メッテルニヒ体制
1814年ウィーン会議で取り決められた「ナポレオン後の欧州の秩序」をいう。会議を主導したオーストリア外相の名前に因む。集まった国々の思惑が交錯し議論がなかなか進まず「会議は踊る」と揶揄された。会期は何と232日に及んだ。
革命前の勢力図への復帰が意図された。プロイセンは強国ではあったが、全般に見てドイツは小国分立の状態が維持された。フランス、オーストリア、ロシアなどドイツに統一国家が現れては困ると言う点では利害が一致していたと評価されている。
ドイツに分散する学生たちはこれを憂うことになる。「何でやねん」という具合に集まって気勢を上げる。19世紀における学士会活動の興隆期が1810年代から1840年代とされていることと一致する。多くの学士会が「ドイツの自由と独立」を旗印に活動した。だから「祖国のために喜んで身を投じる」という気風が育まれ、極端な場合には「命も惜しくはない」とエスカレートした。
ブラームスの少年時代は、この時期に相当する。時代の空気と共に学士会の心意気をも吸い取っていた可能性がある。
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