ブラームス神社

  • 道中安全祈願

おみくじ

  • テンプレート改訂しました

独逸日記

  • ドイツ鉄道博物館のおみやげ
    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

ビアライゼ

  • Schlenkerla
    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

カテゴリー

« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »

2011年8月31日 (水)

旋律の類型化

民謡学の領域でエルクが残した功績を調べている。彼の主たる目的は民謡の網羅的採集と体系化を通じてオリジナルの形を特定することだった。口伝される過程で生じる変化を逆に辿り、源泉を突き止めることだ。

そのための手法をエルクはいくつも考案した。テキストの音韻学的分析と並ぶ柱が旋律の分析だ。旋律が持ついくつかの特徴・形質を選びそれらの有無頻度をもって旋律を分類したのだ。

凄いことだと思う。「ブラームスの辞書」はブラームス作品について統計的に考察するためにいくつかの要素を分類カウントすることで成り立っている。その対象は楽譜を読みさえすれば素人にも判るような形質だった。調性、拍子、ジャンル、楽器などがそれにあたる。旋律の分類を思い立つには思い立ったが手に余ると見て諦めた。だからせめて音楽用語を集めようと試みた成果が「ブラームスの辞書」だ。

エルクは私が諦めた旋律の類型化を実行している。旋律の類型化のためにエルクが用いた指標は膨大で、エルンスト・シャーデ先生の著書「近代ドイツ民謡学の展開」でもその全貌が紹介されている訳ではなく、ただその膨大さが至る所で仄めかされているに過ぎない。確かなことは、「ブラームスの辞書」ではメインになっている「調性」「拍子」「音楽用語」は、民謡の旋律分析のツールとしては役に立たないということだ。

民謡が大衆の間で口伝されるとき名もない歌い手は調性など意識していない。拍子だって無意識だろう。ましてや音楽用語なんぞハナから顧みられてはいない。それらは民謡の採譜から刊行に至る過程の中、おそらく楽譜に転写される過程で生じる要素だ。

伴奏もなく、和声も付けられていない旋律を、そのメロディーラインの特徴に目を付けて分類整理するという手法には可能性と魅力を感じる。同じ手法を駆使してクラシック音楽の旋律分析をして、作曲家の作風分析が出来たら素晴らしいと思う。

2011年8月30日 (火)

ブラームス神社創建3周年

本日ブラームス神社は創建から丸3年の節目を迎えた。この手の周年記事にはくれぐれも注意が要る。ゴールまであと22年の我がブログだから、周年記事を漫然と放っているだけで22本記事が稼げる。管理人にとっては一区切りでも読者にはどうでもいいことに違いないからだ。

そんなことより、賽銭箱ブログパーツの提供が終わってしまった。適当な後釜がみつかるまで、賽銭箱は無しでおみくじだけになる。ブログパーツの提供元の都合でこういうことも起こり得る。やはり他人様依存はほどほどにという教訓かもしれない。アテになるのは自分の記事だけということを再度肝に銘じたい。

そろそろ2学期が始まる。次女の高校オケライフが佳境だ。夏休みは練習漬けだった。3泊4日の合宿期間は本当にヘトヘトになるまで練習をしたという。その後4日の休みの間も毎日2時間は練習していた。ショスタコーヴィッチやファリャに打ち込みまくる夏休みだった。最近ビゼーも加わった。横で聴いているだけで夢見心地だ。これが万一ブラームスだったら卒倒してしまう。

今日と明日部活はお休み。しっかり宿題を片付けなさいというメッセージでもある。

2011年8月29日 (月)

エルクの辞書

ルードヴィッヒ・エルクの業績の解明に力を注いだエルンスト・シャーデ先生の「近代ドイツ民謡学の展開」(坂西八郎訳)には興味深い指摘が充満している。

本日もその話だ。

エルクは民謡の採譜にあたり演奏者の歌い方を忠実に再現しようと考えていた。とりわけテンポには神経質なほど配慮していたという。刊行にこぎつけた数千の歌の冒頭にはほぼ全てテンポが表示されている。何とこれがドイツ語ばかりなのだ。「Allegro」等イタリア語を使う際には必ずそれを引用符で囲んだ。楽譜を読む人が、エルクの聴いたままの調子で歌えるようにするにはドイツ語がもっともふさわしいと考えたということだ。

シャーデ先生はエルクが民謡集で用いたテンポ用語を収集分類しておられる。「近代ドイツ民謡学の展開」でそれが紹介されている。ご丁寧なことに全部が日本語になっている。原文も併記されていたらお宝情報だったなどと嘆いていないで以下に示す。これで全部ではないだろうが目安にはなる。

<ゆっくり>

  1. ゆっくり おそらく「Langsam」に違いない。
  2. ゆっくり過ぎず 「nicht zu langsam」あたり。
  3. ゆっくりだがだらだらせず 「langsam doch nicht zu」
  4. いくらかゆっくり おそらく「etwas langsam」

<中庸に>

  1. 中庸に活発に Massig bewegt
  2. まったく中庸に Massig
  3. いくぶん速めに Etwas massig

<快活>

  1. 快活に Bewekt
  2. いくぶん快活に Etwas Bewegt
  3. ほどよく快活に
  4. かなり快活に Ziemlich bewegt
  5. 非常に快活に Sehr bewegt

<急激>

  1. 急激に Rasch

<生き生き>

  1. 生き生きと速く Lebhaft
  2. あまり速くなく
  3. いくぶん速く Ziemlich schnell
  4. かなり速く

<急速>

  1. 急速に Schnell
  2. あまり急速過ぎぬよう Nicht zu schnell
  3. かなり急速に

一応私の感覚で独文の候補を添えておいた。返す返すもこれが原文併記でないことが残念だ。もし原文併記だったらブラームスの民謡で用いられた用語と比較が出来る。

2011年8月28日 (日)

疑似民謡集

ツッカルマリオの「民謡集」について、ブラームスとエルクの評価が食い違っていることは既に言及した。ブラームスが「49のドイツ民謡集」の編集にあたってツッカルマリオを参照したことはよく知られている一方で、エルクは辛口の批評をしている。

民謡学者たちの趨勢はどうもエルク寄りにあったらしい。ツッカルマリオの民謡集がしばしば「疑似民謡集」と呼ばれている。民謡風な作品をツッカルマリオ自身が作曲していると指摘されている。当代の作曲家によって付与された旋律は、エルクにとって忌避の対象であり、そうした現代の旋律と伝承された民謡との峻別こそが、研究の根幹でさえあった。

いわば「民謡風」である。

ブラームスは、民謡風であっても芸術的な価値があれば採用の対象とした。「それっぽく見せる」テクニックをも積極的に評価したということだ。

2011年8月27日 (土)

