ある形質
エルクが旋律の類型化のためにどのような特徴に目を付けたかの全貌は、エルンスト・シャーデ先生の著書「近代ドイツ民謡学の展開」の中でも明らかになっていない。しかしエルクの業績もさることながら、それを綿密に研究したシャーデ先生の論文も凄い。
ときどきもの凄いことをシレっと断言するから油断できない。
エルクは民謡の始原的な姿を尊重する立場だったことは既に何度も述べてきた。19世紀になってからの民謡然とした歌を断固排除したのだ。それを判定するツールとしていくつかが断片的に言及されている。ひとつはピアノ伴奏だ。ピアノ伴奏が存在すること自体既に論外という解りやすさだ。芸術作品としての価値とは全く別だ。ピアノ伴奏パートの出来がどれほど優れていても排除のフラグになる。
他にもある。旋律の進行に7度跳躍が現れたらアウトというものだ。上行にしろ下降にしろ7度の跳躍というメロディーラインは始原的な民謡には現れないとエルクは断言している。
旋律の進行という意味ではもっと興味深いのは、「導音に到達する6度の下降」を19世紀的と断じている。これが現れたらアウトだという。つまり「7度の跳躍」と「導音に到達する6度の下降」という形質が、判定のツールになっているということだ。きっとこのような目安がエルクの中には山ほど蓄積していたに違いない。
ところで私は「導音に到達する6度の下降」と聴いて脳味噌が酸っぱくなる。すぐに思いつくのは「いかにおわすか我が女王」op32-9だ。作品の末尾に「導音に到達する6度の下降」が見られる。「4つの厳粛な歌」の4曲目の結尾にも同様の進行が現れる。何のかんのと申してもその進行はブラームスっぽいのだ。
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