ブラームス神社

  • 道中安全祈願

おみくじ

  • テンプレート改訂しました

独逸日記

  • ドイツ鉄道博物館のおみやげ
    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

ビアライゼ

  • Schlenkerla
    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

カテゴリー

« 2012年4月 | トップページ | 2012年6月 »

2012年5月31日 (木)

部活の元日

元日は一年の始まり。心新たに新年の抱負を決意する区切りだ。だから「元日」には新たな取り組みのはじまりという意味が派生する。プロ野球選手たちはキャンプインの2月1日を「元日」と位置づけている人もいる。

娘が所属する高校オケの元日はその意味では明日6月1日だ。5月中旬のスペシャルコンサートで3年生が引退し、残された2年生はあらたに加わった1年生とともに新体制を立ち上げる。実際に活動が止まることは無いが、だいたい今頃、親に対してプリントが配られる。1年間のコンサートの予定や、そこで取り組む曲が通知される。顧問の先生やトレーナーの先生のメンバー紹介もある。5月最終週に開催される後援会の総会も一区切り感の醸成に一役買う。

いよいよ次女たちの代が始まる。学業を犠牲にすることをきつく戒められながらの、怒涛の一年の始まりだ。ここで知らされた曲に1年をかけてと取り組み、来年のスペシャルコンサートに賭ける青春。親がかけつけて聴くことが出来るコンサートの日、今からカレンダーに印をつける予定。彼女らの演奏が年間を通じて熟成して行く様子をじっくりと味わうこととする。

2012年5月30日 (水)

ブログ開設7周年

本日ブログ「ブラームスの辞書」は、開設以来満7年の節目を迎えた。めでたいにはめでたいのだが、ビスマルク特集と次女の高校オケネタの折り合いでアップアップの状態。感慨にふける余裕はない。来年7月までを会期とする「アラビアンナイト計画」は、次女のオーケストラライフと時期的に重なる。この先現役生活最後の1年となる次女のオケネタが膨張するに決まっている。

それにつけても心苦しい。

ブラームスの作品を味わうのに、ビスマルクの知識が要るのかと問われれば、そこはさすがに「No」の一手。私だって高校の世界史レベルの知識しかないまま、19歳でブラームスに魅せられたから、ブラームス作品の味わいにビスマルクは不要だ。まずは潔くこのことを認めざるを得ない。

本日は、それなのに何故、延々とビスマルク特集なのか言い訳をさせていただく。

  1. 記事の本数稼ぎ 2033年5月7日のブラームス生誕200年までにブログを継続するには10252本の記事が必要になる。こうでもしないととても確保が難しい。これが最大の理由。本当はこれに尽きる。
  2. ドイツ史の黎明から現代までを満遍なく取り上げるのは、さすがに憚られる。とりわけビスマルクを選んだ理由は、ビスマルクの活躍した時代は、ほぼ等身大的にブラームスの生涯と一致することだ。これが大きい。
  3. ビスマルクネタの羅列列挙は、どんなに細かいことでも、ブラームスの生きた時代の空気を反映したものだ。新聞を隅から隅まで読んだブラームスは、音楽にかかわる時間以外では、いっぱしの見識を持った大人だった。政治や世相には重大な関心を持っていた。少なくとも世間知らずの天才肌ではなかった。
  4. 音楽家の伝記は、全体の記述における政治世相ネタが薄すぎる。
  5. ブラームス自身がビスマルクの熱心な支持者だった。ブラームスが、シューマン夫妻やバッハ、あるいはドヴォルザークを愛した話は繰り返し語られるけれども、ビスマルクを賛美した話はサラリと言及されるだけだ。
  6. 先般のドイツ旅行。ドイツの空気に生で触れたことによる精神の高揚も見逃せない。

2012年5月29日 (火)

ピアリッツの密約

1865年10月のこととされている。南仏の保養地ピアリッツに滞在していたフランス皇帝ナポレオン3世をプロイセン宰相ビスマルクが訪問した。

そこで交わされた会話。ビスマルクがナポレオン3世から独墺開戦の折には、フランス中立の約束を取り付けたといわれている。見返りはルクセンブルクとベルギーのフランスへの併合を黙認するというもの。合意には至ったらしいが記録文書はない。単なる口約束だ。

ビスマルクはフランスさえ黙っていてくれたらオーストリアには勝てると踏んでいた。ナポレオン3世は、この戦いはどちらにしろ長期戦で、そもそもプロイセンが勝つとは思っていなかった。

普墺戦争はその9ヵ月後。大方の予想を裏切ってプロイセンの圧勝。しかも7週間で決着した。ナポレオン3世は独墺の休戦交渉が始まってからのこのこと密約の実行を求めてきたが、ビスマルクは「はて」とばかりに取り合おうとしない。

フランス側が「サドヴァの屈辱」というのは、このあたり一帯の外交上の失態までも含んでいる。

2012年5月28日 (月)

現役復帰

主にプロスポーツにおいて、一度引退した選手が、第一線に戻ってくること。

昨日の記事で次女が所属する高校オケの後援会の総会があったと書いた。生徒たちの一区切りはスペシャルコンサートなのだが、後援会の一区切りはスペシャルコンサートの2週間後にやってくる総会だ。その席で役員が交代する。私はそこで今後1年間の役員に名を連ねることになった。

実は総会後、すぐ隣の文化ホールに場所を移して、ささやかな演奏会が開かれた。5月13日に引退式を終え、既に第一線から離れたはずの3年生も一日だけ現役復帰する。

その演奏会の主旨がとてもおしゃれだ。1年間がんばった後援会役員の慰労だ。総会に集まった保護者対象の演奏会。総会は後援会にとって一つの区切り。特にここで退任する役員にとっては集大成ともいえる重要なイベント。子どもたちにとってのスペシャルコンサートにも匹敵する。だから子どもたちからの演奏は大きなプレゼント。

一般の後援会員は文化ホール2階席で聴くのだが、新旧の役員だけは1階、生徒たちと同じフロアで聴くことが出来る。およそ100名のフルオケの前に、イスが12脚おかれて、35代役員と36代役員が着席する。小さなホールだから1階で聴いても2階で聴いても大差なく鑑賞できるのだが、そこはやはり気持ち。形式上見かけ上は生徒たちフルオケがたった12人の役員のために演奏を披露する体裁になる。

曲目は2曲。先日のスペシャルコンサートでアンコールのラストだった「ラデツキー行進曲」と、ニュルンベルクでのアンコール「ふるさと」だ。入団からやっと1ヶ月の1年生も加わった演奏。とりわけ「ふるさと」は特別なシチュエーションともあいまって親たちに対しては必殺の訴求力を持つ。

