ハンブルクの呪い
米国の野球、メジャーリーグには奇妙な言い伝えがある。
ベーブ・ルースを放出したために、長い間ワールドシリーズに勝てなかったボストン・レッドソックスは「バンビーノの呪い」に取り憑かれていると噂されてきた。この呪いは既に解かれているが、シカゴカブスの「山羊の呪い」はまだ継続中だ。
ブラームスにも故郷ハンブルクについて似たような話がある。ブラームスはハンブルクからウィーンに進出して、文字通り国際的作曲家の座に駆け上ったのだが、本人は故郷ハンブルクでポストに就くことを希望していた。「俺が俺が」としゃしゃり出るタイプではないことも、微妙に影響して、とうとう生涯ハンブルクでのポストにありつけなかった。これを生涯独身の言い訳に使っている形跡もある程だ。もちろんブラームスの作品や演奏に対しては、ハンブルクはいつも暖かい反応を示したが、ポストにありつけない巡り合わせはブラームスを嘆かせた。
最初の挫折は1862年11月だ。長く努めたグルントの後任に、友人のシュトックハウゼンが選出された。これが相当なショックで、クララ・シューマンに愚痴をたれたらしい。ウィーン進出を決心するキッカケになったことが確実視されている。真相は闇の中だが、ブラームスが貧民街の出身だったからとも言われている。その後もハンブルクフィルハーモニーの音楽監督の空席は2度もブラームスを通り越して外国人にあてがわれた。
1889年になってハンブルク市は不手際を謝罪し、ブラームスを名誉市民に選ぶ。あろうことか1896年になって音楽監督のオファーを出すというおまけつきだ。さすがにブラームスはこれを悲しげに断った。
一方後世の研究者の中には、デトモルトに始まってウィーン楽友協会に終わったブラームスの勤め人稼業がどれも3年以内の在任にとどまり、延長のオファーに応じていないことを理由に、ハンブルクでもきっと長くは続かなかったと推測する人もいる。
故郷ハンブルクに対するこうした一連の執着は、伝記の書き手により扱いに濃淡があるので注意が必要と思われる。
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