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2012年4月27日 (金)

ラインラント

ナポレオン没落後の欧州秩序を話し合ったのがウィーン会議だった。オーストリア宰相メッテルニヒが、ロシアと英国を仕切った。このときプロイセンはかろうじて勝者側だった。ナポレオン軍には数回決定的な敗戦を喫し、国土もほぼナポレオンに掌握されていた。逆転のターニングポイントはロシアの冬将軍だった。諸国民戦争で最終的に勝利を得たライプチヒの戦いでは、オーストリアの参戦がキーになった。

だからオーストリア、ロシア、イギリスに比べると肩身が狭かったのだ。プロイセンのザクセン併合の要求は案の定列強によって退けられた。代わりにとばかりにあてがわれたのが本日話題の「ラインラント」だ。文字通りライン川沿岸の地だ。プロイセン本国との間には他国領が横たわっていて、飛び地が増えたということになる。

何よりもナポレオンは除かれたと言ってもフランスはまだ強大だった。ラインラントを領有するということは、ライン川を介してフランスと国境を接するということだ。列強にとっては厄介な「ラインの護り」をプロイセンに押し付けたようにも見える。

押し付けたつもりの列強は後日羨むことになる。あるいはプロイセンが狙って獲ったのなら凄いことだ。このときにプロイセンが獲得したラインラントには莫大な石炭資源が眠っていたのだ。この地域がプロイセン産業革命の心臓部とも言うべきルール工業地帯になる。わずか50年でドイツ最大あるいは欧州最大とも目される工業地帯へと発展する。

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