引退した35代の生徒が一日だけ現役復帰する意味が、やがてあきらかになる。演奏後、このたび任期満了となる35代の後援会役員に、子供本人から贈り物が手渡される。親も子も大照れなのだが、感動的。なんとも粋な現役復帰である。

2012年5月27日 (日)

後援会

次女たちの高校オケには後援会なる組織がある。オーケストラ部所属の生徒の保護者の集まり。数人の役員さんの元、精力的な活動が継続的に行われている。子どもたちの演奏が素晴らしいというのは紛れもない事実だが、親のサポートも半端ではない。

名目上の活動目的は、子どもたちのサポート、顧問の先生への協力、ほぼ毎月あるコンサートや合宿での差し入れ、楽器運搬の応援、コンサートの応援。何よりもコンサートには気合を入れて駆けつける。コンクールでは審査員席に念を送る。そしてそして懇親会は先生を囲んで慰労と懇親。

大きな懇親会は年2度。何せ保護者の集まりだから、本当に盛り上がる。よその子まで本当に応援したくなる。難解なソロがあった子や、部長、副部長で苦労している子の保護者どうしで健闘を称えあう。親ばかをさらしても浮き上がらないというのが嬉しい。

昨日、年に一度の総会があった。

その席上、私が今年度の役員の末席を汚すことがきまった。立候補こそしていないが、新入り保護者の分際で昨年から随分目立っていたから案の定という気もする。母親がいない分ですという言い訳が全く通らぬくらいののめり込み。今後さらに学校を訪れる機会が増え、娘の活動の様子を覗けるという下心だったが、娘から「役員やってもいいけど、練習場をうろつかないでね」と先回りの釘が刺さった。付き合いが長いせいか完全に読まれている。娘たち36代をキッチリと見守る準備が整った。

2012年5月26日 (土)

弱腰外交

普墺戦争で勝ったプロイセンは、敗者オーストリアに対して寛大だった。

  1. 領土の要求をしていない。共同統治だったシュレスヴィヒ・ホルシュタインを取り上げたが、オーストリア本来の領土はそのままにした。一方オーストリア側に付いた領邦からはキチンと領土を接収しているから、オーストリアの特別扱いが目立つ。
  2. ウイーンへプロシア軍を入城させなかった。
  3. 賠償金を取っていない。
  4. ハプスブルク家も維持された。

プロイセンの世論はこれを「弱腰」と叩いたが、ビスマルクの目は既に次の敵フランスを見ていた。ケーニヒスグレーツの勝利を見て、フランスが武装仲裁に入る動きを見せた。戦いを長引かせて介入されたら、土地の一つもくれてやる必要が出てくるし、形勢逆転もあり得る。

これに対する一番の対処法こそが、すみやかな和平だ。さっさとオーストリアと講和してしまえば、フランスの介入を封じることが出来る。その上寛大な扱いでオーストリアに恩を売っておける。ビスマルク外交の真骨頂だ。普墺戦争はドイツ連邦内でのオーストリアとプロイセンの立場逆転だけを認めさせて結着した。わずか7週間である。

2012年5月25日 (金)

ニコルスブルク

チェコとオーストリア国境の街。チェコ領ブルノの南およそ50kmにある。ウィーンまでは南南西に70kmの位置にある。現在はチェコ領なのでミクロフと呼ばれている。1866年7月ケーニヒグレーツの戦いに勝利したプロイセン軍は、ウイーンを目指して南下中に、フランスナポレオン3世から早期休戦の提案が出された。プロイセン軍はこの地で進軍を一時中止する。

同地のニコルスブルク城で、提案の受け入れをめぐって皇帝を交えた大論争が起きた。モルトケを含む軍首脳はウィーン入城を主張し、皇帝ウィルヘルム一世までもこれに同意する中、一人ビスマルクだけが断固反対の立場をとる。ビスマルクの反対の理由は以下の通り。

  1. フランスの提案を拒否すれば、フランス軍のライン地区への侵入もあり得る。
  2. ウイーンへの入城はオーストリア側に禍根を残す。

皇帝の説得が出来ねば自決までも考えたビスマルクだが、ここで皇帝の息子皇太子のちのフリードリヒ3世が、ビスマルク支持に回って何とか皇帝の説得に成功する。軍部は不満たらたらだったし、世論は弱腰を嘆いたが、フランスの落胆はそれ以上だった。7月26日に成立した「ニコルスブルクの仮条約」は、フランス側に軍事介入の口実が無くなった上に、オーストリアに貸しを作った。

2012年5月24日 (木)

何故ケーニヒスグレーツか

普墺戦争におけるプロイセン大勝の理由として、周到な準備が指摘されることが多い。プロイセン側が、決戦の場所をケーニヒスグレーツに設定して早くから準備をしていた。プラハの東北東およそ120kmの位置にあるケーニヒスグレーツが、何故決戦の場に選ばれたのだろうか?

第一の理由は、フランスやオーストリアなど古くから中央集権が進んだ国は、大変首都を大事にするということだ。パリやウィーンを征服から守ろうとする。敵地に攻め入る場合は首都の征服を目標にすえる。プロイセンは首都に対してそこまでは思いつめない。首都よりも陸軍主力の方が大事というスタンス。軍さえ無事なら首都なんぞいつでも取り戻せるという発想だ。

だから、オーストリア軍は必ずベルリンを目指して最短コースをたどるハズだとモルトケは考えた。ケーニヒスグレーツは、ウィーンからベルリンを目指す最短コース上にあることに加えてエルベ川の渡河地点になっているし、当時はプロイセン領ではなくハプスブルク領だった。

そして世間の予想は、「オーストリア有利」であった。オーストリアがウイーン篭城を選択することはない。

ブラームスのウィーン進出以降、とりわけ1864年のデンマーク戦争以降、普墺間の風雲は急を告げていた。

2012年5月23日 (水)

サドヴァの屈辱

ケーニヒスグレーツにおけるオーストリアの大敗をフランスから見た言い方。「サドヴァ」は地名。チェコ語による現地名だ。普墺戦争は同盟を考慮に入れると、プロイセンがドイツ連邦の有力国を相手に戦ったと位置付けられる。ブラームスの故郷ハンブルクはプロイセン側だが、バイエルン、ザクセン、ハノーファー、ヘッセンなど有力領邦がオーストリアについた。

傍から見ていたフランスは、内心「オーストリアが勝つ」と思っていた。普墺戦争でのオーストリア勝利、プロイセン敗北を前提とした外交姿勢だった。プロイセンが追い詰められたところに、仲裁に入ってオーストリアに恩を売りつつあわよくばライン川一帯の領土を割譲させるという青写真だ。

