モルトケ将軍
ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(1800-1890)はプロイセンの軍人。プロイセン陸軍参謀総長としてビスマルクとともにドイツ統一に奔走した。ビスマルクとともにハンブルク名誉市民にも選ばれており、ブラームスは自分が彼らの後に続くことを喜んでいたという。彼の名前もまたドイツ海軍の軍艦の名前に採用されている。
優秀な戦略家で普仏戦争セダンの戦いでの大勝により、伯爵に列せられた。ビスマルクとともに帝国の創設に貢献したが、意外なことにビスマルクよりも15歳年長である。
鉄道を高度に利用した電撃戦が持論で「鉄道の方向の選択に当たって何を考慮すべきか」という論文を著し、これを実行に移してゆく。「要塞を作る金と時間があるなら鉄道を敷け」というのが基本姿勢だった。
参謀総長就任の翌年1859年には参謀本部第2局の中に鉄道部を設置し、10年後には第4局として独立させた。ドイツ統一に至る3つの戦争において鉄道の軍事的利用を究極の位置まで推し進める。鉄道野戦部隊の創設も特記されていい。戦場における路線の敷設や、破壊された線路の修復を任務とする工兵部隊だ。軍隊の国内移動に鉄道が威力を発揮することは間違いの無い事実で、あてにも出来るのだが、攻め入った敵国ではそうも行かない。自ら鉄道を破壊しながら撤退するというのは、退却戦の常識だ。破壊された線路や車両を修理することは大変重要だとわかる。
オーストリアと雌雄を決した普墺戦争では早くからケーニヒスグレーツを決戦の場と想定し最前線に至る5本の鉄道敷設、会戦から3週間で19万7千の兵員と物資を輸送した。戦争を7週間の短期で集結させフランスの介入を防いだ。
フランスとの普仏戦争でも同様だ。フランス国境地帯への兵員や物資の輸送に供するため、ドイツの鉄道は東西の連絡に手厚くなっていった。1870年7月19日の宣戦布告から8月3日までに1500本を越える列車を運行して、大量の兵員や物資を一瞬で国境地帯に投じた。普仏戦争の勝利、ひいてはドイツ帝国の成立に鉄道の果たした役割は大きい。
モルトケの凄いところは、まだある。鉄道は電化されない段階でも運行情報の通信手段として通信が発達する。路線に沿って電柱が立てられる。集電用ではなくて通信用だ。この通信網は前線の情報を居ながらにして収集できること意味する。モルトケは対フランス戦開戦後もしばらくベルリンにとどまって戦況を分析した。
課題も残った。鉄道で目的地そばまでやってきた歩兵や物資は、戦場までは徒歩や馬車に頼るしかない。最寄り駅から戦場までの輸送手段が鉄道の輸送力に追いつかないという問題が持ち上がった。普仏戦争は大勝利ではあったけれどもこの周辺の課題は未解決のままだった。駅の設備や一時保管倉庫も貧弱だった。この教訓を次の第一次世界大戦に生かす時間がモルトケには残っていなかった。
モーツアルトの愛好家だったと伝えられている。ブラームスではなくて残念だが、当時ブラームスはちゃきちゃきの現代音楽だったから、現代の感覚とは必ずしも一致するまい。
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