レージンク夫人
1860年からハンブルク郊外のハムにある家をブラームスに貸した。つまり大家だ。古来日本では大家といえば親も同然だった。落語の中には面倒見のいい大家と気のいい店子の話が数多く出てくる。
レージンク夫人がブラームスを知ったのは姪っ子である姉妹を通じてのことだった。ベティとマリーのフェルカース姉妹はブラームスを中心に組織されたハンブルク女声合唱団のメンバーだった。優秀な歌い手であった姉妹は、合唱団のメンバーから選抜された女声四重唱団のメンバーでもあった。
レージンク夫人はこの姉妹からブラームスの人柄、そして何よりも才能を聞かされていたと思われる。作曲家にとって理想的な環境の家をブラームスに貸すことになった。アガーテとの破局、ピアノ協奏曲第1番の初演失敗という痛手のほか、両親の不和にも悩まされていたブラームスにとって願っても無い環境だった。
ブラームスはそこで作曲に精を出した。そして大家への恩に作品を献呈することで謝意をしめした。ピアノ四重奏曲第2番op26は、レージンク夫人に捧げられている。
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