ケーニヒスグレーツでのオーストリアの惨敗で青写真は崩れた。このことを指して「サドヴァの屈辱」と言っているのだ。オーストリアが「屈辱」というなら理解できるが、自分が負けたわけでもないのに、予定が狂っただけで「惨敗」というのはいささか虫がいい。裏を返せばこの結果がどれほどの番狂わせを表している。

ビスマルクにとっては予定通り。

2012年5月22日 (火)

ケーニヒスグレーツ

「Konigsgratz」と綴る。「o」と「a」はウムラウトする。現チェコ領でプラハの東およそ70km付近。

1866年7月3日普墺戦争の天王山はプロイセンの勝利で終わった。プロイセン以外の国々はオーストリアが勝つと思っていたらしい。カトリック・オーストリア敗北の知らせを聞いたローマ法王は「世界の崩落だ」と叫んだという。

ナポレオン戦争後のウィーン体制で発足したドイツ連邦の盟主をかけた戦い。この勝利によりプロイセンはドイツ連邦の盟主となり、オーストリアを排除したドイツ統一を推進することとなる。

ブラームスはオーストリアの敗北をスイスで聞いたハズだ。1866年の6月から演奏旅行に出かけ、ウィーンに戻ったのは11月であった。6月15日から7週間で終わった戦争のほぼ全期間スイスに居たのだ。何らかの空気を読んだ可能性もある。

2012年5月21日 (月)

本陣の場所

1866年普墺戦争の決着をつけた戦いが「ケーニヒツグレーツの戦い」と呼ばれている一方で、フランスでは同じ戦いが「サドヴァの屈辱」と通称されている。てっきり同じ場所のドイツ語名がケーニヒスグレーツで、チェコ語名がサドヴァだとばかり思っていたが、そうではないらしい。

日本で天下分け目と言えば、関が原の戦いが思い浮かぶ。東軍対西軍の激突なのだが、大名連合軍の対決だった。総大将は東軍徳川家康で、西軍が石田三成。家康の本陣が桃配山で、三成の本陣が笹尾山に置かれた。先のケーニヒスグレーツとサドヴァの相違は、桃配山と笹尾山の相違に等しい。

オーストリア軍の本陣こそケーニヒスグレーツ付近だったが、プロイセン軍の本陣はサドヴァにあったということだ。

オーストリア国民はケーニヒスグレーツに布陣した自国軍が、プロイセン軍に包囲されて惨敗したことを知っていた。だから単なる地名に過ぎない「ケーニヒスグレーツ」が、「ひどい」という意味の形容詞として用いられることとなった。

「Oper」の名で親しまれる現国立歌劇場は、建設当時徹底的に批判された。あまりの不評に設計責任者が自ら命を絶つという悲劇も起きた。新婚旅行で現地を訪れたミーハーな一観光客の私は、どこがひどいのかよくわからなかったが、当時のウィーン市民は歌劇場を「建築史上のケーニヒスグレーツ」と呼んだ。

2012年5月20日 (日)

普墺戦争

プロシアとオーストリアの戦争。1866年6月15日にプロシアの宣戦布告により開戦し、8月23日にはプロシアの勝利で終結した。欧州の情勢はなかなか複雑で、大雑把な理解にたどり着くにももう少々の説明が要る。

ナポレオン戦争の後始末として生まれたドイツ連邦の内輪揉めと見ることも出来るらしい。ドイツ連邦の盟主はオーストリアだ。この戦争はそのオーストリアと他の連邦加盟国の戦いという図式になっているからだ。産業革命に遅れまいと近代化を図るプロイセンが、その過程でオーストリアの位置づけと扱いを決着させた戦いと評価されている。この敗戦の結果オーストリアは、域内に多数のドイツ系住民を擁しながら、ドイツ統一推進の枠外に置かれることとなった。

1866年開戦という事実を凝視する中から疑問もわき上がる。

1862年にウィーンに進出し1863年にはジンクアカデミーの指揮者を引き受けたブラームスは、そのころウィーン定住を決めていた。申すまでも無くブラームスはハンブルクの出身だが、そのハンブルクは一都市でありながら高い自治を認められた自由都市だった。先に述べたドイツ連邦においても、その議会で議決権を認められた存在だ。ということはつまり普墺戦争においてはオーストリアと敵対関係にあったということだ。

オーストリア側から見れば敵国人が首都にいるということだ。白い目で見られたりはしなかったのだろうか。

当時オーストリア域内には相当な数のドイツ系住民がいた。この人たちをいちいち敵国人扱いしていたらキリが無いというのが真相だろうと思う。何よりも戦争は7週間で終わったから、実際の影響はほぼなかったと思われる。ちなみに「美しく青きドナウ」はこの戦争で落ち込む市民を励ます意図があったらしい。後年ブラームスは、シュトラウスの娘の求めに応じてサインをした際に、冒頭の一節を書き「遺憾ながらヨハネス・ブラームスの作にあらず」としたためたというエピソードが知られている。普墺戦争のことを深刻に受け止めていたとは思えない。

1871年フランスとの普仏戦争については、ブラームスの伝記でも頻繁に言及されるが、普墺戦争については、あまり話題にならない。

2012年5月19日 (土)

デンマーク戦争

古い独和辞典の巻末付録にお宝があった。

実はそこに1806年神聖ローマ帝国解体時の勢力地図が載っていた。これによるとブラームスの故郷ハンブルクはデンマーク領に接しているように描かれている。リューベックとハンブルクを結ぶ線がデンマークとの国境になっている。不思議に思って調べてみた。

当時そのあたりにはホルスタインとシュレスヴィヒという2つの公国があった。どちらもデンマーク王家の親戚が支配しているから実質的にデンマークだったという訳で、先の勢力図では大胆に簡素化して描かれていたということだ。この地の領有をめぐって1848年と1864年の2度にわたってデンマーク王国とプロイセンが戦った。結果プロイセンが勝ち、これら2つの公国はプロイセンとオーストリア帝国の共同統治下におかれることになった。

その2年後に今度は勝った側の内輪もめが起きる。普墺戦争だ。これに勝ったプロイセンは両公国の支配からオーストリアを締め出すことに成功した。現在のシュレスヴィヒホルシュタイン州である。

この2公国がプロイセンの支配になった2年後1868年3月25日ブラームスはコペンハーゲンでの演奏会の折、コペンハーゲンの立派な博物館を称賛して「これがドイツにあったら」と口を滑らす。両国の微妙な情勢を読めないブラームスの舌禍事件であった。ブログやツイッターなら炎上だ。

2012年5月18日 (金)

仕事速い

いやはや目を疑った。昨日早朝公開の記事で次女の通う学校の実名に言及した。公開の前夜ネット検索してみた。「学校名」と「オーケストラ」をアンド検索したが、確かに我がブログは引っかからなかった。少なくとも検索結果上位10ページ以内に表示されない。