民謡の分類

エルクとベーメが刊行した「ドイツ歌の宝」は、収載した2000を超える民謡を、内容によって分類している。以下にその部立てを示す。

  1. 物語歌 220曲
  2. 歴史的歌謡 150曲
  3. 愛の歌 370曲
  4. 離別および遍歴の歌 56曲
  5. 夜明けの歌および夜ばいの歌 34曲
  6. 婚礼、結婚生活、尼の嘆き 93曲
  7. 踊りと遊戯の歌 137曲
  8. 謎々、賭け事、願い事 57曲
  9. 酒飲みと宴席の歌 62曲
  10. 庶民の祭り、教会祭典でのお貰い歌 99曲
  11. 職業の歌 422曲
  12. ふざけ、遊び、嘲笑の歌 66曲
  13. いろいろな内容 39曲
  14. 子供の歌 112曲
  15. 宗教的歌曲 258曲

以上だ。大変興味深い。数としては職業の歌が最大で愛の歌がそれに次ぐように見えるが、待って欲しい。4番の「離別の歌」は愛の裏返しとも思えるし、5番「夜明けの歌および夜這いの歌」や6番「婚礼、結婚生活、尼の嘆き」が愛に無関係とは言えまい。実質的には「愛の歌」が最大勢力なのだと感じる。

ブラームスが関与した161曲の民謡も、このような分類が可能なのだと思う。

2011年8月26日 (金)

歌の宝

ドイツ民謡研究の集大成。原題は「Deutscher Liederhost, Auswahl der vorzuglichen deutschen Volkslieder aus der Vorzeit und Gegenwart mit ihren eigenthumlichen Melodien」という。ドイツ民謡学の泰斗ルートヴィッヒ・エルクの金字塔だ。民謡研究の到達点という位置づけである。

刊行は1856年。近代民謡学は、この本を座右にして展開されたという。なるほど現在見かけるドイツ民謡の研究本は、多かれ少なかれ「歌の宝」を引用する。

ロベルト・シューマンの没した年だ。1856年はブラームスにとっても一大転機だったが、近代民謡学の夜明けでもあるということだ。

2011年8月25日 (木)

人名索引

多くは書籍の巻末にあって、登場人物が五十音順またはアルファベット順に網羅列挙されている記事のことだ。私は書店で音楽関係の書籍を手に取った時、真っ先にここを見る。ブラームスの場所だ。そこに盛りだくさんの数字が並んでいれば購入の可能性が高まる。目次と並ぶ情報の宝庫である。

8月23日の記事で「近代ドイツ民謡学の展開」という本について述べた。この本にも巻末に人名索引がある。19世紀ドイツを舞台にしたとはいえ、あくまでも民謡の本だから、クラシック系の作曲家の名前がほとんど載っていない。わずかに5名、メンデルスゾーン、モーツアルト、バルトーク、コダーイそしてブラームスだけが人名索引に載せられている。ブラームス以外は話の流れでチラリと出て来るだけだが、ブラームスの話は1ページ弱のスペースが与えられている。「エルクの民謡集に下された同時代の判定」と題された第5章の末尾に出現する。著者エルンスト・シャーデ先生は、はっきりとエルクとブラームスの見解が真っ向から対立していたと書く。

エルクの立場は出来るだけ多くの旋律を集めて、体系的に分析した上でもっとも始原的な形で旋律とテキストのみを記載するというものだ。ブラームスは、網羅的であることを批判する。作品の善し悪しが基準になっていないと指摘する。シャーデ先生は、収集に軸足があるエルクと芸術的価値に軸足を置くブラームスの立場の違いと結論付けておられる。エルクの収集の対象となった地域がブランデンブルクにとどまるというブラームスの明らかに誤った認識には、論及を避けている。

困る。私はブラームスが残した民謡および民謡にテキストを求めた作品を心から愛するものだが、学問への姿勢という面でエルクの功績にも素直に頭を垂れたい。

2011年8月24日 (水)

民謡集批判

昨日の記事で話題にした「近代ドイツ民謡学の展開」という本の第2章には、他者の手によって刊行された民謡集に対するエルクの見解が例を上げて掲載されている。一方ブログ「ブラームスの辞書」8月20日の記事「民謡のタネ本」には、ブラームスにテキストを供給した民謡集が一覧表になっている。

  1. Ammerbach,Elias Nikolaus 「ドイツの書棚」 1曲op43-3だけ。
  2. Arnim/Brentano 「少年の不思議な角笛」 8曲
  3. Arnold,Friedrich Wilhelm 10曲
  4. Becker,C.F. 「過去100年の歌と旋律」 5曲
  5. Berg und Newber 「68の歌」 1曲op66-5だけ。
  6. Corner,David Gregor 「大カトリックの讃美歌集」 6曲
  7. Haupt/Schmaler 「ヴェンド民謡」 1曲op43-1「永遠の愛」だけ。
  8. Herder,Gottfried 「諸国民の声」 4曲
  9. Hofmann von Fallersleben,Heinrich 「16~18世紀の民衆歌」 1曲op28-1だけ。
  10. Kretzschmaer/Zuccalmaglio 「ドイツ民謡集とその原曲」 160曲
  11. Meister,Karl Severin 「カトリック教会歌」 1曲WoO36-1だけ。
  12. Mittler,Franz L. 「ドイツ民謡集」 3曲
  13. Muller, Wilhelm 3曲
  14. Scherer,Georg 「ドイツ民謡集」 6曲
  15. Simrock,Karl 「ドイツ民謡集」 2曲
  16. Uhland,Ludwig 「古い高地ドイツと低地ドイツの民謡集」 6曲
  17. Wenzig Joseph 「スラブ民謡集」 12曲

ブラームスがテキストのタネ本にした上記17の民謡集のうち、赤文字で表示した4つについてエルクによる判断が示されている。8番のヘルダーは、可もなく不可もない評価。16番のウーラントは激賞されている。ここでのエルクの評価軸は、民謡の古形が保存されているかどうかだ。

上記の2番「少年の魔法の角笛」と10番クレッチマー、ツッカルマリオの「ドイツ民謡とその旋律」は、言わば吊し上げだ。編集者による改竄が目に余るという訳だ。編者がテキストにも民謡にも疎いから、民謡たちが中途半端な扱いを受けていると喝破する。

これはどうしたことだ。とりわけ10番「ドイツ民謡とその原曲」はブラームスへのテキストの供給160曲を誇る大お得意先だ。どう見てもブラームスはクレッチマー&ツッカルマリオの仕事を評価している。その一方でブラームスはエルクの民謡集から1片のテキストも採用していない。

