セカンドの見せ場
二塁手がからむ併殺プレイのことではない。第二ヴァイオリンのことだ。「大学祝典序曲」op80に第二ヴァイオリンの見せ場がある。129小節目学生歌「ランデスファーター」の部分だ。
学生歌集を見てすぐに気付くのは、ブラームスが引用した部分は、学生歌「ランデスファーター」の冒頭ではないということだ。引用は第二の部分に相当する。移動ドで「ソーミド」と降りてきて、オクターブジャンプする最初の小節だけが一致している。この1小節だけは第一と第二の両ヴァイオリンがユニゾンだ。第一ヴァイオリンはその到達点の実音「E」をずっと引き延ばす。その下で第二ヴァイオリンはうねるような旋律を受け持つが、それは厳密に申して「ランデスファーター」の旋律と一致していない。
しかし、おそらく学生歌に精通した人は間違いなく「ランデスファーター」を思い浮かべるものと考える。最初の小節の「ソーミド↑ド」という特徴ある動きこそが、「ランデスファーター」を象徴している。セカンドヴァイオリンにとっても見せ場なのだが、高い「E」音を引き延ばす第一ヴァイオリンも捨てがたい。
亡き妻との結婚当初の目標は、家族でブラームスのピアノ五重奏を弾くことだった。妻がピアノで、長男がチェロ、娘らにはヴァイオリンをさせて私がヴィオラという皮算用。妻の死でさっそく挫折したが、子供らの未来の配偶者を勝手にあてにして計画は継続。長男がチェロに見向きもせずに第二の挫折。娘2人にヴァイオリンを習わせることで盛り返したかに見えたけれど、第一ヴァイオリン予定の長女がバドミントンに走ったのが第三の挫折。つまり次女は頼みの綱。極端な話、万が一私がピアノ五重奏ではなくて、「ピアノ四重奏を家族で」と欲していたら、次女は生まれていない。だから次女の存在は紙一重の縁。
次女が妻のおなかにいたころ、毎日おなかをさすりながら「セカンドヴァイオリン、セカンドヴァイオリン」と念じてきた。無事生まれたときには「セカンドヴァイオリンが生まれた」と喜んだ。今その子が一縷の望み。彼女がオケに入ってセカンドヴァイオリンに固執し、そのセカンドヴァイオリンでパートリーダーになるのは、そうした刷り込みのせいに違いない。母なるセカンドヴァイオリン。
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