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2011年7月31日 (日)

ハンブルクステーキ

ひき肉に、パン粉、タマネギ、鶏卵に塩とスパイスを加えたパテを油でグリルした料理。洋食メニューの定番ハンバーグステーキだ。この超人気メニューの語源がブラームスの故郷ハンブルクに由来するという話は高い確率で語られる。

ハンブルク出身のブラームスは、立身出世前にどのような食事をしていたのかと調べても、ハンバーグを食べていたという資料にはたどり着かない。ハンバーグも食べられないほど貧しかったという解釈で切り上げることも出来るのだが、もう少しご辛抱いただく。

安いクズ肉を繋ぎで固めて油で焼くというコンセプトには深い理由がある。当時新鮮な肉はまだまだ貴重品で、庶民の口にはなかなか入らなかった。ハンブルクに集う海の男たちはそれでもボリュームある食事を求めたから、代用ステーキとしてのひき肉料理の需要は多い。

しかしそれがハンブルク風ステーキと呼ばれてはいなかった可能性も合わせて考えたい。ハンブルクステーキの名称はむしろアメリカだとされている。本場ハンブルクのあずかり知らぬネーミングだった可能性は高い。

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2011年7月30日 (土)

市営切手

切手は近代郵便の象徴だ。「代金先払い済み」を証明する紙片である。発祥は1840年の英国。ドイツ帝国成立前のドイツ語圏ではあったが、諸領邦は続々と切手の発行に踏み切った。ドイツ語圏初の切手は1849年11月1日のバイエルン王国。翌年6月1日にはオーストリアがこれに続く。プロイセンは11月15日に発行にこぎつけた。

ハンブルクは、当時も今も自由ハンザ都市として自治独立を貫いているから、1859年1月1日に切手を発行する。つまり「市営切手」だ。ブレーメンやリューベックも「市営切手」を出していた。

ロベルト・シューマン没後の充電期間真只中のブラームスは、まだ生活の本拠をウイーンに移していなかった。とはいえ、作品の出版が軌道に乗り始めていた時期だけに、出版社との間に膨大な通信事務が発生していた。これに加えてクララやヨアヒムなど友人たちとの情報交換もあったから、メール時代に生きる我々よりも郵便の重要性は高かった。貼り付け用の裏面のノリや、切り離しに便利な目打ちは既に一般化していたという。

ブラームスがハンブルク市発行の切手を使っていたことはほぼ確実。

2011年7月29日 (金)

ハンブルク7区

わが国の首都東京は23の特別区がある。「東京23区」と呼ばれている。ブラームスの故郷、自由ハンザ都市ハンブルクではこれが7区になっている。

  • アルトナ
  • ベルゲドルフ
  • エイムスビュッテル
  • ハンブルク・ミッテ
  • ハンブルク・ノルド
  • ハールブルク
  • ヴァンツベック

以上7区。ウィーンのように番号が付与されているわけではない。ブラームスの生家があるのがハンブルク・ミッテ。中央区か中区のイメージだが、地名ウォッチング的には面白みに欠ける。

アルトナはブラームスの生まれた頃にはホルシュタイン公国という別の国だった。隣町ではあるのだがれっきとした隣国である。

2011年7月28日 (木)

手間賃仕事

正確な定義は私の手に余る。

音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第3巻99ページに現われる。どのようなドイツ語がこのように訳されたかは不明だ。

シューマンに認められて世に出る前、ハンブルクでの下積み時代を回想する中に現われる。食って行くためにダンスやマーチを編曲したり、オーケストラ作品をピアノに編曲したりという仕事を「手間賃仕事」とブラームス自身が表現していると読める。

作曲家として名を成した今、自らの芸術を世に問う創作以外の仕事を「手間賃仕事」と言っていると解したい。

昔の仕事の成果が、作者不明という形でブラームス本人の耳に入ってくることもあったのだろう。そうした経験が無駄だったと思ったことなど無いと結ばれる。嫌味のないしみじみとしたニュアンスだ。

ン十年前の手間賃仕事でも、自分の作品だと判るのだと、別の意味で感心した。

2011年7月27日 (水)

ハンブルク港祭り

ハンブルク港は貨物の取扱高という面で欧州屈指である。自由ハンザ都市ハンブルクの象徴として古くから栄えたのだが、何故か開港の日がキッチリとわかっている。嬉しい偶然とセットだ。ハンブルクの開港記念日は1189年5月7日だ。ブラームスはハンブルク開港の日からキッチリ644年後に生まれたということに他ならない。

毎年この時期に開港祭りが盛大に開かれているらしい。12世紀のことなのに日付までキッチリと判明しているのは嬉しい反面、眉にツバを塗りたくなる。いったい何があった日なのだろう。