こうした民謡集の取り扱いという点でもエルクとブラームスの見解の違いが露呈している。

2011年8月23日 (火)

近代ドイツ民謡学の展開

最近感動した本。正式には「ルードヴィッヒ・エルクと近代ドイツ民謡学の展開」という。つまり一昨日話題にしたルートヴィッヒ・エルクの功績を記述した本だ。著者はドイツ人エルンスト・シャーデという人で、坂西八郎訳とある。1977年に刊行された。もちろん絶版だろう。ふらりと立ち寄った古書店で偶然みつけた。

音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻のホイベルガーとの会話の中に、「エルク」という名前が頻発する。それが頭の隅にあったから手にとった。パラパラと目次をめくっているうちに虜になった。新刊のときの値段が3500円だったが、1050円で入手出来た。お得感で胸がいっぱいになった。260ページに及ぶ内容はざっと以下の通り。

  1. エルクの生い立ち
  2. 他の民謡集に対するエルクの見解
  3. エルクの民謡コレクションの概観
  4. 民謡収集の実態
  5. 民謡分類の手法
  6. 民謡の源泉形態の追究
  7. 民謡観
  8. 同時代人評価
  9. 文献目録
  10. 人名索引

エルクの業績は口伝によって現存する民謡を多岐にわたって網羅的に収集することを基礎に、テキスト、旋律の両切り口を平等に扱ってより始原的な形を類推特定して行く試みだ。おそらくその裾野は数十万の旋律の断片だ。整理および体系化により数千が刊行されていると思われる。エルク本人に音楽の素養があることは、もちろんだが彼の功績を公平に評価するには、こちらの側に膨大な知識の蓄積が必要となる。音楽および音楽学は当然として、方言学、音韻学、古文献学、地理学、歴史学、民俗学、社会学、比較文化論の諸領域の知識の底流を感じずにはいられない。

彼の結論をいくつか。

  • 民謡の伝播は、河川山脈などの地理的障壁はもちろん、国家体制などの政治的障壁をも容易に乗り越える。
  • 歌い継がれて行く過程で、旋律もテキストも容易に変化するが、その変化には一定の決まりがある。
  • 旋律とテキストは密接不可分。
  • 民謡として現存する歌には多くの場合作詞者と作曲者が存在し、自然発生はほぼあり得ない。
  • 芸術歌曲との境界は、模糊としている。

凄い業績だと感じる。ブラームスはエルクの業績のどこを見て何に怒ったのだろう。

2011年8月22日 (月)

エルクとブラームス

ルートヴィッヒ・エルクは19世紀後半に活躍した近代ドイツ民謡学の巨星だ。つまりブラームスと同時代ということになる。ブラームスは自他共に認める民謡愛好家だから、当然ながらエルクを知っていた。知ってはいたが、ブラームスはエルクを評価していない。

音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻ホイベルガーの項105ページ以降しばしば、エルクが話題に上る。エルクの高弟ベーメが、エルク亡き後その遺志をを次いで1893年に刊行した「ドイツのうたの宝」についてホイベルガーと交わした会話が記録されている。

元々ブラームスは書物や楽譜が新しく刊行されるとすかさず入手して、論評を書き込む癖があった。エルク&ベーメの「ドイツうたの宝」も例外ではなかった。ところがブラームスの評価は芳しくない。芳しくないどころか「怒り心頭」というニュアンスで語られている。

  1. 歌の善し悪しではなく骨董的価値が収集の基準になっている。
  2. モチーフからメロディを立ち上げる手順がワンパターン。
  3. 収集の地域がブランデンブルクに偏っている。

あまりの怒りに本来人には見せないはずの論評を発表しかねない勢いだったという。誰かが止めたのか自重したのかは明かではないが、結果としてブラームスは論評を避けた。その代わりに発表したのが「49のドイツ民謡集」WoO33だった。ホイベルガーが刊行後に「エルク&ベーメの歌集に対する反論ですね」と冗談交じりに突っ込むとブラームスは「論評はいつまでたったも完成しないが、これなら未来に残るからな」と真顔で答えたという。

ブラームスの剣幕だけは伝わって来るばかりでエルク&ベーメの歌集のどこがブラームスの逆鱗に触れたのか情報が不十分だが、手がかりはある。8月20日の記事「民謡のタネ本」をご覧頂く。ブラームスにテキストを供給した民謡集を一覧表にしたものだ。この中にエルクの息のかかった歌集が無いことは象徴的だ。

エルクの歌集は19世紀中頃から次々と刊行され、各方面から称賛されてきたからブラームスが知らなかったといことはあり得まい。知っていながらテキストとしての採用を見送ったのだ。

2011年8月21日 (日)

ルードヴィッヒ・エルク

Ludwig Erk(1807-1883)は、中部ドイツ・ヴェッツラーに生まれた。オルガニスト、合唱指揮者、音楽学者、教師として活躍しベルリンで没した。

最大の功績は民謡の研究だ。近代ドイツ民謡学の巨星である。ほぼ50年にわたってドイツ各地の民謡を収集し、整理体系化を行った。断片まで数えれば20~30万の旋律とテキストを収集したと考えて良い。

  1. 網羅的な民謡の収集
  2. より始原に近い形の特定

膨大なエルクの業績を無理矢理要約すると上記の2本の柱になる。1913年にフライブルクに「ドイツ民謡文庫」が設立されるなど、エルクの壮大な構想は、本人の没後にも弟子たちによって継続されて現在に至っている。とりわけ現在流布する民謡のオリジナルの姿を突き止める姿勢は、比類がない。民衆の間に流布する民謡には多くの場合、作詞者作曲者がいることを突き止めた功績は大きい。

イメージとしては、ブラームスの友人フィリップ・シュピッタがバッハ研究において成し遂げたことをドイツ民謡の分野で達成したと考えて良い。扱った民謡の量、収集対象となった地域の広さ、整理分類の手法、作業の膨大さと緻密さなどどれをとってもシュピッタに比肩する功績だと感じる。

2011年8月20日 (土)

