本陣の場所
1866年普墺戦争の決着をつけた戦いが「ケーニヒツグレーツの戦い」と呼ばれている一方で、フランスでは同じ戦いが「サドヴァの屈辱」と通称されている。てっきり同じ場所のドイツ語名がケーニヒスグレーツで、チェコ語名がサドヴァだとばかり思っていたが、そうではないらしい。
日本で天下分け目と言えば、関が原の戦いが思い浮かぶ。東軍対西軍の激突なのだが、大名連合軍の対決だった。総大将は東軍徳川家康で、西軍が石田三成。家康の本陣が桃配山で、三成の本陣が笹尾山に置かれた。先のケーニヒスグレーツとサドヴァの相違は、桃配山と笹尾山の相違に等しい。
オーストリア軍の本陣こそケーニヒスグレーツ付近だったが、プロイセン軍の本陣はサドヴァにあったということだ。
オーストリア国民はケーニヒスグレーツに布陣した自国軍が、プロイセン軍に包囲されて惨敗したことを知っていた。だから単なる地名に過ぎない「ケーニヒスグレーツ」が、「ひどい」という意味の形容詞として用いられることとなった。
「Oper」の名で親しまれる現国立歌劇場は、建設当時徹底的に批判された。あまりの不評に設計責任者が自ら命を絶つという悲劇も起きた。新婚旅行で現地を訪れたミーハーな一観光客の私は、どこがひどいのかよくわからなかったが、当時のウィーン市民は歌劇場を「建築史上のケーニヒスグレーツ」と呼んだ。
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