多くのハンブルク市民にとって5月7日はブラームスの誕生日ではなく開港祭りの日と認識されている可能性が高い。エルベ河底トンネルの開通式は、港祭りの一環だったと考えたい。

2011年7月26日 (火)

ライスハレ

ハンブルクの音楽の殿堂。本来の綴りは「Laeiszhalle」だ。カタカナ標記からは想像も出来ないスペリングがかえってドイツっぽさを表している。北ドイツ放送交響楽団NDFの本拠地でもある。このホールの前の広場がブラームス広場になっているなどブラームスとは縁が深い。

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館内には著名な音楽家の像が置かれている。何と言っても親友クリンガーによる「ブラームス像が有名だ。

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↓クララ・シューマン

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↓ヨアヒム

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↓ビューロー

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2011年7月25日 (月)

美術館コンサート

一昨日県立美術館で次女たち高校オケのコンサートがあった。美術館の大きな展示室が丸ごと会場になる。

  1. ポンキエルリ:オペラ「ジョコンダ」より「時の踊り」
  2. トトロより「散歩」
  3. 「オーメンズ」
  4. マスカーニ:歌劇「カバレリアルスティカーナ」より「間奏曲」
  5. ファリャ:「三角帽子」より「終幕の踊り」

何と言ってもサプライズは「ファリャ」だ。これには重たい思い出がある。大学2年の秋。某私立大学オケの友人から「ブラームスの2番」を餌にエキストラに誘われた。ホイホイと応じた私を待っていたのが「ファリャの三角帽子」だった。3回くらい練習に出たが、悲惨だった。ブラームスを楽しむ余裕もなく悪夢の本番とあいなった。

1ヶ月くらい前から次女はしきりに楽器を家に持ち帰って必死に練習していたから、楽しみにしていた。ところが、やっぱり高校生のパワーは凄い。一週間前に次女は「なんとかごまかせるようにはなった」といっていたが、今日の出来は上々であった。

2011年7月24日 (日)

ハンブルク空襲

ブラームスの生家はハンブルク・シュペクスガンク24番地にあったという。写真で見る限り5階建ての高層アパートに見える。第二次大戦の空襲で焼かれ現存していない。

いつ焼失したのか調べていたら、すごいことが判った。

第二次大戦中の連合軍によるハンブルク空襲は苛烈を極め、その被害はきわめて甚大だったらしい。ドイツの戦意を奪い取る目的もあったようだ。後に「ドイツのヒロシマ」と称されることもあったというから、その凄まじさが知れよう。

1843年7月24日に始まった空爆は1週間続き少なくとも5万人が死亡し、100万人が被災したという。最大の被害は7月27日から翌日にかけて発生したらしいが、このときは市街の東側だったとされている。ブラームスの生家はむしろ市街の北西にあるから、おそらく7月24日から翌日にかけての空襲で焼失したものと思われる。

合掌。

2011年7月23日 (土)

ハンブルク訛り

記事「アルスタースズメ」では最近入手したCDにハンブルク民謡が収録されていると書いた。そのテキストを調べていて奇妙なことに気付いた。定冠詞「Die」が「De」と標記されているのだ。まさかと思うことがある。英語の定冠詞「the」に引っ張られたということはないだろうか。ハンブルク周辺で話される低地ドイツ語は、我々の想像以上に英語やオランダ語に近い。書き言葉はともかく口語ベースでは相当な互換性があるのではなかろうか。

ハンブルク民謡のテキストとその和訳を詳査することで、ハンブルク訛りの実態の一部に触れることが出来そうだ。

2011年7月22日 (金)

小惑星

小惑星の名付けは発見者に委ねられている。19世紀小惑星が見つかり始めた頃は、みなそれなりの思いを込めて命名していたが、最近はあんまりたくさん見つかるものだから、命名が追いつかないらしい。登録順に付与される小惑星番号のみというケースもあるという。

その小惑星番号449には「ハンブルガ」という名前が与えられている。もちろん都市ハンブルクに由来する名だが、発見者の故郷でもなければ発見した天文台の所在地でもないらしい。

小惑星の命名にはあの手この手が考えられていて、著名な作曲家の名前はほぼ使われきっていると思っていい。小惑星ブラームスは1818番である。作曲家だけではなく、「クララ」「アルマ」「コジマ」「アガーテ」などブログ「ブラームスの辞書」的には無視できない名前の小惑星もある。

2011年7月21日 (木)

港町ハンブルク

昨日の記事で言及した「ハンブルク民謡」を調べているとテキストの中にときどき英語が混入する。ドイツ民謡で英語の混入は希だから、目立つ。

さすがは港町ハンブルクだ。大英帝国は当時世界を又にかけた海洋王国。船乗りたちの間に英語がなじんでいて不思議ではない。何よりハンブルクを含む平地ドイツ語は、英語やオランダ語に近い。