民謡のタネ本

ブラームスが取り扱ったテキストのうち民謡起源のものが少なからず存在する。多くは既存の民謡集だ。編者名のアルファベット順に列挙する。

  1. Ammerbach,Elias Nikolaus 「ドイツの書棚」 1曲op43-3だけ。
  2. Arnim/Brentano 「少年の不思議な角笛」 8曲
  3. Arnold,Friedrich Wilhelm 10曲
  4. Becker,C.F. 「過去100年の歌と旋律」 5曲
  5. Berg und Newber 「68の歌」 1曲op66-5だけ。
  6. Corner,David Gregor 「大カトリックの讃美歌集」 6曲
  7. Haupt/Schmaler 「ヴェンド民謡」 1曲op43-1「永遠の愛」だけ。
  8. Herder,Gottfried 「諸国民の声」 4曲
  9. Hofmann von Fallersleen,Heinrich 「16~18世紀の民衆歌」 1曲op28-1だけ。
  10. Kretzschmaer/Zuccalmaglio 「オリジナルの旋律によるドイツ民謡集」 160曲
  11. Meister,Karl Severin 「カトリック教会歌」 1曲WoO36-1だけ。
  12. Mittler,Franz L. 「ドイツ民謡集」 3曲
  13. Muller, Wilhelm 3曲
  14. Scherer,Georg 「ドイツ民謡集」 6曲
  15. Simrock,Karl 「ドイツ民謡集」 2曲
  16. Uhland,Ludwig 「古い高地ドイツと低地ドイツの民謡集」 6曲
  17. Wenzig,Joseph 「スラブ民謡集」 12曲

これらはテキストのみ引用し旋律はオリジナルで作曲したものと、テキストと旋律を引用し和声と伴奏をブラームスが付けたものとに分かれる。前者には作品番号opを付与し、後者には作品番号を付けなかった。ブラームスの子守唄で名高いop49-4は面白い。1コーラス目は上記の15番ジムロックから採用し、2コーラス目は上記14番シェーラーから採った。

2011年8月19日 (金)

民謡の系譜

ブラームスの手によるドイツ民謡には作品番号が付されていない。自分の創作ではないからだ。現在では作品番号無き作品ということでWoO番号が与えられている。WoO31からWoO38までだ。

  • WoO31 子供のための14のドイツ民謡集 独唱とピアノ 1858年出版
  • WoO32 28のドイツ民謡集 独唱とピアノ伴奏 1926年出版
  • WoO33 49のドイツ民謡集 独唱とピアノ伴奏、混声四部合唱 1894年出版
  • WoO34 14のドイツ民謡集 混声四部合唱 1864年出版
  • WoO35 12のドイツ民謡集 混声四部合唱 1926年出版
  • WoO36 8のドイツ民謡集 女声三部または四部合唱 1938年出版
  • WoO37 16のドイツ民謡集 女声三部または四部合唱 1964年出版
  • WoO38 20のドイツ民謡集 女声三部または四部合唱 1968年出版

これだけで合計161曲になると思いきや、そうは行かない。かなりの数重複がある。同じ曲が独唱、混声合唱、女声合唱の3通りに編曲されているケースが散見される。

現在では、この8つが当たり前のように眼前に横たわっているが、出版年をよく見て欲しい。ブラームスの生前に出版されたのはWoO31、WoO33、WoO34の3種類だけだ。ハンブルク女声合唱団時代に起源を遡ることが出来るWoO36、37、38は全滅だ。ブラームスの死後メンバーの手で残された楽譜を元に復元出版されたのだ。

2011年8月18日 (木)

Volkslied

大抵は「民謡」と訳されているが、文献上において最初にこの言葉を使ったのはヘルダーだとされている。発生の起源はほぼこれで決まりだとされている一方で、その定義については本場ドイツでも諸説入り乱れているらしい。「Lied」はともかく「Volks」の概念が時代により人により千差万別であることが、事態を難しくしているという。

印象的で覚えやすい旋律に、実生活に即した歌詞をあてがうことが民謡の原点らしい。19世紀後半を迎えるまで、その伝承はほぼ口伝に限られた。だから人により時代により様々なヴァリエーションが生じる。本質的にはこのような「歌い崩し」が発生することこそが民謡の特色だった。となると楽譜やCDになってしまった歌は「歌い崩し」が起きないという意味で最早民謡とは言えなくなる。

民衆の間にあってこその民謡で、学術的な観点だろうと何だろうと、採譜されたが最後たちまち本質を踏み外してしまう。

そうした避けがたい矛盾を内包しながらも、民謡は古来人々を惹き付け続けてきた。時には大作曲家たちの創作意欲をも刺激してきたこと周知の事実である。

2011年8月17日 (水)

民謡ラブ

つくづくブラームスは民謡が好きだと思う。ドイツ民謡の収集家だったことはもちろん、オリジナル歌曲のテキストにも民謡を用いることがある。さらにそれはドイツにとどまらない。外国民謡のドイツ語訳をテキストに採用することも1曲や2曲ではない。

交響曲や室内楽がすばらしいから、それらについて論じられた文書やサイトは多い。だからブログの独自性を手軽に訴えるには民謡ネタ連発のほうが効率がいい。

「49のドイツ民謡集」WoO33のCDを買ってきていきなり聴きまくってもありがたみは感じにくい。時間をかけて、出来れば楽譜を見ながら繰り返し聞くことで、心底腹に染み込むのを待つといい。ブラームスの合唱経験の基礎となったハンブルク女声合唱団のレパートリーが、広大な裾野を形成していると気づけば、もうこっちのものだ。

民謡を舐めてると、ブラームスから真剣にしかられると思う。ひとしきり民謡に浸した脳味噌で歌曲を聴くと味わいがまた深まるのだ。ハンブルク特集のラスト数本は「ハンブルク女声合唱団」ネタだった。かれらの主たるレパートリーは民謡。つまりそれは次の展開への序奏。

次なる企画は「民謡」だ。

2011年8月16日 (火)

