロルシュタット
  13. トーリア
  14. ザールブリュッケン

11番のブランケンハイムと12番のゲロルシュタット間はまだ開通していないものの総延長732kmの堂々たる幹線だ。不思議なことにベルリンを通過していない。「1号線」が首都を通らなくてもいいのかと心配になる。

さてさてさらに嬉しいことがあった。アウトバーンには一部名前が付けられている。この1号線の名前はハンブルク以南で「Hanselinie」と呼ばれている。「ハンザ線」である。通過する都市を見るとなるほどと思う。ドイツにおける「ハンザ」の位置付けが偲ばれる。

2011年6月 7日 (火)

ハンザの誇り

ドイツの自動車のナンバープレートに使われている都市コードにおいて、「H」がハンブルクではなくハノーファーだと昨日書いた。ハンブルクは「HH」になっている。これが何のことか調べていたら「Hansestadt Hamburg」のことだった。「ハンザ都市ハンブルク」だ。そのつもりで見ると他にもあった。

  1. HB ブレーメン
  2. HGW グレイスヴァルト
  3. HH ハンブルク
  4. HL リューベック
  5. HRO ロストック
  6. HST シュトラールズント
  7. HWI ヴィスマール

上記の7都市が、自動車のナンバープレート上で自らの出自がハンザ都市であることを主張している。無論ハンザ同盟の時代には自動車などあろうハズもなく、商船で交易が行われていた。この手の何気ないこだわりにこそ、ハンザの伝統を感じてしまう。

ハンブルクが「HH」でよかったと思う。

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2011年6月 6日 (月)

ナンバープレート

自動車の登録番号が記載されている。どこの国も自動車は登録制だから、必ずナンバープレートが装備される。ナンバーに加えて登録地を示す地名が織り込まれていることが多い。ナンバープレートに書かれた地名が微妙なブランド意識をくすぐること周知の通りである。

ドイツにもある。プレートの左から1文字ないしは3文字のアルファベットが登録地の略号になっている。全部で300くらいあるのでアルファベット1文字のものを中心に一部を紹介する。

  • A 「A」一文字は無かった。
  • B ベルリン。
  • C ケムニッツ。
  • D デュッセルドルフ。
  • E エッセン。
  • F フランクフルトam。
  • G ゲーラ
  • H ハノーファー
  • J イェーナ
  • K ケルン
  • L ライプチヒ
  • M ミュンヘン
  • N ニュルンベルク
  • O これは地名ではなくて外交官ナンバー。
  • P ポツダム
  • R レーゲンスブルク
  • S シュトゥットガルト
  • T 意外なことにT一文字は空白。
  • V フォークトランド地方
  • W ヴッパータール
  • Z ツヴィッカウ

見ての通り、略号一文字はおおむねドイツを代表する都市だ。シューマンの故郷ツヴィッカウが入っていて嬉しいのだが、「H」が何でハンブルクではないのかと思い二文字以上を調べた。ブラームスにゆかりの地名を中心に興味深いものを列挙する。

  • AC アーヘン。これが「A」でもいい感じだ。
  • BAD バーデンバーデン。クララの別荘があったところ。英語読みしてはダメだ。
  • BGD ベルヒテスガーデン。大製塩地にして景勝地。大学祝典序曲連弾版初演。
  • BT バイロイト。
  • BN 「B」をベルリンに譲ったボン。バスーン奏者に人気が出そう。
  • BP これは地名ではなくて郵便関係車両。ブンデスポストの略だ。
  • DB これも地名でなくて鉄道関係車両。ディーバーンの略。
  • DD ドレスデン。
  • DO ドルムント。
  • DT デトモルト。
  • ESA アイゼナハ。バッハの故郷。
  • GO ゲッティンゲン。「O」はウムラウトで。
  • HEI ハイデ。父ヤーコプの故郷。
  • HH やっと来ましたハンブルク。
  • KA カールスルーエ。第一交響曲初演。
  • MGN マイニンゲン。第四交響曲初演。
  • WI ウィースバーデン。第三交響曲作曲の地。

ドイツのナンバープレート事情について調べたから、ついでにオーストリアについても言及しておく。オースオリアにもアルファベット1文字の都市コードが以下の通り存在する。

  • B ブレゲンツ
  • E アイゼンシュタット
  • G グラーツ
  • I インスブルック
  • K クラーゲンフルト
  • L リンツ
  • P ザンクトペルテン
  • S ザルツブルク
  • W ウィーン

一文字はたったこれだけ。しかも全部州都だ。一文字は州都に限るという制約があるようだ。ドイツと共通するケースもあるので注意が要る。その他2文字の中には「MZ」が目立つ。ブラームスが第4交響曲を完成させたミュルツシュラークだ。

2011年6月 5日 (日)