ところが昨日19時10分、「千葉女子高」と「オーケストラ」のアンド検索で我がブログが引っかかった。グーグル検索で3ページ目の10番目、全体の30番目に表示されていた。

我がブログには某検索エンジンからクローラが頻繁に来ているから、そこそこのタイミングで検索されるようになるとは思っていたがこれほど速いとは思わなかった。これで6日連続の高校オケネタ。本当は今日からビスマルク特集を再開する予定だった。検索でヒットするまで、少なくとも数日かかると思っていたが、まさか当日とは。しかも30番目とはいきなりの高順位。ちなみにヤフーでは7ページ目の3番目。

検索機能恐るべし。

2012年5月17日 (木)

健立千葉女子高等学校

タイトルにいきなり誤植かとご心配の向きも多かろう。「健立」ではなくて「県立」でしょと。いややっぱり「健立」だと思ってくれる人はおそらく身内。

本当は1900年創立の県立高校。これこそが今次女が通う学校。2011年4月の入学と同時に所属するのが同校のオーケストラ部。それ以来ブログ「ブラームスの辞書」では、主役のブラームスネタとほぼ同格の扱いで、娘の高校オケネタを発信してきた。

お気づきの人もいるに違いない。今まで発信した高校オケネタ数十本の中では、「千葉女子高等学校」という学校の実名を伏せてきた。そこに学ぶのが女子だけであることも注意深く言及を避けてきた。最初の2、3本をそういう枠組みにしたから、何となくそういう流れになった。

その結果学校名で検索しても我がブログ「ブラームスの辞書」はヒットしなかった。娘らの演奏会を事前告知する機能さえ自ら封印していたということだ。記事の内容を手がかりに少し調べれば、娘の通う学校を突き止めるのは難しくないが、それこそがブログで親バカを振り回すにあたっての、自主規制になった。ごく近い身内、「健立」という洒落が通じる人々だけに読んでもらえればいいと思っていたのが、このほど少々考えが変わった。

本日発信のこの記事に学校名が含まれることをもって、おそらく今後学校名で検索されてもヒットするようになる。優秀なクローラーのおかげだ。本日のこの記事に辿り着いてもらえれば記事内のリンクから、同校オーケストラ関連のカテゴリーにアクセス出来る。ブログ運営上けしてささやかとは言えない方針転換。

今後も、個人名、団体名についての取り扱いのほか、画像の公開についても従来通りに慎重を期す。

アクセスはこちらから。

して何故「健立」なのか。最上級の謝意。そうとでもしなければ気持ちがすまないからとだけ申せば、関係者には説明不要だろう。

2012年5月16日 (水)

卒業生という財産

35代の集大成となった先日のスペシャルコンサートで、裏方として大活躍したのが、実は今年3月に巣立った34代の生徒たちだった。演奏会の円滑な運営に欠かせない裏方、たとえば「ステマネ」「アナウンス」「照明」「当日券販売」「チケットもぎり」「パンフレット」「花束受付」「ドア」それぞれの持ち場で大車輪の活躍だ。彼らを仕切るのが現役時代の部長・副部長の2人。4月に入ったばかりの1年生や後援会の保護者も運営には参加するのだが、質量ともに卒業生たちが主役だった。ゴールデンウィークだというのに後輩たちのために進んで裏方に身を投じる卒業生たちだった。

事前の打ち合わせの席上、後援会の保護者たちと対等の立場で念入りな討論に参加する。参加するというよりむしろ討論を引っ張る存在。後援会の保護者たちの高いモチベーションは「親バカ」という一言で曲がりなりにも説明が出来てしまうのだが、この卒業生たちは、親がわが子に注ぐのと遜色ない愛情を惜しげもなく後輩に注ぐ。後援会の保護者たちは、さすがに子どもたちの演奏だけは聴けるようにと役割を配慮されるが、卒業生たちは完全に裏方で、後輩たちの演奏を聴くことが出来ない。

卒業生たちは「私たちもしてもらったことだから」と平然と言い放つ。そう彼ら34代から見れば、自分らの直後の35代は苦楽をともにした戦友だ。「かわいい後輩」という言葉がうわべだけでないと実感できる。思い起こせば、この34代は集大成のスペシャルコンサートの2ヶ月前に、震災に見舞われた。最後の追い込みの2ヶ月、思うように練習が出来なかったという我々スプリンクラー以上の苦労をしていたのだ。1年間オケ生活に接してみて、最後の2ヶ月の大切さをかみ締めてみると、あのチャイコの凄さが判る。さらにこの34代の生徒たちは、忙しい受験戦線の合間に35代の節目の演奏会に大挙してかけつけたり、コンクールの審査員席に念を送り込んだりしていた。親の関与をうるさがる年頃の子どもたちだというのに、先輩からの叱咤激励には素直に心を開く。

引退公演のスペシャルコンサートはそうしたアシストの集大成でもある。娘たちの部活は、後輩のために手弁当で駆けつける先輩たちの分厚い層に覆われている。在校生は2年間の現役生活でそれを知らず知らずに刷り込まれる。自らがそうした先輩になるための2年間でさえある。

この絆の中に娘を2年間浸すという極楽。

2012年5月15日 (火)

シーズンチケット

スポーツチームやオーケストラなどプロの興行には、年間の通し券が設定されている場合がある。1回あたりの単価は低くなっているが、支払いの合計はそこそこまとまった金額になる。だからこれを購入することは一種のステイタスになっている。年間を通して定期演奏会に出かけるとなると相当コアなファンだということだ。

この1年次女たちオーケストラの演奏に数多く接した。以下に列挙する。

  1. 入学式 →こちら
  2. スペシャルコンサート →次女のオケデビュウ 34代引退。
  3. 駅コン →第35代デビュウ
  4. 美術館コンサート →ファリャ初公開
  5. 文化祭コンサート →ショスタコ初公開 
  6. コンクールリハーサル →一週間前の実情
  7. コンクール →革命の終楽章 前を向け。
  8. オーケストラフェスタ →年末恒例
  9. ジョイントコンサート →初トップ
  10. アンサンブルコンクール →セントポール組曲
  11. 説明会コンサート ドイツ演奏旅行の説明会に参集した保護者向けの演奏会。ドイツ本番を1ヵ月後に控えて、「たくさん間違えなさい」と訓示された子供たちの熱演。休憩なしノンストップ80分は体力の限界に挑む主旨もあった。
  12. 聖ヨハネ教会コンサート 国内ゲネプロ ドイツ演奏旅行を8日後に控えてリハーサルが保護者にも公開された。和太鼓アンサンブルを初めて聴いた。
  13. ニュルンベルクコンサート 国内ゲネプロ 出発3日前の公開リハ。これだけ欠席。
  14. デュッセルドルフ聖ヨハネ教会コンサート →ドイツ公演一回目
  15. ニュルンベルク公演 →ハプニングねじ伏せ
  16. 合同定期演奏会 →あと1回
  17. スペシャルコンサート →誇り高き5月