ハンブルク特集総集編

昨日でアラビアンナイト計画6本目「ハンブルク特集」が終わった。なんだかあったまってきた感じ。進捗報告はこちら

  1. 2011年05月20日 ハンブルク 物語の始まり。
  2. 2011年05月21日 姉妹都市 大阪市とハンブルク市。
  3. 2011年05月22日 ゆかりの作曲家 ハンブルクと縁浅からぬ作曲家。
  4. 2011年05月23日  名誉市民 和解と謝罪のしるし。1889年5月23日。
  5. 2011年05月24日  感謝しるし ハンブルク市長とビューローに。
  6. 2011年05月25日 Ehrenburger ハンブルク名誉市民になった人々。
  7. 2011年05月26日 Anerkenung der Hilfe 火災救援のお礼に。
  8. 2011年05月27日  正式な肩書き 名誉哲学博士。
  9. 2011年05月28日 ヘルムート・シュミット 第五代ドイツ宰相。 
  10. 2011年05月29日  ハンザ同盟 ハンブルクの正式名称について。
  11. 2011年05月31日  サウル へそくりの隠し場所の件。
  12. 2011年06月01日  ヨハン・ヤーコプ ブラームスの父の誕生日。
  13. 2011年06月02日  ハンザの語源 「ハンスの寄り合い」か。
  14. 2011年06月03日  ハンブルクとブレーメン ハンザ都市のライヴァル。
  15. 2011年06月05日  レーパーバーン 罪深き1マイル。 
  16. 2011年06月06日  ナンバープレート ハンブルクが「H」ではないとは。
  17. 2011年06月07日  ハンザの誇り ナンバープレートに見るハンザ。
  18. 2011年06月08日  アウトバーン アウトバーン1号線の名称。
  19. 2011年06月09日 渡り鳥ライン コペンハーゲンへの道。
  20. 2011年06月10日 コルヴェット艦ハンブルク 船の名前にもなっている。
  21. 2011年06月11日  ハフラバ 頭文字の合成語。
  22. 2011年06月14日  ハンブルクの呪い ポストに嫌われ続けたブラームス。
  23. 2011年06月15日  郵便番号 南高北低。
  24. 2011年06月16日 ヨアヒムの激怒 凄い剣幕。
  25. 2011年06月17日 ビートルズ発祥の地 書面上のビートルズ初出。
  26. 2011年06月18日 日当比較 ギャラの比較。
  27. 2011年06月19日 抱きしめたい ドイツ語のビートルズナンバー。
  28. 2011年06月20日 シュタインヴェック スタインウェイの創業者。 
  29. 2011年06月21日 魔弾の射手 15歳のブラームスのリサイタルを掲載した新聞。
  30. 2011年06月23日 空港コード 空港の3ケタコード。
  31. 2011年06月24日  フンメルフンメル ハンブルガーの合言葉。
  32. 2011年06月25日 コレラパンデミック コレラの流行と防疫体制。
  33. 2011年06月26日 義賊 シュテルデベッカー。
  34. 2011年06月27日 ノーベル文学賞 ブラームスとノーベル賞。
  35. 2011年06月28日 Kuewerderhafen 戦艦ビスマルクの生まれたドック。
  36. 2011年06月29日 初等学校 ブラームスが通ったフォスの私立学校。
  37. 2011年06月30日 海賊版 ハスリンク社リーナウとのやりとり。
  38. 2011年07月01日 主要5教会 ハンブルク市内の教会の位置づけ。
  39. 2011年07月02日 ドイツダービー ブラームスはホルン競馬場を知っていたか。
  40. 2011年07月03日 エルベトンネル 1911年5月7日竣工の河底トンネル。
  41. 2011年07月04日 ウーヴェ・ゼーラー ハンブルクの英雄にして名誉市民。 
  42. 2011年07月05日 門前払い 17歳のブラームスへのシューマンの対応。
  43. 2011年07月06日 ブンデスリーガ 名門ハンブルガーSVは、1887年の創立。
  44. 2011年07月07日  ザンクトパウリ ブラームスの生家に近いホームスタディアム。
  45. 2011年07月08日  ハンブルクの交易品 レーパーバーンはロープの生産地。
  46. 2011年07月09日 三顧の礼 マルクゼンは「二顧の礼」だったか。
  47. 2011年07月10日 ゲーテの暗号 ゲーテはモルヒネの薬効を詩にしたか。
  48. 2011年07月12日 授業料 10年間月謝無料。
  49. 2011年07月17日 Bundeskanzlerin 女性宰相は将来の名誉市民。
  50. 2011年07月18日 ブラームスゆかりの街 もちろん筆頭はハンブルク。
  51. 2011年07月20日 アルスタースズメ ブラームスの父の所属楽壇に近いか。
  52. 2011年07月21日  港町ハンブルク 民謡のテキストに英語が混じる。
  53. 2011年07月22日 小惑星 何でもありのネーミング。
  54. 2011年07月23日 ハンブルク訛り 定冠詞「Die」が「De」になる。
  55. 2011年07月24日 ハンブルク空襲 ブラームスの生家焼失は24日か25日。
  56. 2011年07月26日  ライスハレ ハンブルク楽界のメッカ。
  57. 2011年07月27日 ハンブルク港祭り 1189年5月7日ハンブルク開港記念日。
  58. 2011年07月28日 手間賃仕事 下積み時代のお仕事。
  59. 2011年07月29日 ハンブルク7区 ブラームスの生家は「中区」か。
  60. 2011年07月30日  市営切手 ハンブルク市は1859年に切手を発行した。
  61. 2011年07月31日 ハンブルクステーキ はたしてハンブルク名物か。
  62. 2011年08月01日 ハンブルクパセリ 根用パセリ。
  63. 2011年08月02日 北限のブドウ 北緯53度ハンブルクのブドウ。
  64. 2011年08月03日 アルスターヴァッサー 下面発酵ビールのレモネード割り。
  65. 2011年08月04日 アルトナ 近過ぎる街。
  66. 2011年08月05日 女声四重唱団 ハンブルク女声合唱団の前身。
  67. 2011年08月07日 女声合唱のための日曜日 「Sontag」の合唱版。
  68. 2011年08月08日 Fix oder Nix  女声合唱団の規約。
  69. 2011年08月09日 レージンク夫人 ハムの大家。
  70. 2011年08月10日 ハンブルク女声合唱団
  71. 2011年08月11日  市外局番 ハンブルクは「04」。
  72. 2011年08月12日 まわりみち 「Fix oder Nix」の意味。
  73. 2011年08月13日 受容の裾野 乙女たちの口伝。
  74. 2011年08月14日 ミントマーク 貨幣鋳造所の刻印。どうせなら「J」
  75. 2011年08月15日 インクスタンド 餞別の品。 
  76. 2011年08月16日 本日のこの記事。

2004年に「ブラームスの辞書」を書くために入手したパソコンが、とうとう壊れた。うんともすんとも言わなくなったのが6月24日。かれこれ4ヶ月くらい調子が悪かったから、覚悟はできていた。大切なファイルは避難させる時間があったので、大事には至らなかったが丸7年の付き合いだったから愛着があった。冥福を祈りたい。

我が家のパソコン環境は盆前にはひとまず復旧した。記事の備蓄があったせいで更新に影響が出なかったのは幸いだったが、さすがに記事を思いつかなくなったので40本くらい備蓄を切り崩した。2033年のゴールまでにあと何台のパソコンと付き合うのだろう。

2011年8月15日 (月)

インクスタンド

卓上でインクを入れておく容器のことだ。万年筆の発明は19世紀初頭に遡るものの、普及し始めるのは19世紀後半から20世紀にかけてだ。時間関係で申せばベートーヴェンは持っていなかったのは確実だが、ブラームスは持っていたかもしれないという感じである。