レーパーバーン

「Reeperbahn」と綴る。港町ハンブルク最大の歓楽街だ。「世界でもっとも罪深い1マイル」とも言われている。ブラームスが洗礼を受けた聖ミヒャエル教会から西に1kmくらい一帯。ブラームスの生家からも2km以内と思われる。レーパーバーンと聞いて眉をひそめる向きも少なくないと思われるが、言及を避けるのも気が引けていた。

ブラームスの伝記を読めば少年時代にアルバイトで家計を助けていたと書かれている。夜の街のバーやクラブでピアノを演奏したのだ。このときブラームスが出入りした店がどこにあったのかまでは書かれていないのが普通である。複数かも知れぬその店はレーパーバーンにあったのではないかと思っている。

2011年6月 4日 (土)

花道

昨日の大会で長女が部活動を引退した。中学入学と同時に始めたバドミントンだが、高校に入ってからは苦労の連続だった。やめたいこともあったが何とか乗り切った。次女の高校オケに対し私ののめりこみはいかにもぬるい。どう見ても体育会系ではない長女がよくがんばったと思う。本人は大学ではバドミントンをしないと言っている。大学ではどうする気なのだろう。

ヴァイオリンを引っさげてオケにでも入ってはくれないかという望みはいつも捨てていない。

2011年6月 3日 (金)

ハンブルクとブレーメン

長男はJリーグ同様外国のリーグも大好きでよく応援している。同じ街に本拠地を置くチーム同士の対戦はダービーと呼ばれて、特に熱狂的だという。その他伝統的にライヴァル意識が高く、古くから好敵手同士だったチームの対戦はクラシコと呼ばれている。

ドイツ・ブンデスリーガでは、ハンブルクとブレーメンの試合が盛り上がるらしい。なるほど、どちらもハンザ同盟の中心都市で、北海バルト海の貿易の覇権を争ってきた歴史がある。大河に面した河港都市という共通点もある。

ブラームスの故郷はハンブルクだ。ドイツレクイエムで作曲家としての地位を不動のものにした。1868年4月10日の初演はなんとブレーメンだったのだ。現在もなおお互いをライヴァル視する競争の相手に、ドイツレクイエム初演の栄誉をさらわれたのだ。

初演の日、ブラームスの新旧の知人がほとんど顔を揃えたという。故郷ハンブルクからはなじみの女声合唱団のメンバーが演奏に参加した。聴衆の中にもハンブルクから駆けつけた人もいた。ブラームスの父がその筆頭である。ドイツレクイエムの初演がブレーメンで行われたことに不快感は無かったのだろうか。「なんでよりによってブレーメンやねん」といったところだ。

肝心要のドイツレクイエムがブレークしたから、ハンブルクの不覚がいっそう際だってしまう結果になった。

2011年6月 2日 (木)

ハンザの語源

ハンザ同盟の定義が曖昧で難解だということは既に書いた。ハンザはドイツ語で「Hanse」と綴られる。古くは「団体」の意味だったらしい。バルト海で活躍したドイツ商人の互助組織という理解でよいなら、原義「団体」でさしたる矛盾はない。ある本に「国外における同胞商人の互助組織」という説明があって納得した。同時に妄想が湧いてきた。

「ハンザ」は「ハンス」ではないのか。

「ハンス」は「Hans」と綴られる。ヨハネに由来する「Johan」の愛称形だ。ドイツの男性の名前としてはもっともポピュラーなもので、転じて「ドイツ人」の意味さえ派生しているほどだ。

ドイツ国外で、ドイツ語の話者どうしが出会う。「お前ドイツ人か。俺もドイツ人だ」となって、たちまち意気投合する。現在でいう「ドイツ」の概念が定着する前なら「よお!ハンスか。オレもハンスだ」となる。つまり「ハンスの寄り合い」がハンザ同盟なのではあるまいか。

2011年6月 1日 (水)

ヨハン・ヤーコプ

今日はブラームスの父親ヨハン・ヤーコプ・ブラームスの誕生日だ。北ドイツ・ハイデの生まれである。宿屋兼雑貨屋の家業を継ぐのを嫌ってハンブルクに赴いた彼が、選んだ楽器がコントラバスだった。もちろん独学だ。

いくつかのダンスホールを転々とした後ハンブルク民兵の吹奏楽団のメンバーになったという。そういえばブラバンにはコントラバスが入っていた。そこで彼はホルンも覚えたらしい。演奏家として食って行くために守備範囲を広げたということなのだろう。

やがて上流階級の人々に演奏を聴かせるアルスターの楽団にエキストラで出演するうちにまんまと正式団員になった。最終的に息子の友人シュトックハウゼンが音楽監督を務めていたという幸運も手伝って、ハンブルクフィルハーモニー交響楽団のコントラバス奏者にまで出世した。

後にブラームスは父親について「人のいい爺さん」と友人に語った。

それにしてもブラームスの父親でさえ本日でまだ生誕203年だ。ブラームス本人の生誕200年はまだまだはるか彼方である。

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