親が鑑賞可能な機会には出来るだけ出かけるように心がけた。事実上シーズンチケットを持っているようなものだ。毎回違う作品が聴けるわけではなくて、あらかじめ決められた作品群が完成度を高めて行く過程を楽しむという感覚だ。上記の2番と17番にあるスペシャルコンサートが区切りになる。そこで3年生が引退するからだ。そこまで1年間の集大成と位置づけられている。3番の駅コンから16番のスペシャルコンサートまでが一つのユニットになる。

同じ作品を何度も聴く。たとえばショスタコーヴィチの交響曲第5番のフィナーレは上記の5.6.7.8.11.13.15.17という具合に8回演奏され、そのうち7回聴いた。飽きるなどということは全くない。回を追うごとに完成度が高まるのが判る。ほんの1ヶ月前と別人の演奏になる。

忘れてならないのが、上記16の合同定期演奏会から、上記17のスペシャルコンサートに至る8日間の緊張。5月6日のゲネプロからの言いようの無い高揚感。娘の姿を横から見守るだけだというのに、親の私が痺れた。「ショスタコ」や「ファリャ」や「マイスタージンガー」の個人練習を家で聴くのも残りわずかかと思い、時間よ止まれとさえ祈った。

もっとも大切なこと。これらの中にブラームスの音符は一つもなかった。我がブログ的には脱線もいいとこなのだが、もはやそうした視点は霞の彼方に追いやられてしまっている。

2012年5月14日 (月)

さらば35代

次女の高校オケ独特の学年の数え方については記事「代数」で既に述べておいた。一昨日のスペシャルコンサートは、7度目のドイツ公演からの凱旋演奏会であると同時に第35代の引退公演であった。

だからスペシャルコンサート後、35代の生徒たちは涙にくれる。高揚感、達成感、満足感、連帯感などなどいくら言葉を繋いでも表現しきれぬ思いが涙腺を決壊させる。送り出す36代のメンバーの目にも涙があった。

それは保護者後援会のメンバーも同じこと。先のドイツツアーは、2年間ドイツに向けてコツコツと積み上げてきた準備の重みを共有する1週間でもあったから、親の心境は察するに余りある。これが伝統などとカッコをつけている場合ではない。来年の今頃には私の娘が部活を引退するから今度は私の涙腺が試される。

次女を導いてくれた35代全部思い出。コンクールでの暗譜の「ショスタコ」。スプリンクラー付きの「三角帽子」も凄かった。それらの対極にあるカヴァレリアルスティカーナ「間奏曲」の第一ヴァイオリンとオルガン。「OKINAWA」のサンシンとキリリと乾いた打音。忘れてはならないのが、アンサンブルコンテスト。「死と乙女」冒頭のピアニシモの威容。35代に遅れまいと必死の次女を見守るうちに、35代の疾走そのものを見詰めていた。いわばアイドルユニット「ING35」をドイツまで追いかけたようなものだ。「ING」は進行形でなくて稲毛だ。「うちの子」だけを追い回すモードから、早いうちに転換できたのは何よりの収穫だった。それも一昨日で全部聞き納めだった。今から来年が思いやられる。

間もなく35代と36代の2両編成で走り続けた列車から35代を切り離し、36代が前に出る。演奏会の裏方で早くも大活躍だった37代を後方に連結して走り出すことになる。その目的地、実は2014年のドイツだったりする。

一昨日のスペシャルコンサートで引退した3年生を送る儀式「引退式」が昨日開催された。ダンケシェーン35代。

2012年5月13日 (日)

誇り高き5月

昨日次女二回目のスペシャルコンサートがあった。第7回ドイツ公演記念演奏会と題されたプログラムは以下の通り。現役部員たちは全てドイツで演奏したレパートリーから。

<第一部>

  1. 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲
  2. オルガン独奏 「主イエス・キリストよ我ら汝に感謝し奉る」BWV623
  3. オルガン独奏 「神よ我らを助けたまえ」BWV624
  4. ショスタコーヴィチ交響曲第5番より第4楽章
  5. ビゼー「アルルの女」より前奏曲~卒業生による演奏
  6. ビゼー「アルルの女」よりカリヨン~卒業生による演奏
  7. ビゼー「アルルの女」よりファランドール~卒業生による演奏

<第二部>

  1. 「OKINAWA」
  2. 「Omens of Love」
  3. 歌劇「カヴァレリアルスティカーナ」より間奏曲
  4. ファリャ:バレエ組曲「三角帽子」

<アンコール>

  1. 引退演奏 芥川也寸志「交響管弦楽のための音楽」より 3年生のみ。
  2. ラデツキー行進曲

Jリーグの試合のマッチレポートでもあるまいし、ここで1曲1曲の出来を論じたところで熱気の10分の1も伝えられないが、次女とのやりとりからいくつか。

5月4日の合同定期演奏会の後、ファリャ「三角帽子」の出来について次女を誉めた。あのスプリンクラー以降、本当によくなったねと。珍しく嬉しそうに話に食いついてきた。「第2曲粉屋の女房の踊りのリズムが変わったでしょ」と自慢げ。4分の3拍子の3拍目をためるようにしたらしい。3拍目を2つに割る8分音符のアクセントをう~んと強調するようにしたという。スペイン舞曲「ファンタンゴ」の気分を出すための措置だそうだ。前からやっていたつもりだけど、ドイツの録音を聴いてもっと強調しようと決まったようだ。その通りのリズム感が出せていた。

「昨年7月の美術館コンサートに比べると別人だよね」と私。「あ~はいはい」と当然とでも言いたげな次女。「そりゃあ、あの頃は全然弾けずにごまかしてたからね」と珍しくどや顔。「つーことは今は弾けてるっていうこと?」と意地悪い質問を投げると「うん」という低い声の返事が間をおかずに返ってきた。実際昨年夏にはトップと弓が逆なシーンが多くて見ててハラハラしてたのだが、昨日はもう当然のように弾きこなしていた。

「どうだ?去年のスペシャルコンサートと違うだろ」と訊くと、身を乗り出しつつ「そうだよね」と次女。去年は4月に入部して1ヶ月、それまでの流れを何も知らぬままスペシャルコンサートに割り込んだ形。先輩方の演奏を凄いなとは思ったけれど、当時の3年生と2年生の積み重ねの厚みをまったく実感できていなかったと感慨深げ。今年はまったく違う。部活生活の最後に鎮座する「スペコン」の意味が呑み込めているから、達成感が違うという。