万年筆の普及以前にも作曲家は楽譜への記入にインクを使っていた。いちいちペン先をインクに浸しながら、せっせと書いていたのだ。だからときどき楽譜にはインクのシミがある。誤りを修正するときは、紙を薄く削った。バッハ研究において、筆跡の他これらの痕跡は、様式判定の重要なファクターになっていることは、良く知られている。

おそらくブラームスも作曲にはインクを用いていた。万年筆も出始めたとはいえ、ペンが作曲家にとっては必需品だったことも想像がつく。

1862年ウィーンに定住を決めたブラームスは、ハンブルク女声合唱団の定期的な指導が出来なくなった。このときハンブルク女声合唱団のメンバーは、ブラームスを気持ちよく送り出す。喧嘩別れではないし、むしろ団員からの信頼厚いブラームスだから、後ろ髪を引かれる思いもあったはずだ。彼女たちはブラームスに心をこめた餞別を贈る。銀製のインクスタンドだ。とても高価な品物だが、むしろ大切なのはそこにこめられた意味。それはその後のブラームスの仕事にとっての必需品だという認識だ。これには「ウィーンへ行って作曲でがんばってね」というメッセージに違いない。クララやヨアヒム、あるいはビューローなど、演奏家への餞別なら別の品物になっていたはずだ。紛れもなく「作曲家ブラームス」への餞別だ。

このときまだ、第一交響曲はおろか、ドイツレクイエムも世に出ていない。けれども彼女たちは、ブラームスの指導振りにもまして、団のための次々と書き下ろす作品の出来映えを見て作曲家ブラームスの可能性を肌で感じていたということだ。その証拠に団員の何人かは自分が受け持ったパートを写譜して持ち帰っていた。それらはブラームスから返却要請されることもなく現在に伝えられた。

ハンブルクを旅立つブラームスへの餞別ネタを以って5月20日から始まったハンブルク特集を収めることとする。

2011年8月14日 (日)

ミントマーク

貨幣の鋳造所を示す固有記号。アルファベット1文字で鋳造所の所在地を表す。貨幣にそのアルファベットが刻印される場合がある。ドイツは以下の通りである。

  • A ベルリン
  • D ミュンヘン
  • F フランクフルト
  • G カールスルーエ
  • J ハンブルク

いやはや難解だ。フランスではパリを「A」で表すから、「A」は首都かとも思うが、イタリアやスイスは「R」と「B」でそれぞれ「ローマ」と「ベルン」を示すので「首都=A」ともいえない。

アメリカは単純で「P:フィラデルフィア」「S:サンフランシスコ」「D:デンヴァー」という具合に都市名のイニシャルでOKだ。それだけにドイツの難解さが際立つ。都市名のイニシャルでいいのは「フランクフルト」だけだ。

とはいえコイン収集の業界では、ミントマークによって取引価格に差が出るといわれている。ハンブルクの「J」が「ヨハネス」の頭文字などというオチは虫が良すぎよう。しかし、どうせ小遣いをもらうなら「J」のミントマークがいい。

2011年8月13日 (土)

受容の裾野

ブラームスのウィーン進出は、ハンブルク女声合唱団との別れを意味した。総勢40名にも及ぶ乙女たちとの記憶を胸にブラームスがウィーンに旅立ったことはほぼ確実だ。40名の乙女たちというのが、重要だ。彼女たちは一部の例外を除いて、結婚した。ほぼハンブルク近郊の出身者で占められていたハズだが、結婚を契機にドイツあるいは欧州中に散っていったと思われる。そして子供を産み母となった。それぞれの家庭の音楽シーンの中で、母となった彼女たちは、必ずブラームスに言及したに決まっている。

ウィーンに雄飛して、めきめき頭角を現すブラームスのニュースを聞くにつけ、夫や子供に自慢する。「私は彼の指導を受けたことがある」「彼の新作を初演したことがある」「今も手書きのパート譜を持っている」などなどだ。やがては孫にだってその話を繰り返し聞かせることもあっただろう。

そうした受容の地盤が、ドイツ中に広がっていたのだ。彼女らの家族や子孫がブラームスの名声を下支えしたと思って間違いない。ドイツの家庭には音楽の下地がある。その流れの中に、ブラームスの話が自然に定着していたことを疑うことは出来ない。

ハンスリックが音楽誌に寄稿する論文が、強大な影響力を持った空軍だとするなら、彼女たちによる口伝は、精鋭の集まった歩兵部隊だ。空爆だけではけして都市を制圧することは出来ない。歩兵部隊の活躍は必須でさえある。

2011年8月12日 (金)

まわりみち

8月8日の記事で「Fix oder Nix」の意味をあれこれ詮索した。音楽之友社刊行の「作曲家◎人と作品」シリーズのブラームスの63ページには「全てか無か」とされているが、同社の刊行する「ブラームス回想録集」第1巻アルバート・ディートリヒの記事の中に、それとおぼしき記述があった。

43ページに「さっさとやるか何もやらぬか」とある。こちらには原文のドイツ語の標記が記されていない。もちろんハンブルク女声合唱団に関する描写の中だ。日本語としてフィット感としてはこちらが上だと感じる。うら若き乙女たちに奉るウィット溢れる規約であることを考えると「全てか無か」では大げさ過ぎると感じていたが、これでピッタリ来る。

2011年8月11日 (木)

市外局番

地名を何らかのコードに転換する試みとして、すでに「自動車登録番号」「郵便番号」を取り上げた。本日はその第3弾で「市外局番」だ。居住地から別の市に電話をかける際に、冒頭にダイヤルするから「市外局番」と言いならわされてはいるが、立派な都市コードである。日本では「03」が東京だ。

もちろんドイツにもある。主なものを列挙する。

  • 01 「01」番台は特殊用途だから特定の都市に割り振られていない。ちなみに015~017が携帯電話用になっている。
  • 020 エッセン周辺
  • 021 デュッセルドルフ周辺
  • 022 ケルン周辺
  • 023 ドルトムント周辺
  • 024 アーヘン周辺
  • 025 ミュンスター周辺
  • 026 コブレンツ周辺
  • 030 ベルリン 首都は「03」が似合うということだろうか。
  • 033 ポツダム
  • 034 ライプチヒ周辺
  • 035 ドレスデン周辺
  • 0369 アイゼナハ周辺
  • 038 ロストク周辺
  • 040 ハンブルク周辺
  • 0417 ヴィンゼン
  • 042 ブレーメン周辺
  • 043 キール周辺
  • 045 リューベック周辺
  • 048  ハイデ周辺
  • 051 ハノーファー周辺
  • 05231 デトモルト
  • 055  ゲッティンゲン周辺
  • 069  フランクフルト周辺
  • 071  シュトゥットガルト周辺
  • 072  カールスルーエ周辺
  • 07223  バーデンバーデン
  • 089  ミュンヘン周辺
  • 0911 ニュルンベルク周辺
  • 0921 バイロイト