おそらく同じく港町のブレーメンあたりの民謡にも英語が混入してはいないか気にある。

2011年7月20日 (水)

アルスタースズメ

先日入手したMEMBRANN社製の「ドイツ民謡集」10枚組を眺めていて面白いことに気付いた。9枚目と10枚目のCDのタイトルや歌い出しの部分に地名が出現する。

  1. Bi uns in Altona 
  2. An de Alster,an de Elbe,an de Bill
  3. Meine Ostsee
  4. Einer Mowe von der Elbe

「Altona」はハンブルクの地区名、「Alster」はハンブルクの湖、「Elbe」はハンブルクが面する大河、「Ostsee」はバルト海だ。つまりこれらはハンブルク関連地名だ。そのつもりで10枚目のCDの演奏家を見て驚いた。「Hamburger Alsterspatzen」となっている。「Spatzen」は「Spatze」の複数形。「Spatz」は微妙な単語でいろいろな意味があるけれどここは素直に「スズメ」と解する。演奏する団体の名前として「ハンブルクのアルスタースズメ」という程度の意味だろう。

CDの演奏を聴く限り歌手付きの楽団だ。オーケストラよりも気軽な感じの団体だと解して間違いはあるまい。「ハンブルク、アルスター、楽団」というヒントで思い出す人物がいる。ブラームスの父親だ。息子のコネで最終的にはハンブルクフィルのコントラバス奏者になったが、それ以前は「アルスターパビリオン」の楽団で弾いていた。アルスタースズメという団体名だったかどうかは不明だが、何だかかすっている気がする。

演目は港町ハンブルクを象徴するようなタイトルばかりが並んでいる。

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2011年7月19日 (火)

MEMBRAN

ドイツのレーベル。中古CDショップを徘徊していてお宝を発見した。ドイツMEMBRAN社製の「ドイツ民謡集」全10枚組だ。価格は1050円。速攻ゲット。

聴いてみる。全部で155曲のドイツ民謡が収録されている。未知の作品もかなりあった。何より面白いのは演奏家だ。全部で20組ほどになる。このレーベルが版権を持つ録音の中から「めぼしいドイツ民謡を集大成しました」という感じだ。解説書が読めない、録音が一部古いという難点はあるが、お買い得だった。

アカペラあり、ピアノ伴奏あり、オケ伴ありで飽きさせない。往年の大ソプラノ・シュワルツコップも歌っている。コロラトゥーラをちりばめた歌い崩しが微笑ましい。「Es stehen drei Birken auf der Heide」という作品があった。「Birken」は「白樺」で、「Heide」は「荒野」だからぎょっとした。ロシア民謡「白樺は野に立てり」を思い出したが旋律は全く別物だった。

特にお宝はウィーン少年合唱団」の歌う「Kein schoner Land im diese Zeit」(美しき谷間に)が聴けたことと、「Wach auf mein herzen Schone」が聴けたことだ。後者はブラームスが5通りの編曲を残した佳曲だが、ここで聴けるのはブラームスの5種類とは別の編曲だ。

2011年7月18日 (月)

ブラームスゆかりの街

ブラームスの伝記に深く親しんでいると、ブラームスと特に関係の深い街があるとわかる。ブログ「ブラームスの辞書」ではこのほど以下の通り「ブラームスゆかりの街30選」を選定した。

  1. ハンブルク ★★★★★ ブラームスの故郷。1862年29歳でウィーンに出るまでこの街で過ごした。名誉市民でもある。
  2. ウィーン ★★★★★ 1862年から1897年に没するまで35年過ごした。1年のうち4ヶ月は避暑のためにウィーンを離れるものの蜜月関係は疑えず、中央墓地に埋葬されている。
  3. デュッセルドルフ ★★★★☆ 1853年二十歳のブラームスがシューマン邸を訪問して音楽史が変わった。シューマン投身の報を聞いてブラームスが馳せ参じた街。
  4. イシュル ★★★★☆ 避暑地として最多の滞在。楽壇の重鎮はここでも人気者。
  5. フランクフルト ★★★★クララシューマン臨終の地。クララの家で最後の対面が実現した。
  6. バーデンバーデン ★★★★ クララの別荘があった。1862年から10年間ほぼ毎年訪れた。イシュルと双璧をなすお気に入り。
  7. ブレーメン ★★★★ ドイツレクイエム初演の地。
  8. ペルチャッハ ★★★★ 第2交響曲作曲など一連傑作群を生んだ。
  9. ゲッティンゲン ★★★☆ ヨアヒムと学びアガーテと出会う。
  10. デトモルト ★★★☆ クララの斡旋によるはじめて就職した宮廷。
  11. マイニンゲン ★★★ 第4交響曲初演。宮廷楽壇の機能を丸ごと貸与したビューローの功績とともに。
  12. ボン ★★★ シューマン夫妻埋葬の地。エンデニヒにも近い。
  13. カールスルーエ ★★★ 第一交響曲初演。「宮廷劇場」
  14. ライプチヒ ★★★ ピアノ協奏曲第1番不評。クララの父にも会っている。
  15. カルロヴィヴァリ ★★☆ 肝臓の治療に訪れた。
  16. ブレスラウ ★★☆ ブレスラウ大学より名誉博士号受諾。
  17. ミュルツツーシュラーク ★★☆ 第4交響曲作曲。火災の救援に参加。
  18. トゥーン ★☆3度の夏を過ごしたスイスの保養地。
  19. ヴィースバーデン ★☆第3交響曲作曲の地。
  20. ザスニッツ ★☆ 第1交響曲作曲の地。 
  21. プレスバウム ★ ピアノ協奏曲第2番作曲の地。
  22. トゥツィング ★弦楽四重奏曲第1番2番作曲の地。
  23. ブダペスト ★ マーラーのドンジョヴァンニを聴いた。
  24. ハノーファー ★ シューマン投身の報をココで受ける。
  25. リューデスハイム ★ベッケラートの家がある。
  26. ケルン ☆ ダブルコンチェルト初演。
  27. グムンデン ☆ 初のブラームス博物館。
  28. ベルヒテスガーデン ☆ 大学祝典序曲ピアノ版初演。相手はクララ。
  29. リシュリコン ☆ 第一交響曲を作曲。
  30. ワイマール ☆ リストの前で居眠りしたという。 

