ドレスデン革命
1848年2月パリで勃発した革命は翌3月にはドイツ各地に飛び火した。1849年にはフランクフルト国民議会がドイツ憲法を採択したことで頂点に達するが、ハプスブルク帝国がこれを拒否して冷や水を浴びせる。もともと憲法の理念は、ハプスブルク帝国からオーストリアを分離してドイツ統一に参加させるという、いわば「小ドイツ主義」だったから、ハプスブルク家が飲めるハズがない。
各地の革命勢力はせめて地元の領邦には、憲法を承認させようとする。ザクセン王国と祖国協会はドレスデンを舞台に衝突する。これが「ドレスデン革命」だ。
4月22日祖国協会はザクセン国王フリードリヒ・アウグスト2世に憲法の承認を迫るが、国王はこれを拒否して議会の解散に踏み切る。
5月3日市民蜂起。シューマン夫妻は自宅でこれを知る。ザクセン王国は隣国プロイセンに革命鎮圧のため軍隊派遣を要請する。
5月4日市民の圧力に屈する形でフリードリヒ・アウグスト2世はケーニヒスシュタイン城に脱出し、ドレスデンに臨時政府が発足。同時に自衛団が組織され新兵補充のために市民の成人男子が駆り出される。既に精神を病む兆候が現れていたロベルト・シューマンは徴兵から逃れるため脱出を決意する。
5月5日プロイセンの援軍が到着したこの日、自衛団が3度目に自宅を訪れる前に、クララはロベルトとマリーを連れてドレスデンを脱出する。エリゼ、ユーリエ、ルドヴィックの3人の幼子は女中の家に預けて、マークセンという場所にすむ友人を頼った。ドレスデンから6マイルのこの街まで鉄道や徒歩で8時間かかって19時にたどり着いた。
5月7日ブラームス16歳の誕生日だったこの日、クララは再度戦火のドレスデンに引き返す。午前3時にマークセンを立ってエリゼ、ユーリエ、ルドヴィックの3人を引き取るためだ。ルドヴィックはまだ生後9ヶ月だし、29歳のクララは6ヶ月の身重だった。幸い午前11時にはマークセンに戻ることが出来た。
5月9日プロイセン軍により臨時政府は掃討された。あるものは逮捕されあるものは脱出した。午後にはひとまず戦火が収まった。脱出したものの中にリヒャルト・ワーグナーがいたこと周知の通りである。チューリヒに逃れた彼が、ドイツ入国を許されるのは1860年を待たねばならない。
援軍の要請からわずか2日後にプロイセン軍がドレスデンに到達したことが、革命の帰趨に大きく影響した。直線距離でおよそ180kmはなれたベルリンからドレスデンに大軍を素早く動かすことが出来たのは、ひとえに鉄道のせいだった。1835年にはじめて産声を上げたドイツの鉄道は15年もせぬ間に大いに発展をしていた。このときのドレスデン革命の鮮やかな鎮圧に、プロイセンの軍部は味をしめることになった。とりわけ鉄道の威力は絶大だったのだ。
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