本当によくがんばった。念のために申せば高校生のヴァイオリン奏者にとって易しくない。とりわけファリャ「三角帽子」は、異質なリズムの急速な交代、めまぐるしい曲想の変化。おいしい旋律があっても、単一のパートがそれをじっくりという場面が少ない。骨太の旋律をゆったりたっぷりというブラームスとは対照的だ。加えて手書き風パート譜の見にくさは、譜読みの障害になる。そうした中セカンドヴァイオリンはヴィオラと結託してオケをがっちり下支えしたかと思うと、ファーストヴァイオリンにピッタリと寄り添ってオクターブ下を支える。とりわけ3曲目「ぶどう」と4曲目「近所の人々の踊り」は厄介だ。8分の6と4分の3の錯綜せめぎ合いをこれでもかこれでもかと強調する。それらを要所にのみ配置してスパイスとするブラームスの対極にある。こうした乱高下、てんやわんや、とりわけ厄介なトリルの連続がセカンドヴァイオリンに集約される。演奏にあたって求められる「注意力」「集中力」に限ればファーストヴァイオリンをしのぐと感じる。以前はそれらのハードルの高さへの意識がしばしば演奏に現れていたが、ドイツ以降すっかり影を潜めた感じ。理不尽もろともすべて呑み込んでしまったかのようだ。

カヴァレリアルスティカーナ「間奏曲」を終え、開演から2時間経過した後に、満を持して「三角帽子」を放つという豪胆なプログラム。それを喝采に結びつける渾身の演奏だった。

万雷の拍手。指揮をした顧問の先生からのハグのねぎらい。仲間との涙のハイタッチ。そして涙にくれる親たち。

誇り高き5月。

2012年5月12日 (土)

憲法の不備

ビスマルクが首相就任と同時にかました鉄血演説が、あまりに名高いため演説の効果はあまり知られていない。

当時のプロイセン議会は、国王任命の貴族院と、選挙で選ばれる衆議院の二院制。ウイルヘルム1世が意図する軍政改革法案は、とりわけ衆議院の頑強な抵抗にあっていた。退位とまで思いつめる国王の切り札として登場したのがビスマルクであった。鉄血演説は名刺代わりの一撃だったのだが、衆議院を翻意させることは出来なかった。議場をざわめかせる程度の効果はあったが、とんとん拍子で話が進むにはまだ機が熟していなかったということだ。

当時のプロイセン憲法は予算案の可決には、国王、貴族院、衆議院の合議によって決する規定があったが、3者が合意に至らなかった場合の規定が欠けていた。憲法の不備だ。ビスマルクはこの不備をついてことを強引に進める。国王と貴族院の賛成、衆議院の反対だから「2対1」で可決という奇策だ。しかも1度限りではない。1866年の普墺戦争の勝利によりビスマルク与党が結成されるまでこの手を使った。

2012年5月11日 (金)

1862年

ビスマルクの宰相就任は1862年9月だ。実はブラームスが故郷ハンブルクを離れ活動の本拠をウィーンに移したのが1862年9月だった。ブラームスの飛躍はそこから始まったと言っていい。ビスマルクの国際舞台デビューと同時とは驚いた。

ビスマルクが画策した3度の戦争

  • 1864年 デンマーク戦争→ブラームスの父の故郷がプロイセン領になる。
  • 1866年 普墺戦争→スイスに疎開。
  • 1868年 (ドイツレクイエム初演)
  • 1870年 普仏戦争→志願も考えた。勝利の歌作曲。

によりプロイセンは欧州列強の仲間入りを果たす。ブラームスの伝記ではあまり語られることは無いが、ブラームスのウィーンでの活躍とプロイセンの雄飛は時期的にピタリと重なる。ブラームスはプロイセンにとっての宿敵オーストリアの首都に居ながら、オーストリアとプロイセンの国力の逆転を見守っていたことになる。

ブラームスのビスマルクへの傾倒は、そうした体験の中から自然に身について行ったものだとわかる。

2012年5月10日 (木)

オルロフ侯爵夫人

1862年8月フランス駐在大使だったビスマルクは、南仏ピアリッツで休暇を過ごす。同地に保養に来ていたのが、ロシアのブリュッセル駐在公使オルロフ侯爵夫妻だった。休暇中しばしば夫妻とビスマルクは交流したが、美貌の侯爵夫人カタリーナに一目ぼれというのが真相らしい。このときビスマルク47歳カタリーナ22歳。

カタリーナは、ロシアのトルベツコイ公爵の娘で、達者にピアノを弾いたとされている。ビスマルクも彼女の演奏を聴いている。そのレパートリーは、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーンだったとされている。ここにブラームスが入っていれば万々歳なのだが、そうも行かない。ブラームスは当時ちゃきちゃきの現代音楽だろう。1862年といえば、第一交響曲はもちろん、ドイツレクイエムもハンガリー舞曲もまだ世に出ていない。ブラームスがレパートリーに入っていないほうが自然だ。カタリーナはロシア貴族の令嬢だ。貴族令嬢のたしなみとして幼少の頃からピアノに親しんでいて何の不思議もないが、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーンとは端正なレパートリーである。ロシアもなかなかやるわいという感じ。

美人薄命とはこのことか、カタリーナは1875年に35歳で急逝し、その頃ドイツ帝国宰相の座にあったビスマルクは侯爵に哀悼の意を示したという。

2012年5月 9日 (水)

4カ国語

2010年2月22日の記事「マルチリンガル」でドヴォルザークの語学力に言及した。チェコ語、ドイツ語、英語、ロシア語を操ったと思われる。この中ではロシア語が一番弱くてカタコトだった可能性もある。

それではビスマルクはいかがか。

ギムナジウムの成績では、国語つまりドイツ語が抜きんでていたとされている。語彙、表現力がとりわけ称賛されている。彼の自伝や演説の巧みさは若い頃から身に着けていたものだと判る。これに加えて英語とフランス語も上級の成績だった。日常会話には困らなかったと考えていい。さらにもう一つはラテン語。こちらは会話ではなくて読み書きが出来たとされている。

英語、フランス語、ドイツ語、ラテン語の4つを縦横に操ったと考えていい。当時の列強、英仏墺の言葉を全て理解したということだ。政治家外交官としては理想的だ。シラーやシェイクスピアの成句をたくみに引用した彼の演説は、反対派にも耳を傾けさせる内容だったという。

さてさて操った言葉の数という意味では、参謀総長モルトケがさらにその上を行く。独仏英の主要3カ国語に加え、イタリア語、トルコ語、デンマーク語にも堪能だった。合計6ヶ国語を操ったのだが、何せ彼は寡黙だ。宝の持ち腐れに近い。

2012年5月 8日 (火)