2011年7月17日 (日)

Bundeskanzlerin

連邦宰相「Bundeskanzler」の女性形。2005年アンゲラ・メルケルが第8代ドイツ連邦宰相に就任したことによりこの女性形が必要になった。女性初の連邦宰相。歴代宰相の中ではヘルムート・シュミットに継いで2人目のハンブルク出身者だ。今日7月17日は彼女の誕生日である。

大のサッカーフリークとしても知られている。主要な大会のドイツ代表戦にはしばしばかけつけている。野党の追及の対象になっているらしい。

彼女の経歴を調べていて脳味噌がピクリと反応した。ヴレツワフ大学から名誉博士号を授与されていた。現在でこそポーランド領なのだがドイツ領だった時代も長く昔はブレスラウと呼ばれていた。そのブレスラウ大学から名誉博士号授与への返礼が大学祝典序曲だったことは、ブラームス愛好家には知られている。彼女もブラームスもブレスラウ大学の名誉博士である。

これで彼女がブラームス作品の愛好家だったら我がブログ的には完璧な流れなのだが、そうは甘くない。なんと彼女はワーグナーの楽劇を愛聴しているらしい。とはいえ将来のハンブルク名誉市民の有力候補だ。

2011年7月16日 (土)

お盆のファンタジー8

昨日昼頃になって二日酔いで起きてきたブラームスと対照的に、ジムロックはまた冷静な口調で何卒サインをと言ってきた。交渉の続きがお望みらしい。すっかり打ち解けて度胸がついた私は「英語版の版権もつけて20000マルクではいかがか」と言ってみた。ジムロックさんが困った顔をしているのを見てブラームスが「わしもつきあいは長いが、こいつの困った顔をみるのは珍しい」としゃしゃり出る。茶化し専門だ。ジムロックはここでブラームスとひそひそ話を始めた。

やがてこちらにむきなおったジムロックは「英語版込みで15000マルクではいかがか」と譲歩して見せた。ブラームスは「わしの交響曲1曲と同じじゃよ」と何気にアシスト。ブラームスにアシストされてはこれ以上ごねるのも無理だ。「OK」と言うとジムロックは嬉しそうに握手を求めてきた。私が「で、英語版の翻訳は誰に頼むの?」と訊くとあっと驚く答えが返ってきた。「ドヴォルザークにお願いする」とは転んでもタダでは起きない商売人だ。

こちらも提案することにした。15000マルクは要らないから「ドヴォルザーク全作品の楽譜をくれ」と言うとジムロックもブラームスも腰を抜かさんばかりに驚いた。「本当にそれでいいのか」と私の顔をマジマジとのぞき込んだ。「出来ればドヴォルザークのサイン入りがいい」と言うと「それが一番難しい」と腕組み。

たった今帰っていった。フランクフルトに寄って帰るらしい。決勝戦を生で見るのだろう。今年は全く楽器に触らずに商談に徹した感じだった。驚いたのは帰り際に漏らしたジムロックの一言だ。「ドヴォルザークの辞書を書いたらまた版権を売ってくれ」とは仰天の申し出だ。この手の先読みが敏腕経営者の条件に違いない。

次女が高校オケに入った話しもしそこなった。

2011年7月15日 (金)