もちろんブラームスの時代には電話は普及していなかった。単なるお遊びである。

2011年8月10日 (水)

ハンブルク女声合唱団

1958年ブラームスはハンブルク近郊ハムに下宿した。ピアノ四重奏曲第2番が完成するなど恵まれた環境だったという。そしてその下宿にほど近いとある家の庭先で、上手に歌う2人の少女を見かけて声をかけた。万葉時代を彷彿とさせる光景を連想する。実態はいわゆるナンパに近かったのではあるまいか。

彼等は、女声アンサンブルを結成しようということで意気投合した。仲間を2人加えて女声四重唱団になった。翌1859年1月ピアノ協奏曲第1番の初演が逆風に遭遇し、ハンブルクに舞い戻った頃には、その人数は28名にまで膨れあがっていた。やがては40名の団員を擁する立派な合唱団になった。1861年までブラームスは無報酬で、定期的な指導を引き受けたという。ブラームスの人柄と才能が一役買っていたと思われる。この合唱団の主たるメンバーには、生涯独身または晩婚の人が多いと指摘する切れ者もいるようだ。

レパートリーの中心はブラームスだ。ドイツ民謡をブラームスが編曲した作品が52、ブラームス自身のオリジナル作品が36、他の作曲家の作品をブラームスが編曲した作品が14で合わせて102曲が同女声合唱団のレパートリーだった。

ブラームス自筆のスコアが9種類、他者の手による筆写スコアが9種類、他者の手によるパート譜が25種類、現在に伝えられている。

筆写したのは主に団員だ。名前の判明しているのは以下の通り。

  • リープヒェン・ワーグナー嬢
  • ベティ・フェルカース嬢
  • マリー・フェルカース嬢
  • フランチェスカ・レンツ嬢
  • ラウラ・ガルベ嬢
  • ベルタ・ポルプスキー嬢 子守歌を贈られた人。

この他名前のわからぬ2名か3名が、筆写に関わっていたとされている。

そして何とクララ・シューマンの筆写譜も残っている。まさか大ピアニスト・クララにパート譜作りを手伝わせたのではあるまいな。

2011年8月 9日 (火)

レージンク夫人

1860年からハンブルク郊外のハムにある家をブラームスに貸した。つまり大家だ。古来日本では大家といえば親も同然だった。落語の中には面倒見のいい大家と気のいい店子の話が数多く出てくる。

レージンク夫人がブラームスを知ったのは姪っ子である姉妹を通じてのことだった。ベティとマリーのフェルカース姉妹はブラームスを中心に組織されたハンブルク女声合唱団のメンバーだった。優秀な歌い手であった姉妹は、合唱団のメンバーから選抜された女声四重唱団のメンバーでもあった。

レージンク夫人はこの姉妹からブラームスの人柄、そして何よりも才能を聞かされていたと思われる。作曲家にとって理想的な環境の家をブラームスに貸すことになった。アガーテとの破局、ピアノ協奏曲第1番の初演失敗という痛手のほか、両親の不和にも悩まされていたブラームスにとって願っても無い環境だった。

ブラームスはそこで作曲に精を出した。そして大家への恩に作品を献呈することで謝意をしめした。ピアノ四重奏曲第2番op26は、レージンク夫人に捧げられている。

2011年8月 8日 (月)

Fix oder Nix

音楽の友社刊行の作曲家◎人と作品シリーズの「ブラームス」に興味深い記述を見つけた。63ページだ。

ブラームスがハンブルグ女声合唱団を指導していた時代のエピソードである。団員の心得を記した規約をブラームスが起草したとある。起草にあたってのモットーが本日のお題「Fix oder Nix」だったとされている。「全てか無か」という訳語が添えられている。独話辞典を引くと「Nix」「Nichts」と同じ意味とある。「無」という解釈で混乱はない。一方の「Fix」を「全て」と記述した辞書は見当たらなかった。それ以前に名詞として収録されていない。「確固たる」とかいう意味の形容詞として載っていた。「oder」は英語で言うところの「or」だ。おそらくブラームスは「ix」という語尾の押韻を意識していたと思う。歌曲のテキストについての繊細な感覚を見る限り間違いのないところだ。「Fix」が少々無理目なのはそのせいかもしれぬ。

「さっさと決めてやっちまおうぜ」というノリを想定したい。

「Fix」の訳語が「全て」でいいのかどうかは棚上げするとして、若きブラームスがこのようなモットーを掲げていたこと自体が大変興味深い。どの程度マジだったのかは伺うことは出来ないが、心にもないことではあるまい。規約本文には「出席の義務」や「時間厳守」が謳われていたらしい。欠席者が多かったことや、時間が守れない人がいたことの裏返しであり、驚くには当たらないが、こうした雑務に関わっていたブラームスを思うと微笑ましい。

「全てか無か」というモットーは、満足できない作品を廃棄しまくったブラームスの行動と矛盾しない。私としては「Frei aber Froh」というモットーよりは数段納得性が高い。頭文字を並べて「FON」にした場合、音名に存在するのが「F」だけなので楽想に発展しにくいのが唯一の難点かもしれない。

後に子守歌を贈られるベルタ・ファーバーはこの女声合唱団のメンバーであった。

2011年8月 7日 (日)

女声合唱のための日曜日

「Sontag」op47-3は、ブラームス歌曲に初めて触れた思い出とともに不滅になっている。最近、ハンブルク女声合唱団について調べていて興味深い発見があった。

ハンブルク女声合唱団のレパートリーに「Sontag」があるのだ。ソプラノ2部とアルトのための女声三部合唱だ。テキストの歌い出しがop47-3と同じだ。ブラームス本人による編曲であることは間違いないとほくそえんだ。

ところが、念のために「5つの歌曲」op47の出版年を調べて驚いた。1968年の出版だ。ハンブルク女声合唱団での活躍は1861年、遅くも1862年春までだ。元々ハンブルク女声合唱団のために書いたものをあとから独唱用に編曲したと見るべきだ。女声合唱版はアカペラだから、日曜日独唱版の可憐なピアノ伴奏は後からつけたということだ。

マッコークルをよく見ると「5つの歌曲」op47の末尾に譜例付きで載っていた。1968年米国で出版されたと書いてある。楽譜があるのだ。

今日は日曜日というささやかなこだわり。

2011年8月 6日 (土)