関税同盟

ブラームスの若い頃、たとえばベルリンからスイスまで行こうとした場合、最短のルートをたどると、10ヶ国もの小領邦を通過せねばならなかった。今でこそスイスはドイツの南に接する隣国で、列車で国境を越えてもパスポートのチェックが省略されるくらいに自由な往来が保証されているのだが、当時は事情が違った。さらに厄介なことにその同じルートで貨物を送ろうと思ったら国境を越えるたびに関税を徴収された。

経済発展の妨げ以外の何者でもない。域内関税の撤廃を約する多国間協定が「関税同盟」である。各小領邦は、小さいながらも王がいて主権が認めれていて、徴税権まで持っていたのた。ドイツ統一によって王権が縮小ないしは消滅することには抵抗するが、市場は大きいほうがいいと虫のいことを考えていた。横行する密貿易の取り締まりコストのほうが関税収入より高くつくという笑えない話もあったらしい。最大手のプロイセンの総税収における関税の割合はおよそ25%に達していたから、域内の関税を撤廃するのは痛いには痛いのだが、経済が発展して、所得税や法人税が膨らめばよいハズだ。

ドイツの統一はそれを構成する諸邦の王権の制限でもある。ドイツの人々は王を敬う気持ちが強いから、闇雲に王権を制限するとかえって反発を招く。あくまでも王権を保存しながらドイツ帝国の建設を進めねばならない。そのツールが関税同盟だった。王の地位を保証してやる一方で、プロイセン主導の関税同盟に組み入れ、さらには通貨、金融の統一を進めるという巧妙な手順。

1834年ドイツ統一に先んじて関税同盟が成立する。ブラームス生誕の翌年の話である。

2012年5月 7日 (月)

ビスマルク暗殺未遂事件

プロイセン宰相ビスマルクがベルリンで暴漢に襲われた事件。幸い軽傷で命に別状はなかったが、取調室で犯人が自決したため動機は未解明。何と何とこの事件が起きたのは1866年5月7日だ。ブラームス33歳の誕生日である。

この年の6月15日には普墺戦争が始まる。もしここでビスマルクが落命していたら欧州列強の力関係は微妙に変化していたと思われる。ブラームスは普墺戦争を避けるようにスイスへ避暑に出かけるのだが、この事件のときはウィーンに居た。ベルリンからはるか離れたウィーンではあるのだが、ブラームスの伝記がこの事件に言及するのを見たことが無い。芸術家の伝記ともなるとそういうものかもしれない。

2012年5月 6日 (日)

代数

数学の話ではない。次女の高校オケの用語。来たるスペシャルコンサートを最後に部活を引退する3年生は「35代」と呼ばれている。昨年チャイコの4番とともに引退したのは「34代」で、次女が中2のときドボ8で引退したのが「32代」だった。つまり今回の3年生引退後1年間主役として活動する次女たちは36代ということになる。

逆算するとわかるのだが初代は私が高1のときということになる。当時は弦楽アンサンブルだったらしい。

高校野球やサッカーでは、部活とはいえ実力主義で、有力な1年生はいきなりレギュラーということもある反面、3年間試合に出られない生徒もいる。次女たちの部活はその点が少々違う。5月からの1年間は2年生が活動の主役になる。入学したての1年生が大抜擢などということは起きない。だから学年の個性がクローズアップされる。初代から始まって連綿と途絶えることのない整数の羅列。伝統を意識させるとともに同期の連帯は自然に深まって行く。

さらにコンクール曲と定期演奏会メイン曲がその代の個性をいっそう際立たせる。35代は「革命の終楽章」と「三角帽子」だったし、その前34代は「ラヴァルス」「チャイ4」だった。そして話を微妙にしているのがドイツ公演。「奇数代」にとっては2年生ラストで行くドイツなのに、「偶数代」にとっては1年生ラストでの参加になる。ドイツでの経験をもとにもう1年やれる幸運。

2012年5月 5日 (土)

合同定期演奏会

昨日次女の通う学校の音楽系サークルが一堂に会する合同定期演奏会があった。マンドリン、吹奏楽、合唱、筝曲それにオーケストラが出演する。12時30分開演で全員による校歌演奏というエンディングが16時の長丁場。原則として3年生の引退演奏会という性格を帯びている。

昨年の文化祭コンサートで、オーケストラの前に演奏した合唱部が、あまりに上手だったので楽しみにしていたら、今回も案の定凄い演奏だった。人の声のハモリの美しさを再確認出来た。ラテン語のモテットあり、アヴェマリアあり、英語ありの柔軟性。筝曲部とジョイントの「さくらさくら」にも身震い。凄い子どもたち。ブラームスの作品が聴きたい。それからドボルザークのモラヴィア二重唱かなんかやってはくれまいか。

そしてオケ。

  1. ニュルンベルクのマイスタージンガー
  2. 篤姫
  3. 三角帽子

というプログラム。全部ドイツでやった曲。どっしりと地に足のついた堂々たる演奏。マイスタージンガーでは風格さえ感じられた。ドイツの経験が肥やしになった模様。スプリンクラーを泣かせた三角帽子のキレはドイツそのまま。スプリンクラーなんぞ無くても「やるときゃやるよ」という気合いが感じられた。てゆーか上手くなっている。マイスタージンガーや篤姫や江の熱演の後、颯爽とファリャを弾ききる懐の深さに感動。

アンコールの「ラデツキー行進曲」では、4月に入ったばかりの1年生が舞台袖に現れて手拍子を担当。ああ娘も去年は手拍子担当だったんだという感慨。

2012年5月 4日 (金)

参謀本部

ドイツ語で「Generalstaub」と綴る。言わばドイツの特産品。戦時のみならず平時にあっても、今後の戦争に備える部署。1813年3月プロイセン陸軍内に創設された。

仮想敵国の情報収集、戦闘場所の想定、動員プラン、補給プラン、地図作成、訓練など。シャルンホルストが立ち上げた陸軍会が創設を勧告していた。

1862年デンマーク戦争、1866年普墺戦争、1870年普仏戦争でのプロイセンの3連勝により、その存在が世界中に知れ渡り、丸ごと模倣する国が相次いだ。参謀総長モルトケの手柄といっていい。

1871年普仏戦争勝利を機に、王宮前の一等地に引っ越したが、皮肉なことにドイツはそれ以降戦争に勝てていない。歴史的に見てその頂点は普仏戦争だった。

2012年5月 3日 (木)

モルトケ将軍

ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(1800-1890)はプロイセンの軍人。プロイセン陸軍参謀総長としてビスマルクとともにドイツ統一に奔走した。ビスマルクとともにハンブルク名誉市民にも選ばれており、ブラームスは自分が彼らの後に続くことを喜んでいたという。彼の名前もまたドイツ海軍の軍艦の名前に採用されている。