大看板

もはやジムロックは我がブログ「ブラームスの辞書」の大看板だ。先般のお盆記事「お盆のファンタジー」ので立て続けにジムロックを取り上げたおかげで、今日とうとうカテゴリー「403 ジムロック」に属する記事が50本に到達した。人名のカテゴリーで現在記事が50本を越えているのは我が家の長女と次女を除けば「ドヴォルザーク」「バッハ」「クララ」の3名だけだ。シューマンやベートーヴェンより先にジムロックが50本に達するあたりがブログ「ブラームスの辞書」の個性である。

継続中のハンブルク特集の中休みという形でお盆ネタを公開している。

女子サッカー日本代表にブラームスのご加護を。

2011年7月14日 (木)

お盆のファンタジー7

地震と女子サッカーの話が一段落するとブラームスはジムロックに話を振りながら「昨年連れてこようと思ったが、ドヴォルザークと一緒では、喧嘩になるからな」とジョークの先制攻撃。

そこに入ってきた娘たちは「誰この人」という反応だ。渋過ぎる来客だ。難しいので説明は諦めた。やがてジムロックがバッグから一枚の紙を取り出した。一番末尾を指さしながら、ペンを差し出してくる。私にサインをしろということらしい。ブラームスはニヤニヤしている。文面はきれいにタイピングされたドイツ語だが、全く読めない。困っていると横からブラームスが「こいつはいつもこんなだ。地震よりビジネスばかりだよ」と口を出す。「うっかりサインなんぞしちゃいかん。これは契約書だ」

おおってなもんだ。よく見ると中程に「Brahms no jisho」と書いてある。ジムロックは私の著書「ブラームスの辞書」のドイツ語版の版権を買いたいと低い声で切り出した。ライプチヒのドイツ国立図書館で見かけたと言っている。「ホントはオレが教えたんだ」とまたまた口を出すブラームス。「こいつと駆け引きしても無駄だよ。さっさとサインしちまいな」などとさっきと逆のことをけしかける。

買い取り価格の提示を見て驚いた。10000マルクだ。目を丸くしているとまたもやブラームスが「あんたもこの辞書を書くのに一年かけたんだろ、だから奴の気が変わらぬうちにさっさとサインをするに限るさ」とウインクするお茶目なブラームスだ。

成り行きを見ていたジムロックは「ドヴォルザークさんには黙っていて下さい」とも言っている。そりゃあそうだ。交響曲第8番に1000マルクを提示して紛糾したことは有名だ。「ドイツ語への翻訳は、天国で森鴎外先生にお引き受け頂きます」と仰天の提示があった。さすがジムロックだ。手回しがいい。

ここで長女がビールの用意が出来たといって入ってきた。商談はそこで止まってしまった。

2011年7月13日 (水)

お盆のファンタジー6

いつもの年より神妙にブラームスはやってきた。「今年日本は大変な災害があったのだろう」と汗も拭かずに切り出した。どうやらほとんどの事情を知っている口ぶりだ。2万人以上の犠牲者ということに衝撃を受けたという。

同行の紳士がおずおずと口を挟む。ブラームスはあわてて紹介してくれた。その紳士はフリッツ・ジムロックと名乗った。大出版社ジムロックの総帥にしてブラームスの友人だ。ビジネスマンというより大学教授か何かという雰囲気だ。おもむろに懐から封筒を取り出すと、私に握らせる。日本の人たちへの見舞金だという。「ブラームス先生と私からです」とジムロック。おお。そういえば彼はブラームスの銀行口座を管理していた。

ブラームスに向き直って礼を言おうとすると、ブラームスは別の封筒を取り出して私に手渡す。「私が身近の友人に声をかけて集めた分だ」と説明してくれた。封筒とは別に用意したノートには賛同者の自筆サインがある。「シューマン夫妻、ヨアヒム、ドヴォルザーク、メンデルスゾーン、ビューロー、マーラー、カルベック、ハンスリック、ミュールフェルト、イェンナー、マンディチェフスキー、ワーグナー、リスト・・・・・・・」ちっとも身近ではない。ブラームスはあちこちの友人に広く声をかけたに違いない。友人どころかあちら側陣営のワーグナーやリストにも頭を下げてくれたのだ。

「ありがとう」と手を握ると「サッカーの借りは必ず返すからな」とはぐらかすブラームスだった。

2011年7月12日 (火)

授業料

教育の対価として支払われるお金のことだ。幼稚園や保育園では月謝と呼ばれることが多い。個人のレッスンでも月謝袋が使われている。単発の研修会などにおいては受講料となる。いろいろ不文律もあるのだろう。

1843年10歳のブラームスの腕前を見込んだ興行師が、渡米を提案した。両親はコロリと賛成したが、当時の教師コッセルは反対した。1ランク上の教師を紹介することで両親を説得した。紹介したのはコッセル自身の教師でもあるエドゥワルド・マルクゼンだ。「二顧の礼」の結果、週1回1時間ブラームスのための時間を割くことになった。