2冠達成

勝利の女神さえ夢中にさせた決勝戦。90分では物足りずに、延長戦まで所望された女神だったが、アメリカの13番モーガンに乗り移ってやっぱりアメリカに微笑もうとした。なでしこの快進撃は沢の同点ゴールまでと決めたのだ。その女神の決断に猛然と抗議したのが岩清水梓。強烈なスライディングでモーガンをとめに入る。これが勝利の女神の逆鱗に触れ、彼女は審判にレッドカードをそそのかす。この瞬間までアメリカに勝たせる気だったのだ。

ところが、その後のなでしこの対応であっさり心変わりする。退場を抗議するどころか、潔く受け入れる岩清水本人もさることながら、チームメイトたちも「あんたのスライディングに賛成」のオーラを贈る。あとは残った者でがんばるからとモチベーションや結束が高まる始末。おまけにチーム最年少、ドリブル姫の体を張ったスライディングを見せられて、日本を勝たせることに決めたに違いない。

PK戦では海堀あゆみの足に降臨して見せたのはご承知の通りである。味方のレッドカードであれだけ感動した覚えが無い。岩清水本人にとってサッカー人生初のレッドカードは、なでしこのフェアプレイ賞を傷をつけるどころか、潔さを際立たせる結果となった。

昨年8月6日の記事をご記憶だろうか。ちょうど1年前だ。

「サッカーと野球の両方で、チャンピオンになる最初の国はどこだろう」と問題提起し、それに対する予想を展開した。野球とサッカーの世界で強豪国となるのはかなり難しいという主旨だった。日本男子が2010年南アフリカ大会で優勝していれば、達成であったが残念だった。

ところが記憶に新しいなでしこジャパンの活躍で、日本は野球とサッカーで世界チャンピオンとなった。WBC2連覇の日本は野球の現世界チャンピオンでありながらサッカーも世界チャンピオンになったということだ。1年前のあの記事で女子に言及していれば、相当カッコよかったのだが、そこまでの度量がなかった。

サッカー男子の優勝経験国は8カ国。女子に話を広げてもアメリカとノルウエイが加わるだけ。両国とも野球で勝てていないから、日本が初の快挙だ。

さっさと男子が優勝して、雑音を封じるしかない。

2011年8月 5日 (金)

女声四重唱団

1859年春、アガーテ・フォン・ジーボルトとの手痛い破局の後、ブラームスは故郷ハンブルクに半ば引きこもる。そこでふとした偶然からハンブルク女声合唱団の指導を引き受ける。快活な女性たちとの交流が、傷ついたブラームスを慰めたことはほとんど確実だ。

最終的には40名の大所帯になった合唱団のメンバーから特に優秀な4名が集まって女声四重唱団が結成された。もちろんブラームスが合唱団とは別にこれを指導した。

  • ベティ・フェルカース
  • マリー・フェルカース
  • ラウラ・ガルベ
  • マリー・ロイター

これがそのメンバーである。ベティ・フォルカースとマリー・フォルカースは姉妹だ。才能溢れるこの四重唱団は、クララやヨアヒムの前でブラームスの作品を歌ったことさえあるという。ウィーンに進出したブラームスは、この4名の写真を所望し彼女らもそれに答えている。ブラームスは姉エリーゼへの手紙の中で本気度は不明ながらラウラとの結婚の可能性について言及したこともある。

1868年4月10日ブレーメンにおけるドイツレクイエムの初演にあたり、この4人は合唱団の一員として演奏に参加している。

ブラームスの暖かい性格と才能は、これに親しく触れた乙女たちの人生にも少なからぬ影響を与えたようだ。ベティ・フェルカースを除く3名は当時としては晩婚または生涯独身だったらしい。

2011年8月 4日 (木)

アルトナ

「Altona」と綴る。ハンブルクの西側に存在する地区名であり、駅名でもある。主要な特急のいくつかが起点とするターミナルだ。狭義ではハンブルクの外だ。東京で言えば品川みたいなものか。現在では東京の中だが、江戸時代は江戸の外だった。ハンブルクに接する隣町くらいの位置づけだ。

ブラームスの恩師マルクセンはアルトナの生まれと言われている。

アルトナは語感からしてドイツっぽくない。地名の由来を調べているうちに興味深い説にたどり着いた。アルトナの語源は「All zu nahe」が訛ったものだという。「近過ぎる」という意味だ。ハンブルクに接する隣町というアルトナの位置付けそのままである。

2011年8月 3日 (水)

アルスターヴァッサー

直訳すれば「アルスターの水」だ。アルスター」と言えばハンブルクの象徴であるアルスター湖のことだが、実はビールのヴァリエーション、下面発酵ビールのレモネード割りのことである。ちなみに小麦ビール・ヴァイツェンのレモネード割りは「Russ」と呼ばれている。

ビールの不足をごまかす方便のハズだったが、さわやかなおいしさのため庶民の間に広まった。大酒豪ブラームスが、レモネード割りをチビリチビリとは考えにくいが、青年時代にはあるいはという気もする。

2011年8月 2日 (火)

北限のブドウ

ハンブルク市を取り囲んでいた城壁は今では撤去されて緑地などに転用されている。西側の市壁がエルベ川に接するあたりがエルベ公園になっていてそこの高台にドイツ最大のビスマルク像がある。まさにその足元、エルベ川に隣接した南向きの斜面にブドウが植えられている。シュトゥットガルト市から寄贈された苗が育ったものだという。1996年からちゃんと収穫されて限定ワインが生産されているそうだ。

ライン川の南向きの斜面がブドウの耕作適地になっているから、南向きの斜面は実に理にかなっているのだが、いかんせん北緯53度だ。17世紀の30年戦争まではハンブルクでもブドウが栽培されていたらしいが、当時は今よりも平均気温が高かった。まさに北限のブドウだ。味よりも話題性がセールスポイントなのだろうが、温暖化が進めばあるいはという気もする。

2011年8月 1日 (月)

ハンブルクパセリ

ハンブルクステーキの他にハンブルクの付く食べ物がないかどうか探していて見つけた。どうもハンブルク名物らしい。一般にパセリといえば洋食の付け合せに欠かせない。縮緬状の葉を生で食べる。本日話題のハンブルクパセリは、葉ではなく根を食べる。いわば根用パセリである。

学名は「Petroselinum crispum Var.napolitnum」という。「Var.」の前の部分「Petroselinum crispum 」が本来のパセリの学名だ。「Var.」というのは「変種」を意味する。そう。「変奏曲」の延長線上にある。学名の決まりで「変種」は「Var.」を付記して表す。

思わぬところで音楽へのこじつけに成功したのだが、ブラームスがハンブルクパセリを食べていたかどうかは確認できていない。

« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »

フォト

ブラームスの辞書写真集

  • Img_0012
    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
2020年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
無料ブログはココログ