優秀な戦略家で普仏戦争セダンの戦いでの大勝により、伯爵に列せられた。ビスマルクとともに帝国の創設に貢献したが、意外なことにビスマルクよりも15歳年長である。

鉄道を高度に利用した電撃戦が持論で「鉄道の方向の選択に当たって何を考慮すべきか」という論文を著し、これを実行に移してゆく。「要塞を作る金と時間があるなら鉄道を敷け」というのが基本姿勢だった。

参謀総長就任の翌年1859年には参謀本部第2局の中に鉄道部を設置し、10年後には第4局として独立させた。ドイツ統一に至る3つの戦争において鉄道の軍事的利用を究極の位置まで推し進める。鉄道野戦部隊の創設も特記されていい。戦場における路線の敷設や、破壊された線路の修復を任務とする工兵部隊だ。軍隊の国内移動に鉄道が威力を発揮することは間違いの無い事実で、あてにも出来るのだが、攻め入った敵国ではそうも行かない。自ら鉄道を破壊しながら撤退するというのは、退却戦の常識だ。破壊された線路や車両を修理することは大変重要だとわかる。

オーストリアと雌雄を決した普墺戦争では早くからケーニヒスグレーツを決戦の場と想定し最前線に至る5本の鉄道敷設、会戦から3週間で19万7千の兵員と物資を輸送した。戦争を7週間の短期で集結させフランスの介入を防いだ。

フランスとの普仏戦争でも同様だ。フランス国境地帯への兵員や物資の輸送に供するため、ドイツの鉄道は東西の連絡に手厚くなっていった。1870年7月19日の宣戦布告から8月3日までに1500本を越える列車を運行して、大量の兵員や物資を一瞬で国境地帯に投じた。普仏戦争の勝利、ひいてはドイツ帝国の成立に鉄道の果たした役割は大きい。

モルトケの凄いところは、まだある。鉄道は電化されない段階でも運行情報の通信手段として通信が発達する。路線に沿って電柱が立てられる。集電用ではなくて通信用だ。この通信網は前線の情報を居ながらにして収集できること意味する。モルトケは対フランス戦開戦後もしばらくベルリンにとどまって戦況を分析した。

課題も残った。鉄道で目的地そばまでやってきた歩兵や物資は、戦場までは徒歩や馬車に頼るしかない。最寄り駅から戦場までの輸送手段が鉄道の輸送力に追いつかないという問題が持ち上がった。普仏戦争は大勝利ではあったけれどもこの周辺の課題は未解決のままだった。駅の設備や一時保管倉庫も貧弱だった。この教訓を次の第一次世界大戦に生かす時間がモルトケには残っていなかった。

モーツアルトの愛好家だったと伝えられている。ブラームスではなくて残念だが、当時ブラームスはちゃきちゃきの現代音楽だったから、現代の感覚とは必ずしも一致するまい。

2012年5月 2日 (水)

ドレスデン革命

1848年2月パリで勃発した革命は翌3月にはドイツ各地に飛び火した。1849年にはフランクフルト国民議会がドイツ憲法を採択したことで頂点に達するが、ハプスブルク帝国がこれを拒否して冷や水を浴びせる。もともと憲法の理念は、ハプスブルク帝国からオーストリアを分離してドイツ統一に参加させるという、いわば「小ドイツ主義」だったから、ハプスブルク家が飲めるハズがない。

各地の革命勢力はせめて地元の領邦には、憲法を承認させようとする。ザクセン王国と祖国協会はドレスデンを舞台に衝突する。これが「ドレスデン革命」だ。

4月22日祖国協会はザクセン国王フリードリヒ・アウグスト2世に憲法の承認を迫るが、国王はこれを拒否して議会の解散に踏み切る。

5月3日市民蜂起。シューマン夫妻は自宅でこれを知る。ザクセン王国は隣国プロイセンに革命鎮圧のため軍隊派遣を要請する。

5月4日市民の圧力に屈する形でフリードリヒ・アウグスト2世はケーニヒスシュタイン城に脱出し、ドレスデンに臨時政府が発足。同時に自衛団が組織され新兵補充のために市民の成人男子が駆り出される。既に精神を病む兆候が現れていたロベルト・シューマンは徴兵から逃れるため脱出を決意する。

5月5日プロイセンの援軍が到着したこの日、自衛団が3度目に自宅を訪れる前に、クララはロベルトとマリーを連れてドレスデンを脱出する。エリゼ、ユーリエ、ルドヴィックの3人の幼子は女中の家に預けて、マークセンという場所にすむ友人を頼った。ドレスデンから6マイルのこの街まで鉄道や徒歩で8時間かかって19時にたどり着いた。

5月7日ブラームス16歳の誕生日だったこの日、クララは再度戦火のドレスデンに引き返す。午前3時にマークセンを立ってエリゼ、ユーリエ、ルドヴィックの3人を引き取るためだ。ルドヴィックはまだ生後9ヶ月だし、29歳のクララは6ヶ月の身重だった。幸い午前11時にはマークセンに戻ることが出来た。

5月9日プロイセン軍により臨時政府は掃討された。あるものは逮捕されあるものは脱出した。午後にはひとまず戦火が収まった。脱出したものの中にリヒャルト・ワーグナーがいたこと周知の通りである。チューリヒに逃れた彼が、ドイツ入国を許されるのは1860年を待たねばならない。

援軍の要請からわずか2日後にプロイセン軍がドレスデンに到達したことが、革命の帰趨に大きく影響した。直線距離でおよそ180kmはなれたベルリンからドレスデンに大軍を素早く動かすことが出来たのは、ひとえに鉄道のせいだった。1835年にはじめて産声を上げたドイツの鉄道は15年もせぬ間に大いに発展をしていた。このときのドレスデン革命の鮮やかな鎮圧に、プロイセンの軍部は味をしめることになった。とりわけ鉄道の威力は絶大だったのだ。

2012年5月 1日 (火)

一姫二太郎

「女の子1人に男の子2人がよろしい」という意味だと長く勘違いしていた。第一子が女の子で次に男の子がという順番が、楽な子育てにつながるという意味らしい。「太郎」というのは「長男」の意味だと判れば、誤解は起きない。2人目までの子どもの順番を言っているだけなので、3人目以降の有無や人数は考慮されていない。

我が家は「2姫1太郎」だが、姉と弟がいるブラームスはきっちり「一姫二太郎」で、「女1男2」の誤解された意味としても当てはまる。

実はビスマルク家も1848年長女マリー、1849年長男ヘルベルト、1852年次男ウィルヘルムという具合に子宝を授かったから、ぴたりと「一姫二太郎」になっている。男の子は2人とも軍人で政治家だ。

« 2012年4月 | トップページ | 2012年6月 »

フォト

ブラームスの辞書写真集

  • Img_0012
    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
2020年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
無料ブログはココログ