マルクゼンは当時ハンブルク随一の教師だったが、ブラームスから授業料を受け取らなかったという。現在たとえば東京で最高のピアノ教師から1時間の個人レッスンをつけてもらったら、いくらになるのだろう。毎週1時間、およそ10年続いたのだ。計算するのも恐ろしい。

それ程貧しかったということだ。つまり取ろうにも取れなかったのだと思われる。程なくマルクゼンがその才能に気付いたというのが真相だろう。太っ腹な話である。

ありがとうマルクゼン。

2011年7月11日 (月)

刊行6周年

このようなおバカなブログの管理人をしている私だが、実は仲間とアルコールを入れながら盛り上がるのも嫌いではない。音楽系の話題でとことん盛り上がりたい方だ。ブラームス系ならばなお良い。

そこで語られるブラームスネタの深度には注意も必要だ。お勧めCDあるいはレアCDの所有自慢、ブラ1は誰それの指揮に限る等指揮者ネタ、人気アーティスト来日ネタなどの水深が浅めのネタは、お通し代わりにもってこいだ。クララ&ブラームスに代表される恋愛ネタの水深もやや浅めだ。

ところが、昨日の話題「ブラームスの無名の女声合唱曲のゲーテ作のテキストが、何やら意味不明で、思うにモルヒネの薬効をトレースしてはいまいか」などという話は深海潜水艇が要る。作品113の1などと申し上げたところで誰も判らぬ上に、聴いたこともない。家に帰ればテキストがあるから見てみようなどという人も希だろう。「それって言えてるね」などという輩がゾロゾロいたらかえって怖い。

そう考えるとつくづくブログはありがたい。飲み会では出した瞬間にドン引きされるに決まっているような話題でも、ケロリと公開出来る。

「ブラームスの辞書」刊行から今日で6年になる。刊行記念日にいちいち周年ネタで盛り上がるのもだんだん気が引けてくる。

この手の周年記事をネタ枯渇のごまかしに使ってはいけないと肝に銘じている。

2011年7月10日 (日)

ゲーテの暗号

113という大き目の作品番号を背負っていながら、その成立は大きく遡って1859年~63年頃とされている。「女声合唱のための13のカノン」である。成立時期と女声合唱という形態から見て、ハンブルク女声合唱団を念頭に作曲されたと考えられる。どの作品も短いながらも本当に愛らしい。

その中の第1番に「Gottlicher Morpheus」という作品がある。調号無しながら実質ホ短調かもしれない。そのテキストを以下に記す。

Gottlichr Morpheus,umsonst  神々しいモルフォイスよ、貴方はいたずらに

bewegst du die liebchen Mohne, 愛らしい芥子の花を感動させようとしているけれど、

Bleibt das Auge doch wach, アーモルが私の目を閉じてくれなければ、

wenn mir es Amor nicht schliesst. その目は覚めたままなんですよ。

作者は御大ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテだが、日本語訳を読んでもどこか抽象的でピンと来ない。

さて芥子の開花後の未熟果から採取される液に強力な鎮痛成分が存在する。アヘンだ。この有効成分が19世紀初頭にドイツで初めて分離に成功し、「モルフィウム」(Morphium)と命名された。ギリシャ神話の夢の神モルフォイス(Morpheus)に因む。「モルヒネ」の始まりである。優秀な鎮痛剤だが、依存性という厄介な副作用もある。眠くなるという副作用も知られている。

臨床現場での実用は19世紀中盤以降だ。普仏戦争の負傷者に使用されたが、一方でモルヒネ中毒患者も生み出したらしい。シューマン夫妻の次男フェルディナンドもこの戦争に従軍し、ケガの治療の過程でモルヒネを投与されたとされている。

そこで、もう一度先のテキストを見直す。アーモルは愛の神だ。抽象的過ぎてわかりにくいと書いたが、「夢の神モルフィス」と「芥子」が目立つ。後半2段は眠りを暗示していると感じる。つまり難解に見えるこのテキストは、鎮痛剤モルヒネの由来と薬効をトレースしていはしないか。

大文豪ゲーテは、自然科学にも造詣が深いという事実がやけに重い。

2011年7月 9日 (土)

三顧の礼

陣営に不可欠な重要人物を招聘する際に手厚く礼を尽くすこと。出典は大好きな三国志だ。前半のヤマ。主人公劉備玄徳が、隆中に隠遁中の伏竜こと諸葛亮を配下に加えるために、草庵を三度訪問して説得した故事にちなむ。諸葛亮は説得に応じ君臣水魚の交わりをなす。以降、劉備亡き後も蜀の屋台骨を支える活躍をする。てゆうか彼本人が屋台骨そのものだ。

