独逸遠征
一昨日、次女がドイツ演奏旅行から帰国した。3月28日出発で4月4日帰国の8日間。デュッセルドルフとニュルンベルクで演奏会を開いた。
生徒たちのドイツ演奏旅行を追いかける保護者向けのツアーが募集されたので、私と長男も参加した。夢のような8日間。今は何から話そうかという状態。アラビアンナイト計画を少し中断して、その模様を特集にする。
次女の高校進学で、私が今の学校を推薦したのはまさにこの演奏旅行が最大の要因だった。日本のクラシック音楽愛好家にとってドイツは憧れの地。高校生の部活オケの分際でそんな本場に乗り込んで日頃鍛えた業を披露するなど、そうそうある話ではない。ホームアンドアェイが文化として底流するサッカーであれば、アウェイではそれ相応の理不尽も覚悟せねばならぬ。本場ドイツの聴衆の反応が楽しみというより心配だった。
全くの杞憂。
何と言ってもメインは4月1日のニュルンベルク公演だったのだが、そこで想像を絶するハプニングに遭遇した。一部の最後を飾るファリャ作曲バレエ組曲「三角帽子」の第5曲中盤、ホール客席後方でいきなり破裂音。最初はシンバルか何かを落したのか思って、音のした方向を眺めると、壁板が外れてスプリンクラーから水煙が上がっていた。辺りの椅子が既にびしょぬれの状態。ざわつく客席、動揺が広がって行く。
生徒たちはと見れば、そちらの方向に意識をとられることもなく演奏を続けているが、聴衆の狼狽は徐々に拡大伝染している。指揮者は第5曲をエンディングまで導いた後、客席後方の異変に明らかに気づいた様子だったが、一瞬の間のあと意を決したようにオケに向き直り、さあ行くぞとばかりにタクトを一閃させた。オケのメンバーは何事も無かったように棒に従う。「2年間準備してきたニュルンベルク公演をこれしきのトラブルで台無しにされてたまるか」という、気迫が演奏に乗りうつる。結果かつてない「終幕の踊り」になった。尋常ならざる気迫が込められた凄絶なファリャ。
その決意は音を通して直ちに聴衆に伝わる。相変らず噴霧を続けるスプリンクラーの存在は次第に意識の隅に追いやられてゆく。オケにも聴衆にもこのハプニングをねじ伏せてやるぞという気合が充満し始めた。結果として過去最高のファリャ。終止和音と同時に、ものすごい喝采が沸き上がった。およそ歓声4、拍手3、口笛2、噴霧音1の割合。演奏を終えたオケにかわって聴衆の喝采がノイズをねじ伏せたかのよう。それはそれは感動的な光景。これを見たメンバーの一部が泣き出す始末。
程なく場内アナウンスが、ホールからの退去を促す。ロビーに集まった聴衆は、コーヒーやビールを片手にくつろぎ始めた。我々親は不安いっぱいだったが、ドイツの聴衆は再開を疑っていない風情。やがてロービーからも退去を命じられる。少しずつ駐車場に向かう人も出始めた。これら諸現象の原因が把握できるまで再開は見込めない様子。幸い間もなくロビーへの入場が認められた。程なく30分後に再開とアナウンスされたとき、耳を疑った。ロビーで待つ聴衆から盛大な拍手が沸きあがったのだ。待ってるから続きを聞かせろの意思表示だ。これには目頭が熱くなった。楽屋にいた生徒たちにぜひとも伝えたい話。
考えても見て欲しい。演奏会の本番中に、客席にむかってスプリンクラーが作動した経験の持ち主が、どれほどいるというのだろう。大多数の人にとって初体験想定外のハプニングに遭遇した生徒らの態度は立派の一言。「我々が演奏をやめるのは指揮者が止めたときだけ」と腹に決め、団結して棒に従う姿勢は見事。音のする方向に目をやるものなど一人もいない。はっきりいってこのハプニングをキッカケに音色が変わった。会場の雰囲気も変わった。聴衆との一体感がアップした。震災に負けない日本の決意がうそではない証拠をドイツ聴衆につきつけたようなものだ。
CDやDVDにする予定の公演だから、その噴霧音は歓迎されざるノイズ。聴衆を帰したあと、オケだけでリテイクも考慮されたが、生徒たちはそれを圧倒的多数で否決する。「あんなテンションの演奏は二度と出来ない」「客のいないホールで、ただ録音のための演奏であの気迫を再現できるはずもない」というのがその理由だという。見上げた見識だ。演奏会後の打ち上げで、渾身の力でオケをささえ続けた打楽器のパートリーダーの挨拶が極上だった。「私たちの演奏でスプリンクラーまでも泣かせた」とメンバーの心意気を代弁したのだ。
この話から始めざるを得ない強烈なインパクト。
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