学生牢
「Karzer」の訳語。ドイツの大学には、風紀を乱した学生を収監する学生牢があった。有力な大学は、重大犯罪以外は警察権力の介入を拒み、学内裁判権を持っていた。学長により任命された学内判事の評決により、1日から最高30日まで範囲で収監された。後に最長日数が2週間以内とされたが、その間に与えられるのは水とパンだけだったらしい。学内裁判権が撤廃されたのは1879年だから、ブラームスの青春時代にはまだ効力があった。
収監と言ってもそこは大学で、昼間は講義への出席が義務付けられていた。やがて学生牢への収監経験それ自体が名誉とされるまでになる。学生牢の内部はいつしか、収監された学生たちの落書きで覆われるようになった。
戦禍を免れたいくつかの大学では、今でもこれが現存されているばかりか、ハイデルベルクのように観光地化しているケースもある。
1853年夏、ブラームスがヨアヒムともに過ごしたことで知られるゲッティンゲン大学の学生牢は現存している。ブラームスたちが聴講にやって来る20年前、後のドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクは、たった1年間だがここゲッティンゲン大学に所属していた。そして11日間学生牢に収監されていたという。何とそこにはビスマルク本人の落書きが残っているらしい。ブラームスがヨアヒムらとともに、この学生牢を見たという可能性はゼロではない。当時はまだ、現実に収監される学生もいたに違いないから、簡単に見学出来たとは思えないが、その存在くらいは聞いていたと思う。
ビスマルクがプロイセン王国の首相に就任するのは1862年だ。ブラームスがゲッティンゲンで過ごした頃、ビスマルクはプロイセン下院議員に初当選から4年後だから、まだ極端な有名人とはいえなかった。後にブラームスはビスマルクに心酔することになるが、この段階では、その落書きを見て心を踊らせたとは思えない。
しかしながら、はるか26年後の「大学祝典序曲」の基礎は、このゲッティンゲンで培われたと考えていい。
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