現代でも選挙の出馬や、監督人事を報ずる際に用いられることがある。

ブラームスにもあった。

1843年のことだ。ブラームス最初の教師コッセルは、ブラームスの才能をさらにワンランク上へと押し上げるために、自らの師であるマルクゼンに推挙する。10歳のブラームスの才能こそ認めたものの、マルクゼンは今のままで充分と判断し要請を断る。数ヵ月後今度はブラームスの父がマルクゼンを訪れて、弟子に加えることを要請する。

これでマルクゼンは折れた。週一回のレッスンに応じたのだ。劉備よりも1回少ない。いわば「ニ顧の礼」だ。1回分はブラームスの才能により割引があったと見る。

2011年7月 8日 (金)

ハンザの交易品

ハンザ都市としてのハンブルクを支えた交易品を調べていて面白い発見があった。

ハンブルクからの移出品は、エルベの水運を使って集積した木材、リューネブルクの塩が中心。ハンブルクの特産物はビールだ。これらのほかに交易に欠かせないものとして樽があった。

移入品は、毛皮、琥珀、綿製品、スパイス、コーヒーなど。

その他、海上交通の主役である帆船の運航に欠かせない小道具にロープがある。ロープはハンブルクで製造されていた。ロープは平地ドイツ語方言で「Reep」という。なるほど世界的に有名なハンブルクの歓楽街レーパーバーンのスペルと一致する。航海の必需品としてのロープはおよそ500mの長さを必要とする。およそ1kmの直線道路はロープ生産にはもってこいというわけだ。

さらにロープよりは短いものをザイルといい、これは登山用語にもなっている。レーパーバーンと平行して1本北を走る小路がザイラーシュトラーセになっている。長さや用途が違うだけで製法は同じだから、ロープとザイルが近隣で作られていたとしても矛盾はない。

2011年7月 7日 (木)

ザンクトパウリ

「St.Pauli」と綴るサッカークラブ。英語なら「セントポール」だろう。ハンブルク市内の地名でもある。クラブ創立は1910年だからブラームスは既に亡くなっていた。名門ハンブルガーSVとの対決はハンブルクダービーとして盛り上がるのだが、いかんせんブンデスリーガ一部に定着しているとは言い難く、2部や3部をうろつくことが多い。2010-2011年シーズンは一部で戦ったがあっけなく降格した。

クラブの名前にもなっているザンクトパウリ地区は、名高いレーパーバーンの北隣に位置するせいか、ハンブルガーSVよりも庶民的で熱狂的なサポーターが多いとされている。ホームのミレルントーアシュタディオンは、ブラームスの生家のほぼ真西1kmの地点にある。

2011年7月 6日 (水)

ブンデスリーガ

「Bundesliga」と綴る。ドイツのプロサッカーリーグのことだ。1部は18クラブで構成されている。ほぼドイツ全土に分散している。地元クラブへの声援は大変な盛り上がりらしい。1871年にプロイセンの主導にとってドイツ帝国になるまで、ドイツでは小邦並立の時代が長く続いたという事情もあって、地域ごとの連帯感が強い。今の連邦制にも色濃く反映している。

おのおののクラブのエンブレムには、所属する州や街の紋章が何らかの形で投影されていることも少なくない。残念なのは旧東ドイツ地区にはなかなか強豪が現れない点だ。ライプチヒやドレスデンが強いとそれなりに盛り上がるに決まっている。

ブラームスの故郷ハンブルクにはHSVというクラブがある。「ハンブルガー・シュポルト・フェライン」だ。ハンブルクスポーツ協会くらいの意味。1887年の創立だからブラームスは存命だった。

2011年7月 5日 (火)

門前払い

議論が本質に到達する前に却下されること程度の意味だろう。する側は「軽い気持ちで悪気無し」であることも少なくないが、された側のダメージは概ね小さくない。

ブラームスを巡る最大の門前払いは、1850年3月に起きた。17歳のブラームスはハンブルクを訪れたロベルト・シューマンに自作を送って批評を乞うた。それをロベルト・シューマンは封を切らずに返送した。

ロベルト・シューマンの伝記にはほとんど現れない出来事だが、ブラームスの落胆は相当なものだろう。1853年10月デュッセルドルフのシューマン邸における感動的なエピソードに隠れているが、ブラームス側の伝記では無視出来ぬ出来事だ。そういうものだ。門前払いを巡る当事者双方における事の重大性の認識には、かくの如き差があるものだ。

このエピソードが我々後世の愛好家の知るところとなっているのは不思議だ。誰がニュースソースなのだろう。ブラーム自身が周囲に語る以外には考えられない。シューマン自身が「私は若きブラームスを門前払いした」などと周囲に語るハズがない。ブラームスを世間に紹介した記事は、ブラームスの発見者になれた喜びに満ちているが、3年前に門前払いをしたことには言及していない。ブラームスはおそらく1853年の夏、しきりにシューマン訪問を薦める友人たちに「実はね」という具合に語ったものと解される。門前払いにもめげずに訪問するのは勇気が要ったと思う。

やがてブラームスは押しも押されもせぬ楽壇の大物になる。ブラームスに対して自作を送ってくる若者は多かった。大抵は取るに足らぬ作品だったらしい。そのときになってはじめてシューマンの門前払いを理解し水に流したと思われる。

2011年7月 4日 (月)

ウーヴェ・ゼーラー

Uwe Seelerと綴る元西ドイツ代表フォワード。1858年62年66年70年と4度のワールドカップ出場を誇る。62年から70年まで西ドイツ代表のキャプテンを務めた。ハンブルク生まれの彼はほぼ地元クラブのハンブルガーシュポルトフェライン一筋の現役生活を送り、やがて同クラブの会長に就任した。

2003年、長きにわたる功績をたたえハンブルク名誉市民に選ばれた。21世紀最初の栄誉であり、スポーツ選手としては初めての快挙である。

2011年7月 3日 (日)

エルベトンネル

大港湾都市ハンブルクは河港だ。川の両岸の交通よりも河川の往来が重視されている。だからハンブルクには橋がなかった。船の邪魔になってはいけないからだ。けれども都市が発展してハンブルクがエルベの南岸まで膨張すると川を横断するニーズが高まってくる。

という訳で橋がだめならトンネルでと考えるのが人間である。1891年にエルベ河底トンネルの建設が決定した。慎重なプランニングの末1897年に着工する。トンネル自体は4年の工期を経て完成するのでブラームスはもちろんトンネルを見ていないが話を聴いていたかもしれない、トンネルの開通式典はさらにおくれて1911年5月7日のことであった。ブラームスの誕生日にちなんだとすればたいしたものだが。

さてさてブログ「ブラームスの辞書」の記事が3003本に達するのは2013年7月3日だ。つまりそれがアラビアンナイト計画のゴールである。ということはゴールまであとちょうど2年ということだ。

2011年7月 2日 (土)

ドイツダービー

ドイツ競馬のG1レース。毎年7月第一日曜に開催される。今年の開催は明日だ。距離2400mで争われる。第1回の開催は1869年だからもちろんブラームスは存命だった。厳密に申せば現在ドイツダービーとされているレースの発祥が1869年と申すべきか。

同レースの会場はハンブルク競馬場だ。ハンブルクの中心街から東におよそ7kmの「Horn」という街にある。正式名称は「Horner Rennbahn」という。「ホルン競馬場」だ。1852年の創設。

ブラームスの生家があったあたりは市街の西だからあまり近いとはいえない。レージンク夫人から借りた家があったハムは市街からホルンに向かう道の途中にある。ブラームスが下宿した頃には既に競馬場があった。ダービーこそ始まっていなかったが、競馬場の存在くらいは知っていたものと思われる。

2011年7月 1日 (金)

主要5教会

現在でこそ市域が拡大して郊外にまで教会が建てられているが、ブラームスの生きた当時は、5つの教会が市内の信者を管轄していた。創建の年代順に列挙する。

  1. 聖ペトリ教会 811年カール大帝による創建で、ハンブルク最古の教会。市庁舎のすぐ東に隣接している。1842年の大火で焼け落ちたがすぐに再建されている。
  2. 聖ニコライ教会 12世紀半ばの創建。聖ペトリ教会の南西およそ300m。第二次大戦の爆撃で塔だけが残った。今は平和のモニュメントとして保存され、教会自体は移転した。
  3. 聖カタリーネン教会 1256年創建。聖ペトリ教会の南およそ500m。創建当時ここは中州だった。
  4. 聖ヤコビ教会。1350年創建。聖ペトリ教会の東およそ200m。1693年に設置されたオルガンで名高い。若きバッハがわざわざ聴きに来たほどだ。
  5. 聖ミヒャエリス教会 アルスターフレートの西への市域の拡大により1641年創建。小さな礼拝所がもっと昔からあったとも言われている。唯一最初からプロテスタント教会として建てられた。当時裕福な商人は市の東側に住んでいたから「貧者の教会」と言われたが、今では市の象徴となる。ブラームスの生家はこの教区に属していたため、洗礼をうけることになった。

教会で面白いのは、ビートルズが出演したことで知られる、カイザー・ケラーの向かいにある聖ヨゼフ教会。現在ではプロテスタントが圧倒的に優位のハンブルクにあっては珍しいカトリック教会だ。さすがに市の真ん中という訳にも行かず、当時は市壁の外だったこの地に建てられた。「Grosse Freiheit Strasse」「大いなる自由通り」という地名は、カトリックを信仰する自由に因んだ命名といわれている。

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